第15話: 戦争の朝
昨日、戦争を始めた。
朝。廃塔。Day 34。ヒカルは石段の上で目を開けた。
最初に見えたのは天井の罅割れだった。いつもと同じ朝の光。いつもと同じ石の冷たさ。——だが、いつもと同じではなかった。
体を起こした。背中が痛い。石段で寝ると毎朝こうだ。
手帳を取り出した。
レインの書き置き。角張った字。いつも通り簡潔な本文——のはずが、今日は少し違った。
『報告:
①宣戦布告は成立した。本日より両軍は完全な敵対状態に移行する。
②夜城の配置を変更。詳細は書かない。お前に教える義理はない。
③水筒は補充した。矛盾していると思うなら思え。
追伸: 昨日の黄昏対話の内容は記録に残さない。あれは——戦略会議だ。感情ではない。
追伸2: 食料も追加した。パンと干し果物。合理的判断だ。お前が腹を空かせて倒れたら俺まで倒れる。
追伸3: 虹の約束は有効のままだ。戦争とは無関係の事項として管理する。——R』
ヒカルは手帳を見つめた。
宣戦布告の翌朝に。水筒を補充して、パンを置いて、虹の約束は有効だと書く。
——こいつ、やっぱりこうだ。
笑った。声は出さなかった。嬉しいのか呆れているのか安心しているのか、全部が同時にあって絞れない。
地下室に降りた。水瓶の横に新しい水筒。その隣にパン。干し果物。レインの几帳面さが伝わる配置で、石棚の上にきちんと並んでいた。
水を飲んだ。パンを齧った。レインが置いたパンを食べながら、レインの軍を潰す作戦を考える。矛盾している。だが昨日、この矛盾を生きると決めた。
水筒を腰に提げた。廃塔を出た。
光都ソレイユ。7時10分。
いつもより10分遅い。宣戦布告の重さが、一晩寝ても消えていなかった。
城門をくぐった。永遠の昼の光が全身を包む。指先に力が満ちる。勇者の体。
廊下でセレナとすれ違った。
「おはようございます、ヒカル様。……十分遅刻ですよ」
いつも通り。ペンを耳にかけ、手帳を胸に抱えている。目の下の隈はいつもより濃い。
「悪い。ちょっと寝坊した」
「寝坊、ですか」
セレナの声のトーンが微かに下がった。あの日の追及——「毎夕方、南へ向かわれますよね」——以来、直接的な質問はしなくなった。代わりに、このトーンの変化で圧をかけてくる。
ヒカルは笑った。勇者の笑顔。
「今日の予定は?」
「十時から作戦会議です。新しい攻勢計画の提案が上がっています」
「わかった」
セレナは頷いて歩いていった。手帳に何かを書き込みながら。あの中に「7:10帰還。10分遅刻。声のトーンにやや疲労」と記録されているのだろう。
10時。作戦会議室。
丸テーブル。地図。赤い矢印。いつもの風景。だが今日は——ヒカルの心構えが違った。
セルジオ隊長が地図の北東を指した。
「勇者殿。灰嶺砦です」
ヒカルの指が微かに強張った。
灰嶺砦。迂回した砦。レインの部下がいる砦。嘘をついて逃げた場所。
「先月の迂回以降、魔族側は防備を増強しています。結界出力が回復し、兵力も増員が確認されました」
セレナが資料を広げた。紫の瞳が淡く光っている。
「結界出力は先月比で140%。兵力は推定350名。迂回前より強固になっています」
350名。50人増えている。レインが補強したのだ。一度迂回させたなら、次は来ると想定する。蒼馬の知識ならそう考える。
「ですが——」セレナのペンが地図を走った。「補給路に弱点があります。東の渓谷から物資を受けていますが、通路が細い。ここを押さえれば、砦は二週間で干上がります」
ガレスが盾を膝に載せたまま、小さな垂れ目でヒカルを見た。
「……前は避けただろ」
短い。いつも通り短い。だがこの一言で、会議室の空気が変わった。
「ああ。避けた」
ヒカルは目を逸らさなかった。ガレスの視線を正面から受けた。
前回は「南に魔力反応がある」と嘘をついた。セレナの解析では確認できなかった魔力反応。ガレスの3秒の目に見透かされた嘘。あの日のガレスの「気をつけろよ」が、まだ耳に残っている。
「今回は——避けない」
ガレスの目が細くなった。3秒。ヒカルの目。指。声。全部を読んでいる。
「……そうか」
それだけだった。ガレスはペトラの柄を撫でた。それ以上は聞かなかった。
セレナのペンが走った。だが今回、ヒカルは避けないと言った。——紫の瞳の奥で、何かが変わった。
「作戦を詰めましょう。灰嶺砦、東の渓谷封鎖を第一目標とします。明日の早朝出発——ヒカル様、よろしいですか」
「ああ」
声が出た。力強い声。
レインと約束した。本気で戦うと。ならば——本気で演じる。
ガレスが椅子から立ち上がった。ペトラを背中に担ぎ直した。
「飯食ったか?」
「……食った。パンと果物」
「足りねえだろ。昼、付き合え」
ガレスが先に会議室を出て行った。背中が大きい。いつもの背中だ。ヒカルが何を隠していても、何を決めても——ガレスの背中は変わらない。ペトラの傷だらけの面が、光に反射していた。
明日、灰嶺砦の魔族と戦う時、ガレスはあの盾で仲間を守る。レインの部下を、あの盾で押し返す。ガレスは何も知らない。知らないまま、全力で戦う。
それが——今は少しだけ痛かった。
午後。中庭のベンチ。
ガレスと昼飯を食った後、一人で手帳を開いていた。書き置きの下書き。
『灰嶺砦を攻める。明日の朝。お前の部下がいる場所だ。
前は迂回した。嘘をついて。
今回は迂回しない。お前が望んだことだ。俺も望んだ。——H』
書いた。読み返した。消さなかった。
追伸を書こうとして、ペンが止まった。
戦争の宣言の直後に追伸を書くのは矛盾だ。レインならそう言う。——でもレインは昨夜、水筒を補充した。虹の約束は有効だと書いた。矛盾していると思うなら思え、と。
こいつが矛盾するなら、俺も矛盾していい。
ペンが動いた。
『追伸: 水筒と飯、ありがとう。
追伸2: 明日お前の砦を攻めるけど、水筒は返さないからな。
追伸3: 今日、空が赤と青の間で光った。虹じゃないけど、きれいだった。お前も見たかった。——H』
書いた。消すか迷った。3秒。消さなかった。
——レインも追伸を消さない。消そうかと迷って、消さない。それが二人の書き置きのルールだ。書いたら残す。
17時。光都の城門。
ヒカルは走り出した。光走。南へ。
足が軽かった。おかしい。明日、敵の砦を攻めるのだ。重いはずだ。でも軽い。
答えが出たからだ。前回は答えが出なくて嘘で逃げた。仲間を騙して迂回した。ガレスの目を誤魔化した。
今は違う。全力で攻める。嘘は、もうつかない。少なくとも——戦場では。
廃塔に着いた。17時25分。石段に手帳を置いた。ページを開いたまま。
空を見上げた。赤と紫。黄昏が始まる。
18時。
レインは目を開けた。
廃塔の石段。膝の上に手帳が開いている。丸くて大きな字。いつもより筆圧が強い。紙が凹んでいる。決意の字だ。
読んだ。灰嶺砦を攻める。お前の部下がいる場所だ。今回は迂回しない。
首の後ろを掻いた。蒼馬の癖。
わかっていた。宣戦布告をした時点でこの日が来ることは計算していた。勇者が一度逃げた砦を、二度目も逃げることはない。逃げたらガレスの目が確信に変わる。
ヒカルは正しい判断をしている。レインが教えた判断だ。
——馬鹿正直な奴。
追伸を読んだ。水筒のこと。飯のこと。空が光ったこと。「お前も見たかった」。
見たかった、ではない。見られない。昼間の空を見ることは、レインにはできない。永遠に。
手帳を閉じた。影走で夜城へ。
夜城ノクターン。19時。
玉座の間。
レインは闇の玉座に座った。借り物の威厳で。
「ヴェルデ。灰嶺砦の防衛配置を変更する」
ヴェルデが進み出た。長い銀髪。額の角が微かに傾いた。
「……何か情報が?」
「勇者の行動パターンを分析した。前回の迂回は不自然だった。次は正面から来る」
嘘ではない。情報源が手帳であることを省いただけだ。
「補給路の東渓谷に伏兵を配置。砦本体の結界出力を重点化。兵站を分散させる」
蒼馬の記憶が動いている。サプライチェーン管理。大学3年の物流論の講義が——こんな場所で役に立つ。
「かしこまりました。……レイン様。前代は正面戦闘を好まれました。防衛に重点を置くのは、レイン様ならではの判断です」
角が揺れた。「前代とは違う」という確認が、ヴェルデの癖になりつつある。
「前代は前代だ。俺は俺のやり方で守る」
ヴェルデが退室した。レインは玉座の肘掛けに頬杖をついた。
——マジでめんどくせえ。前代との比較。毎日毎日。レインの判断の一つ一つが、「前代ならどうしたか」というフィルターを通される。
前代は正面戦闘を好んだ。レインは兵站で勝つ。前代は感情で動いた。レインは論理で——論理で動いている「ふり」をしている。水筒を補充するのは論理じゃない。
5時。夜城の私室。
出発前。手帳を開いた。
防衛指示は出した。ヒカルの攻撃パターンを知った上で、最適な配置を組んだ。——ヒカルも知っている。レインが備えることを。だから堂々と「攻める」と書いた。
正直すぎる馬鹿だ。
ペンが走った。
『報告:
①灰嶺砦の防衛を強化した。お前の攻撃パターンは把握している。正面から来るなら正面で受ける。
②東渓谷に伏兵を配置した。補給路を攻めるつもりなら、覚悟しろ。
③容赦しない。——R』
本文三行。簡潔。冷徹。これでいい。これが戦争の書き置きだ。感情は不要。情報だけでいい。
ペンが止まった。
——止まるな。
ペンが動いた。
『追伸: 灰嶺砦の守備隊長はドルグという鬼族だ。体が大きい。頑丈だ。盾使いのガレスと相性が悪い。力押しで来るから、横に回れ。』
——なぜ敵の攻略法を書いている。
消そうとした。消せなかった。書いたら消さない。二人の書き置きのルールだ。
『追伸2: 水筒は返さなくていい。あれは俺が使い古したやつだ。新しいのは地下室の石棚の左奥にある。そっちの方が容量が大きい。お前は水を飲みすぎる。』
——なぜ水筒の案内をしている。戦争だぞ。
『追伸3: 空が赤と青の間で光った件。それは彩雲だ。太陽光が雲の中の水滴で回折して起こる現象。虹とは原理が違う。美しいが、虹ではない。虹は雨の後に出る。あの世界に雨が降る条件は不明だが、降った時に空を見ろ。約束だ。』
——なぜ光学の講義をしている。蒼馬の知識が漏れている。また。
書き過ぎた。追伸が本文の三倍になっている。昨日より——長い。戦争を始めたのに、昨日より長い。
合理的ではない。
ペンが動いた。
『追伸4: 以上の追伸は全て合理的判断だ。敵の情報を分析して対策を練ることは戦略の基本であり、水筒の位置情報は共有資産の管理であり、彩雲の解説は環境情報の整理である。感情は一切含まれていない。——R』
全部嘘だ。敵の攻略法を教えるのは戦略じゃない。水筒の案内は資産管理じゃない。彩雲の解説は——お前が「きれいだった」と書いたから、何がきれいだったのか知りたかっただけだ。
だがもう消さない。書いたら残す。嘘も本音も全部。
手帳を閉じた。
5時20分。廃塔へ。影走。
闇の中を走りながら、考えていた。戦争の初日。本来なら書き置きは短くなるはずだ。敵に感情を見せるべきではない。追伸など以ての外だ。
なのに——昨日より長くなった。
戦争と追伸は両立しない。敵の水筒を補充する軍師はいない。敵の砦の守備隊長の弱点を教える参謀はいない。
だが——ここにいる。レインという矛盾の塊が。
廃塔に着いた。5時30分。石段に手帳を置いた。
あと30分で、ヒカルが目を覚ます。追伸の長さに——たぶん笑う。「こいつ、やっぱりこうだ」と。レインはそれを見られない。でも知っている。同じ顔だから。
数時間後、ヒカルは灰嶺砦を攻める。レインの部下を。レインが配置した伏兵を。レインが強化した結界を。そしてレインは今夜、その結果を報告で聞く。同じ手で振るわれた剣の結果を。
「合理的判断だ」は、もう二人の間では「本当は違う」という合図になりつつある。レインの書き置きの中で、一番正直な言葉は、いつも一番最後の嘘だ。
空が白み始めていた。東の端が、闇から紫に変わろうとしている。
体が重くなり始めた。5時28分。意識が薄れていく。
最後に——手帳を開き直した。追伸4の下に、一行。
『追伸5: 死ぬな。——R』
三文字。
戦争を始めたのに。追伸が止まらないのに。
この三文字だけは——嘘じゃない。
意識が沈んだ。
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