3.王都に背を向けて
「ユーリ、ユーリ! 何かがわらわの衣の中に入り込んだぞ! 助けてくれ!」
「ローズ様、ただのマタの樹の果実ですよ。これは食べられるのです。試してみますか?」
「酸っぱい!」
「ええ。普通は糖を加えて、ジャムにするものです」
「糖を加えれば、美味くなるか?」
「とても美味しいですよ。平民の楽しみの一つです」
「食べてみたいな――」
◇◇◇
「あ! 痛い!」
「どうされました、ローズ様?」
「草がなぜこれほど刺さるのじゃ?」
「この草であれば、人を傷つけることはないはずですが」
「知らぬ。わらわは長きにわたり甲殻を纏っておったゆえ、触れることがこれほど痛いとは知らんのじゃ」
「私が草を踏みならしましょう」
◇◇◇
「ユーリ! 待て、速すぎる。わらわはついていけぬ……」
「ローズ様、お背負いしましょうか?」
◇◇◇
死の深淵の出口から最寄りの道路までは、それなりの距離がある。
私にとっては短い道のりだが、ローズ様にとっては、悠久の歳月を経ての遠行であった。
悠久の時を魔王の姿のまま死の深淵で過ごした彼女は、私の命を繋ぎ止めるために魔力の源を失い、脆い人の身となった。
飢えを知らず、硬い甲殻を持っていた魔王が、食事を必要とし、肌の柔らかな女性へと変わった。
不慣れなのは当然である。
私が注意を払わねばならない。
◇◇◇
私とローズ様は、道路の脇に到着した。
死の深淵の付近に他の魔物がおらず、その中に棲む魔王も洞窟から離れないため、この一帯はかえって特に安全な区域となっていた。
ここには、大都市を繋ぐ往来の激しい道が通っている。
近衛隊の馬車はすでに姿を消していた。おそらく王都へと戻っただろう。
私たちは王都から遠ざかる必要がある。可能であれば、王都を離れ、他の街へと向かう車に乗り込みたい。
私は通り過ぎる車両を観察した。
華美な装飾が施された馬車は、主人が貴族である可能性が高く、近衛兵が随伴している恐れがあるため、避けなければならない。
緩やかに進む車列が近づいてきた。実用本位の荷馬車であり、長距離を移動する商隊のようだ。
私は身を隠していた林から飛び出し、彼らに向かって手を振った。
護衛たちは即座に武器を構えたが、私が丸腰であるのを見て、それ以上の行動を止めた。
「私と連れを乗せていただけませんか? 街までで十分です! お願いします!」
護衛たちは互いに視線を交わした。車列はそのまま進んでいった。どうやら拒絶されたようだ。
「どうした?」
屈強な男が馬に乗って近づき、私の傍らで止まった。
護衛たちの反応からして、この男が商隊の頭であろう。
「私と連れを、どうか車に乗せてください」
相手は私の身なりを、上から下までくまなく観察した。私はまるで裸で晒されているような不安を感じた。
「おまえ、逃げ出した使用人か? 乗せてやったりしたら、おまえの主人から追及されるんじゃねえのか?」
商隊の頭は笑ったが、それは好意的な笑顔ではなかった。
「そんな面倒を引き受けるってんなら、相応の金が必要だぜ」
私の手元には、一銭の金もない。
「何でもします。働いて返しますから、どうか!」
「でも、人手は足りてるんだよ――」
背後でガサガサという音がし、ローズ様が隠れ場所から飛び出して私の隣に立った。
「これをつかわそう! ユーリの指定する場所までわらわたちを運び、さらに衣服と食料、飲み水を用意せよ!」
ローズ様が商隊の頭へと差し出した手の中には、真珠の髪留めがあった。
「ローズ様! それは――」
それは魔法によって創り出された、魔法が解ければ消えてしまう代物ではないのか。
「これはモナ貝の真珠じゃ。『本物』じゃぞ」
私の懸念を察したように、ローズ様は最後の言葉を強調した。
「いかに時が経とうとも、この真珠は色褪せ、光沢を失うことはない。火で炙ろうと、刃で切りつけようと、傷一つ付かぬ。わらわたちの旅費として支払うには、お釣りが来るほどであろう」
商隊の頭は真珠の髪留めを受け取り、まじまじと眺めた。
「なるほど。いいだろう。確かにこいつは相当な値打ち物に見える。モナ貝の真珠かどうかは、エグモの町に着いた後で、鑑定士に診せるとしよう」
「目的地は、エグモの町なのですか?」
「ああ、そうだ……何か問題でもあるか?」
エグモの町は、我が国と隣国の国境沿いに位置し、公式の地図には載っていない町である。
悪名高い冒険者ギルドの支部がそこにある。
身を隠す必要のある私たちにとって、あるいは最も理想的な行き先かもしれないが、同時に私にとっては最も近づきたくない場所でもある。
「『ユーリ』と『ローズ』だったか」
私が思考に沈んでいる間、商隊の頭はローズ様のことも上から下まで観察していた。
そして、突如として非常に親切な笑みを浮かべた。
「なんだ、そういうことか。早く言えよ」
えっ?
商隊の頭は顎をさすりながら頷き、そして目尻を指で拭った。
「おれはいつだって若いカップルの味方だ。身分違いの恋ってのは、苦労も多いんだろう? おれが力になってやるぜ!」
誤解だ!
「違います! ローズ様は私にとって最も大切な姫様であって、そのようなことは――」
「わらわたちは、命を共有しておるのじゃ!」
ローズ様は私の腕にしがみついた。
そうじゃない――いや、そうなのだ――だが、そういうことではない――
「説明はいらねえ! おれは全部わかってるからよ! さあ乗れ! ハンクの商隊へようこそ!」
こうして、騎士と姫は馬車に揺られ、辺境の町エグモへと向かった。
◇◇◇
ハンクさんは私とローズ様に平民の服を用意してくれた。「本物」の衣服を着ると、随分と心が落ち着いた。
荷馬車の隅にスペースを空け、クッションを敷いて私たちの座席を作ってくれた。
私は仕事を手伝いたいと申し出たが、王都から遠ざかるまでは、追手に発見されぬよう二人とも隠れていた方がいいというのが、ハンクさんの判断であった。
「貴族の令嬢と使用人の駆け落ち」という話は誤解であるが、近衛兵を避ける必要があるのは事実であるため、その提案を受け入れることにした。
こうして、私とローズ様は窓の閉まった車内に身を潜め、板の隙間から差し込む陽光だけを頼りに過ごした。
荷物を除くと、車内には私とローズ様しかいない。
「ユーリ、食事にしよう。ほら、飯じゃ!」
ローズ様がバスケットを開けた。中には飲料水と、一瓶のジャム、そしてたっぷりのパンが入っていた。
「マタの樹の果実のジャムはないかとマリーに尋ねたのだが、ないと言われてな。だが、他にならあるという。これも甘酸っぱい味じゃと聞いたぞ」
実のところ、この一日にあまりに多くのことが起こったせいか、私に食欲はない。しかし、ローズ様がパンにジャムを塗って差し出してくれた以上、拒むことなど到底できなかった。
甘酸っぱい味が口の中に広がる。私は、自分がまだ生きているのだということを、唐突に、そして強く実感した。
ローズ様は自分のパンにジャムをたっぷりと載せ、大きく頬張った。
「甘い! 今は平民でもこのような甘味が食べられるのか?」
「『今は』……ですか?」
ローズ様の言葉選びが、私の気を引いた。
「ローズ様、『以前』は平民が甘味を食べられなかったのですか?」
「ああ。昔は甘味など非常に高価なものであったぞ。糖が希少であったゆえな」
糖が大量生産され、平民の台所にまで行き渡るようになったのは、いつ頃のことだろうか。
百年前か、それとも二百年前か。
もう一つ、気になることがある。
「ローズ様、ハンクさんに渡した髪留めですが、あれは――」
「あれか。あれはわらわがまだ人間であった頃に身に着けていたものじゃ。わらわと共に、長きにわたり死の深淵に埋もれておったのじゃ」
やはりそうか。これまで感じていた違和感の説明がついた。
「魔王」について、私はこれまでただ「魔物である」と思っていた。「魔物はどのようにして生まれるのか」という問いについては、考えたこともなかった。
ローズ様は元々人間であり、そして何らかの理由で魔物へと変じ、死の深淵に棲み、魔王と呼ばれた。
その変容は、糖が普及するより前の出来事なのだ。
深く問い詰めるべきだろうか。だが、そんな昔の出来事は、今となってはもう関係のないことではないだろうか。
ローズ様は口角についたジャムを舐めとり、続けて次のパンにジャムを塗り始めた。
「異形の姿で長く生きすぎたゆえ、食べる感覚など忘れておった。美味い――」
ローズ様を守るためには、まず私が自分自身の体調を整えねばならない。
食事は必要不可欠である。
私は一切れのパンを食べ終え、次の一つを手に取った。
今後はローズ様に、もっと多くの、もっと良いものを食べさせてあげよう。私は心の中で、そう固く決意した。




