第20話: 灰の河
白かった。
レインの手帳が、白かった。
ヒカルは廃塔の地下室で膝を抱え、手帳を三度めくった。昨夜の日付。その下——何も書かれていない。追伸もない。箇条書きの報告も、小言も、「追伸3」まで伸びる長い独白も。
真っ白だ。
初めてだった。四十八日間、一度も途切れなかった書き置きが——今日だけ、ない。
自分のページも白い。昨夜、ヒカルも何も書かなかった。書き置き緊急会議で決めた通り。「台本のある戦争」を終わらせるために、互いに「書かない」を選んだ。
合理的な判断だった。
正しい判断だった。
だが——
「……やべえな」
声が震えた。手帳を握る指が白くなっている。
今日、レインが何をするのかわからない。魔族軍をどこに配置するのか。どの方角から攻めてくるのか。罠はあるのか、ないのか。全部——わからない。
四十八日間、ずっと知っていた。「北東注意」「魔導師三名、後方に温存」「追伸: 水筒を忘れるな馬鹿」——そういう情報が、毎朝ここに書かれていた。戦う前に、敵の手が見えていた。
いや、違う。
敵の手じゃない。レインの手だ。
それが——ない。
ヒカルは手帳を閉じて、額を石壁に押しつけた。冷たい。廃塔の地下室は、いつも冷たい。レインが置いた毛布の匂い。ヒカルが補充した水瓶の音。二人の痕跡が混在する空間で、ヒカルはたった一人だった。
怖い。
こんなに怖いとは思わなかった。
レインがいないことが怖いんじゃない。レインが何をするのかわからないことが——怖い。
灰の河は、黄昏帯を横断する唯一の水源だった。
両岸には灰色の砂が広がり、河幅は最も狭い箇所でも三十メートルある。河の中央には光と闇の魔力が渦巻き、水面が時折不自然に輝いたり、影を落としたりする。この河を制した側が補給路を確保できる——だから、大規模戦闘が起きることは予測できた。
予測はできた。
だが——詳細がわからない。
「ヒカル様!」
セレナの声が、河岸の岩場に響く。解析の瞳が蒼く光り、対岸を見つめている。
「魔族軍、三百! 配置が——昨日までと全く違います!」
「どう違う!?」
ヒカルは岩の陰から身を乗り出した。灰色の砂が指の間から零れる。
「前衛に魔導師が配置されています。いつもなら後方のはずです。それに——突撃隊の陣形が散開している。各個撃破を狙っているのか、それとも包囲なのか——判断がつきません」
セレナの声が、微かに揺れた。解析の瞳を持つ彼女が「判断がつかない」と言ったのは、ヒカルの記憶では二度目だ。
台本がない。
レインの書き置きがあれば、「魔導師は陽動。本隊は右翼」とか、「散開陣形に見せかけた楔形突撃」とか、答えが書いてあったはずだ。四十八日間、ヒカルは——それを読んでいた。読んだ上で、勇者の直感という演技で対処してきた。
その台本が、ない。
「ヒカル様」
セレナの声が冷静に戻る。
「ご指示を」
ヒカルは息を吸った。腹の底まで。光走の魔力が足元から這い上がってくる。
「——全軍、防衛陣形!」
勇者の声だ。完璧な、迷いのない声。何百回と練習した声。腹から出す。堂々と。兵士たちが希望を感じる声で。
「河岸に盾兵を展開! 弓兵は後方! 騎兵は予備として待機! 敵の意図が不明な以上、守りから入る!」
叫びながら、ヒカルは思った。
——レイン。お前なら、どう攻めてくる?
答えはない。
今日だけは——ない。
対岸が、動いた。
黒い奔流が河に突入してくる。魔族の突撃隊だ。いつもより速い。いつもより——乱暴だった。統率の取れた進軍ではない。各個がバラバラに、最短距離で河を渡ろうとしている。
セレナの目が見開かれた。
「散発的突撃——いいえ、違う。これは——陽動です! 左翼から別動隊が——!」
遅い。
気づいた時には、左翼の岩場から魔族の精鋭が飛び出していた。五十名。身軽な短剣兵が、弓兵の後方を狙っている。
「左翼に回れ!」
ヒカルは光走を発動した。足元が爆ぜるように光り、時速四十キロの疾走で左翼に駆ける。だが——遠い。間に合うか。
ガレスが、先に動いていた。
「俺の後ろに来い!」
塔盾ペトラを地面に叩きつける。巨大な盾が大地に食い込み、弓兵の前に立ち塞がった。ガレスの背中は山のように大きい。弓兵たちが、その影に隠れる。
不動城壁——。
盾を起点に、透明な障壁が半円形に展開した。魔族の短剣が叩きつけられる。火花。衝撃。闇の魔力を帯びた刃が障壁を削る音が、耳をつんざいた。
「絶対——通さねえ!」
ガレスの腕の血管が浮き出た。足元の砂が沈む。盾に全体重を預けて、魔族精鋭五十名の突撃を一人で受け止めている。
ヒカルが追いついた。聖光剣を抜き、障壁の隙間から斬撃を放つ。光の刃が闇を裂き、魔族が三人吹き飛ぶ。
「ガレス、退がれ! 俺がやる!」
「バカ言え! お前こそ正面見ろ! 河のほう!」
ガレスが短く叫ぶ。言葉が少ない。だが——的確だった。
ヒカルが振り返ると、正面の河では魔族の本隊が渡河を開始していた。左翼の陽動に兵力を割いたせいで、河岸の防衛線が薄くなっている。
「くそ——!」
台本があれば、こうはならなかった。左翼の別動隊のことを書き置きで知っていれば、最初から兵力を分散して——
いや。考えるな。今は——戦え。
「セレナ! 正面の指揮を頼む! 俺は左翼を片付ける!」
「了解!」
セレナの声が凛と響く。解析の瞳が光り、弓兵に指示を飛ばし始める。
ヒカルは聖光剣を振り上げ、左翼の魔族精鋭に斬りかかった。
河の中央で、水飛沫が上がった。
渡河する魔族の先頭に——巨大な影がいた。
二メートルを超える巨体。上半身裸の褐色の肌に、古傷が無数に走っている。左目の眼帯。湾曲した雄牛の角。そして——剥き出しの犬歯が、笑っていた。
ガルムだった。
四天王筆頭が、先頭で河を渡っている。普通ならありえない。指揮官が最前線に立つのは戦術的に愚策だ。だが今日は——台本がない。レインからの指示がない。誰がどこに配置されるか、ガルム自身にも予測がつかなかった。
だから——自分で来た。
「ハッ! 面白えじゃねえか!」
ガルムが笑った。河の水を蹴散らし、人間側の河岸に足をつける。灰色の砂が巨体の重みで沈む。
「今日のレイン様は——何も言わなかった! いつもなら『ガルム、ここを守れ』だの『突撃するな』だのうるせえのに! 今日は——何もだ!」
ガルムの拳が握られる。魔力が渦巻き、空気が震えた。
「レインから聞いたぜ! 人間軍に面白え盾使いがいるって! ——どこだ!?」
河岸の防衛線を突破しながら、ガルムが吠える。
そして——見つけた。
左翼で障壁を張り続けるガレスの姿を。
ガレスは、気配で感じた。
動物的直感。体の芯が震える。首の後ろの毛が逆立つ。
——来る。
来る。何かが、来る。
ペトラの向こう——魔族精鋭の群れを割るように、巨大な影が突進してきた。地面が揺れる。足音ではない。質量そのものが大地を揺らしている。
魔族精鋭が、左右に散った。自軍の兵ですら——道を空けた。
障壁を、拳が叩いた。
轟音。
ガレスの足が砂に埋まる。障壁に蜘蛛の巣状のヒビが走る。ペトラが軋む。今まで受けたどんな衝撃とも違う。腕の骨に、衝撃が直接伝わってくる。
「——!」
ガレスは歯を食いしばった。盾を両手で握り直す。足を踏みしめ直す。砂が爆ぜる。
障壁の向こうに、顔が見えた。
巨大な顔。眼帯。犬歯。そして——心底楽しそうな、笑顔。
「お前か! 盾使い!」
ガルムが叫んだ。拳を引く。もう一発——。
「レインから聞いたぜ。不動城壁ってんだろ! その盾技!」
「……お前が、ガルム」
ガレスが呟いた。声は低い。だが——震えてはいない。
レインから聞いた。つまり魔王がこの男にガレスの情報を伝えた。いつ? どうやって?
——考えるな。考えるのは苦手だ。
目の前にいるのは、盾を壊せる拳を持った男。それだけわかれば十分だ。
「ペトラ、頼むぜ」
ガレスは盾に話しかけた。いつもの癖。だが今日は——少しだけ、強く。
不動城壁を再展開。ヒビの入った障壁が砕け散り、新しい障壁が盾から広がる。最大出力。ガレスの魔力を全て注ぎ込んだ、純粋な防御。
「来い」
短く言った。
ガルムは——笑った。
「いい目してんじゃねえか!」
鉄拳崩し《アイアンクラッシュ》——ガルムの拳に闇の魔力が収束する。空気が歪む。拳の周囲の砂が浮き上がる。
振り下ろした。
盾に、拳が衝突した。
衝撃波が河面を走った。水柱が三メートル上がり、灰色の砂が嵐のように舞い上がる。周囲十メートルの兵士——人間も魔族も——が吹き飛ばされた。
ガレスの足元の地面が陥没した。膝まで砂に埋まる。腕が震える。盾が悲鳴を上げている。不動城壁の障壁が——割れた。
だが。
ガレスは——立っていた。
膝まで埋まり、腕が軋み、口から血の味がする。それでも——一歩も退がっていない。
「……止まった」
ガレスが呟いた。
「ハッ!」
ガルムの目が見開かれた。左目の眼帯が僅かにずれる。右目だけが——輝いている。
「いい盾だ! ——名前は?」
「……ペトラ」
「ペトラか。俺の拳を止めた盾は——お前で三つ目だ。最後に止めたのは前代の魔王だった」
ガルムが拳を開いた。握り直す。指の関節が鳴る。
「もう一発、来い!」
鉄拳崩し、二発目。
ガレスは不動城壁を展開しなかった。障壁はもう——持たない。
代わりに——盾を斜めに構えた。
拳が盾に触れた瞬間、ガレスは盾を回転させた。衝撃を受け流す。ガルムの拳がペトラの表面を滑り、空を切る。
「——!」
ガルムの体が前のめりになる。
ガレスの足が砂から抜けた。半歩踏み込む。盾の下端を、ガルムの胴に叩きつけた。
地砕き《アースブレイク》——。
衝撃波が下から上へ走り、ガルムの巨体が——浮いた。
一瞬。たった一瞬だが、二メートルの巨体が砂の上を滑った。
「おお——!」
ガルムが着地する。足で砂を削り、体勢を立て直す。
そして——笑った。
心底楽しそうに。子供のように。前代の拳を受けた日と同じ顔で。
「面白えな、お前!」
ガレスも——笑った。
ヒカルは左翼の魔族精鋭を押し返しながら、その光景を見た。ガレスが笑っている。あの無口な盾騎士が、敵を前にして笑っている。
——強い敵と戦うのが、好きなんだ。あいつは。
ガルムが拳を構え直した。ガレスが盾を構え直した。
三度目の激突。
拳と盾が正面からぶつかり、衝撃波が輪になって広がった。河の水が左右に割れる。灰色の砂が渦を巻く。
決着は——つかなかった。
ガルムの拳はペトラを砕けなかった。ガレスの盾はガルムを退けられなかった。
互いの力が——拮抗している。
「……名前」
ガレスが言った。息が荒い。腕が痙攣している。
「お前の名前。聞いてねえ」
「ガルムだ。ガルム・ブラッドファング。四天王筆頭」
「ガルム」
ガレスは名前を噛みしめるように呟いた。
「覚えた」
「俺も覚えたぜ——ペトラのガレス」
ガルムが拳を下ろした。左目の眼帯を、右手で触る。
「また来る。次は——割るぜ、その盾」
「……来い。何度でも止める」
ガルムが踵を返した。退却ではない。満足した獣が去っていく足取りだった。
河が、赤く染まっていった。
ガレスとガルムの戦いは一対一の例外だった。それ以外の戦場には——台本のない戦争の残酷さが、容赦なく広がっていた。
魔族の突撃は予測できなかった。前衛に配置された魔導師が不意に闇弾を放ち、人間側の盾兵が三人まとめて吹き飛ばされた。できた穴から魔族の剣士が雪崩れ込む。ヒカルの聖光剣が一人を斬り、二人を押し返すが——三人目の刃が、別の兵士の肩を抉った。
悲鳴が上がる。
「衛生兵! 衛生兵を右翼に!」
セレナが叫ぶ。解析の瞳が次の攻撃を予測するが——間に合わない。
いつもなら、間に合った。
レインの書き置きがあれば、「魔導師は前衛に出す。対策を講じろ」と書いてあったはずだ。「右翼の岩場に伏兵三名。落石注意」と書いてあったはずだ。それがあれば——あの兵士は肩を抉られなかった。あの盾兵は吹き飛ばされなかった。
被害が増える。
人間も。魔族も。
河岸の灰色の砂が、赤黒く染まっていく。河の水に血が混じり、光と闇の魔力が渦巻く中央部で、赤い色がゆっくりと下流に流れていく。
ヒカルは聖光剣を振るいながら、数えていた。自軍の被害。倒れた兵士。動かなくなった体。
七人。
たった半日で、七人。いつもの戦闘なら——書き置きがあった頃なら——被害は二人か三人で済んだ。
台本のない戦争は、倍以上の血を流す。
「退け! 全軍退け!」
ヒカルが叫んだ。喉が裂けそうだった。これ以上は無理だ。防衛線は三度破られ、弓兵の矢は底を尽きかけている。
対岸でも、角笛が鳴った。魔族軍も退却する。
ガルムが最後まで河に立っていた。拳を振り上げ、赤い河の水を見下ろしている。笑ってはいなかった。
「また来るぜ、盾使い!」
最後にそれだけ叫んで、ガルムは対岸に戻っていった。
「……ああ」
ガレスが短く答えた。盾を下ろし、膝をつく。深く、深く息を吐いた。腕が小刻みに震えている。ペトラの表面に、新しい亀裂が走っていた。
ヒカルはガレスの隣に立ち、河を見た。
赤い。
水面に映る夕日と血が混ざって、どちらが太陽の色でどちらが人の色なのか、わからなくなっていた。
夜。
魔王城の作戦室。
レインは戦闘報告を聞いていた。
「被害集計です」
ヴェルデが角のヒビを触りながら、淡々と報告する。
「我が軍の死者、十一名。重傷者、二十三名。軽傷者は数えきれません」
「……多いな」
「はい」
ヴェルデの声に、困惑が滲んでいた。
「率直に申し上げます。今日の戦闘は——混乱していました」
「知ってる」
「勇者の動きが読めませんでした。いつもならレイン様が——」
ヴェルデが言葉を切った。言いかけた言葉を飲み込む。角のヒビを、もう一度触る。
「いつもなら、事前に勇者の配置を予測されていました。『勘だ』とおっしゃって。今日は——それがなかった」
「ああ」
レインは椅子の背もたれに沈んだ。
自分も同じだった。今日は、何も書かなかった。だからヒカルの配置が読めなかった。聖光剣がどこから来るのか、光走がどの方向に走るのか——何一つ予測できなかった。
四十八日間、毎朝読んでいた。「今日は西の森を掃討する」「騎兵隊を前衛に」「セレナの解析で伏兵位置は特定済み」——ヒカルの書き置きを読むことが、レインの戦術の土台になっていた。
その土台が——ない。
死者十一名。
書き置きがあった頃なら、三名か四名で済んだ。
差分は——七名。
七名の魔族兵が、「書かない」という合理的判断のために死んだ。
レインは目を閉じた。
合理的判断、か。
ガルムの声が響く。「おかしいだろ」——あの声。あの疑念。台本のある戦争を続ければ、ガルムに秘密がバレる。だから書かない選択をした。正しい判断だ。
正しい判断で——人が死んだ。
マジでめんどくせえ。
レインは頭の中で蒼馬の言葉を反芻した。蒼馬なら——こういう時、何て言っただろう。
答えは出ない。蒼馬は戦争をしたことがない。大学の講義で「囚人のジレンマ」は習ったが、囚人が死ぬジレンマは想定されていなかった。
だが——一つだけ、わかったことがある。
書かないと、こんなに怖い。
ヒカルが何をするかわからないのが——こんなに、怖い。
情報がないから怖いんじゃない。ヒカルの声が聞こえないから——怖い。
廃塔。
夕暮れの光が石壁を赤く染めている。
ヒカルは地下室に座り、手帳を開いた。ペンを握る。何を書くべきか——迷った。
作戦報告を書くべきか? いや、それでは「台本のある戦争」に逆戻りだ。
近況報告を書くべきか? 何を? 「今日は七人死んだ」とでも?
ヒカルはペンを手帳に押しつけた。インクが滲む。
書きたいのは——そういうことじゃない。
本当に書きたいのは——。
『今日は書かなかった。怖かった』
ペンが走った。考えるより先に。勇者の演技でも、戦術報告でもない。ただの——本音。
『お前が何をするかわからないのが、こんなに怖いとは思わなかった。河で戦ってる間ずっと、お前がどこにいるのか考えてた。次の一手が読めないのが怖いんじゃない。お前の声が聞こえないのが、怖い』
書いてから、ヒカルは息を吐いた。
長い。いつもより長い。レインなら「追伸が本文より長い」と書くだろう。
最後に、一文だけ書き足した。
『明日からは書く。書かないほうが、ずっと怖い。——H』
手帳を閉じる。石の窪みに置く。
ヒカルは壁に背を預けて、目を閉じた。
夕暮れの三十分。切り替わりまで、あと少し。
切り替わった。
レインが目を開けた。
廃塔の地下室。石の匂い。薄暗い光。
体が——重い。左肩が痛む。ヒカルが戦闘で負った傷の残りだ。
「……まったく」
レインは肩を回しながら、手帳を取った。ヒカルが残した石の窪みから。
開く。
ヒカルの字が——震えていた。
いつもの勢いのある、感嘆符だらけの字ではない。細く、小さく、滲んだ字。
『今日は書かなかった。怖かった』
レインは、手帳を持つ手が止まった。
『お前の声が聞こえないのが、怖い』
声。
書き置きを「声」と呼んでいる。
レインは手帳を閉じて、額を指で押さえた。蒼馬の癖だ。考え事をする時に、眉間を押さえる。
——声、か。
レインにとっても、そうだった。毎晩、廃塔に来て手帳を開く。ヒカルの字を読む。短い報告。長い追伸。下手な絵。水筒を忘れるなという叱責。それが——レインの一日の始まりだった。
今朝、手帳が白かった時。レインの胸に空いた穴は——情報の不在ではなかった。
声の不在だった。
レインはペンを取った。
『同感だ』
書いて、止まった。
これだけでは足りない。レインの追伸は、いつも長い。長いことにも——理由がある。
『同感だ。書かない日がこんなに怖いとは思わなかった。お前の配置が読めなかった。聖光剣の位置がわからなかった。情報がないから怖いんじゃない。お前が何を考えてるのかわからないのが——怖かった。こっちは死者十一名。お前のほうはどうだ。……聞きたくないが、聞かないともっと怖い』
ペンが止まる。
レインは一度、書いた文を読み返した。長い。だが——削れない。
最後に、一行だけ書き足す。
『……明日からは書く。死なれると困る。——R』
手帳を閉じる。石の窪みに置き直す。
明日の朝、ヒカルがこれを読む。
レインは立ち上がった。肩の痛みが走る。ヒカルの傷。ヒカルの体。ヒカルの戦い。
「——マジでめんどくせえ関係だな、これ」
呟いて、廃塔を出た。
夜城に向かう。今夜も、長い夜になる。
だが——明日は、書く。
書き置きは情報共有じゃなかった。
最初から——つながっている確認だった。
生きている証明だった。
「書かないと、死ぬかと思った」のではない。
「声が聞こえないと、死んだ気がした」のだ。
河の水は、朝には透明に戻るだろう。
灰色の砂も、雨が降れば洗い流されるだろう。
だが今夜——河は赤い。
台本のない戦争が流した血の色と、二人が初めて知った恐怖の色を映して。
明日からは、また書く。
作戦も、近況も、追伸も。
書き置きの本当の意味を知った二人は——もう、白いページを恐れない。
だが——書き始めた瞬間、疑念も再開する。ガルムの追及。セレナの分析。王の品定め。
それでも——書く。声が聞こえなければ、生きている実感がないから。
下にある☆☆☆☆☆をクリックして★★★★★にしてくれたら作者が喜びます!




