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この身体には二人いる——昼は勇者、夜は魔王  作者: 歩人


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第19話: 台本のある戦争

 四十四日目。灰嶺砦の戦況図に、ヒカルは赤い印をつけた。


「明日、西の森を掃討する」


 セレナが眉をひそめた。ペンが手帳から離れ、耳の上に戻される——分析モードの一時停止。


「ヒカル様、正面からですか?」


「ああ。こっちの戦力なら——」


 ヒカルは笑った。三種類あるうちの二番目。騎士たちと話す時に使う、爽やかな勇者の笑顔。


「魔族の配置は手薄だ。一気に押し込める」


 セレナの瞳が、一瞬だけ細められた。解析のアナリティカが微かに光を帯びる——が、すぐに消えた。本人が意図的に切ったのだ。


「……そうですね」


 納得の「そうですね」と、保留の「そうですね」。今のは後者だった。


 ヒカルの胸の奥で、王のチェス盤が揺れた。三日前の書斎。笑わない目。全てを見透かすような穏やかさ。


 ——大丈夫。レインの対策通り、完璧すぎないように演じろ。


 だが笑顔を保つ頬の筋肉が、三日前よりわずかに硬い。




 その夜。廃塔。


 ヒカルは手帳を開き、ペンを走らせた。


『明日、西の森を掃討する。午前十時。騎兵隊を前衛に配置。セレナの解析で敵の伏兵位置は特定済み。南東側から回り込む可能性があるから、そっち注意してくれ。死者は出さない』


 書いてから、ふと手が止まった。


 これは——作戦情報だ。


 レインが読んだら、配置を変えるだろう。防衛を厚くするだろう。南東の回り込みを潰すだろう。ヒカルが書いた作戦は、実行する前に無力化される。


 それを知っていて、書いている。


 だが——書かなければ、レインに伝わらない。伝わらなければ魔族の被害が増える。レインが兵站改革で強くした、あの兵士たちが死ぬ。


 そして。書かなければ、レインからの返事もない。


 ヒカルは追伸を書き足した。


『そっちは大丈夫か? 王の件——お前の対策、今のところ効いてる。セレナの前で少し疲れた顔してみせたら、心配そうにしてくれた。演技って難しいな。俺、笑顔は得意なんだけど、疲れた顔はまだ下手だ』


 手帳を閉じる。石の窪みに置く。


 明日、レインが読む。配置を変える。ヒカルの作戦は——最初から台本通りになる。




 翌朝。Day 45。


 レインは廃塔で目を開いた。手帳を開く。ヒカルの字が躍っている。丸くて、力が入りすぎていて、時々紙が凹んでいる。


『明日、西の森を掃討する。午前十時——』


 レインは目を細めた。


「……西の森、か」


 作戦室に向かう途中、ガルムが合流した。二メートルを超える巨体が、廊下の影を占領する。


「おい、さっき塔にいただろ。何読んでた」


「報告書だ」


 ガルムが肩越しに覗き込む。レインは手帳を外套の内側に滑り込ませた。


「見るな」


「隠すってことは、やましいことが書いてあんだろ」


「やましくはない。ただの——」


「ただの、何だよ」


 レインは答えなかった。答えられなかった。


 作戦室に入り、地図を広げた。


「ヴェルデ。西の森の配置を厚くしろ。伏兵を三個小隊。防衛線を二重に。南東からの回り込みを想定して、弓兵を配置しろ」


 ヴェルデが角のヒビを触った。右の角。300年の癖。


「……西、ですか。しかも南東まで。情報源は?」


「勘だ。人間の騎兵隊は正面突破を好む。回り込むなら南東が最短ルートだ。兵站を見直した時に、地形図は全て頭に入れた」


 もっともらしい理由。七割は事実だ。残り三割だけが嘘。


 ヴェルデは頷いて、命令を伝えに出て行った。




 午前十時。


 ヒカルの騎兵隊が、西の森に突入した。朝靄が残る森の中、馬蹄が落ち葉を踏み砕く音が響く。先頭のヒカルの手に、聖光剣が白く輝いている。


「敵の配置が厚い!」


 ガレスが短く叫んだ。塔盾ペトラを構え直す。


「伏兵が三個小隊! 防衛線が二重だ!」


 ヒカルは剣を構えたまま、一瞬だけ動きを止めた。


 三個小隊。二重の防衛線。昨日まで——ここは手薄だったはずだ。


 ——わかっている。書いたからだ。


 脳裏に昨夜の書き置きが浮かんだ。『午前十時。騎兵隊を前衛に——』。そのまま対策されている。南東側にも弓兵が見える。回り込みルートも潰されている。


「退がれ! 俺がやる!」


 勇者の声。完璧な、迷いのない声。内側の迷いを、声量で押し潰した。


 聖光剣が弧を描く。光の刃が森の闇を切り裂き、伏兵の最前列が後退する。光走を発動——時速四十キロで木々の間を駆け抜け、側面に回り込む。


「ガレス、左翼を頼む!」


「おう!」


 ガレスが塔盾を構えて突進する。不動城壁ストーンウォールを小規模展開し、魔族の矢を弾きながら前進した。


 ヒカルは二つ目の防衛線に到達した。兵が配置されている——だが、殺気がない。構えてはいるが、踏み込んでこない。攻めてきたら退く。深追いはしない。被害を最小限にする配置。


 レインの配置だ。


 聖光剣で牽制しながら、二つ目の防衛線を崩した。崩した、というより——崩させてもらった。魔族の兵は整然と後退し、森の奥に消えていった。


 戦闘は——一時間で終わった。


 だが、その一時間の内容が異常だった。剣を交える回数は多い。だが致命打がひとつもない。魔族は攻めるが踏み込まない。人間は押すが深追いしない。まるで演習のように、互いが互いの動きを読み合い——被害を最小限に抑えようとしていた。


 結果。死者はゼロ。重傷者も三名だけ。


 ヒカルは血のついた剣を見下ろした。切ったはずだ。何人も。だが致命傷はひとつもない。魔族の兵が、致命傷にならない位置で受けていた。


 ——脚本通りだ。完璧な脚本。書き置きという名の、台本。




 その夜。セレナが報告書を持ってきた。


「ヒカル様。今日の戦闘ですが——」


 報告書をテーブルに置く。七冊ある手帳のうち三冊目——戦闘分析用。ページには細かい数字がびっしり並んでいる。


「的確すぎます」


「……何が?」


「ヒカル様の判断です」


 セレナの声のトーンが、0.5度下がった。本気の分析が始まる合図。


「三個小隊の伏兵、二重防衛線——ここまでは偵察情報で説明がつきます。ですが」


 セレナはペンを耳から外した。分析モード解除。これから言うことは、数字ではなく直感の話だ。


「南東からの回り込みを警戒されていました。突入直後に、左翼にガレスを配置された。あれは南東の弓兵を想定した動きです」


「……偶然だよ。ガレスの判断で——」


「いいえ。ガレスは指示を受けて動いていました。ヒカル様の指示です」


 沈黙。


「この規模の戦闘で、死者ゼロは異常です。通常、騎兵突撃なら最低でも一割の損耗を見込みます。ですが今日は——ゼロ。まるで——」


 セレナはヒカルの目を見た。解析の瞳は使っていない。肉眼で。人間の目で。


「まるで、敵の配置を知っていたかのような動きでした」


 ヒカルの背筋が凍った。


 王の書斎が脳裏に蘇る。『完璧な防御は、何かを守っている証拠だ』。セレナも——同じことを言っている。角度が違うだけで。


「セレナ、俺は——」


「疑っているわけではありません」


 セレナは静かに言った。手帳を閉じ、ペンを耳に戻した。


「ただ——的確すぎる、と申し上げているだけです。報告書には『勇者の戦術眼による判断』と記載します。私の——判断で」


 最後の二語に、力が入っていた。報告書を改竄する、という意味だ。セレナはまだヒカルの側にいる。だが、その忠誠は無条件ではない。


「……ありがとう」


 セレナは扉に手をかけた。


「次も的確すぎれば、私では庇いきれなくなります」


 扉が閉まった。ヒカルは一人、頭を抱えた。




 同じ夜。夜城ノクターン。


 ガルムが腕を組んで、レインを睨んでいた。


「おかしいだろ」


「何がだ」


「今日の戦闘だ」


 ガルムは戦況図を指で叩いた。


「お前の『勘』がまた当たった。西の森。南東の弓兵。午前十時。全部ぴったりだ」


 ガルムの声が低くなった。


「死者ゼロだぞ。こっちも、あっちも」


「結果的に——」


「ゼロだ」


 ガルムが一歩踏み込んだ。巨体が影を落とす。


「おかしいだろ。人間がここまで読めるか?」


「読めるだろ。俺たちの配置は——」


「いや、読めねえ。俺は力馬鹿だが、勘は利く。獣の勘だ」


 ガルムの右目が、鋭く光った。


「前もそうだ。灰嶺砦の防衛配置。東の丘の待ち伏せ。全部『勘』で当てた。三回連続で当たる勘なんてねえよ」


 ガルムが顔を近づけた。眼帯の下、潰れた目の跡がある種の凄みを纏っている。


「お前——何か情報源があるんだろ」


「ない」


「嘘だ」


「嘘じゃない」


 レインは目を逸らさなかった。魔王の目。歴代の記憶から借りた、威圧のまなざし。


 三秒。五秒。七秒。


 ガルムの顎が動いた。犬歯が覗いた。笑いではない。噛み締めている。


「……面白くねえ」


 いつもの「面白え」ではなく、「面白くねえ」。信頼が揺らいでいる時の言葉だ。


「俺は力を信じる。レイン様の力も信じたい。だが『勘』じゃ信じようがねえんだよ。三回も四回も当たる勘は——勘じゃねえ。情報だ」


 ガルムが背を向け、扉に手をかけた。


「……次も当たったら——俺は聞くぞ。もう一度。その時は『勘だ』じゃ済まさねえ」


 扉が閉まった。重い足音が遠ざかる。


 レインは一人、首の後ろを掻いた。蒼馬の癖。


 ——マジでめんどくせえ。


 ガルムの疑念は正しい。ヒカルが書いた作戦情報を読んで、配置を変えた。それは事実だ。三回連続。「勘」では説明がつかない。ヴェルデも——あの角を触る回数が増えている。


 これは情報戦だ。意図せず始まった、世界で最も歪な情報戦。敵の勇者が自ら漏洩し、味方の魔王が自ら受領する。




 翌朝。Day 46。


 ヒカルは廃塔で手帳を開いた。レインの返事があった。


『西の森の件。被害が少なくて何よりだ。だが問題が起きている。ガルムが疑っている。情報源があるだろう、と直接聞かれた。三回連続で当たる勘は勘じゃない、と。次も当たれば追及される。追伸: そっちの判断、正確すぎて少し怖い。南東の回り込みまで書いてあったのは助かったが、逆に言えばそこまで正確に対策できてしまう。誰かに疑われてないか?』


 ヒカルは息を呑んだ。レインも——気づいている。両側で、同時に。


 ペンを握った。


『こっちもだ。セレナに"的確すぎる"って言われた。報告書は庇ってくれたけど、次は無理だって。王の件もまだ尾を引いてる。レイン——これ、まずくないか?』


 次の行を迷った。ペンが紙の上で止まる。インクが滲む。


『書き置きに、作戦情報を書くのをやめるか?』


 ペンを置く。手が震えた。


 やめる——それは、書き置きの半分を失うことだ。


 作戦情報と、追伸。それがヒカルの書き置きだった。作戦情報を削れば——追伸だけが残る。近況報告。くだらない感想。星座の落書き。


 作戦情報を書くようになったのは、いつからだろう。最初は追伸だけだった。だがいつしか——「明日はどこを攻める」と書くようになった。レインに、死んでほしくないからだ。


 だが守るために書いた情報が、「的確すぎる」判断を生み、疑惑を呼ぶ。守ることが、壊すことに変わる。




 その夜。レインは手帳を開いた。


 ヒカルの字がいつもより揺れている。インクの滲みが二箇所。


『書き置きに、作戦情報を書くのをやめるか?』


 レインは目を閉じた。


 それは——正しい判断だ。蒼馬の記憶が冷静に分析している。情報漏洩のリスクが顕在化した。損切りのタイミング。


 作戦情報を書かなければ、疑われない。台本のある戦争は終わる。だが——台本のない戦争が始まる。互いの手が読めない。被害が増える。兵が死ぬ。


 レインは自分の手帳を見返した。過去二週間の書き置きをめくる。


 本文は全て作戦関連だ。箇条書き。論理的。魔王らしい文体。


 追伸は——違う。食文化への遺憾。水筒の味の感想。ガルムが訓練中に柱を殴って折った件。


 本文を失えば、追伸だけが残る。魔王が勇者に書く日記。戦略的価値はゼロ。


 だがそれは——本当に「価値がない」のか?


 レインはペンを握った。


『やめるべきだと思う。このままじゃ両方とも——バレる。ガルムは獣の勘で確信に近づいている。そっちのセレナも限界なら、やめるのが合理的だ。追伸: でも、やめられるか? 俺はやめるべきだと頭では分かっている。だが手が——書くのを止められない。お前もそうだろ?』


 書き置きは——もう情報交換の手段じゃない。つながりの確認だ。この体を共有するもう一人が、確かに存在している証明。


 生きている証明だ。


 レインは手帳を閉じた。




 翌朝。


 ヒカルは手帳を開いた。


『やめるべきだと思う。このままじゃ両方とも——バレる』


 うん、わかってる。


『追伸: でも、やめられるか?』


 ヒカルは唇を噛んだ。


 やめられない。でも——やめなければ。セレナが庇えなくなる。王が動く。ガルムが追及する。両方同時に崩れたら——


 ペンを握った。長い時間、紙の上で止まっていた。


 結局——書いた。


『じゃあ明日——書かない。作戦も、近況も、何も。一日だけ、試してみる。書かなくても大丈夫かどうか。大丈夫じゃなかったら——また考える』


 追伸を書き足した。


『追伸: 怖いな。書かない日が来るなんて。一日で一番楽しみな時間がなくなる。明日の夜、お前も何も書くな。白紙の手帳を見て、俺たちがどう感じるか——それが答えだと思う』


 手帳を閉じる。石の窪みに置く。


 明日——書かない。レインからの返事もない。一日だけ。


 ヒカルは廃塔を後にした。石段を降りる足が、いつもより重い。


 背中に、黄昏帯の冷たい風が吹いた。光と闇の境界の風。


 明日、この体は台本なしで戦場に立つ。死者が出るかもしれない。それでも——やめてみなければ、わからない。


 書き置きが「必要」なのか、「やめられない」のか。


 その区別がつかなくなっている自分が——一番怖かった。

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