第16話: 灰嶺の戦い
前に来た時は、ここで踵を返した。
灰嶺砦が見えた。朝靄の向こうに灰色の石壁が聳えている。黄昏帯の北縁、廃塔から北東に三時間の行軍。ヒカルは丘の上に立ち、眼下の砦を見下ろした。
「前は避けただろ」
横に並んだガレスが言った。短い。いつも通り短い。だが言葉の奥には「なぜ今回は違う」が入っている。ガレスの短さには、常に言葉の裏がある。
「今回は避けない」
ヒカルはそれだけ答えた。
ガレスが3秒、ヒカルの横顔を見た。いつもの3秒。嘘を見抜く時間。だが今日のヒカルは嘘をついていない。今回は本気だ。宣戦布告した。容赦しないと誓った。あの砦を——レインの部下300人が守る砦を、勇者として攻め落とす。
それが、二人の決めた生き残り方だ。
「……気をつけろよ」
ガレスが盾を背中から下ろした。ペトラ。傷だらけの塔盾。磨かれた一面が朝の光を反射した。
「行くぞ」
ヒカルは聖光剣を抜いた。刀身が淡い金色に輝く。黄昏帯の北縁——光魔力はまだ優勢だが、永遠の昼ほどではない。出力は体感で70%前後。それでも十分だ。C級魔獣を薙ぎ払う程度なら。
丘を駆け下りた。
砦が近づくにつれて、魔力の圧が変わった。
灰嶺砦の防衛結界。闇の魔力で編まれた壁が、砦の外周を覆っている。前回の偵察でセレナが「出力六割」と分析した結界だ。あの時は嵐の損傷で弱体化していた。
今は——違う。
「結界出力、九割以上。完全に回復しています」
後方からセレナの声が飛んだ。解析の瞳が紫に光っている。
「それだけじゃない。結界の術式構造が変わっています。以前は単純な球形防壁でしたが、今は——」
言いかけたセレナの声を、魔獣の咆哮が遮った。
砦の門が開いた。C級魔獣——灰鱗の角竜が三体、突進してきた。防衛部隊の先鋒。全長五メートルの角が光を弾いて灰色に光る。
「退がれ! 俺が行く!」
勇者の声。体が動いた。聖光剣の黄金の軌跡が弧を描き、一体目の角を断ち切った。返す刀で二体目の首筋を薙ぐ。三体目がヒカルの背後に回り込む——
「ペトラ!」
ガレスの盾が割り込んだ。角竜の突進がペトラの表面に激突し、衝撃波で地面がひび割れた。不動城壁。ガレスの足元が岩に食い込む。動かない。一ミリも。
「下がれ!」
ガレスが叫んだ。三体目がペトラに押し付けられている間に、ヒカルが横から聖光剣を突き入れた。金色の光が角竜の装甲を貫いた。
三体。五秒ではないが、十五秒で片づけた。
だが——問題はここからだった。
砦の第二防衛線。
角竜の後ろに並ぶ魔族兵の陣形を見た瞬間、ヒカルの足が止まった。
止まった理由を、ヒカルは正確に理解していた。
あの陣形は——ヒカルの攻撃パターンに対する完璧な回答だった。
聖光剣の斬撃は右から入る。だから右翼を厚くしている。ヒカルが正面を崩す時は必ずガレスの不動城壁を軸に左旋回する。だから旋回先に槍兵を配置している。セレナの解析魔法は後方支援型。だから後方への奇襲用に遊撃隊を潜ませている。
全部、読まれている。
知っているのだ。この陣形を作った者は。勇者の戦い方を。ガレスの守り方を。セレナの解析の射程を。全部知っている——この体で何百回も振った剣の軌道を、この体で何十回も見た仲間の戦い方を。
当たり前だ。
昨夜、レインが指示を出したのだから。
ヒカルは知っていた。昨夜の書き置きに書いた。「明日、お前の部下がいる方角を攻める」。レインが読んだ。レインが防衛指示を出した。ヒカルの攻撃パターンを全て知り尽くした男が。
これが、二人の戦争だ。
「突撃!」
声を張った。勇者の声で。
前衛部隊が砦に突入した。聖光剣が閃き、魔族兵の盾を弾く。だが弾いた先に次の盾がある。崩した陣形の裏に別の陣形がある。どこを斬っても、次の壁がある。
互いを知り尽くした戦い。
ヒカルが右に斬れば、防衛線は左に開く。ヒカルが上段を狙えば、盾が上がる。ヒカルが奇策を使えば——奇策を読まれている。
そしてヒカルも、防衛の「穴」を知っていた。レインの戦術の癖を。書き置きで何十回も読んだ戦術思考の痕跡を。だから防衛線を完全に突破されはしない代わりに、完全に止められもしない。
膠着。
攻めては退き、退いては構え直す。聖光剣が魔族の盾を弾く。弾いた先に次の盾。魔族兵が崩れる。崩れた隙間に別の兵が滑り込む。ガレスのペトラが敵の槍を受ける。槍が折れる。だが折れた槍の後ろに新しい槍が構えられる。
誰も死なない。誰も崩れ切らない。押しては引き、引いては押し——時間だけが過ぎていく。
二時間が経った。
人間側の損害——軽傷者三名。死者なし。
魔族側の損害——重傷者二名。死者なし。
戦争にしては——あまりにも被害が少なかった。
「撤退します」
セレナの声がヒカルの背中に刺さった。
冷静な声。だがその奥に、解析者の不信が潜んでいた。
「戦力差を考慮すれば、二時間の攻城戦で軽傷者三名は——異常です」
撤退行軍。丘を越えて北へ戻る。ガレスが殿を務め、ペトラを背中に負って歩いている。
「ヒカル様」
セレナが並走してきた。手帳を開いている。ペンが走っている。書きながら話す——セレナの最も危険なモード。
「あの防衛陣形は不自然です」
「……不自然?」
「的確すぎます。こちらの攻撃パターンに対して、完璧に——いえ、『完璧に近く』対応していました。結界術式の変更、兵の配置、遊撃隊の伏せ場所。全てが、まるで——」
セレナのペンが止まった。紫の瞳がヒカルを見た。
「——まるで、こちらの手を事前に知っていたかのような防衛です」
ヒカルの心臓が一拍、跳ねた。
「魔族にも優秀な指揮官がいるんだろ」
笑った。勇者の笑顔。三種類の中で最も上手い——王の前で見せる用の笑顔。
セレナのペンが、手帳の上でインクの点を作った。書きかけて書けなかった何かの痕跡。砦を迂回した日と、同じだ。
「……そうですね。優秀な指揮官」
声のトーンが下がった。0.5度ではない。1度。
セレナは手帳を閉じた。だが——閉じた手帳の下で、指が白くなるほど力を込めていた。
ヒカルはそれを見ていた。見ていて、何も言えなかった。
ガレスがペトラの面を撫でた。
「……砦、硬かったな」
独り言のように。盾にそう言った。ペトラは何も答えない。いつも通り。
「なあペトラ。俺はさ——」
何かを言いかけて、やめた。代わりに盾を背負い直した。
丘を越えた。灰嶺砦が見えなくなった。
Day 36。夜。
夜城ノクターン。
レインは玉座の間で報告を聞いていた。
「——灰嶺砦、防衛成功。勇者の攻撃は二時間で撤退。我が軍の損害、重傷者二名。死者なし」
ヴェルデの声。冷静で簡潔。報告は常に三行以内。レインが最も信頼できる声。
「勇者の攻撃パターンは、レイン様のご指示通りでした」
ご指示通り。
その言葉が、玉座の間に沈んだ。
レインは表情を変えなかった。魔王の顔。歴代魔王から借りた冷徹の仮面。
「被害を最小限に抑えた。上出来だ」
声も変えなかった。だが心の中では——蒼馬の声が小さく呟いていた。
——当たり前だ。あいつの攻撃を知っている。俺の体で振った剣だ。俺の体で走った足だ。
「おかしいだろ」
声が割り込んだ。低く、荒い声。玉座の間の右側。柱にもたれて腕を組んだ巨体——ガルムが、眼帯の奥の右目でレインを睨んでいた。
「なぜ勇者の手を読めた? まるで台本があったみてえだ」
空気が変わった。
ヴェルデの指先が、右の角のヒビに触れた。無意識に。角を触る癖。嘘を見抜く時と、動揺した時に出る癖。
「ガルム。レイン様の戦術眼を疑うのですか」
ヴェルデの声は穏やかだった。だが「穏やか」の下に、試す刃が潜んでいた。
「疑ってねえよ。感心してんだ」
ガルムが柱から背を離した。身長2メートル超の巨体が一歩前に出た。上半身の古傷が松明の光に浮かんだ。
「だが感心するほど正確すぎるんだよ、レイン様。前代ですら勇者の初撃の方向を読むのに三合はかかった。お前は——読む前から知ってたみてえに配置を出した」
沈黙。
レインは玉座の肘掛けに指を置いた。冷たい石。闇の魔力が指先から染み込んでくる。
答えを考えた。1秒。2秒。
「歴代の記憶だ」
嘘をついた。
「継承祭壇から受け取った歴代魔王の戦術記憶の中に、光の勇者の攻撃パターンの傾向分析がある。今代の勇者が過去のパターンを踏襲しているとすれば——読めて当然だ」
嘘だ。歴代の記憶にそんな分析はない。ヒカルの攻撃パターンを知っているのは、同じ体で同じ剣を振ったからだ。
ガルムの右目が細くなった。
「……ふうん」
納得していない。だが追及もしない。ガルムは馬鹿ではない。馬鹿を演じる時もあるが——今は違う。今の右目は「泳がせている」目だ。追い込まず、観察する目。前代魔王に200年仕えた戦士の目。
ヴェルデが一歩前に出た。
「レイン様の戦術眼でございます。前代にも引けを取らないかと」
助け舟。だがヴェルデの指は、まだ角のヒビに触れていた。
嘘をついている時に出る癖だ——レインのことではなく、ヴェルデ自身の。ヴェルデもまた「レイン様の戦術眼」が本当の答えではないことを、知っていて言っている。
誰もが、嘘の上に立っている。
ガルムが肩をすくめた。
「まあいい。どうせ結果が全てだ。砦は守った。勇者は追い返した。——それで充分だろ」
踵を返した。巨体が玉座の間を出ていく。ドアの前で、一度だけ振り返った。
「レイン様よ。次は殴らせてくれ。防衛ばっかりじゃ、拳が鈍る」
「……検討する」
「ハッ。堅えなあ」
出て行った。
ガルムが消えた玉座の間。ヴェルデが残っている。
「レイン様」
低い声。報告のトーンではない。側近のトーン。
「ガルムの疑念は、いずれ他の四天王にも伝播します。今回の防衛があまりにも——」
「的確すぎた。わかっている」
レインは立ち上がった。玉座の冷たさが背中から離れる。
「次は精度を落とす。読みが完璧すぎると、逆に不自然だ」
「……賢明でございます」
ヴェルデの声が微かに揺れた。0.5秒。角のヒビから指が離れた。
レインは玉座の間を出た。控え室へ向かう廊下。闇に沈んだ石壁。松明の光が揺れている。
首の後ろを掻いた。蒼馬の癖。直らないバグ。
——マジで危なかった。
内心は完全に現代日本語だった。ガルムの目が怖かった。あの男は力で物事を測るが、力以外のものも見えている。「台本があったみてえだ」——比喩のつもりだろうが、比喩ではない。台本はある。書き置きという台本が。
控え室に入った。ドアを閉めた。
手帳を取り出した。ヒカルの書き置き。丸くて大きな字。今日も紙が凹んでいる。力が入りすぎだ、毎回。
本文は短かった。
『砦、攻めた。落とせなかった。お前の防衛がうますぎる。いつか殴る。——H』
追伸が本文の三倍あった。いつも通りだ。
『追伸: お前の部下の角竜、強かった。あの装甲どうなってんだ。
追伸2: セレナが疑ってる。「防衛が的確すぎる」って。あいつの目は誤魔化せない。やばい。
追伸3: ガレスは何も言わなかった。あいつはいつも何も言わない。それが一番怖い。
追伸4: あと、お前の仲間のでかいやつ。拳で戦うやつ。名前知らないけど、砦の上から見てた。あいつ絶対強い。ガレスと戦ったら面白そう。——H』
レインはペンを取った。角張った字。闇のインク。
本文を書いた。
『報告: ①灰嶺砦防衛完了。損害は許容範囲。②ガルムが疑念を示した。「なぜ勇者の手を読めた」。歴代の記憶と回答。保留中。③次回は防衛精度を意図的に下げる。——R』
ペンが止まった。
追伸を書かないつもりだった。宣戦布告したのだ。戦争中に追伸を書いている場合ではない。
ペンが動いた。
『追伸: お前の仲間の盾使い。マジで硬えな、あの盾。不動城壁とかいう技だろ。ガルムに殴らせたら面白そう。つか殴りたい。——R』
書いてしまった。
ヒカルの追伸4を読んだ瞬間、勝手に手が動いた。「拳で戦うやつ」——ガルムだ。ヒカルはガルムの名前を知らない。レインはガレスの名前を知っている。書き置きで何度も出てきたから。
同じことを考えていた。
ガレスとガルム。盾と拳。人間側の壁と魔族側の砲。戦ったら面白い——二人とも、そう思った。
もう一行。
『追伸2: セレナの分析能力は脅威だ。対策を考える。お前も妙な動きをするな。あの女に動体パターンを取られるぞ。——R』
もう一行。止まらない。
『追伸3: 「いつか殴る」とか書くな。殴るなら昼のうちに殴れ。切替後に打撲が残ると俺が痛い。——R』
もう一行。
『追伸4: でかいやつの名前はガルム。四天王筆頭。200歳。拳で山を砕く。お前の盾使いと戦わせたらたぶん引き分ける。殴りたいとか言ってた。——R』
ペンを置いた。置こうとして、もう一行書いた。
『追伸5: 殴るな。あいつは俺の友達だ。——は冗談だが、損害出すと面倒だ。合理的判断で自重しろ。——R』
「友達だ」を書いて、消そうかと思った。3秒。消さなかった。
嘘だ——いや、嘘じゃない。ガレスは友達ではない。ヒカルの友達だ。でもヒカルの書き置きを何十回も読んで、ガレスの「気をつけろよ」やペトラとの会話を何度も目にして——ガレスという名前が、文字以上の何かになっている。
手帳を閉じた。
明日の朝、ヒカルがこれを読む。「殴りたい」を読んで怒るだろう。「友達だ」を読んで笑うだろう。「合理的判断で自重しろ」を読んで「また合理的判断かよ」と突っ込むだろう。
全部わかる。あいつの反応が。
——互いを知りすぎている。
書き置きの追伸で、防衛陣形で、攻撃パターンで。戦場でも追伸でも、二人は互いを読み合っている。
だからこそ被害が最小限で済む。
だからこそセレナが疑い、ガルムが嗅ぎつける。
二人が上手くやればやるほど——不自然さが際立つ。
レインは控え室の窓から外を見た。永遠の夜。星が見える。北辰の冠が七つの光を灯している。ヒカルが下手な絵で描いて送ってきた星座。三歳児の落書きみたいな星座図。
——明日も戦争だ。
明日も全力で防衛する。全力で勇者を退ける。全力で——あの馬鹿の攻撃を読み切る。
そして夜になったら、追伸を書く。ガレスとガルムの話を。角竜の装甲の仕組みを。セレナへの対策を。
戦争と追伸。
矛盾している。
だが——この矛盾を手放したら、二人は何者でもなくなる。
手帳をポケットにしまった。
明日の朝、ヒカルが読む。ガルムが「殴りたい」と言っていたことを。ヒカルは怒るだろう。「殴るな、あいつは俺の友達だ」と書き返すだろう。
レインはもう、ヒカルの返事を知っている。読む前から。
——互いを知りすぎた戦争。
世界で一番近い距離で。世界で一番被害の少ない戦争。
それが、二人の宣戦布告の——最初の答えだった。
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