第13話: 仲間の疑念
手帳が七冊目に入ったことを、セレナは誰にも言っていなかった。
表紙には「召喚異常に関する研究ノート Vol.7」と几帳面な字で書いてある。だが中身の八割はヒカルの行動記録だ。時刻。方角。表情の変化。声のトーン。右手の甲に時折浮かぶ、闇属性のインクの痕跡。
そして——新たに追加された項目。
『毎夕方17:00、南方へ出発。砦迂回以来、例外なし。帰還なし(翌朝6:30〜7:00、北方より帰還)。16日間連続。仮説D-12: 定時巡回ではない。目的地が存在する。』
手帳を閉じた。深呼吸した。
部屋の前に立った。
ノックの音がした。
ヒカルは手帳を閉じた。レインの書き置きを読み返していた手帳を——反射的にポケットに突っ込んだ。
「どうぞ」
扉が開いた。セレナだった。
白いローブ。耳にかけたペン。目の下の隈。いつもの姿。だが今朝のセレナは——何かが違った。
手帳を抱えている。それ自体はいつものことだ。だが持ち方が違う。胸に抱えるように、ではなく、証拠品を提出するように、両手で前に差し出す形で。
「ヒカル様。一つ、確認させてください」
声のトーンが低い。観察者の声だ。日常会話のセレナではない。解析の瞳を使う前の、あの——的を定めた声。
「……なんだ?」
「毎夕方、十七時に南へ向かわれますよね」
心臓が跳ねた。
セレナは手帳を開いた。ページの端がびっしりと文字で埋まっている。小さな字。ヒカルからは逆さまで読めないが、行数だけでわかる。記録だ。何日分もの。
「砦の迂回作戦の翌日から——一日も欠かさず」
「……ああ」
「以前は『散歩』とおっしゃいましたね」
「……」
「散歩、とはもうおっしゃらないのですね」
手帳を閉じる音が、部屋に小さく響いた。
ヒカルはセレナの目を見た。紫の瞳。いつもは冷静な解析の光を宿すその瞳が——今は、揺れていた。分析者の目ではなかった。もっと生々しい、もっと近い何かを孕んだ目。
嘘をつけ。何か言い訳を作れ。訓練場の予約。魔獣の偵察。黄昏帯の地形調査。いくらでも理由は——
「……用がある。毎日、南に」
嘘をつけなかった。
口が、嘘を拒んだ。セレナの前では——もうこれ以上嘘の層を重ねることが、体の芯から無理だった。散歩。朝練。召喚酔い。もう何枚嘘を貼ったかわからない。もう一枚貼ったら、ヒカルという存在そのものが嘘の張り子になってしまう。
「何のご用ですか」
「……言えない」
「言えない」
セレナの声が震えた。
それは怒りの震えではなかった。もっと脆い振動。ガラスに入ったヒビが広がる時のような——静かで、取り返しのつかない音。
「なぜ、ですか」
「……」
「私は——ヒカル様の世話係です。監視役です。それだけではなく——」
言いかけて、止まった。手帳を胸に引き寄せた。両手がきつく表紙を握っている。指先が白い。
「……七冊です」
声が小さくなった。
「七冊、書きました。ヒカル様のことを。朝の帰還時刻。傷の位置。光属性の残留値の変動。全部、記録しました。全部——」
紫の瞳に、光が溜まった。涙ではない。涙の手前。解析者としての矜持が、ぎりぎり堤防を保っている。
「全部記録して、一つも答えが出ないんです」
沈黙が落ちた。
ヒカルの胸が痛かった。痛いのはレインの追伸を読んだ時の「きゅっ」とは違う。もっと重くて、もっと鋭い。刺されている。自分の嘘が、セレナを刺している。
「セレナ、俺は——」
「教えてください」
声が震えていた。だが目は逸らさなかった。
「教えてください、ヒカル様。あなたは毎日、南に行って——何をしているのですか。なぜ翌朝まで戻らないのですか。なぜ——なぜ、私に言えないのですか」
最後の一文に、解析者の声はなかった。
ただの、十八歳の女の声だった。
廊下に足音がした。
「セレナ」
低い声。大きな体。盾の金属がかすかに鳴った。
ガレスが、扉の外に立っていた。壁に肩をもたれて。いつからいたのか——たぶん、最初からだ。ヒカルにはわかった。ガレスの動物的直感は、揉め事の気配を百メートル先から嗅ぎつける。
「そのくらいにしとけよ」
セレナが振り返った。
「ストーンウォール卿こそ」
声が硬い。涙の気配を押し殺した後の、ぎりぎりの硬さ。
「あなたも気づいているでしょう。ヒカル様の行動の異常に」
ガレスは小さな目でセレナを見た。それからヒカルを見た。垂れた目が3秒、ヒカルの顔に留まった。
何も聞かない目。何も暴かない目。何もかも知っている目。
「……あいつが隠してんなら、理由があんだろ」
「理由が——」
「理由がわからないから聞いてんだ、って言いてえんだろ」
ガレスがセレナの言葉を先に言った。セレナが一瞬、口をつぐんだ。
「わかんなくていいこともあんだよ、セレナ」
「ありません。この世界に『わからなくていいこと』なんて——」
「ある」
ガレスの声が、一段低くなった。ふだんの呑気さが消えた。盾磨きの手を止めた時の——真剣な声。
「ヒカルが話す気になった時に、聞けばいい。それまでは——俺たちは、あいつの仲間だ。仲間ってのは、秘密を暴く奴じゃねえ」
セレナの唇が震えた。反論を飲み込んだ。何か言い返そうとして——言い返す言葉が、自分の中で見つからなかった顔。
小さく頭を下げた。
「……失礼しました、ヒカル様」
足音が遠ざかった。ローブの裾が角を曲がって消えた。
残されたのは、ヒカルとガレスだけだった。
「……ガレス」
「ん」
「ありがとう」
「礼は要らねえ」
ガレスが肩をすくめた。壁から背中を離して、歩き出した。
二歩目で止まった。
「……ヒカル」
「なんだ」
「お前が何を隠してても、俺は気にしねえ。でもな——」
振り返らなかった。大きな背中が、廊下の光に影を落としている。
「一人で背負うな。重いもんは、盾持ちに任せろ」
足音が遠ざかった。
ヒカルは一人になった部屋で、しばらく動けなかった。手帳をポケットから取り出した。レインの書き置きが見えた。角張った字。追伸。
セレナの七冊の手帳と、レインの追伸だらけの手帳。
二つの手帳に挟まれて、ヒカルはどちらにも嘘をついていない。ただ——どちらにも、本当のことを言えない。
夕方。廃塔。
手帳を開いた。セレナのことを書こうとした。ペンが止まった。
何と書けばいい。「バレた」? 「七冊の手帳を見せられた」? 「なぜ私に言えないのですか、と泣きそうな声で言われた」? ——どう書いても、あの声が文字に収まらない。
追伸だけ書いた。夕焼けの色と、パンの話と、「また明日」。——セレナのことは、一文字も。
夜城ノクターン。
戦略会議が終わった。
魔王軍の幹部たちが闇の回廊へ消えていく。ガルムの巨体が最後に退室し、重い扉が閉まった。
——ひとり残った。
ヴェルデが、席を立たない。
黒の軍服。左胸の紋章バッジ——前代魔王の紋章。右の角のヒビ。赤い瞳が、玉座のレインをまっすぐに見ていた。
レインは内心で舌打ちした。
(……来たか)
この目を知っている。ヴェルデが「テスト」をする前の目だ。紅茶か白湯か。前代の好んだ戦術を覚えているか。側近への呼称は何か。300年分の記憶を武器にした、静かな尋問。
「レイン様。失礼を承知でお尋ねします」
「許可する」
「毎晩——十八時から十九時の間、北へ向かっておられますね」
空気が変わった。
ヴェルデの声は平静だった。だがその平静さの精度が高すぎる。感情を消すために膨大なエネルギーを使っている——その気配が、レインにはわかった。
「一時間のズレ。覚醒から夜城到着まで」
指が、角のヒビを撫でた。無意識。
「初日から一度も例外なく」
「散歩だ」
レインは声を変えなかった。歴代魔王の口調をトレースした、感情のない声。
「散歩」
ヴェルデが、その一語を繰り返した。
前代魔王なら。前代なら、「散歩」とは言わなかった。前代は目的のない行動をしなかった。全ての移動に理由があり、全ての判断に戦術的根拠があった。
ヴェルデが知っている。知っている上で——尋ねている。
「前代は散歩をなさいませんでした」
一言。
たった一言が、レインの鎧に罅を入れた。
この女は300年仕えてきた。前代魔王の全てを知っている。歩き方。食事の好み。戦術の癖。深夜に詩集を読む習慣。角のヒビの意味。全部、知っている。
だからこそ——レインが「前代ではない」ことも、知っている。
「……前代と比べるのは、やめろ」
声に感情が混じった。混ぜるべきではなかった。だが——止められなかった。「前代」という言葉が引き出す感情は、蒼馬の記憶にも歴代魔王の知識にもない、レイン自身のものだった。前代になれない苛立ち。前代を知らない焦り。前代の影を纏って玉座に座っている自分への嫌悪。
「申し訳ありません」
ヴェルデが深く頭を下げた。
角のヒビに添えた指が、かすかに震えていた。レインは見逃さなかった。
「ですが——北に何があるのですか」
「何もない」
「何もない場所に、毎晩?」
沈黙が落ちた。
玉座の間に、闇の魔力がゆっくりと渦巻いている。二人の間の空気が冷たい。夜城の冷たさではない。嘘と真実の間に生まれる、関係の冷たさ。
ヴェルデの赤い瞳は——諦めていなかった。
頭を下げたまま、レインの返答を待っている。前代魔王に仕えた300年の忠義が、その姿勢に染みついている。命じられれば退く。だが命じられるまでは——退かない。
「……出過ぎました」
ヴェルデが先に折れた。立ち上がった。軍服の襟を正した。
扉に向かった。三歩。四歩。
五歩目で振り返った。
「レイン様」
「……何だ」
「前代は——秘密をお持ちでした。深夜に闇の書庫に篭られ、古い詩集を読んでおられました。私だけが知っていました」
声が変わった。参謀の声ではなかった。300年前の若い魔族の声だった。
「私は、あの秘密を暴きませんでした。暴く必要がなかったからです。前代のおそばにいれば、いずれ分かると——そう信じていたからです」
角のヒビを、最後にもう一度触った。
「レイン様のおそばにも——いずれ」
扉が閉まった。
レインは玉座に一人残された。
(……マジでめんどくせえ)
内心の言葉は蒼馬そのものだった。冷徹な魔王の仮面の内側で、20歳の男が額を押さえている。ヴェルデの目は諦めていなかった。あの女は待つ。300年待った女だ。50年間、封印の前に座り続けた女だ。「いずれ」という言葉の重さが、レインとは桁が違う。
首の後ろを掻いた。蒼馬の癖。バグ。直らない。
手帳を取り出した。
ヒカルの書き置きを読んだ。追伸しかない。夕焼けとパンと「また明日」。報告がない。問いかけもない。
——何かあった。あの馬鹿が追伸だけで済ませる時は、言葉にできない何かがあった時だ。
今夜の書き置きは——報告だけでは済まない。
翌朝。廃塔。
ヒカルは手帳を開いた。
レインの書き置き。角張った字。いつもの報告の後に——「緊急」の二文字があった。
レインが「緊急」と書くのは初めてだった。
『緊急。ヴェルデが気づいた。毎晩北に向かうパターンを把握されている。対策を考えろ。——R
追伸: お前の方はどうだ。あの書記官は鋭い。バレていないか。
追伸2: 答えは知っている。バレている。
追伸3: お前の嘘が下手なのは手帳の字でわかる。追伸でも丸分かりだ。
追伸4: ……どうする。本当に、どうする。』
四つの追伸。緊急事態なのに追伸が四つある。——いや、緊急事態だからこそ追伸が止まらないのだ。レインの追伸は感情の漏出だ。焦っているのだ。あの冷徹な書き置きの主が。
ヒカルはペンを取った。手が震えた。セレナの紫の瞳が蘇る。「なぜ、私に言えないのですか」。ガレスの背中が蘇る。「盾持ちに任せろ」。
書いた。
『セレナにバレた。ガレスも。対策を考えろ。——H
追伸: お前が考えろ。俺は嘘が下手なんだ。
追伸2: お前だって下手だろ。追伸の時点で丸分かりだ。
追伸3: セレナの声が震えてた。俺のせいだ。嘘をつくたびにあの人を傷つけてる。
追伸4: ガレスは何も聞かなかった。「理由があんだろ」って。あいつの優しさが一番痛い。
追伸5: ……どうする? 本当にどうする?
追伸6: お前の方のヴェルデって奴も——傷ついてるんだろ。たぶん。追伸の書き方でわかる。お前、焦ってる時の追伸、字が微妙に右に傾くんだよ。知ってたか?
追伸7: 知らなかっただろ。俺は知ってる。毎日読んでるからな。』
七つ。追伸が七つ。レインに追伸の数で負けたくない——ではなく、止まらないのだ。本当に止まらない。書かずにはいられない。
その晩。
レインは手帳を開いた。
ヒカルの返事。七つの追伸。——こいつは、緊急事態でも追伸が七つある。呆れる。呆れるが——追伸6を読んで、手が止まった。
『字が微妙に右に傾くんだよ。知ってたか?』
知らなかった。
焦っている時の癖を、手帳の字から読み取られている。毎日読んでいるから。——毎日、あの丸い字が、レインの角張った字を解析している。
舌打ちした。
返事を書いた。
『対策案を以下に列挙する。
①行き先を変える(不可。廃塔以外にハンドオフ地点がない)
②時刻をずらす(不可。切替時刻は固定)
③嘘の精度を上げる(不可。お前には無理だ)
④第三者を巻き込む(リスク過大)
⑤——なし。
以上。全て不可。対策はない。——R
追伸: お前の追伸6は余計だ。字の傾きを観察するな。気持ち悪い。
追伸2: ……嘘だ。気持ち悪くはない。だが、やめろ。
追伸3: やめなくていい。
追伸4: ヴェルデは——傷ついている。たぶん。あの女は前代魔王に300年仕えた。俺が前代ではないことを知っていて、それでも仕えている。その忠義に、俺は嘘で返している。
追伸5: お前のセレナと、たぶん同じだ。一番近い奴を、一番傷つけている。
追伸6: ……どうする。本当に、どうする。
追伸7: 答えが出ないまま朝が来る。お前も同じだろう。
追伸8: 同じだと思うと、少しだけ楽だ。——忘れろ。くだらない。消さない。』
手帳を閉じた。
追伸が八つ。緊急会議のはずが——追伸の応酬になっている。対策は一つも決まっていない。全て「不可」だ。行き先は変えられない。時刻はずらせない。嘘は上手くならない。
答えが、ない。
だが——レインは手帳を見つめながら、ある事実に気づいていた。
バレ始めている。セレナ。ガレス。ヴェルデ。最も近い者たちから、亀裂が入り始めている。そしてこの亀裂は、広がることはあっても閉じることはない。パターンを崩せない以上、観察者には必ず見抜かれる。
いつかバレる。
問題は「バレるかどうか」ではなく、「バレた時に何が起きるか」だ。
レインは窓の外の闇を見た。夜城の永遠の夜。星はない。雲の向こうに隠れている。
同じ時間、光都では——ヒカルも同じことを考えているだろう。手帳を握って。追伸を読み返して。セレナの震えた声を思い出して。
二人は同時に悟りつつあった。
隠し通すことはできない。ならば——。
その先の答えは、まだない。まだ出せない。だが問いだけが、二人の手帳の余白に、同じ形で浮かんでいた。
——自分たちの方から、言うべきなのか。
その問いに答えるには、まだ早い。まだ足りない。信頼が。覚悟が。そして——互いへの理解が。
レインは手帳を閉じた。首の後ろを掻いた。バグだ。直らない。
隣の頁に書いた追伸8の最後の二文字が、まだ目の裏に残っている。
——消さない。
明日の朝、あいつがこれを読む。追伸8を読んで、たぶんまた七つくらい追伸を返してくる。感嘆符をたくさんつけて。丸い字で。字の傾きまで読み取るあの異常な観察力で。
答えは出ない。でも——明日も書く。明日も読む。
それだけが、今の二人にできる全てだった。
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