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この身体には二人いる——昼は勇者、夜は魔王  作者: 歩人


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第21話: 七冊目の仮説

 残り三ページ。


 セレナ・リーヴルは手帳を膝の上に置いたまま、動けなかった。


 七冊目。表紙には「召喚異常に関する研究ノート Vol.7」と几帳面な字で書いてある。一冊目を書き始めたのは四十九日前。勇者が大聖堂に現れなかったあの日。斥候隊がヒカルを連れ帰り、セレナが自ら志願して監視役になったあの日から。


 一冊百二十ページ。七冊で八百四十ページ。その八百三十七ページ目に——今、ペン先が触れている。


 残り、三ページ。




 Day 49。午前。


 セレナは自室の机に向かい、記録結界アーカイヴから回収した魔力変動データを広げていた。


 記録結界は一週間前に廃塔の中央柱に設置した。解析のアナリティカでは瞬間の観測しかできないが、記録結界なら二十四時間、一秒刻みで魔力変動を記録できる。セレナは週に一度、ヒカルのいない時間帯を見計らって結晶石を回収していた。


 ——監視の任務。そう自分に言い聞かせながら。


 結晶石を解析陣の上に置く。紫の光が浮かび上がり、七日分の魔力変動グラフが虚空に描き出された。


 横軸は時間。縦軸は魔力強度。二つの色——青い線が光属性、赤い線が闇属性。


 午前六時から午後五時半まで、どちらもほぼゼロ。廃塔は無人。想定通り。


 だが——午後五時半。


 二つの線が、同時に跳ねた。


「……」


 セレナの指が止まった。


 青い線の急上昇はヒカルの到着痕跡だろう。ここまでは既知。


 問題は——赤い線だ。


 午後五時三十分から六時ちょうどまでの三十分間。光属性と闇属性が、同時に、同一座標から検出されている。


 同一座標。


 誤差ではない。解析陣の空間分解能は三十センチ。三十センチ以内に、光と闇の両方の魔力源が存在している。


 七日分のデータを一日ずつ確認した。


 Day 43。17:30-18:00。光属性と闇属性の同時検出。

 Day 44。17:30-18:00。同。

 Day 45。同。

 Day 46。同。

 Day 47。同。


 Day 48だけ検出タイミングがわずかにずれていた。灰の河の戦いで帰還が遅れたのだろう。だが構造は同じ。光と闇の同時存在。


 六日間連続。例外なし。


 セレナは手帳を開いた。八百三十七ページ目。ペンを取る。


 書いた。


 『仮説D-15: ヒカル様の体内に、闇属性の何かが存在する』


 指は震えなかった。ここまでは——論理の延長だ。




 兆候は前からあった。


 三冊目、百四十二ページ。『Day 12 7:03帰還。右手に擦り傷(新規)。昨日の左肩の傷は癒えている。なぜ光属性の勇者に闇属性の治癒痕があるのか? ——仮説C-7を更新』


 闇属性の治癒痕。当時のセレナはこれを「不明な外部要因」として保留した。


 四冊目、二百十ページ。『光属性の基底値が前日比で18%低下。翌朝には回復。周期的変動。——仮説C-12: 召喚酔いの残留効果』


 召喚酔い。そう書いて——自分を誤魔化した。召喚酔いは通常十日から二週間で消失する。二十日目に周期的変動が出るのは、召喚酔いでは説明できない。セレナは知っていた。知っていて——「召喚酔い」と書いた。


 五冊目、六冊目。異常は加速した。闇属性のインク痕。夕方になると硬くなる声のトーン。午後四時を過ぎると言葉の選び方が変わる——まるで別の思考回路が裏で起動するかのように。


 仮説はC-7からD-14まで積み上げた。決定的な証拠がなかっただけだ。だから記録結界を設置した。


 その結果が——目の前にある。


 闇属性の魔力反応は、ヒカルの光属性とほぼ同等の強度。微弱な残留や汚染ではない。一個体分の魔力に匹敵する。


 セレナはペンを握り直した。八百三十八ページ目に書いた。


 『仮説D-16: 闇属性の「何か」は、意識を持っている』


 根拠を記す。『①毎日同時刻に同一座標で検出——偶発ではなく行動パターン。②ヒカル様の口調変化が闇属性の出現タイミングと一致。③闇属性の治癒を「誰か」が意図的に施している可能性』


 三番目を書いた時——指が震えた。


 「誰か」。


 「何か」と書いていたのに、三番目で「誰か」に変わっていた。無意識に。意識を持っていると仮定した瞬間——「何か」は「誰か」になった。


 母の顔が浮かんだ。


 病室の白い天井。やせ細った指がセレナの手を握る。医者が首を横に振る。「原因不明です」。その六文字が、十二歳のセレナの世界を壊した。


 ——わからない。世界で一番怖い言葉。


 だから全てを解析する人間になった。母の病因を。世界の仕組みを。人の嘘を。解析できれば怖くない。解析できれば——失わない。六年間、そう信じてきた。


 母の病因は、結局見つけられなかった。十二歳の時に亡くなった。原因不明のまま。


 あの日、泣かなかった。泣く代わりに手帳を買った。表紙に「研究ノート Vol.1」と書いた。母の病歴を全て書き写した。死後に書いた、意味のない研究ノート。


 それ以来——セレナはずっと手帳を書いている。七冊目まで。




 手帳の余白を見返すたびに驚く。


 一冊目は整然としたデータの羅列だった。時刻。魔力値。行動パターン。完璧な研究ノート。


 だがヒカルのページだけ——字が小さくなっていった。余白に走り書きが増えた。


 『7:03帰還。笑っていた。誰かに優しくされた後の笑い方。誰に? ——追跡調査を検討』


 その下に、さらに小さな字で。


 『……今日は笑っていた。よかった』


 これは研究ではない。四冊目の途中で気づいた。夜遅くまで手帳を書いて、ふと我に返った時——唇が笑っていた。ヒカルの一日を追いかけて書いているだけで、笑っていた。


 捨てようと思った。ゴミ箱の前で。手が持ち上がらなかった。


 研究でも執着でもない。もっと——名前をつけたら、解析者でいられなくなるもの。名前をつけたら、ヒカルの傍にいる理由が「任務」から「感情」に変わってしまう。


 だから名前をつけない。つけないまま——八百四十ページまで来てしまった。




 Day 50。早朝。眠れなかった。


 昨日、ガレスが廊下で黙ってパンを置いていった。セレナが壁にもたれてうつらうつらしていた時。目を覚ましたら膝の上にあった。まだ温かかった。


 ガレスには何も言わなかった。ガレスも何も言わなかった。いつものことだ。


 なぜわかるのだ。セレナが食事を忘れていることを。セレナが眠れないことを。「勘だ」。いつもそう言う。解析不能な人間。この世界に「勘」なんてものはない——だが今はそれを解析する余裕がない。


 机の上に手帳がある。八百三十八ページ目。仮説D-16まで書いた状態で。


 残り二ページ。ペンを取った。




 仮説D-17。これを書いたら——戻れない。


 D-15: ヒカル様の体内に、闇属性の何かが存在する。

 D-16: 闇属性の「何か」は、意識を持っている。


 論理的帰結は一つしかない。


 書いた。


 『仮説D-17: ヒカル様は——一人ではない』


 ペンが止まった。インクが紙に滲んでいく。小さな、震えた字。いつもの几帳面な字ではない。


 これで全てが説明できた。毎夕の南行は「もう一人」との引き継ぎ。闇属性の治癒痕は「もう一人」が体を治した痕跡。午後の口調変化は「もう一人」の意識が表層に近づく兆候。記録結界の二種類の魔力は——文字通り、二人分の魔力。


 四十九日間。七冊。八百以上のページ。全てがこの一行に収束する。


 仮説ではない。ほぼ確信だった。


 手帳を閉じた。——閉じて、開けなかった。




 この仮説を王に報告すれば——ヒカルは排除される。


 勇者の体内に闇属性の存在。欠陥勇者。穢れた器。闇に侵された光。呼び名はいくらでもつく。どの名前も、排除を正当化する。


 報告しなければ——セレナは改竄者だ。


 宮廷魔法使いが勇者の重大な異常を隠蔽した。反逆に等しい罪。


 報告すれば——ヒカルが消える。報告しなければ——セレナが消える。


 嘘はもう書いている。王への定期報告書。五冊目の頃から異常を書かなくなった。「体調は安定しております」「召喚酔いの範囲内」——全部嘘だ。八百ページ分の異常を、「軽微」の二文字で握り潰してきた。


 なぜ嘘をつくのか。解析者としての自分は——原因を特定している。


 ヒカルが排除されることを、許容できないからだ。


 それは解析の結論ではない。もっと奥の——名前をつけられない場所からの、答え。


 あの日を思い出す。ヒカルの部屋で手帳を差し出した日。「教えてください」と言った。ヒカルは「言えない」と答えた。ガレスが「わかんなくていいこともあんだよ」と止めた。


 あの時、セレナの胸に走った痛みは——「答えが得られない」怒りではなかった。


 「この人を追い詰めている」という、罪悪感だった。


 「知りたい」がセレナの全てだった。だが今——わかってしまった。わかった瞬間、「知りたい」の隣に「守りたい」が並んだ。


 「知る」ことが「失う」ことに直結している。


 解析では、こういう問題は存在しない。解析は事実を明らかにするだけだ。善悪の判断は含まない。AかBかの二択に感情を持ち込まない。


 それがセレナの信条だった。それが——壊れかけている。




 夕方。


 手帳の最後のページを開いた。八百四十ページ目。最終ページ。


 次のページはない。物理的な「終わり」が、決断を迫っていた。


 窓の外は夕焼け。17:20。あと十分で黄昏が始まる。


 ヒカルは今頃、廃塔に向かっているだろう。四十九日間、一日も欠かさず。あの場所で体が変わる。金髪が暗くなり、碧い目が赤く染まり——セレナが見たことのない「もう一人」が、表に出てくる。


 ペンが紙に触れた。震えている。字が——震えている。


 書いた。


 『仮説D-17: 棄却する。根拠不十分。』


 呼吸が浅い。指先が冷たい。


 棄却。根拠不十分。——嘘だ。八百ページの根拠がある。六日分の記録結界データがある。根拠は十分だ。十分すぎるほどに。


 嘘を書いた。研究ノートに。解析者が——嘘を書いた。母のために始めた手帳に。「わからないを許さない」と誓った手帳に。


 ——嘘つき。


 視界がにじむ。涙ではない。涙の手前。解析者の矜持が最後の堤防を保っている。


 でも——堤防の向こうが見えている。堤防の向こうには「守りたい」がいる。異世界の食べ物を初めて口にした時の目。星の名前を覚えた時の声。セレナの解析結果を「すげえ」と言ってくれた時の——嘘のない顔。


 セレナは追記した。棄却の文字の横に。最後の余白に。震える字で。


 『——追記: 嘘だ。根拠は十分。私が、認めたくないだけ』




 手帳を閉じた。七冊目が——終わった。


 セレナは閉じた手帳を両手で握りしめ、額を表紙に押しつけた。冷たい革の感触。インクの匂い。四十九日分の重み。


 八冊目は買わない。買ったらまた書く。書いたらまた答えに近づく。近づいたら——今度こそ選ばなければならない。報告か、隠蔽か。ヒカルか、自分か。


 ——今日は選ばない。今日だけは。


 手帳を引き出しにしまった。鍵をかけた。鍵を首の鎖に通した。肌に触れる金属の冷たさが、小さな安心をくれた。


 窓の外。17:35。


 今この瞬間——廃塔の中央で、光と闇が同時に存在している。


 ——あなたは、誰ですか。


 ヒカルの中にいる「もう一人」。あなたはヒカルを傷つけているのですか。それとも——守っているのですか。


 答えは手帳の外にある。


 セレナは窓を閉めた。夕焼けを遮断した。


 八冊目は買わない。——嘘だ。明日、書店に行く。解析をやめられないことを、ヒカルを見ることをやめられないことを、セレナは知っている。


 「知りたい」は止まらない。止められない。止める気もない。


 だが今——「知りたい」の隣に、名前のない感情が並んでいる。名前をつけたら壊れてしまいそうな、透明で脆い何か。


 セレナは机に突っ伏した。腕に顔を埋めた。目の下の隈が腕に触れる。慢性的な睡眠不足。四十九日分の夜更かしの代償。


 ——なんで。なんで、こんなに。


 問いの先を、セレナは言葉にしなかった。


 代わりに——眠った。四十九日間で、たぶん一番深く。手帳のない手で。鍵だけを握りしめて。


 明日、八冊目を買いに行く。また書く。また近づく。そして——ヒカルと、直接向き合わなければならない日が来る。


 その時、何を聞くのか。何を答えてもらいたいのか。


 セレナはまだ、知らない。

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