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この身体には二人いる——昼は勇者、夜は魔王  作者: 歩人


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第18話: 王の示唆

 王の書斎に呼び出された時、ヒカルは——笑顔を選んだ。


 三種類ある。緊張した時の柔らかい笑顔。騎士たちと訓練する時の爽やかな笑顔。そして、王の前で使う——完璧な「希望の象徴」の笑顔。


 この笑顔が、一番上手うまくできる。口角の角度、目元の細め方、頬の筋肉の配分。全部、セレナが民の前で見せる「安心させる微笑み」を模倣した。借り物の表情。でも——これしか持っていない。


 扉を叩く。二回。騎士が叩くのと同じリズムで。


「入りたまえ」


 書斎は暖炉の灯りで薄く照らされていた。壁一面の書棚。窓のカーテンは閉じられ、午後三時だというのに、この部屋だけが夜のようだった。


 奥の机の上に——チェス盤。


「ヒカル殿、待っていたよ」


 オーギュスト三世が椅子から立ち上がる。銀灰色の髪。額に銀のサークレット。微笑んでいる。穏やかな声。だが——目が、笑っていない。この人の目だけは、口元がどれだけ柔らかくても、常に何かを計っている。


「陛下、お呼びとのことで」


 一礼。ガレスの所作を模倣した騎士式の礼。


「堅苦しい場ではない。座ってくれたまえ」


 チェス盤を挟んで、二つの椅子。盤上は初期配置。新しい対局だ。


「少し指そうと思ってね。君はチェスを知っているかね?」


「……はい、少し」


 蒼馬の記憶にある。だが「蒼馬の記憶にある」とは言えない。


「では、白を持ってくれたまえ」


 王が黒のキングを撫でるように整える。ヒカルは白の騎士ナイトを見つめた。


 ——白の騎士。勇者。俺。L字型に跳ねる、最もトリッキーな駒。だが単体では弱い。


「最近、調子はどうかね?」


 ヒカルはポーンを二マス進める。定石通り。考えるな。安全な手を打て。


「はい。セレナ殿の指導もあり、順調です」


「それは良かった。セレナは優秀だからね」


 王が黒のポーンで応じる。目は盤を見ていない。ヒカルを見ている。


「彼女の報告書は、いつも丁寧で——正確だ」


 暖炉の薪が爆ぜた。


 ——「正確だ」。その一言の裏に、もう一つの意味がある。表面は褒めている。だが裏は——


「……ありがとうございます」


 白の騎士を動かす。手が震えないように、駒の頭をしっかり掴む。


「だが、完璧な報告書というのは——時に、何かを隠している証拠でもある」


 王の青灰色の瞳が、暖炉の灯を反射した。温度のない光。


 心臓が跳ねた。——演技を続けろ。ここで動揺したら負けだ。


「陛下?」


 首を傾げる。セレナが「解せませんね」と言う時の、わずかに眉を上げる仕草を借りた。


「いや、一般論だよ。チェスも同じでね。完璧な防御は、何かを守っている証拠だ」


 王が微笑む。父親のような笑顔。——目は笑っていない。


 ヒカルは白のビショップを動かした。まだ大丈夫だ。王は確証を持っていない。持っていたら、こんな回りくどい話はしない。


「最近、夕方に南へ出かけると聞いたが」


 王の声がさらに穏やかになった。声量が下がる時、この人の言葉は鋭くなる。二十八日間の宮廷生活で、ヒカルはそれを学んでいた。


「……訓練です。体力作りのため、走っています」


「ほう。それは感心だ」


 王が黒のポーンをもう一つ進める。駒を動かす指に迷いがない。チェスではなく——別のことに集中している。


「だが、黄昏帯たそがれたいは危険だ。魔物の活動が活発になる時間帯でね。一人で行くべきではない」


 ——黄昏帯。十七時三十分から十八時。意識が切り替わる三十分間。廃塔へ書き置きを残しに行く時間。王は知っているのか。あの三十分の本当の意味を。


「……はい」


 声が掠れた。笑顔を保て。頬の筋肉が強張り始めている。


「セレナ殿の報告では、君の体調は安定しているとのこと。安心したよ」


 ——「安定」。その言葉に薄い皮肉が乗っていた。王の口調は「安定しているはずがないだろう」と——声の裏側で言っていた。


「ありがとうございます」


 白のポーンを動かす。守りの手。攻めない。安全に。——チェスの話ではない。今のヒカルの全てが、そうだ。


「勇者召喚は、国の希望だ。だから——無理はしないでほしい。君が倒れれば、国全体が揺らぐ」


 優しい言葉。だがヒカルには父親がいない。十四日前に生まれた存在に、父親の記憶はない。王の口調が「本物」なのか「演技」なのか、判別できない。ただ——目が笑っていないことだけはわかる。


「余の前で嘘は不要だ」


 王が穏やかに言った。微笑みを保ったまま。


「はい……努力します」


「最近、傷が増えたと聞いた」


 心臓が——跳ねた。白の騎士を動かそうとした手が止まる。


「訓練で、少し」


「訓練は大切だが、過度は禁物だ。特に——」


 王の視線がヒカルの左腕へ動いた。長袖のローブで隠れている。だが王の目は布の下を見ているかのように、正確にその位置を指していた。


「闇属性の傷は、治りが遅い。余が見たいのは君の成長であって——無理ではない」


 呼吸が止まった。頭が白くなる。暖炉の音が遠くなる。


 ——見えている。傷の位置も属性も。セレナは改竄かいざんしているはずだ。なら——セレナ以外の目が、俺を見ている。


「……気をつけます」


 自分でも驚くほど平坦な声が出た。レインの声だ。書き置きを読みすぎた日に出る、冷たい声。無意識にレインの口調を模倣していた。


 王の眉が——微かに動いた。0.5秒だけ。


「そうしてくれ。セレナも心配しているだろうからね」


 「セレナも」の発音に圧力があった。セレナがヒカルの側にいることを示し、同時に——セレナもまた王の管理下にあることを示唆している。


 ヒカルは白の騎士を動かした。L字型に跳ねる。だが着地点が悪い。孤立した位置。支援する駒がない。


 王が黒のルークで退路を塞ぐ。


「騎士は特殊だ。他の駒には真似できない動きをする。最も自由な駒だ。——だが」


 王が盤面を指した。白の騎士が黒のルークとビショップに挟まれている。


「自由であるがゆえに——孤立しやすい。支えがなければ、すぐに取られる」


 ——全部、比喩だ。騎士はヒカル。孤立は今の立場。支えがなければ取られる——王の庇護がなければ排除される。


 黒のクイーンが動いた。一手で盤面の主導権が移る。


「チェックメイトだ」


 白のキングが詰んでいた。いつ——いつ詰んだのか見えなかった。王の言葉に意識を向けすぎて、盤面が追えなかった。


 ——それも、計算のうちか。


「……負けました」


「君は善戦した」


 王が白の騎士だけを手のひらに載せ、盤の端——ヒカルの側にそっと置いた。


「だが、騎士は孤立すると脆い。支えが必要だ。——覚えておいてくれたまえ」


「……はい」


「無理はしないように。君が倒れれば——国が困る」


 ヒカルではなく、国が。その一語が全てを物語っていた。


 立ち上がる。足が震えそうになる。騎士式の礼。扉に向かう。背中に——品定めの視線を感じる。


「ヒカル殿」


 振り返った。王が暖炉の灯りの中で微笑んでいた。


「白の騎士は——黒の陣地にこそ、力を発揮する。覚えておきなさい」


 意味を飲み込む前に、ヒカルは一礼して退室した。




 廊下に出た瞬間、笑顔が剥がれた。


 壁に手をついた。背中が冷たい汗で濡れている。


 セレナが廊下の角に立っていた。手帳を胸に抱えて待っていた。ヒカルの顔を見た瞬間、紫の瞳が揺れる。


「ヒカル様——」


「大丈夫。大丈夫だ、セレナ」


 笑顔を作ろうとした。——できなかった。


「……お茶、持ってきましょうか」


 セレナの声が0.5度下がった。心配している時のトーン。


「いや、いい。少し部屋で休む」


 足が重い。背中がまだ冷たい。——あの人は知っている。全部じゃないかもしれない。でも、何かが「おかしい」ことは確実に掴んでいる。




 自室。扉を閉め、鍵をかけ、背中を扉に預けて座り込んだ。


 手が震えていた。


 机の上の紙を取る。羽根ペンを握る。手が震えて、最初の一画がぶれた。


 ——書き置き。一日で一番楽しみな時間。だが今は——助けを求めている。


『レイン。人間の王が俺を疑ってる。


チェスをしながら、ぜんぶ見透かされてた気がする。最初から最後まで比喩だった。俺が騎士で、孤立してて、支えがないと取られるって。


傷の位置も属性も知ってた。セレナの報告書に書いてないはずなのに。別の誰かが見てる。


「黄昏帯は危険だ」って言われた。あの時間のことを知ってるのか?


セレナの報告も疑ってる。「完璧な報告書は何かを隠してる証拠」って。あれ一般論じゃない。


最後に「白の騎士は黒の陣地にこそ力を発揮する」って。俺が魔族側に行ってること、知ってるのか?


こっちも大変だ。どうすればいい?


追伸: 手が震えて字が汚い。ごめん。——H』


 紙を置いて、机に突っ伏した。夕闇が窓から差し込んでいた。あと三十分で切り替わる。


 廃塔に行かなければ。書き置きを置きに。——レインが何か書いてくれる。あの事務的な本文と、やたら長い追伸で。それだけで、少し楽になれる。




 闇のインクは、暗がりの中でも読める。


 レインは廃塔の石段に腰を降ろし、ヒカルの書き置きを読んだ。丸い字。紙が凹むほどの筆圧。途中から字が乱れている——手が震えていたのだろう。


「……はあ」


 ——マジでめんどくせえ。


 人間の王が動いた。想定より二日早い。蒼馬の「ゲーム理論」で計算した予測では召喚後四十五日前後。だが四十二日目。灰嶺砦の戦闘で魔族の運用変化にセレナ以外の誰かが気づいたか、闇属性の傷の残留を王直属の解析官が検出したか。


 どちらにせよ、王は泳がせている。確証がないから。確証があれば拘束する。チェスなどしない。——まだ間に合う。


 レインは闇のインクを浸した羽根ペンを走らせた。


『了解。国王の疑惑。想定済み。対策を三つ書く。


一、疑惑は否定するな。肯定もするな。曖昧を維持しろ。王は確証がないから泳がせている。確証を与えるな。「知りません」「そうでしょうか」で受け流せ。ゲーム理論で言う情報の非対称性を維持しろ。要は「わからない」状態が一番相手を動けなくする。


二、セレナを孤立させるな。彼女が報告書を改竄している限り、王の情報は不完全だ。お前がセレナとの信頼を壊せばセレナが正直な報告を始める。そうなれば終わりだ。セレナに頼れ。頼ることは弱さじゃない。戦略だ。


三、「希望の象徴」を演じ切れ。ただし完璧すぎるな。王の言葉を借りるなら「完璧な防御は何かを隠してる証拠」だ。七割の完成度で止めろ。人間は不完全な人間を信用する。お前は演技が上手すぎるから疑われてる』


 ペンが止まった。三つ書いた。本文は以上。——以上のはずだ。


 だが手が動いた。追伸を書き始めている。大学のレポートで脚注の方が長くなった悪癖。


『追伸1: 傷を隠せ。闇属性の残留魔力は解析魔法で検出可能だ。光属性の微弱な魔力を上書きすれば残留は薄まる。聖光剣の出力を極限まで絞って傷口に当てろ。痛いが死にはしない。


追伸2: 夕方の外出に別の理由を作れ。「訓練」では弱い。毎日同じ時間に同じ方向へ向かう訓練などない。「瞑想の習慣」にしろ。嘘は細部で真実になる——実際にやれば、嘘じゃなくなる。


追伸3: チェスで負けたのは正解だ。王に勝つな。王は自分より強い駒を警戒する。適度に善戦して負けろ。シグナリングという概念だ。お前にはわからんだろうが。


追伸4: 「白の騎士は黒の陣地にこそ力を発揮する」はチェスの格言。意味は二つ。王がお前に「魔族陣地に攻め込め」と言っている。あるいは、お前が「すでに黒の陣地にいる」と疑っている。後者なら危険だが確証はないはず。一つ目の解釈で受け取ったふりをしろ。


追伸5: セレナの改竄に王は気づいている可能性が高い。だが処分しない。「恋するがゆえに勇者を庇う」なら「予測可能な裏切り」だ。予測可能な裏切りは放置する方が管理しやすい——飼い殺しだ。セレナにそれを伝えるかはお前が判断しろ。俺は魔王だ。人間の女の感情は管轄外だ。


追伸6: 字が汚くて読みにくかった。だが読めた。お前が震えてたのは分かった。——震えていい。震えない人間はいない。蒼馬だって震えた。震える手でもペンは握れる。文字は書ける。お前はそうした。それで十分だ。


以上。死ぬな。——R』


 追伸が——六つになっている。本文より長い。いつもそうだ。止められない。


 窓の外で星が瞬いていた。北辰のほくしんのかんむりの七つの星。


 ——敵に戦略を教わる勇者。世界一おかしい関係だ。


 魔王が勇者に政治の生き延び方を指南している。対策を三つ——いや九つ書いている。馬鹿みたいだ。だがこの書き置きが唯一の繋がりだ。同じ体を共有しているのに、顔を合わせたことがない二人の。


 追伸6を消そうか迷った。「震えていい」なんて、魔王が書く言葉じゃない。


 三秒。五秒。


 消さなかった。


 塔を出た。灰嶺砦へ向かう。ヒカルを守るために——魔王軍を動かす。人間の王の駒にされないように。白い騎士が盤上で孤立しないように。


 矛盾だ。全部、矛盾だ。だが——この物語は、最初から矛盾でしかできていない。

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