第2節(第6教場 18:55~20:00):【海の教場】深海・水中適応訓練とトラブルシューティング
荒天訓練広場から隣の海水訓練場へと移動する通路。一晩中の過酷な教場で肉体的にも精神的にもすり減っていた新入生たちだったが、シムラをはじめ、第A班から第D班に至る全員が、連帯責任という底知れぬ恐怖と強烈な緊張感に突き動かされて一秒たりとも遅れることなく集合を完了させていた。
「――遅れなかったのは、かろうじて褒めてやろう。だが、ここからが本当の地獄だ」
巨大な海水プールをバックに待ち構えていたのは、海難事故、高水圧、海洋汚染、そして水上・水中での救命救助を専門とする海のエキスパート――フカミ教官(深海 鮫次郎)その人だった。サメのように鋭い眼光を持つフカミの傍らには、引き続き黄色いAGB Biohazard Maintenanceスーツに身を包んだガモウ教官とクロサキ教官が冷徹に控えている。
フカミ教官は不敵に笑うと、手元の端末を操作し、整列している学生たちのスーツに対して指示を飛ばした。
「これより行う訓練内容を告げる! 水圧と暗黒の水中環境における絶対的な孤独と、極限下での心理的適応訓練だ!……だが、ただ潜るだけではお前らの脳ミソは鍛えられん。今からこの巨大水プールの水温を急激に低下させ、水深が深くなるにつれて容赦なく増す水圧と完全なる暗闇を味あわせてやる! 通信は一切遮断する。周囲の仲間がどこにいるかも分からない漆黒の水中世界で、自分の恐怖心と孤独に打ち勝って生き延びてみせろ! さらに、水底に沈んだ沈没船の残骸や、海難事故で荒れ狂う潮流の中を想定した重い救助ダミーの引き上げ実習も同時に課す。海の怖さ、水圧の恐ろしさを骨の髄まで知りたくなければ、自力で這い上がってこい! 全員、海水プールへ飛び込めッ!」
「「「はいっ!!」」」
迷う暇など一切ない。生徒たちは次々と凍てつくような海水プールへと身を躍らせ、一斉に深く暗い水底へと潜降していく。
――次の瞬間、視界は完全に奪われ、冷水と凄まじい水圧が新入生たちのAGB Biohazard Maintenanceスーツの装甲を重く締め付けた。
水深が深くなるにつれ、耳の奥にキィィと痛烈な水圧の負荷がかかり、ヘルメット内部のディスプレイからは外部通信のノイズがプツリと途絶えた。周囲の仲間の姿すらかすみ、完全に孤立した漆黒の水中世界へと放り出される。プールの底には、ひしゃげた巨大な沈没船の骨組みが横たわり、そこかしこに海難事故の犠牲者を模した、水を含んで数十キロにも及ぶ重い救助ダミーが沈んでいる。
「っ……! 水圧の重みが全身を圧迫する……! 通信が切れた、完全に一人だ……っ!」
暗闇の中で、オオノがパニックを起こしかけながらも必死に自分のスーツの胸元を抱え込み、冷たさで感覚の消えかけた手で身を震わせる。呼吸をするたびに肺が凍てつくような冷気に焼かれ、孤独と暗黒への恐怖で心臓の音がうるさい。救済なし――他者を助けることは厳禁のルールの中、シムラもまた単身で水底へと潜り込んでいた。
(機械の故障じゃない……。敵は水圧そのものと、視覚を奪われたこの暗黒の閉塞感だ……!)
シムラは心の中で自分を戒めながら、周囲の水流の変化と、かすかに伝わる水底の振動に神経を集中させる。システムエラーを直すのではない。視界ゼロの手探りの中、肌を撫でる水流の向きと、沈没船の鉄板が発する微かな反響音を頼りに空間を把握し、身を低くして水圧の抵抗を最小限に抑えながら前進していく。
その上で、足場が不安定な沈没船の錆びた鉄板のバリにスーツを引っかけそうになる恐怖を五感だけで躱しつつ、海底に沈む重い救助ダミーへと手探りでたどり着く。冷水でかじかむ指先でダイビングハーネスをがむしゃらに巻き付け、浮力用リフトバッグのバルブを自らの手で正確に開放して浮力を調整する。水圧の重みと冷たさが全身の自由を奪っていく中、まさに一瞬の恐怖心が生死を分かつ、純粋な心理的サバイバルそのものだった。
しかし、すべての生徒がその孤独と恐怖に耐えられるわけではなかった。水圧の重み、冷水、そして何より「誰も助けてくれない完全な暗闇」という極度のパニックから、一人の訓練生が水底のコンクリートにしがみつき、気泡を吐き出しながら動けなくなっている。
「おい、そこでお漏らししたようにモタモタしているお前ら! 水圧と暗闇ごときに屈して精神が折れたのか! 自分の恐怖心すら抑え込めず、沈んだ要救助者すら引き上げられないようなら、そのまま海の藻屑として沈んで二度と浮かんでくるな!」
プールの淵から、ヘルメットの骨伝導スピーカーを突き破るように、フカミ教官の地獄のような怒号が叩きつけられる。ガモウ教官とクロサキ教官もプールサイドから冷徹なサーチライトを浴びせ、容赦なく追い詰める。
「動け! 立て直せ! 救済の手など一切差し伸べられん! 自分の命も、そのダミーの命も、自力で掴み取ってみせろッ! 恐怖に飲まれて沈む奴はここで切り捨てる!」
その鬼気迫る叱咤に突き動かされるように、脱落寸前だった学生はガタガタと震える歯を鳴らしながらも、土壇場で自分の恐怖心をねじ伏せ、這い上がるように浮上への動作を開始した。誰もが他者を助ける余裕など無い中、己の精神力と執念だけで水底の地獄に食らいついていく。
やがて、限界すれすれの極限状態で、耳障りな訓練終了の水中ブザーが鳴り響いた。
学生たちは息も絶え絶えに、しかし誰一人欠けることなく溺死者や途中脱落者を出すことなく、全員が這うようにしてプールサイドへと這い上がってきた。
水浸しのコンクリート上に崩れ落ちるように倒れ込む生徒たちの前に、フカミ教官、ガモウ教官、クロサキ教官の3人が冷徹な足取りで歩み寄る。
「ふん……どうにか全員、這い上がってきたか。かろうじて全生還とはな」
フカミ教官が冷徹な視線を投げると同時に、ガモウが低く唸る。
「一人の脱落が全員の死を意味する『連帯責任』の恐怖と、ここで沈めば二度と浮かび上がれないという生存本能だけが、あの泥水の底で奴らの足を動かしたか。……しぶとい雑草どもめ」
実際、プールサイドに倒れ込んだ訓練生たちは、体力の限界などとうに超えていた。だが、背後から迫る恐怖と「這い上がらなければ殺される」という執念の糸が、誰一人として水底の闇へ沈むことを許さなかったのだ。
「――だが、これですべてが終わったと思うなよ。」
フカミ教官の冷酷な言葉を引き継ぐように、ガモウ教官が鋭く声を張り上げた。
「よく聞け! 次の教場は――『CBRN汚染環境下救命実習』だ! 地下鉄テロを想定した極限の閉鎖空間で、毒ガス、化学兵器、そして人為的なシステムエラーと心理的断頭台の恐怖を味わう! かつてこの国を震撼させた『地下鉄サリン事件』の悪夢と恐怖を、お前らが生身で再現し、その恐ろしさを骨の髄まで味わう覚悟はあるかッ!?」
極限の疲労と寒さで意識が遠のかそうとする中、しかし新入生たちはここで躊躇すれば何をされるか分からない恐怖と執念から、最後の力を振り絞った。
「「「ありますッ……!!」」」
今度は、疲れ果てていながらも、全員が力を振り絞って一斉に大音量の大声を張り上げた。
「よろしい! 集合場所は地下4階、地下プラントの模擬フィールド室だ! 一秒たりとも遅れるな。遅れた奴は、その場で全員まとめて処分してやる。……解散!」
教官たちの冷酷な号令の余韻を残し、新入生たちはさらなる恐怖の待つ地下プラントへと駆り立てられていくのだった――。




