第22話: 地下室の茶
地下室の空気が、違った。
ヒカルは石段の途中で足を止めた。鼻腔を掠めたのは、苦い匂い。草を煮詰めたような、泥と薬を混ぜたような、どこか温かくてどこか不快な匂いだった。
今日はいつもより早い。日没まであと二時間。セレナに「哨戒報告をまとめます。先にお帰りください」と言われ、やることがなくなった。レインへの書き置きは廃塔で書けばいい——そう思って、光走で飛ばしてきた。
だが。
この匂いは——何だ?
地下室に食料はある。レインが補充した干し肉と、ヒカルが持ち込んだパンの残り。だがこれは食べ物の匂いじゃない。火を使った匂いだ。誰かが、火を焚いている。
「……レイン?」
ありえない。今は昼だ。レインが起きているはずがない。
ヒカルは聖光剣の柄に手を置き、石段をゆっくりと降りた。地下室の入口が見える。薄暗い空間に——橙色の光が揺れていた。
踏み込んだ。
誰かが、いた。
石棚の前に小さな背中があった。ヒカルの腰よりも低い。白い髪を雑に束ねて、曲がった背中に皺だらけの手。杖を壁に立てかけている。
そして——火にかけた鍋から、あの苦い匂いが立ち上っていた。
「……誰だ!?」
ヒカルは聖光剣を抜きかけた。手に光が走る。地下室の石壁に、ヒカルの影が大きく伸びた。
老婆が——振り向いた。
目が合った。
右目が、金色。
左目が、赤色。
ヒカルの手が止まった。金色と赤色。光と闇。その二つの色が一つの顔に同居している違和感に、体が固まった。
「あ? うるさいね。ここはあたしの家だよ。お前さんこそ誰だい」
しわがれた声。老婆の声だ。だが——声量がある。小さな体に似合わない、はっきりとした声だった。
「家って——ここは廃塔だぞ!? 俺たちが——」
ヒカルは言いかけて、口を閉じた。「俺たち」。今、言いかけた。廃塔に「俺たち」がいることは——誰にも言えない。
老婆がじろりとヒカルを見上げた。身長差は三十センチ以上ある。にもかかわらず、見上げているのに見下しているような目だった。
「お前さん『たち』? 一人じゃないのかい」
「い、一人だ。俺は一人だ」
「ふうん」
老婆は興味なさそうに背を向けた。鍋をかき混ぜる。中身は暗い緑色の液体で、泡がぶくぶくと浮いている。
「……質問に答えろ。お前は誰だ。なぜここにいる」
ヒカルは聖光剣の柄から手を離さなかった。戦闘態勢を崩してはいけない。相手が老婆でも——いや、この廃塔に住んでいる時点で、普通の老婆ではない。
「イリスだよ。ここに住んでる」
「住んでるって——いつからだ」
老婆が——イリスが、杖で床を突いた。コン、と乾いた音が地下室に響いた。
「お前さんが生まれる前から。で、お前さんはいつ生まれた?」
「は?」
「質問に質問で返すなって顔してるね。いいかい、あたしが先に住んでたんだ。不法占拠はお前さんのほうだよ」
ヒカルは言い返そうとして——言葉に詰まった。確かに、自分がここに来たのは五十二日前だ。この老婆が本当に「前から」いたのなら、先住者は向こうということになる。
「なぜ今まで気づかなかった。俺は——毎日ここに来てたのに」
「気づかなかったのは、あたしが隠してたからさ。結界隠蔽って知ってるかい? 知らないだろうね。お前さん、生まれて何日目だい。五十日かそこらかい」
ヒカルの背筋が凍った。
五十日。正確には五十二日。この体に「ヒカル」として目覚めてから——五十二日。
「……なぜ、それを知ってる」
「目を見りゃわかるよ。お前さんの目は『初めて』ばっかりだ。世界が新しい人間の目。赤ん坊と同じ。ただし——赤ん坊は剣を握らないがね」
イリスが鍋から目を離し、ヒカルの聖光剣を見た。右の金色の目が光を帯びた——ように見えた。一瞬だけ。
「……座りな。立ってると邪魔だよ」
座った。
なぜ座ったのか、自分でもわからない。老婆に命令されて従った。ガレスの前だと自然体になるのと似ている——ただし、ガレスが安心なら、この老婆は「逆らっても無駄」という感覚だった。
イリスは小さな器に鍋の中身を注いだ。暗い緑色の液体。泡立っている。苦い匂いが強くなった。
「飲みな。体に良い」
器を差し出された。ヒカルは受け取って——匂いを嗅いだ。
「うっ」
鼻が曲がりそうだった。草と泥と、何か甘いような酸っぱいような、名前のない匂いが渦を巻いている。
「何だこれ」
「薬草茶だよ。黄昏帯に生えてる草で淹れた。文句言うな」
「茶? これが? 茶って——もっと、こう——」
レインの書き置きに出てきた紅茶の話が頭をよぎった。砂糖なし、ミルクなし、ストレート。レインが唯一「自分の好み」として選んだもの。あれは「茶」だ。これは——毒だ。
「飲みな」
「いや、だから——」
「飲みな」
三度目。イリスの左目——赤い目が、じっとヒカルを見つめていた。
ヒカルは覚悟を決めて、一口飲んだ。
「——ッ!!」
不味い。
不味い不味い不味い不味い。
舌の上で苦味が爆発し、喉の奥で酸味が暴れ、胃に落ちた瞬間に全身の毛穴が開いた。口の中がしびれる。目の奥が熱い。全部まずい。この世で一番まずい。パンのほうが百倍うまい。干し肉のほうが千倍うまい。レインが文句を言っていた塩と肉の煮込みですら、これよりはマシだろう。
「ッぶ——な、何だこれ!! まっず!!」
ヒカルは器を遠ざけた。涙が出ている。不味すぎて涙が出ている。
イリスが——笑った。
皺だらけの顔が崩れて、歯の欠けた口が開いて、しわがれた声で「ケケケ」と笑った。
「いい反応だねえ。お前さん、正直だよ」
「正直も何も! これは毒だろ!」
「毒じゃないよ。薬だよ。ほら、もう一口」
「絶対嫌だ!」
だが——体が、軽かった。
ヒカルは自分の手を見た。指先の感覚が鮮明になっている。五十二日間、ずっと感じていた微かな重さ——意識の端にまとわりつく疲労感——が、薄らいでいた。
「……何だ、これ」
「茶だよ。言ったろ」
「違う。体が——軽い。何をした」
イリスは黙って自分の器に口をつけた。ずるり、と音を立てて飲む。不味そうな顔を一切しない。
「年寄りの淹れた茶に、そこまで疑うかい。若いねえ」
答えになっていない。この老婆は——質問に答えない。
「お前、何者だ」
ヒカルは器を膝の上に置いた。中身はまだ半分以上残っている。体が軽くなったのは事実だが、正体不明の液体を全部飲む気にはなれない。
「イリスだよ。さっき言った」
「名前じゃなくて——種族は? 人間か? 魔族か?」
イリスの目を見た。右が金、左が赤。人間の目は碧や緑や茶色。魔族の目は赤や紫。金色の目は——どちらにもない色だ。
「どっちに見える?」
「……わからない」
「そうだろうね。あたしもわからないんだ。もう何百年も」
何百年。ヒカルの目が見開かれた。
「何百年って——」
「うるさいね。歳の話は嫌いだよ。女に年齢を聞くもんじゃない」
イリスが杖で床を突いた。今度は二回。コンコン。リズムを取るように。
「それよりお前さん、いつから剣を握ってるんだい。座ってからずっと柄に触ってる。あたしが怖いかい?」
ヒカルは——気づいた。確かに、右手が聖光剣の柄を離していなかった。無意識だ。警戒が解けていない。だが体は座っていて、茶を飲んでいて、会話をしている。矛盾している。
「……怖くはない」
「嘘つきだね」
「怖くないって言ってるだろ」
「嘘つきでもいいけどね。あたしは誰にも言わないから」
言わない。何を。
「お前さん、二人いるだろう」
時間が止まった。
地下室の空気が凍りついた。鍋の泡がぶくぶく鳴る音だけが、遠い世界のように響いている。
二人いるだろう。
セレナに言えなかった秘密。ガレスにも打ち明けられなかった真実。王にも、兵士たちにも、この世界の誰にも——。
「……何の、話だ」
ヒカルの声が裏返った。演技ができなかった。勇者の声を出せなかった。
イリスは茶を啜った。ずるり。
「隠さなくていいよ。あたしは誰にも言わない。あたしが誰かに言ったところで、誰もあたしの存在を知らないんだ。言う相手がいないのさ」
「だから——何の話をしてるんだ。俺は一人だ。この体には俺しか——」
「お前さん、自分の荷物を見てごらん」
イリスが杖で石棚を指した。
石棚には——二種類の荷物が並んでいた。ヒカルの水筒と、レインが置いた干し肉。ヒカルが持ち込んだ毛布と、レインが整えた着替え。右半分が光の色、左半分が闇の色。一つの棚に、二人分の痕跡。
「一人暮らしにしちゃ、荷物の趣味がバラバラだね。あたしはね、ずっと見てたんだよ。結界の中から。朝に来る子と、夜に来る子。同じ顔の——二人を」
ヒカルの呼吸が速くなった。心臓が喉まで上がってきている。
知っている。この老婆は——知っている。
「いつから——」
「最初からだよ。お前さんたちがこの塔に来たその日から。うるさいなと思ったさ。何百年も一人で静かに暮らしてたのに、急に二人分の足音が来るんだから」
イリスは器を置いた。皺だらけの指で、杖の先を撫でている。
「朝に来る子は金の髪。夜に来る子は黒の髪。だけど足音が同じ。歩幅が同じ。手の大きさが同じ。——同じ体だね。中身が違うだけ」
ヒカルは返す言葉がなかった。
セレナの七冊の手帳。ヴェルデの角のヒビ。ガルムの獣の勘。あらゆる人間が疑い、近づき——しかし確信には至らなかった真実を、この偏屈な老婆はあっさりと口にした。
「なぜ——黙ってた。知ってたなら——」
「お前さんたちに言ってどうなる。あたしは傍観者さ。何にも首を突っ込まないと決めてるんだ。……だけどね」
イリスの声が——変わった。
ほんの少し。しわがれた声の底に、若い音が混じった。澄んだ、透明な、何百年も前の声の残響。
「昔——うんと昔、この塔にも二人の馬鹿が来たもんさ」
ヒカルの手が聖光剣から離れた。無意識に。イリスの声に——引き込まれた。
「一人は光。一人は闇。お前さんたちと似てたよ。似てたけど——同じじゃない。同じじゃなかったから……」
声が途切れた。
イリスは茶を啜った。長い沈黙。鍋の泡が三つ弾けた。
「……何があったんだ? その二人に」
「知らないよ」
若い声は消えていた。しわがれた老婆の声に戻っている。
「知らないって——今、知ってるみたいに話してたじゃないか」
「知ってることと、話すことは違うんだよ。お前さんだってそうだろう? 知ってても言えないことがあるだろう?」
ヒカルは口を閉じた。
セレナに言えなかった。「なぜ私に言えないのですか」——あの声。あの目。知っていても言えないことがある。それは——ヒカルが一番よくわかっていた。
「もう一杯飲みな」
イリスが鍋から新しい茶を注いだ。暗い緑色の液体が器に落ちる。泡が浮き、苦い匂いが立ち上る。
「いや、だから不味いって——」
「体に良いんだよ。お前さん、いつも少しだけ重そうにしてるだろう。寝不足みたいな顔。あたしの茶を飲めば——少しは楽になる」
イリスの言い方は命令でも提案でもなかった。事実を述べているだけ。飲め。体に良い。以上。
ヒカルは器を受け取った。一口——飲んだ。
「…………まっず」
「知ってるよ」
「知ってて飲ませるな」
「知ってるから飲ませるんだよ」
また不味い。二杯目も変わらず不味い。だが——一杯目より少しだけ、苦味に慣れた。舌の奥で、甘いような何かが一瞬だけ通り過ぎた。気のせいかもしれない。
そして——また体が軽くなった。一杯目よりも、はっきりと。指先の感覚が冴える。視界が澄む。五十二日間ずっと纏っていた薄い霧が、一枚剥がれたような感覚。
「……これ、本当にただの薬草茶か?」
「ただの薬草茶だよ。文句言うな」
イリスは自分の器を傾けて、最後の一口を飲み干した。器を床に置く。杖を取り上げる。
「さあ、帰りな。日が暮れる前に」
「待てよ。まだ聞きたいことが——」
「質問は一日一個までだよ。今日の分はもう使った」
「いつそんなルールが——」
「今決めた」
イリスが杖で地面を突いた。コン。一回だけ。それが「おしまい」の合図らしい。
ヒカルは立ち上がった。地下室から石段を見上げる。外の光が黄色味を帯び始めている。黄昏が近い。
「……また来るぞ」
「好きにしな。あたしはここにいるよ。何百年もいたんだ。明日もいる」
ヒカルは石段を三段上がって——振り返った。
「最後に一個だけ」
「一日一個って言っただろう」
「これは質問じゃない。確認だ」
イリスが片眉を上げた。右の金色の目が、面白そうに光った。
「お前は——俺たちの敵か?」
イリスは三秒だけ黙った。
それから、しわがれた声で言った。
「あたしは誰の敵でもないよ。誰の味方でもないけどね」
背を向けた。鍋を片付け始める。小さな背中。曲がった腰。白い髪。
「……茶は明日も淹れてやるよ。不味いけどね」
石段を上がり、地上階に出た。
夕暮れの光が石壁を染めている。橙と紫が混ざった、黄昏帯特有の空。切り替わりまで四十分ほどある。
ヒカルは手帳を取り出した。
ペンを握る。何を書くべきか——今日は迷わなかった。
『Day 52。レインへ。地下室に婆さんがいた。知ってたか? 白髪の小さい婆さんで、イリスって名乗った。右目が金で左目が赤。俺たちのことを知ってた。「二人いるだろう」って言われた。なぜかバレてた。何百年もここに住んでたらしい。俺たちが来る前から。信じられるか?』
追伸を書き足した。
『追伸: 茶を飲まされた。人生で一番不味い。でも体が軽くなった。不思議な婆さんだ。敵じゃないと思う。たぶん。「昔、この塔にも二人の馬鹿が来た」って言ってた。その先は教えてくれなかった。お前なら何か聞き出せるかもしれない。理屈屋だから、婆さんの謎掛けにも付き合えるだろ』
もう一行。
『追伸2: 茶は明日も淹れてくれるらしい。覚悟しとけ。マジで不味いぞ。——H』
手帳を閉じた。石の窪みに置いた。
ヒカルは壁に背を預けた。
目を閉じる。切り替わりまで——あと少し。夕暮れの光が瞼の裏に橙色の模様を作る。
体が、軽い。
五十二日間で一番、軽い。
あの茶のせいなのか、誰かに秘密を——秘密の一端を——知られていることへの安堵なのか、わからない。
わからないけど。
地下室に、婆さんがいた。
——これは多分、レインへの報告としては「追伸」じゃなくて「本文」にすべきだったな。
そう思いながら、ヒカルは黄昏の光の中で意識を手放した。
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