第17話: 兵站の魔王
三十八日目の夜。レインは地図を睨んで、静かに絶望していた。
絶望の対象は敵ではない。味方だ。
夜城ノクターンの作戦室。黒曜石の長卓に広げられた革の地図は、黄昏帯とその南北の戦線を描いている。だがレインの目は地図の中央——灰嶺砦と夜城を結ぶ補給路に釘付けだった。
ヴェルデが対面に立ち、ガルムが壁に背を預けて腕を組んでいる。幹部会議。出席者はこの三人だけ。
「現状を報告しろ」
レインの声は低い。魔王の声。歴代の記憶から借りた、余分を削ぎ落とした声。
「はい。灰嶺砦の兵糧は残り六日分。補充要請が昨夜届きましたが、輜重隊の到着は最短で四日後です」
ヴェルデの報告は簡潔だった。
「つまり、二日分の空白が生じると」
「左様です。前代の時代から、補給路は夜城からの一本道を使用しております。距離にして約三十キロ。途中に中継拠点はありません」
レインは地図の補給路を指で辿った。夜城から灰嶺砦まで、一本の線。蛇行し、谷を迂回し、無駄に距離を稼いでいる。
——マジでこれかよ。
内心の声は完全に現代日本語だった。蒼馬の声。大学の経営学概論で初めてサプライチェーンの講義を聞いた時と同じ声。
二千年だぞ。魔族は二千年この世界で戦ってきて、補給路が一本道の一系統。中継拠点なし。在庫管理の概念なし。需要予測なし。
人間の歴史なら、ナポレオンの時代にはすでに兵站の重要性が認識されていた。アレクサンダー大王に至っては紀元前の時点で補給拠点を計画的に配置していた。
二千年あったのに。
「ガルム」
「おう」
「灰嶺砦の兵は何をしている」
「は? 守ってるに決まってるだろ。勇者が攻めてくるからな」
「守る以外の時間だ。戦闘がない時間に何をしている」
ガルムが眉を寄せた。質問の意味がわからない、という顔。
「……待ってる。次の戦闘を」
「待っている間の食料消費量は」
「知らねえよ。腹が減ったら食う。それだけだ」
レインは目を閉じた。三秒。五秒。
蒼馬の記憶が溢れそうになる。経営学。在庫管理。リソース配分の最適化。他にも——いくつかの概念が浮かんだが、口にはできない。
全部使える。全部——この世界には存在しない。
「ヴェルデ」
「はい」
「灰嶺砦の兵員数は」
「約三百名です」
「一人あたりの一日の食料消費量は」
ヴェルデの赤い瞳が微かに揺れた。
「——記録にございません」
「計測していないのか」
「前代の時代より、配給は『十分な量を適時に』という方針でした」
「十分な量とは何だ。何を基準に十分としている」
沈黙。
レインは地図から目を上げた。
「基準がない。だから『十分な量』が人によって違う。結果として配給は過剰か不足のどちらかに振れる。過剰なら腐敗し、不足なら士気が落ちる。どちらも損失だ」
ヴェルデの指が——右の角のヒビに触れた。無意識だ。レインはそれを視界の端で捉えた。
「レイン様」
「何だ」
「——前代は、そのような計算をなさいませんでした」
静かな声だった。試す声ではない。確認する声だった。前代と同じかどうかを。
「前代は力で解決していたのだろう。補給が足りなければ力で奪い、兵が足りなければ力で補った。それが二千年の魔族の戦い方だ」
「……はい」
「非効率だ」
ヴェルデの瞳が一瞬、0.5秒だけ瞬きを増やした。
翌日——三十九日目の夜。
レインは作戦室に三枚の新しい地図を広げた。
一枚目。補給路の再設計。夜城から灰嶺砦まで、既存の一本道ではなく三本の分散ルート。各ルートの距離、地形の難易度、魔獣の出現率を数値化し、最適な組み合わせを割り出したもの。
——サプライチェーンにおけるリスク分散の基本。一本の線が切れたら全てが止まる。三本あれば一本が断たれても機能する。
二枚目。中継拠点の設置案。補給路の中間地点に二箇所、小規模な備蓄庫を設ける。これにより輜重隊の往復時間が半分になり、砦への補給サイクルが短縮される。
——これは……何と言ったか。
口が動きかけた。ハブ・アンド・スポーク。
飲み込んだ。ここで口を衝いて出てはいけない。あの時の「ロジスティクス」の二の舞になる。あの時、ヴェルデの角が——軋んだ。
「第一案。補給路の三系統化。第二案。中継備蓄拠点の設置。説明する」
ヴェルデが地図に目を落とした。長い黒髪が卓上に垂れる。指が地図の線を辿った——丁寧に。一本ずつ。
「この三本の経路は、いずれも既存の獣道を利用しています。新規開拓は不要——つまり即日着手可能」
「ああ」
「中継拠点も、この場所はかつて第九次昼夜戦争で前線基地があった跡地です。石壁の基礎が残っているため、修復コストは最小限」
「調べたのか」
「レイン様が地図に印を入れた時点で、過去の戦史を照合いたしました」
レインは一瞬、口の端が動きかけた。——この女、仕事が速い。
「三枚目を」
三枚目。これが本題だった。
兵員配置と食料配給の最適化計画。三百名の兵を戦闘要員・警戒要員・休息要員の三交代制に分け、各シフトの食料配給量を個体の体格と活動量に応じて算出した表。
——蒼馬の大学のゼミで使った、まさにそのフレームワークだ。リソース配分の最適化。線形計画法の初歩。教授の眠い声を覚えている。あの声が、今、魔王軍の兵站を動かしている。
ヴェルデの指が止まった。
「レイン様」
「何だ」
「この——『三交代制』という概念は」
角を触っていた。右の角のヒビを。指先が震えてはいない。だが触っている。
「前代にはなかった発想です」
間。
「いえ——前代『以上』の発想です」
レインはヴェルデの目を見た。赤い瞳の奥に、300年分の忠義と、その忠義の向かう先が揺らいでいる色が見えた。
ヴェルデは前代魔王を愛していた。レインはそれを知っている。歴代の記憶からではなく——ヴェルデの角を触る頻度から。前代の話をした後、必ず触る。無意識に。300年間の習慣を、指先が覚えている。
「前代と比較する必要はない。俺は俺のやり方でやる」
冷たく言った。冷たく言えた。魔王の声なら、これで足りる。
だが内心では——蒼馬が囁いていた。
——前代以上って言われても、元ネタは大学二年の経営学概論なんだけどな。
「で? それを実際にやるとどうなるんだ」
ガルムが壁から背を剥がし、地図を覗き込んだ。巨体が卓の影を作る。
「灰嶺砦の兵糧問題が解消される。補給サイクルが現状の八日から四日に短縮。兵の疲労が三交代制で三割減。実質的な戦闘可能時間が倍増する」
「倍かよ。マジか」
「計算上はそうなる。実運用で修正は必要だが、方向性は変わらない」
ガルムが左目の眼帯に手を当てた。前代魔王に潰された目。嬉しい時にも悲しい時にも触る場所。
「……力で言えば前代だ。あの人の拳はどうやっても超えられねえ」
「知っている」
「だがな、レイン様よ」
ガルムの右目——残った片目が、真っ直ぐレインを見た。
「軍を動かすのは、お前のが上だ」
重い声だった。ガルムにしては——珍しく、声量を絞った声。
「前代は力で押した。足りなきゃもっと力で押した。それでうまくいった——あの人が生きてる間は。だが補給が切れて兵が飢えた時、前代は『我慢しろ』としか言えなかった。俺たちは我慢した。前代だから我慢できた。だがそれは——」
「仕組みではなく、個人の力に依存した組織だ」
「そういう難しい言い方はヴェルデに任せるが、まあ——そういうことだ」
ヴェルデが口を開きかけ、閉じた。角を触る指が止まっていた。
「ガルム」
「おう」
「三交代制の初期運用を任せる。お前が直接、灰嶺砦の兵に説明しろ」
「はっ。わかった——いや待て。俺は説明とか得意じゃねえぞ」
「『飯が増える。休みが増える。戦える時間が増える。文句あるか』。これだけ言え」
ガルムが犬歯を見せて笑った。
「それなら言える」
四十日目の夜。
ヴェルデが退室し、ガルムが灰嶺砦へ向かい、作戦室にはレインだけが残った。
地図を見つめている。三本の補給路。二つの中継拠点。三百名の三交代シフト表。
数字の上では、完璧だった。
蒼馬の知識が——魔王軍を強くしている。
それは同時に、ヒカルの敵を強くしているということだ。
レインは首の後ろを掻いた。蒼馬の癖。自分では気づいていない。
——矛盾だ。
魔族にとって良い魔王になるほど、ヒカルとの戦争が激化する。兵站が改善されれば魔王軍の継戦能力が上がる。継戦能力が上がれば、勇者パーティへの圧力が増す。ガレスの盾に、より多くの兵がぶつかる。セレナの結界に、より組織的な攻撃が仕掛けられる。
宣戦布告の条件は「本気で戦う」ことだった。手を抜くから疑われる。だから全力で——
だが全力の「軍事改革」は、手加減の余地がない。個々の戦闘なら「殺さず退かせる」ことができる。だが兵站の改善は——構造だ。構造は「少し弱くする」ことができない。やるかやらないかの二択。
やらなければ、魔王としての怠慢。やれば、ヒカルの仲間を追い詰める効率が上がる。
レインは歩いた。作戦室を出て、夜城の回廊を。闇に沈む石の廊下。窓の外は永遠の夜。星が見える——北辰の冠が北の空に瞬いている。ヒカルが三歳児の落書きみたいな星座図を書いた、あの七つの星。
——あの馬鹿は、俺が軍を強くしたことを知ったらどう思う。
足が止まった。
知っている。知るだろう。次の戦闘で、人間側は魔族の動きが変わったことに気づく。補給線が安定し、兵の交代が円滑になり、砦の防衛力が上がる。セレナの解析眼はそれを見逃さない。
ヒカルは——書くだろう。あの丸い字で。感嘆符をたくさんつけて。「お前の軍、強くなってないか!?」と。
レインは回廊の窓辺に寄りかかった。闇の風が髪を揺らした。
蒼馬の記憶が一つ、浮かんだ。大学の食堂。友人との会話。「お前さ、テスト勉強教えてやったら、そいつに成績抜かれたんだけど」「いいじゃん。お前も成績上がっただろ」「そういう問題じゃねえよ」
……そういう問題だ。
教えた相手に抜かれるのが嫌なら、教えなければいい。だが教えなければ、自分も上がらない。
魔王軍を強くしなければ、魔王としてのレインは価値がない。価値がなければ、ガルムが牙を剥く。ヴェルデの忠義が揺らぐ。玉座を失えば、この体は夜に居場所をなくす。
ヒカルの居場所を守るためにも——レインは魔王でなければならない。魔王であるためには——ヒカルの敵を強くしなければならない。
矛盾の螺旋。どこまで行っても出口がない。
だから。
「——お前が強くなればいい」
声に出した。誰もいない回廊で。闇に吸い込まれる声。
簡単な話だ。俺が魔王軍を最適化する。お前は勇者として、その最適化された軍を上回ればいい。俺が作った仕組みを、お前の力で壊せ。壊す過程で、お前は強くなる。
蒼馬の記憶にある言葉が浮かぶ——切磋琢磨。
互いに磨き合う。互いに削り合う。同じ体を共有する二人が、互いの陣営を強くすることで、互いを強くする。
矛盾だ。
だが俺たちは、最初から矛盾でしかできていない。
廃塔。五時三十分。
夜が薄れ始めている。闇の魔力が指先から退いていく。黄昏の三十分が近い。
レインは石段に座り、手帳を開いた。
ヒカルの書き置きがあった。丸い字。紙が凹むほど力を入れた筆跡。——戦争を始めてから、こいつの字はさらに力強くなった。
『報告: 灰嶺砦の人間側前線、補強完了。ガレスが張り切ってる。
報告2: セレナが「最近の魔族の動きが変わった」って言ってた。お前、何かしたか?
追伸: お前の軍が強くなりすぎたらどうする? 俺の仲間が押されてるんだけど!
追伸2: でも戦ってて思ったけど、魔族の兵の動きが前より「合理的」になった気がする。前は力任せだったのに。これってお前のせいだろ。
追伸3: あと飯の件。魔族の食事って本当に塩と肉の煮込みしかないの? 2000年で? 信じられない。
追伸4: 水筒は補充した。感謝しろ。——H』
セレナが気づいた。予想通りだ。あの女の解析眼は、魔王軍の運用変化を数値で捉える。
そしてヒカルも気づいている。「合理的になった」。お前にそれがわかるのかと思いかけて——わかるだろう。こいつは、戦闘の中で相手を見る目だけは本物だ。
レインはペンを取った。闇のインク。角張った字。一画に無駄がない——今日は、特に。
『報告: 兵站を改善した。補給路の三系統化、中継拠点の設置、三交代制の導入。
報告2: お前の仲間の盾使いに対しては、従来より組織的な攻撃が可能になる。覚悟しろ。
回答: お前の軍が強くなりすぎたらどうする、と聞いたな。答えは簡単だ。お前が強くなればいい。
追伸: 魔族の食文化について。2000年の歴史を持つ種族が塩と肉の煮込みしか生み出せなかった事実について、俺は深い遺憾の意を表明する。前代魔王は食に一切興味がなかったらしい。歴代の記憶を辿っても、レシピの蓄積がほぼゼロだ。文化的敗北と言わざるを得ない。
追伸2: 水筒は受け取った。感謝はしない。合理的な資源管理に感謝する必要はない。
追伸3: だが——ありがとう、とは言わないが、水の味は悪くなかった。——R』
書いた。消すか迷った。追伸3を。
三秒。
消さなかった。
手帳を閉じた。
空が白み始めている。東の空に、光が滲む。レインの時間が終わる。ヒカルの時間が始まる。
——お前が強くなればいい。
本心だ。
俺が作った仕組みを壊せるくらい、お前は強くなれ。俺の最適化を超えるくらい、お前の仲間は強くなれ。
そうすれば——この矛盾の螺旋は、少しだけ上に向かう。互いを削りながら、互いを高める。同じ体を使って、昼と夜で、英雄と暴君で。
切磋琢磨。
蒼馬の記憶にある言葉。だが今、レインが使った。借り物の言葉。借り物の知識。借り物の記憶。
——全部借り物だ。だがこの借り物で、俺は魔王をやっている。
意識が沈み始めた。指先から光が差してくる。闇が退く。体がレインのものでなくなっていく。
最後に一つだけ、思った。
追伸が——戦争を始めてから、確実に長くなっている。
矛盾だ。殺し合いを宣言した相手に、食文化の遺憾を書く。水の味を褒める。感謝はしないと言いながら、三行も費やして感謝する。
嘘だ。全部嘘だ。
だがもう——嘘をつくことすら、面倒くさくなっている。
意識が落ちた。
石段に、朝の光が差し込んだ。
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