第3節(第7教場 20:10~21:20):CBRN汚染環境下救命実習(地下鉄テロ想定・システムエラーと心理的断頭台)
冷たい鉄とコンクリートの匂いが充満する地下プラントの実習フィールド。そこは、市民の日常を支える地下鉄の駅構内およびプラットホームを忠実に再現した、無差別テロの模擬空間だった。
施設は、地下4階の駅ホーム、地下3階の改札・コンコース、そして地上階の街並みと避難収容区域を再現した地下2階という、三層構造になっている。
2040年代の鉄道では、過去に日本で発生した地下鉄サリン事件、東海道新幹線での放火事件や刃物による殺傷事件、京王線での刺傷・放火事件など、幾度もの惨事を教訓として、世界的な防犯体制の見直しが進められていた。
かつて1995年の地下鉄サリン事件では、被害者の救護に当たった救助隊員や医療従事者までもが二次曝露の危険にさらされた。それから半世紀近くが過ぎた2040年代、化学物質の検知、防護装備、除染システム、救命医療は飛躍的な発展を遂げていた。IALRT日本養成学校の訓練施設は、そうした過去の事件から得られた教訓と、未来の救命技術を結集したものでもあった。
駅の改札方式も大きく進化していた。切符やICカードを改札機へ投入したり、読み取り部分へタッチしたりする必要はない。
乗客が鞄やポケットに携帯している登録認証情報を、改札通路に設置されたセンサーが自動的に識別し、運賃を精算する。乗客は立ち止まることなく、そのまま通過できるようになっていた。
さらに、各改札通路には危険物検知装置やAIによる監視システムが組み込まれている。乗客の荷物や所持品から危険物の疑いが検出されれば、その情報は駅員や警備担当者、鉄道会社のセキュリティーセンターへ直ちに送信され、必要に応じて確認や警戒措置が取られる。
重大な危険が確認された場合には、セキュリティーセンターの判断により、駅構内の警報設備や避難誘導システムが連動し、必要な区域へ直ちに警告が発せられる仕組みだった。
また、テロ、火災、地震、浸水などの緊急事態が発生すると、列車の発車時刻を表示していた電光掲示板や駅構内の壁面モニターは、一斉に緊急情報表示へ切り替わる。 日本語や英語をはじめとする複数の言語で警告と避難経路が表示され、構内各所の赤い回転灯が点滅する。スピーカーからも多言語による避難放送が繰り返され、改札機は避難者を滞留させないための緊急通過モードへと移行する。
こうした安全設備の整備は、国際的な鉄道安全基準のもと、世界各国の鉄道事業者に義務付けられていた。
それでも、あらゆる事件や災害を未然に防ぐことは不可能である。
最新の防犯設備を備えた駅で、万が一、大規模な化学テロが発生してしまったらどうなるのか。その最悪の事態を再現するために設けられたのが、長野本校の地下鉄テロ模擬訓練施設だった。
地下3階の改札出口には、2040年代の世界各国で使用されている最新型の非接触通過システムを模した改札機が並んでいた。
普段なら、乗客が立ち止まることなく通り抜けられるはずの改札通路。しかし今、その一部はテロによる爆発と混乱を再現するために破壊され、金属片や模擬瓦礫が床一面に散乱していた。
微量の催涙ガス(シミュレーション用化学物質)が白く煙り、皮膚の露出していない部分にもピリピリとした刺激がまとわりついている。
天井に設置された列車の発車時刻表示板は、すでに通常の運行案内を中断していた。赤い警告画面には、化学物質の検知情報、列車の運行停止、避難経路が複数の言語で表示され、構内の至るところで回転灯が不気味な赤い光を放っている。
最新の避難誘導システムが作動しているにもかかわらず、訓練区域はすでに無数の負傷者が発生した想定の修羅場と化していた。
通常なら広い視界を確保できるAGB Biohazard Maintenanceスーツの透明バイザーも、激しい呼吸と温度差による結露で白く曇り、視界が狭まっていた。スーツの内部は熱気と冷や汗で蒸れ返っていた。
天井のスピーカーからは、
「ブーン! ブーン! 地下4階の駅のホームから毒ガスが検出されました。係のものが避難誘導と調査をしますので、指示に従って行動してください……!」
と、地下鉄テロ発生時の緊急アナウンスと、学生たちの焦りを煽る不気味な警報音が鳴り響き続けていた。
そんな不気味でうるさいアナウンスが流れる中、黄色いAGB Biohazard Maintenanceスーツに身を包んだガモウ教官とクロサキ教官が冷徹に控えている。
そしてその隣には、毒ガス、爆弾、放射能、火山ガス、そしてテローーあらゆる死の要素を熟知し、学生を容赦なく極限状態へ叩き込む爆発的な鬼教官、イオウダニ教官(硫黄谷霧生/いおうだにきりゅう)が立っていた。
今回の「CBRN 汚染環境下救命実習(地下鉄テロ想定)」を統括する総監督にして、実習全体の最高責任者である。
この実習プログラムを監修したのも、イオウダニ教官自身だった。
彼は、1995年の地下鉄サリン事件をはじめ、2015年と2018年に東海道新幹線で発生した車内放火事件や刃物による殺傷事件、2021年に発生した京王線での刺傷・放火事件など、過去の鉄道犯罪や災害対応の記録を徹底的に研究していた。
さらに、2001年のアメリカ同時多発テロ事件をはじめ、世界各国で発生した大規模なテロ事件や、それに伴う救命救助活動についても幅広く研究していた。
それらの事件で明らかになった防犯上の課題、避難誘導の困難、負傷者の救出、二次汚染の危険、警察・消防・医療機関の連携、複数の現場で同時に発生する緊急事態への対応などを分析し、化学テロ、武装した加害者への対応、大量負傷者の救命、除染、複数区画での同時対応などを組み合わせた、2040年代の総合危機対応訓練として設計したのである。
この養成学校で学ぶ学生たちの多くにとって、これらの事件は自分たちが生まれる前、あるいは幼い頃に発生した過去の惨事だった。若い教官たちの中にも、当時の現場を直接知る者は決して多くない。
しかし、時代が移り変わり、科学技術や防犯・救命救助体制がどれほど進歩しようとも、過去の事件から得られた教訓まで失わせてはならない。
だからこそ、この実習は特定の事件一つをそのまま再現するためのものではなかった。国内外で実際に発生した複数の事件から得られた教訓を統合し、次世代の救命救助隊員へと実践的に継承することこそが、その大きな目的だったのである。
各階の教官たちへの指示、任務の進行、学生の配置変更、訓練全体の査定など、すべてがイオウダニ教官の指揮のもとに行われることになっていた。
その前には、42番シムラが所属する第A班をはじめ、第B班、第C班のうち、地下4階のホーム階と地下3階の改札階を担当する学生たちが、AGB Biohazard Maintenanceスーツに身を包んだまま整列している。
今回の大規模実習に参加するのは、第A班から第D班までの約200人規模の学生たちである。学校側は訓練当日になって初めて彼らの役割を決めるのではなく、事前に学生番号、所属班、担当グループごとに、それぞれの初期配置、任務内容、使用機材、連絡手順などを通知していた。
各班には今回の実習における主担当が定められているものの、班の全員が同じ階で同じ作業を行うわけではない。
学生たちはさらに複数の担当グループに分けられ、救出、搬送、警戒、対テロ対応、除染、救命処置など、細かな役割を割り当てられていた。
そのため、この地下3階の改札口前に整列しているのは、地下4階と地下3階の担当グループのうち、ここで直接開始訓示を受ける学生たちだけだった。
ほかの学生たちはすでに、地下4階の別区画、地下3階の各通路、地下2階の地上再現エリアなど、事前に指定された持ち場についている。
各区画では黄色い防護服を着用した教官たちが学生を整列させ、装備や人数を確認していた。
改札階で行われるイオウダニ教官の訓示は、施設内の映像モニターや専用無線を通じ、ほかの階にいる学生と教官たちにも同時に中継される仕組みだった。また、今回の任務割り当ては、あくまでもこの実習でのものである。IALRT日本養成学校では、3年間の養成課程を通して同じ種類の訓練を何度も繰り返し実施し、そのたびに班や小グループ、学生ごとの担当任務をローテーションさせる。
今回、救出を担当した学生が次回は搬送を担当し、対テロ対応を経験した学生が次の実習では除染や救命処置に回ることもある。すべては、あらゆる災害現場で対応できる総合救命救助隊員を育成するためだった。
「これから、この養成学校が誇る、実戦形式の極限カリキュラム『CBRN汚染環境下救命実習(地下鉄テロ想定)』だ! かつて日本を揺るがした地下鉄サリン事件に相当する訓練を行うぞ! お前らを恐怖の毒ガスまみれにしてやる! 危険と隣り合わせだ! いやだと言うなら即死となる、ここから出ていけ! わかったな!」
と、イオウダニ教官はテロ発生時の緊急アナウンスに負けないほどの爆発的な怒号を飛ばした。
「はいっ!!」
「また声が小さいぞ! そんなことでは、お前らは毒ガスに巻き込まれて死ぬぞ!」
「はいいい!!」
イオウダニ教官は、学生たちを睨みつけたまま、さらに続けた。
「よろしい! 今日はテロリストによって毒ガスが散乱された駅のホームをはじめとする地下施設から、化学物質に汚染されて重傷を負った模擬負傷者や高価な生命維持機材を特定し、AGB Biohazard Maintenanceスーツを装着した上で安全地帯まで運び出すぞ! 一歩間違えれば自らも汚染死するから覚悟しろ! 極限の救出作戦だ!」
そこでイオウダニ教官は、手元のタブレットに表示された各階の配置図を確認した。
「お前らには事前に担当任務を通知してある! 第A班は地下4階のホーム階での模擬負傷者救出を中心に活動する! 第B班は地下3階でのテロリスト対応! 第C班は改札階での負傷者の引き継ぎと上階への搬送! 第D班は地上階を再現した地下2階での避難収容、除染、初期救命処置が主な担当だ!」
イオウダニ教官の声が一段と大きくなる。
「だが、勘違いするな! これは各班の主担当だ! 班の全員が同じ場所で同じ作業をするわけじゃない! お前らは事前に指定された担当グループと持ち場を守れ! すでにほかの階へ配置されている者も、各区画の教官の指示に従え!」
「「「はいっ!!」」」
「さらにだ! 自分の担当任務が終わったからといって、訓練が終わるわけではない! 手が空いた者、作業の引き継ぎが終わった者は、教官から次の任務を命じられる! 地下4階から地下3階へ、地下3階から地下2階へ、必要なら班の枠を越えて応援に回れ!」
イオウダニ教官は、学生たちの防護服を指さした。
「ただし、個人に課された装備トラブルや適性課題は別だ! 他人の課題を勝手に解決してやることは許さん! 救済禁止の絶対ルールを忘れるな! だが、教官の命令による共同救助、搬送、除染、機材運用などは正式な任務だ! 個人課題と共同任務を混同するな!」
さらに、無線機へ向けて怒鳴りつけた。
「各階の担当教官! 配置状況を報告しろ!」
『地下4階ホーム階、各担当グループ配置完了!』
『地下3階コンコース、搬送・警戒担当配置完了!』
『地下2階地上再現エリア、収容・除染・初期救命担当、配置完了!』
各区画から次々と報告が返ってきた。
イオウダニ教官は冷たい目で学生たちを見渡した。
「よろしい! 全班、準備はいいか!」
「「「はいいい!!」」」
「それでは――開始!!!」
イオウダニ教官が怒号を発した。その開始命令は、改札階だけでなく、地下4階のホーム、地下3階の各通路、地下2階の地上再現エリアへも同時に伝えられた。
改札階に整列していた学生たちは、それぞれの担当グループに分かれて指定された場所へ向かい、すでに各階で待機していた学生たちも一斉に任務を開始した。
この大規模な実習で行われる任務は、決してシムラたちが担当する救出活動だけではなかった。
地下4階のホームでは、別の学生グループが模擬負傷者の捜索や機材搬送を行い、地下3階では警戒、避難誘導、対テロ対応、搬送が同時進行している。
地下2階の地上再現エリアでも、各救護テントや緊急車両の周辺で、収容、除染、救命処置、医療機材の管理などが並行して実施されていた。
それぞれの場所には担当教官が配置され、学生たちの技術を厳しく査定し、怒号による指導を行い、必要に応じて別の班やグループへ応援要員を送り出している。
シムラたちが経験する出来事も、約200人規模の学生たちと多数の教官によって同時に進められる、巨大な総合救命救助実習のほんの一部分にすぎなかった。
同時に、施設の各区画では、黄色いAGB Biohazard Maintenanceスーツを着用した大勢の教官たちが動き始めていた。
手元のタブレット端末で学生の現在位置と装備状態を確認する教官。監視モニターを通して搬送経路をチェックする教官。無線で隣接区画の教官と連絡を取り合う教官。救出作業の手順を査定し、学生番号を叫びながら厳しく指導する教官。
至るところから、次々と怒号が響き渡った。
「そこの学生! 持ち場を確認しろ!」
「第C班の搬送担当! 引き継ぎ経路を確保しろ!」
「地下2階救護区画! 受け入れ態勢を報告しろ!」
こうして各区画で一斉に訓練が動き出した。事前に定められた配置も、状況に応じて教官が引き継ぎ可能と判断すれば、任務の途中で変更されることがあった。
しかし、この第3教場において、教官たちが仕掛けた真の罠は環境の厳しさではない。
「人為的なシステム改変」と「徹底的な心理的断頭台」による精神的圧迫だった。
AGB Biohazard Maintenanceスーツは、従来の化学防護服よりも関節の可動性や重量配分が改良され、救助活動に必要な動きを確保できるよう設計されていた。しかし、多数の機器を内蔵した重装備であることに変わりはなく、長時間の作業には相応の体力が求められた。
AGB Biohazard Maintenanceスーツの重装備に加え、重量のある非常用生命維持装置を両手で抱え、毒ガスの漂う中を這うように進む中、駅のホームの階へ向かっていたシムラたちの班に、その魔の手が伸びた。
『――ピピッ、ピピッ、ピピッ!』
突如、シムラのAGB Biohazard Maintenanceスーツの胸元にある制御モニターが、耳障りな警告音を鳴り響かせた。視界の端でエラーコードが赤く点滅し、スーツ内部の酸素供給バルブが強制的に絞り込まれていく。
「っ……! 酸素が……とりこめない……!?」
これまでのような自然の寒さや水圧の異常ではない。背後で監視しているクロサキ教官の手元のリモート端末によって、意図的なエラーコードが抜き打ちで送り込まれていたのだ。
「……待て、このエラーパターンの周期は……」
工業高校でメカトロニクスや制御工学の基礎を叩き込まれていたシムラの頭脳が、過酷な酸欠の中でも冷徹に反応する。これは偶発的な機械の故障などではない。外部の管制室から意図的に通信パケットを割り込みさせ、ソレノイドバルブを機械的に強制閉鎖させる不正介入コードだ。
エラーの直前に流れた特定の周波数――それこそが、この教場に用意された唯一にして最大の「頭脳戦の試練」だった。
「くそっ……外からいじられた……!」
構造の理不尽さを理解してしまったからこそ、絶望感が深く肺を抉る。シムラのフィルター流量が急激に低下し、肺に送り込まれる空気が急速に細っていく。息苦しさと本能的な酸欠の恐怖が理性を内側から食い破っていくが、シムラは震える手でスーツの外部インターフェースパネルを叩き、回路の物理的な手動バイパスを試みようと必死に足掻いた。
しかし、対応の遅れから最も苦しそうにもがいていたシムラめがけて、イオウダニ教官が冷徹な足音とともに静かに歩み寄る。
「おい! 42番シムラ! お前、どうした。スーツの調子でも悪いのか? トラブルシューティングが明らかに遅れているぞ」
もちろん、教官たちが操作したエラーであることなど、学生が口にできるはずもない。
「酸素が……っ、エラーが……解除できません……!」
「ふん、機材の初期不良だと言いたいのか? 実際の地下鉄テロや戦場の現場では、敵の攻撃や環境変化、さらには二次災害でシステムなど常に狂う! エラーが出た瞬間に対応できない無能は、そのまま毒ガスを吸って肺が焼けただれ、脳死に至るのみだ!」
イオウダニ教官はあえて手元の端末でさらに圧力を高め、シムラのスーツのバルブを容赦なく絞っていく。シムラの胸元の制御モニターが赤く点滅し、人工的に引き起こされた酸素供給エラーによって肺が激しく焼かれる。息ができない苦しみと恐怖のなかで、イオウダニ教官はスーツのバイザーの奥の冷たい目を細め、心理的断頭台の刃を振り下ろした。
「見苦しいぞ、シムラ。そんなところで泡を吹いて倒れるくらいなら、今すぐそのゲートをくぐって地上へ出ていけ!」
イオウダニ教官は、汚染区域の出口――外の世界へと続く改札出口へと通じる階段を冷酷に指し示す。
「お前のような意志薄弱なやつが、生き残れる世界じゃない。ここは、命を救う英雄の学校などではなく、一歩間違えれば全員がゴミのように死ぬ修羅場だ。……そうだ、お前の実家はどこだったか? 田舎の温かいベッドが恋しいだろう。今すぐここで『もう無理です、辞めます』と泣き叫べば、温かい飯を食わせて家に送り返してやる!」
爆発音と同じほどの怒号が響き渡る。
「……っ、ぼくは……、まだ……!」
「まだ何だ! その見苦しい執着が、お前自身を殺し、周囲の人間をも地獄に引きずり込んでいることが分からないのか!」
イオウダニ教官はさらに手元のタブレット端末を操作し、シムラのエラー音を一段と高く鳴り響かせる。
「自分で対処できないなら辞めろ! 諦めろ。ここで敗北を認めて、二度とこの敷居を跨ぐなと言っているんだ! お前のような落ちこぼれに、現場の命を背負う資格は最初からない! 苦しいか? 楽になりたいなら、その手でさっさとスーツを脱いで脱落を宣言しろ。お前一人を救うために、他の全員のペナルティーを増やすわけにはいかんのだ。さあ、どうする、シムラ!」
イオウダニ教官がシムラのスーツのバイザーの留め具に手を掛け、あえて「自分で外せ」とばかりに挑発するように引き剥がそうと圧力をかける。外のガスが少しでも漏れ入れば、激しい刺激で肺が焼けつくような苦しみが待っている。しかし、恐怖に支配された極限状態では、その甘言とプレッシャーに屈して自らスーツを脱いでしまう学生が、別の班などですでに何人か出ていた。
周囲で支援にあたり、あるいはその場に直立させられている他の第A班の学生たちは、「救済禁止の絶対ルール」と「いつ自分にそのエラーやペナルティーが跳ね返ってくるか分からない恐怖」の板挟みになっていた。
目の前でもがき苦しむ仲間の装備を修理することだけは許されない。
一歩も動けず、ただ視線を伏せてその恐怖の光景を見守るしかない。肉体的な苦痛、人為的なシステム改変、そして「お前は不要だ、今すぐ諦めて実家に帰れ」という徹底的な人格否定の怒号。
だが――シムラの指先が、スーツのバイザーに伸びかけたその瞬間、脳裏をかすめたのは、ここで脱落した者たちの冷ややかな視線でも、教官の嘲笑でもなかった。
「……ここで折れたら、あの漆黒の黒スカーフを纏う資格すら永遠に失う……!」
シムラはスーツのバイザーから手を放し、歯をくいしばってスーツ内部の配線ボックスのカバーを自らの手でこじ開けた。工業高校時代に培ったメカトロニクスと基盤回路への直感的な理解が、酸欠で朦朧とする脳を無理やり覚醒させる。
「……っはぁ……!」
非常用オーバーライドスイッチを強制的に短絡させ、教官側からのリモート強制絞り込みの制御線を物理的に焼き切る。直後、スーツのインテークから「プシュッ」と荒々しい音を立てて、濃密な酸素がシムラの肺へと一気に流れ込んできた。
「……がはっ……! はぁ、はぁ……っ!」
急激な酸素の流入にむせ返りながらも、シムラは這いつくばるように立ち上がった。
その様子を冷ややかに見下ろしていたイオウダニ教官は、不敵に片眉を吊り上げ、低く唸るような声を漏らす。
「ほう……自力で物理回路を焼き切ったか。小賢しい真似を……。だが、これで免れたと思うなよ!」
イオウダニ教官はシムラから離れ、他の教官たちとともに再びフィールド全体を冷徹な眼光で見回りながら、さらなる地獄の号令を飛ばした。
「モタモタするな第A班! 模擬負傷者を誰一人見捨てるな、模擬負傷者を誰一人取り残すな! だが、お前らのもたつきのせいで、地下4階の汚染濃度がさらに上昇した! 制限時間はあと半分だ! 模擬負傷者を一秒でも早く地上へ引き上げろ!」
「「「はいいっ!!」」」
「急げ! ぐずぐずしている暇はない!」
システムエラーの洗礼を辛うじて生き延びたシムラは、肺を焼くような痛みを押し隠し、息を整える暇すらないまま第A班の仲間たちと共に地下4階のプラットフォームへと踏み込んだ。
視界を白く染める催涙ガスの漂うホームには、テロの混乱を模した無数の模擬瓦礫と、化学物質で汚染され意識を失った数体の「模擬負傷者(ダミー人形)」が転がっている。
周囲は完全な静寂ではなく、防護服のフィルターがうねる重苦しい換気音と、天井のスピーカーからループし続ける無機質な警戒警報だけが狂おしく響いていた。
地下4階では、シムラたちの救出グループ以外にも、複数の学生グループが別々の模擬負傷者の捜索や機材搬送を行っていた。その中には、第A班に所属する学生だけでなく、事前に補助担当として指定された他班の学生たちもいた。さらに、ホームや車両の周辺では、大勢の黄色い防護服の教官たちが、それぞれの担当区画を巡回していた。タブレットを片手に装備の数値を確認する者、模擬負傷者の固定手順を査定する者、学生たちの搬送速度を厳しく監視する者。
別の区画からは、怒号が途切れることなく響いてくる。
「――第A班、何をやっている! 時間がないぞ! その負傷者の固定が甘い!」
最下層である地下4階のホーム階を巡回するイオウダニ教官とガモウ教官の爆発的な怒号が、シムラたちの背後から容赦なく飛ぶ。
「おい、そこの第A班! ぐずぐずするな! 模擬負傷者の心肺停止を見殺しにする気か! やる気があるのか、お前ら!」
ガモウ教官も鋭い眼光で学生たちの背後を巡回し、一挙手一投足を厳しく査定していた。その圧倒的な威圧感が、学生たちの焦りを極限まで跳ね上げていた。
「くそっ、重い……!」
第B班に所属し、今回の地下4階では第A班の機材搬送を支援していたタチバナが、化学防護服の蒸れと極度の疲労で足をもつれさせ、重量のある非常用生命維持装置を取り落としそうになる。
「救済禁止だ! 誰一人手を貸すな! 自分の任務に集中しろ!」
冷徹なルールが首を絞める。
タチバナに割り当てられた機材の保持と運搬は、本人の装備操作能力を測定する個人課題でもあった。助け合いたい衝動を必死に押し殺し、シムラも仲間たちも、タチバナが独力で態勢を立て直すのを見守るしかなかった。
しかし、地下4階の学生たちがそのような試練にさらされている間にも、別の区画では救出作業が続いていた。
「そこの搬送担当! 模擬負傷者の固定が終わったら地下3階へ上げろ!」
「機材担当の二名! 作業が終わり次第、隣の救出グループを手伝え!」
教官たちの指示を受け、担当任務を終えた学生が別の救出グループへ向かう一方、搬送担当の学生たちは模擬負傷者を載せたストレッチャーを地下3階へと運び始めていた。
――しかし、そこに至る地下の各フロアでも、同時並行で凄まじい修羅場が繰り広げられていた。
上の地下3階(改札階)では、第A班からバトンタッチされる形で、第C班の学生たちが汚染された模擬負傷者をストレッチャーごと引き継ぎ、地上へと続く階段へ向かって必死の形相で駆け上がっている。
「急げ、C班! 後続のガス濃度が上がるぞ! ぐずぐずしている奴は置いていく!」
C班のリーダーが怒声を上げながら、防護服の重みで足の折れかけた仲間を叱咤激励する。しかし、同じ第A班であっても、全員がそこで搬送任務を終えるわけではない。引き継ぎを終えて再び地下4階へ戻る学生もいれば、別の模擬負傷者の搬送を継続する学生もいる。教官の命令によって、上階の応援任務へ回される学生もいた。
各階の搬送状況は、担当教官たちのタブレットと監視モニターに随時表示されていた。
地下3階の改札階では、複数の黄色い防護服の教官たちがストレッチャーの引き継ぎ場所や搬送経路を巡回し、学生たちに厳しい指示を飛ばしていた。
そのうちの一人が無線機を耳元に近づける。
『こちら地下2階救護区画! 除染ラインの人員が不足している! 搬送を終えた応援要員を回してくれ!』
「了解! A班の搬送終了者から応援要員を選抜する!」
教官はタブレットに表示された各学生の任務状況を確認し、近くにいた学生たちを呼び止めた。
「搬送を終えた者は次の指示を受けろ! A班の応援要員は地下2階へ向かえ! D班の救命処置を補助しろ!」
「「はいっ!!」」」
学生たちはそれぞれの任務終了を報告し、新たな配置先へと向かっていく。
一方、別の区画では、第B班の突入担当以外の学生たちが、第C班の搬送支援に回されていた。
「B班の搬送補助! C班と合流しろ! 改札階の負傷者搬送を急げ!」
異なる班の学生たちがストレッチャーを受け渡し、次の担当区画へと走っていく。
同じ頃、地下4階のプラットホームや毒ガスが散布された想定の地下鉄車両、さらには地下3階の改札・コンコース階でも、第A班から第D班までの各班から担当を割り当てられた別の学生グループによる汚染監視と区域除染作業が、救出活動と同時並行で進められていた。
地下鉄駅の各階は、模擬負傷者の救出を続ける区画、負傷者を搬送する経路、そして搬出が完了して区域除染を開始する区画に分けられていた。汚染が残っている想定の区域でも、指定された防護装備を着用し、活動を許可された救出担当の学生たちは任務を続けている。一方、区域除染部隊は別の区画を担当し、救出班の活動や搬送動線を妨げないように作業していた。
この実習では、地下鉄サリン事件などの化学災害を想定しながらも、実際に人体へ有害な化学剤を散布することはなかった。訓練施設には、安全性が確認された模擬汚染物質や模擬ガスの演出装置、汚染濃度を再現する専用の測定システムが導入されていた。学生たちは、その測定結果を実際の化学災害における危険情報として扱い、指定された防護装備と作業手順に従って任務を遂行することになっていた。
白いAGB Biohazard Maintenanceスーツを身にまとった学生たちは、小型化された携帯式の化学物質検知器を手に、ホームの床、柱、停車中の車両の扉、座席、手すりなどを一つずつ調査していた。毒ガスが残留している想定の区域には赤い警告灯が点滅し、別の学生たちが訓練システムに表示される模擬汚染濃度の測定値を確認しながら、危険区域の境界を監視している。
測定結果は区画ごとに記録され、記録担当の学生たちが耐環境型のタブレット端末へ入力していた。入力されたデータは専用の無線通信システムを通じて各階の指揮担当教官へ送信され、汚染状況や作業の進捗が共有されていく。
地下4階では、まだ第A班や他班の学生たちが模擬負傷者の救出と搬送を続けていた。そのため、区域除染部隊は救出活動の妨げにならないよう、訓練上の汚染源の散布が停止し、模擬負傷者の搬出も完了した車両内の一部区画や、ホームの一角から順次作業を開始していた。
すぐ近くの別区画では、白いAGB Biohazard Maintenanceスーツを着用した救出担当の学生たちが、倒れている模擬負傷者を担架に固定し、指定された搬送経路へ運び出している。区域除染担当の学生たちは、その動線に立ち入ることなく、それぞれの担当区域で作業を進めていた。
救出が継続している区画と除染対象の区画は、仮設の仕切りや立入管理設備によって区別されていた。訓練施設の換気設備や排液回収設備も区画ごとに管理され、訓練用除染剤の飛散や模擬汚染物質の移動によって、隣接する救出活動区域や搬送経路に影響が及ばないように制御されていた。
さらに、救出担当の学生たちが使用する搬送経路は、汚染の可能性がある区域から救助テントの除染区画へ向かう専用動線として管理されていた。模擬負傷者や使用した救助資機材が、必要な除染を受けずに清潔区域へ持ち込まれることを防ぐためだった。
「こちら検知班!模擬負傷者の搬出が完了した車両内の指定区画、依然として模擬汚染濃度が基準値を超過!安全確認できません!」
「よし、測定位置を記録しろ! 除染班は救出が完了した指定区画から処理を開始!救出班の活動区域には勝手に立ち入るな! 搬送経路も絶対に塞ぐな!」
「はいっ!」
「返事はそれだけか! 聞こえんぞ!」
「はいいいっ!!」
黄色いAGB Biohazard Maintenanceスーツを着用した担当教官が、学生たちに激しい怒号を浴びせる。
その指示を受け、区域除染部隊の学生たちは、専用の除染剤や吸着資材、洗浄機材を使用して、汚染された想定の床面や車両設備の処理に取りかかった。除染剤は対象となる化学物質に対応したものが指定され、学生たちは安全性の確認された訓練用の模擬汚染物質を相手に、正しい処理手順を習得していく。
除染担当の学生たちが背負っているのは、AGB PharmaTechが開発した次世代型の携行式区域除染装置だった。高強度の新素材によって軽量化されたタンクには、対象となる化学物質に応じて指定された専用除染剤が充填される仕組みになっており、噴射量や残量は電子制御によって管理されていた。今回の実習では、実際の危険な薬剤に代わり、訓練用に調製された除染剤が使用されている。
さらに、この装置はAGB Biohazard Maintenanceスーツの情報システムとも連動していた。学生たちはヘルメットの透明バイザー内に表示される除染剤の残量や装置の稼働状況、検知班から共有された測定情報を確認しながら、汚染箇所の処理を進めていく。
1995年の地下鉄サリン事件で行われた除染活動を教訓として、2040年代の除染技術は、汚染検知から処理、作業記録、安全確認までを連携させるシステムへと発展していた。
訓練システムは、各区画に設定された汚染状況と学生たちの作業記録を照合し、処理の進行に応じて模擬汚染濃度の表示を更新する仕組みになっていた。しかし、測定値が下がったからといって、学生たちの判断だけで除染完了が認められるわけではない。指定された再測定と、担当教官による作業記録の確認を終えるまで、その区画は除染対象として管理され続ける。
しかし、どれほど装置が高度化しても、実際に作業するのは学生たち自身だった。
極度の緊張から、一人の学生が処理を終えていない箇所を飛ばし、次の作業へ移ろうとした。
「おい、そこの除染班!何をやっている!その部分の汚染が残ったままだぞ!」
「す、すみません!直ちに確認し直します!」
「謝罪なんぞ聞いていない!お前たちのやり方だと毒ガスの汚染は消えないぞ!汚染箇所を残したまま安全区域だと判断したら、後から入る救助隊員まで巻き添えになるんだ!」
「はいっ!!」
「ならば最初からやり直せ!除染が終わったつもりになるな!再測定までが任務だ!」
「はいいいっ!!」
学生たちは慌てて作業箇所を確認し、処理をやり直した。除染によって生じた模擬汚染物や排液は、専用の回収容器へ収められていく。
その間も、隣接する救出活動区域では模擬負傷者の搬送が続いていた。救出担当、搬送担当、汚染監視担当、区域除染担当は、それぞれの指定区域で任務を進めている。除染対象となった一部区画の立ち入りを制限しても、ほかの区画の救出活動は継続されていた。
一方、地下3階の改札・コンコース階でも、別の汚染監視グループが活動していた。そこでは第C班による模擬負傷者の搬送が続き、さらに第B班の学生たちがテロリスト役の教官を相手に突入訓練を繰り広げていた。
区域除染担当の学生たちは、それらの活動区域や搬送動線を妨げないように区画を分け、模擬負傷者の搬出が済み、ほかの訓練担当者との区画調整が完了した通路や改札機周辺で汚染状況を調査していた。第B班が突入訓練を続けている場所とは別の区域であり、第C班の搬送経路も確保されていた。
「地下3階、検知担当!測定結果はどうなっている!」
「はいっ!改札東側の指定区画、一次除染を完了!現在、再測定中です!」
「まだ終わっていないだろうが!安全確認が済むまで、その除染対象区画の立ち入り制限は解除するな!搬送班の通路は確保したままにしろ!」
「はいっ!! 測定を継続します!」
怒号と警報音が入り交じる改札階では、ストレッチャーを運ぶ学生、テロリスト役の教官に対抗する学生、そして汚染区域を調査する学生たちが、それぞれの担当任務に追われていた。
ある通路では第C班が模擬負傷者を地下2階へと運び、別の区画では第B班がテロリスト役の教官との攻防を続けている。その一方で、すでに搬出作業の終わった改札周辺では、区域除染担当の学生たちが測定と処理を繰り返していた。
いずれの活動も、別の部隊の任務がすべて終了するのを待ってから始められるものではなかった。各担当者が互いの活動状況を把握し、必要な救出・搬送経路を確保しながら、同時に任務を進めていくことも、この実習の重要な目的だった。
さらに、地下2階の地上再現区画には、IALRTの大型緊急救援車両や救急車と並んで、特殊な除染装置や測定機材を搭載した「アイアラート区域除染車」が数台停車していた。
車両の周囲では、資機材の補給、模擬汚染物の回収管理、各階から送られてくる測定データの確認に、別の学生グループが慌ただしく奔走していた。
地下2階のアイアラート特設救助テントでは、引き続き第D班や応援に回された学生たちが、白いAGB Biohazard Maintenanceスーツを着用したまま、模擬負傷者の除染、トリアージ、初期救命処置に取り組んでいた。
テント内部も汚染された模擬負傷者を受け入れる区画、除染を行う区画、初期救命処置を行う区画に分けられており、汚染物の持ち込みや二次汚染を防ぐための動線が管理されていた。区域除染車の周辺で行われている資機材支援と、救助テント内部で行われる負傷者への処置は、異なる任務として並行して進められていた。
「こちら地下4階、区域除染担当!車両の一部区画、除染作業終了!再測定を実施します!」
『了解! 測定結果を送信しろ!安全が確認されるまでは、その除染対象区画の立ち入り制限を解除するな!救出班の活動区画と搬送経路は、そのまま維持しろ!』
「はいっ!!」
各階の担当教官たちは、送信されてくる測定データと学生たちの作業報告を照合しながら、処理手順や安全判断を厳しく査定していた。
訓練用の模擬汚染物質によって安全性が確保されている場合でも、学生たちには実際の化学災害と同じように、汚染物質の種類や濃度、汚染区域の範囲、防護装備の適合性、作業による二次汚染の危険性を確認することが求められていた。実際の災害では、化学物質の性質や現場の状況によって、救出活動を優先する場所、進入を制限する場所、除染を開始できる場所が変化する。その判断を誤れば、救助隊員自身が被害を受けたり、汚染を別の場所へ広げたりする危険もある。だからこそ、この実習では一律に救助を停止させるのではなく、担当教官の指揮のもと、区画ごとの汚染状況と活動条件を判断しながら、救出と区域除染を並行して進める訓練が行われていた。
毒ガスが散布された想定の地下鉄車両や駅構内では、模擬負傷者を救出するだけで任務が終わるわけではない。救出活動と並行して汚染状況を監視し、搬出が完了した区域から順次除染を進め、安全確認を行う。後続の救助隊員たちが安全に活動できる環境を確保することも、重要な任務だった。
救出する者、搬送する者、危険区域を監視する者、汚染された設備を除染する者。担当する任務は異なっていても、すべては被害の拡大を防ぎ、一人でも多くの命を救うためにつながっていた。これもまた、あらゆる特殊災害に対処するIALRTの学生たちに課された、重要な訓練任務の一つだった。
教官たちの無線には、別の階からも新たな応援要請が入り続けていた。
任務を一つ終えることは、休息を意味しない。手が空けば、次の指示が飛ぶ。その間も、改札階の別の区画では激しい攻防が続いていた。
その他一方で同じ頃、壊れた改札機や散乱したバリケードの陰では、第B班の一部の学生たちがテロリスト役の教官たちを制圧するための突入訓練を並行して展開していた。
「動くな! 武器を捨てろ! 特殊救命部隊だ、確保する!」
第B班の突入担当リーダー、ヤマガワが叫びながら防盾を構えて飛び込む。しかし、そこに待ち受けていたのは容赦ない「敵」だった。
座学で冷徹な理論を叩き込んできた教官陣――ガンドウ教官、トドロキ教官、アイゼン教官、ライメイ教官、シンカイ教官の5人が、黒いテロリストの隠密装備に身を包んだまま、学生たちの前に立ちはだかっていたのだ。
「甘いッ! そんな中途半端な突入角度では、実戦なら最初の銃撃で全員蜂の巣だ!」
ガンドウ教官が低く重い怒号を響かせながら、学生が構えた防盾を容赦なく蹴り飛ばす。
「何をやっている! 仲間を人質に取られた状況で、そんな鈍い動きで制圧ができるとでも思っているのか!」
トドロキ教官が、テロリスト役として第B班の学生であるマルヤマの首元を模擬ナイフで捉え、冷徹に圧倒する。
「動員されたテロリストの武装解除手順が違う! 焦るな、死にたくなければ頭を使え!」
アイゼン教官の鋭い叱責が改札階のコンクリート壁に乱反射する。
さらに、通路の死角から飛び出してきたライメイ教官とシンカイ教官が、容赦なく閃光弾(シミュレーション用)を放り込んだ。
『――パーンッ!!』
すさまじい爆音と強烈な閃光が、改札階の学生たちの視界と聴覚を奪う。
「うわっ……目が……!」
「ひるむな! 任務を続けろ!」
ライメイ教官が容赦なく学生たちの背中を蹴り飛ばし、シンカイ教官が冷ややかな声を浴びせる。
「テロリストは慈悲などかけない。お前たちのその甘ったれた連携不足が、そのまま現場の民間人の死体に直結するんだよ!」
「動くな! 確保しろ!」
と怒鳴り声を上げる第B班の必死のやり取りと、教官たちの容赦ない圧倒的な暴力が、階下のホームへと重く、絶望的に響いてくる。
その激しい攻防の裏で、極限のプレッシャーは学生たちの防護スーツのシステムを再び襲っていた。地下3階の改札階には搬送・警戒・装備監督を担当する教官が幾人も配置され、それぞれの持ち場で査定を続けている。その通路を、巡回担当のクロサキ教官が冷徹に見回っていた。
「あ……っ、息が……!」
第C班の150番ムラカミの胸元で再びエラー音が鳴り響き、スーツの酸素バルブが絞られる。トラブルシューティングのパニックに陥ったムラカミは、恐怖のあまり、
「もう無理だ……!」
と絶叫しながら、自らの手でスーツを脱いでしまった。その瞬間、模擬ガスにさらされたという危険曝露判定が記録され、彼は肺が焼けるような刺激と恐怖に襲われ、その場で崩れ落ちる。
「そこまでだ! 150番ムラカミ! 脱落! 救急搬送!」
クロサキ教官の冷酷な宣告とともに、近くで待機していた救護担当の学生と教官がムラカミをフィールド外へと引きずり出すように搬送していく。また一人、仲間が訓練から脱落した。その生々しい敗北の光景が、残された学生たちのメンタルを容赦なく削り取っていった。
だが、その場だけで訓練が止まることはない。別の教官がC班の搬送経路を確保し、ムラカミの抜けた担当を補うよう無線で指示を飛ばす。テロリスト役教官との対抗訓練も、地下4階からの模擬負傷者の搬送も、同時に続いていた。
「おい、42番シムラ! お前らの班の足取りが鈍いぞ! 脱落者を出したいのか!」
地下4階から這い上がってくるシムラたちめがけ、再びイオウダニ教官の怒号が頭上から叩きつけられる。シムラは冷や汗でびっしょりになった顔を上げ、朦朧とする意識の中で歯をくいしばった。先ほどのショートで自力修復した回路の熱が、防護服越しに微かに伝わってくる。
「ここで止まったら、あの脱落者と同じだ……!」
「行くぞ……!」
シムラは仲間に声を張り上げ、周囲にいた第A班の搬送担当者たちと共に、化学汚染された模擬負傷者を再び抱え上げた。重いストレッチャーを持ち直し、瓦礫の散らばる階段を這うように駆け上がる。
地下3階の改札階では、すでに別の模擬負傷者を引き継いでいた第C班の搬送グループが次の受け入れを待っていた。シムラたちのストレッチャーも、そこでC班へと引き渡される。
「第A班から模擬負傷者、引き継ぎ!」
「C班、受け取った! 地下2階へ運ぶぞ!」
別の黄色い防護服の教官がタブレットを確認すると、搬送を終えたシムラたちに向かって怒鳴った。
「42番シムラ! お前たちは地下2階の応援に回れ! D班の救命処置班が人手不足だ! 急げ!」
「「「はいっ!!」」」
これは個人課題の救済ではない。先ほど改札階で出された応援要請に基づく、正式な追加任務だった。A班の残りの学生はそれぞれの救出や搬送を続け、シムラたち一部の学生だけが地下2階へ向かう。シムラは仲間とともに階段を駆け上がり、ついに地上階を再現した地下2階へと到達した。
そこに広がっていたのは、地下施設とは到底思えない巨大な都市の光景だった。高層オフィスビルや商業ビルが立ち並ぶ大通り。企業の看板や広告、店舗の窓、街路樹、信号機、横断歩道、道路標識――そのすべてが、実際の日本の都市と見分けがつかないほど精巧に再現されていた。地下鉄の出入口はここから地下3階の改札へと下りる構造で、階段には模擬負傷者を運ぶ学生たちが絶え間なく行き交っている。
2040年代になっても、人々の暮らす都市の外観が一斉に奇抜な未来都市へと置き換わったわけではなかった。2020年代から残る高層ビルや道路、鉄道駅は、改修と耐災害化を重ねながら使用され続けていた。一方、AIを用いた監視、緊急通信、避難誘導、救命救助の技術は建物や都市設備の内部で発達している。気候変動や大規模災害への対策が重視され、既存の街を守ることに多くの資源が費やされてきたのである。
長野本校の地下2階には、まさにその2040年代の街並みが再現されていた。建物の低層部分や道路は実物大に造られ、上層階や遠景には精巧な映像背景が組み合わされている。地上に立っているような錯覚を破るのは、はるか上方に見える巨大な人工照明天井と構造梁だけだった。
だが今、その大通りは完全な非常事態に陥っていた。車道は無数のバリケードによって封鎖され、赤い警告灯が激しく点滅している。IALRTの大型緊急救援車両、救急車、警察車両が道路沿いに連なり、複数の巨大な「アイアラート特設救助テント」が設営されていた。テントには長野本校の紋章と国際共通のIALRT標章が掲げられている。
これらの救護テントは、地下鉄のホームや改札階から次々と搬送されてくる多数の模擬負傷者を、一人でも多く迅速に受け入れるため、大通りに沿って複数設けられたものだった。
地下鉄出入口から第C班の搬送グループが模擬負傷者を載せたストレッチャーを運び出す。第D班の学生たちは受け入れとトリアージを担当し、その周囲では第A班、第B班から派遣された学生も、機材運搬や警戒、除染区画への誘導を手伝っていた。第D班に属していても別の区画で搬送を担当する者もおり、誰もが小グループごとに異なる任務を遂行している。
その動きを監督する教官の数も、地下の各階に劣らなかった。黄色い防護服に身を包んだ多数の教官が、大通り、地下鉄出口、救助車両、テントの入口や各処置列に分かれ、怒号を飛ばし、巡回し、学生の技術を査定していた。ある教官はタブレットで搬送者の人数と処置の進捗を確認し、別の教官は無線で地下3階へ追加の応援を要請している。
「そこの搬送班! 受け入れが詰まっているぞ! 別のテントへ回れ!」
「D班の除染担当! 次の模擬負傷者が来る! 受け入れ準備を急げ!」
「機材担当、二名! 作業が終わったら隣のテントを手伝え!」
教官たちはそれぞれの担当区画を指揮しながら、無線で得た情報を総監督のイオウダニ教官と訓練運営側へ報告していた。イオウダニ教官やクロサキ教官が全区画を直接見回っているわけではない。名の知られていない多くの教官たちが、各自の現場で指導、視察、判定を重ねているのである。
シムラたちにとって、目の前の光景は訓練施設の一画にすぎなかった。見えない先の区画でも、多くの学生が同じように別々の課題に取り組んでいた。
「第A班、応援要員到着!」
地下2階の担当教官がシムラたちの学生番号を確認し、救護テントを指さした。
「A班の応援要員! 第D班の処置班に合流しろ! 除染と初期救命処置を補助しろ!」
「「「はいっ!!」」」
テントの中に滑り込んだシムラたち第A班の一部は、AGB Biohazard Maintenanceスーツのまま、D班へ引き継がれた模擬負傷者の処置に加わった。すでに第C班が搬送し、D班が受け入れた模擬負傷者も次々と処置列へ回されている。
シムラたちが入ったのは、第D班が担当する大型救護テントの一棟だった。地下2階に設営されたほかのテントでも、各班の学生たちが連携し、模擬負傷者の受け入れ、除染、救命処置を同時に進めていた。
各テントの内部は、汚染された模擬負傷者を受け入れる汚染区域、汚染物質を取り除く除染区域、そして除染を終えた模擬負傷者に初期救命処置を施す清潔区域に分けられていた。区画ごとに専用の動線と救命機材が整備され、D班の担当者と応援に来た他班の学生たちが協力しながら、二次汚染を防ぐ体制が敷かれていた。
地下鉄ホームや改札階はもちろん、地下2階の模擬市街地や救護テント、清潔区域に至るまで、学生たちはAGB Biohazard Maintenanceスーツの着用を義務付けられていた。教官たちも所定の防護装備を着用したまま各区画を監督しており、清潔区域だからといって安易に防護装備を外すことは許されなかった。
その徹底した安全管理には、過去の重大な化学災害から得られた教訓が生かされていた。
1995年の地下鉄サリン事件では、被害者の救助や搬送に当たった消防職員たちにも、化学物質による二次被害が発生していた。人命を救うはずの救助者自身が汚染されるという事態を、再び繰り返してはならない。
そのためIALRTでは、2040年代の高度な防護技術を活用するとともに、訓練施設全体に厳格な汚染管理規則を設けていた。汚染区域から除染区域を経て清潔区域へ移動する際には、防護スーツの外面を除染し、汚染の有無を確認する。汚染物質を清潔区域へ持ち込まず、負傷者だけでなく、救命救助に携わる学生や教官自身の安全も守るためだった。
どれほど多くの負傷者を救出できたとしても、救助者が次々と二次被害に倒れてしまえば、救命活動そのものが成り立たなくなる。
過去の悲劇を繰り返さず、一人でも多くの命を救う。そして、救助する側の命も守る。それが、IALRTの総合救命救助教育における重要な原則の一つだった。
しかし、そんな高度な安全管理体制が整えられた救護テントの内部も、決して穏やかな場所ではなかった。
密閉されたテントの中には、汚染された想定の模擬負傷者が次々と運び込まれ、学生たちが慌ただしく処置を進めていた。教官たちの鋭い怒号が飛び交い、救命機材の作動音と学生たちの荒い息遣いが重なり合う。
シムラたちも防護スーツを着用したまま、第D班と協力して除染や初期救命処置に取りかかった。
「ストレッチャー固定急げ! 三次除染ラインへ回せ!」
「患者の気道確保! 酸素マスクの流量を上げろ!」
学生たちは密閉されたヘルメットを装着したまま、AGB Biohazard Maintenanceスーツに内蔵された双方向通信装置を通じて、互いに指示や状況を伝え合っていた。呼吸装置で鼻と口が覆われていても、内蔵マイクと受信装置によって会話ができ、周囲の学生や教官、別の処置班とも連携できる仕組みだった。
救命機材の作動音や教官たちの怒号が飛び交う中、シムラたちも通信装置から聞こえる仲間の声を頼りに、それぞれの作業を進めていく。
第D班の統率のもと、シムラたち第A班の一部も加わって、化学物質で汚染された想定のダミーの模擬負傷者の衣服を専用のハサミで切り裂き、汚染物質の拭き取りとアンチドート(解毒剤)の訓練用自動注射器による投与操作を行っていく。一瞬の迷いや手元の狂いが、実際の現場では患者の死に直結する。誰もが汗だくになり、視界の歪むAGB Biohazard Maintenanceスーツの中で必死に手を動かしていた。
しかし、その極限の野戦病院さながらのテント内にも、容赦ない魔の手は伸びてくる。地上再現区画のテント査定を担当するクロサキ教官に加え、地下から上がってきたイオウダニ教官が鋭い足音とともに踏み込んできた。
その頃、地下2階の救護区画を監督していた教官から、統括指揮系統へ新たな報告が入っていた。
『こちら地下2階救護区画! 各テントの救命処置と班同士の連携を査定するため、巡回教官の増援を要請する!』
報告を受けたイオウダニ総監督は、訓練全体の配置状況を確認すると、指揮担当の教官に新たな指示を下した。
「地下3階でテロリスト役を終えた5人を地下2階へ回せ! 各救護テントを巡回させ、学生たちの処置、連携、判断を査定しろ!」
「了解!」
指揮担当教官は無線を切り替えた。
『ガンドウ、トドロキ、アイゼン、ライメイ、シンカイ各教官! 対テロ対応任務終了後、地下2階の救護区画へ移動! 各テントの巡回監督と査定に合流せよ!』
『了解!』
こうして、地下3階でテロリスト役を務めていた5人の教官たちは、黒い装備を着用したまま地下2階へ移動し、すでに各区画で監督していた多数の教官たちと連携しながら、救命処置の査定に加わることになった。
その命令を受けた5人が、黒い装備のままテントの監督区域へ現れた。
「何をもたもたやっている、第D班、そして第A班一部の混成部隊め!」
イオウダニ教官が鋭く怒鳴り散らす。
「除染のスピードが遅い! そんな手つきでは、負傷者が二次汚染で肺を溶かして死ぬぞ! お前らのやっているのは救命ではなく、ただの人形遊びか!」
「っ……!」
イオウダニ教官が、シムラが第D班のメンバーと共に処置していたストレッチャーの横に歩み寄り、負傷者の固定ベルトをわざわざ荒々しく蹴り飛ばす。
「やり直しだ! 負傷者の体位変換の角度が甘い! 敵の攻撃や突発的な爆発が起きたとき、その固定では一発で患者が放り出される!」
「教官、しかしこの数値は安定していますが……!」
第D班のテントの担当リーダーのオオヤマが思わず反論しようとしたが、イオウダニ教官はそれを爆発的な怒号で一蹴した。
「オオヤマ、言い訳をするな! 現場に言い訳の余地などない! お前が甘えている間に、次の汚染エリアから別の被害者が運び込まれてくるんだよ! 無能な救命士は、患者と一緒に真っ先に地獄行きだ!」
さらに、テントの別の区画では、クロサキ教官が別の班の学生に対して冷酷な言葉を浴びせかけていた。処置モニターは訓練用の生命徴候を表示しており、その患者の状態は実際の人間ではなくシミュレーターによる判定だった。
「おい、そこの処置班! モニターの数値低下に気づくのが遅い! この患者はすでに脳死状態だ。見捨てろ、次の生きている患者の処置に合流しろ!」
「そ、そんな……まだ処置が……!」
「冷酷になれ! 災害の現場では、すべての人間を救うことなど不可能だ。助かる見込みのないものを切り捨てる決断も、お前らIALRT/アイアラートの資格試験に含まれている!」
その一方、別の処置列ではほかの教官たちが固定具の装着やトリアージの判定を続けていた。テント外ではC班とB班の学生が搬送経路を確保し、D班の別グループが収容区画を増設している。学生への指示は次々と無線で伝えられ、どの一人の教官もすべての場所を見ているわけではなかった。
心拍数、酸素飽和度、汚染度の数値が野戦病院さながらのテント内に狂おしく鳴り響く。一息つく間もなく、外からは次の汚染エリアからの搬送を告げる新たな警報が鳴り響いていた。
「まだだ! 次の汚染エリアからの搬送班が来るぞ! 動きを止めるな、動け!」
極限の疲労、仲間たちの冷徹な同調圧力、そして教官たちの容赦ない人格否定の怒号――そのすべてを背負いながら、シムラたちの終わらない地獄の訓練は、さらに苛烈な次のフェーズへと突入していくのだった。
――それから数時間後。
各階・各区画で実習が続くなか、訓練監督システムから全教官へ終了指示が送られた。そしてイオウダニ教官の声が、地下4階のホームから地下2階の地上再現エリアまで、構内放送と防護スーツ内の通信装置を通じて一斉に響いた。
「そこまでだ! 全員、その場で作業を中止しろ! 各担当教官の指示に従い、現在の区画で整列して待機!」
地下4階の車両脇では救出担当の学生が足を止め、地下3階の改札階では搬送班と警戒班がその場に並んだ。地下2階の大通りや救助テント内でも、各班の学生たちが担当教官のもとに整列する。脱落した者はもちろん、その列にはいない。
汗と泥にまみれた学生たちの足元は疲労で小刻みに震え、重いAGB Biohazard Maintenanceスーツの内部は冷や汗と呼気で完全に蒸れ返っていた。極限の緊張と酸欠、そして終わりの見えない恐怖に耐え抜いた彼らの顔にはもはや安堵の色はなく、ただ次に何が叩きつけられるかという絶望的なまでの疲弊の色が張り付いていた。
各区画の壁面ディスプレイが、同じ映像へ切り替わる。地下2階の統括指揮区画には、クロサキ教官とイオウダニ教官、そして改札階で黒いテロリスト役装備を着ていたガンドウ教官、トドロキ教官、ライメイ教官、シンカイ教官の4人が、威圧感を放ちながら横並びで立っていた。
アイゼン教官は地下3階の最終確認を担当し、ガモウ教官をはじめ各区画の多数の教官たちは、それぞれの持ち場から査定結果を送っている。メイン画面には、学生番号ごとの任務記録、装備トラブルの対応時間、搬送、対テロ対応、トリアージなどの評価が並んでいた。
総合講評は全員を一か所に集めるのではなく、各区画へ同時中継して行われる。どの学生も自分の持ち場で、画面越しに主要教官たちの姿を見つめていた。
各階・各訓練区画に配置されていた教官たちの査定記録は、統括指揮システムを通じて集約されていた。主要教官たちによる総合講評は、その膨大な記録を基に行われるものである。
冷徹な沈黙を破ったのは、ガンドウ教官だった。
「――これより、本日の総合講評および、全班に対する懲罰の言い渡しを行う!」
ガンドウ教官の低く重い声が、地下4階から地下2階までの各区画に設置されたスピーカーと、防護スーツ内の通信装置を通じて響き渡る。
その背後にある大型モニターには、各階に配置された多数の教官たちから提出された査定記録が次々と映し出されていた。
学生番号ごとの装備操作記録、救出・搬送時間、処置の正確性、警戒区域での判断、班を越えた共同活動の状況――そのすべてが、訓練統括システムによって集約されていた。
「まず大前提として言い渡す! 今回のこの地獄のペナルティーは、特定の誰か一人の失態によるものではない!」
ガンドウ教官は画面に表示された査定結果を指さした。
「一限時の座学で見られた全班共通の規律の緩み! 実習中の装備トラブルへの対応遅延! 模擬負傷者の救出、搬送、除染、救命処置における数々の判断ミス!さらに、対テロ対応区画での連携不足! 警戒や避難誘導の遅れ! 機材管理の不備! 教官から命じられた応援任務への対応の鈍さ! 担当グループ間の引き継ぎの混乱!」
大型モニターには、各階で撮影された訓練記録が次々と切り替わっていく。
「今回の実習は、A班からD班までが、それぞれ一つの任務だけを行った訓練ではない! 約200人規模の学生が各区画に分散し、複数の任務を同時に遂行した総合実習だ!各班の担当グループは、ほかの班やグループとも連携し、必要に応じて配置を変更されていた! それにもかかわらず、各所で判断の遅れ、連携の乱れ、作業効率の低下が見られた!」
ガンドウ教官の声がさらに低く、重くなる。
「我々だけが見ていたと思うな! 各階、各通路、各救護区画に配置された教官たちが、お前ら一人ひとりの行動を監視し、指導し、査定していたのだ!本日の座学から、先ほど終了したCBRN総合実習まで――各担当教官から提出された膨大な記録を統合し、訓練全体を総合的に評価した結果だ!今回の問題は、どこか一つの班だけの失態ではない! 全班にまたがる規律の緩みと、組織としての対応能力の不足にある!」
その言葉が、各階の学生たちへ容赦なく突き刺さっていった。
トドロキ教官が冷笑を浮かべながら言葉を引き継ぐ。
「そうだ。一部の者のミスを庇いもせず、かといって組織として立て直すこともできなかった『甘えの構造』がフィールド全体に蔓延していた。よって、本日の夕食は全班一律で全カットとする!」
「なっ……!」
地下3階の整列列の端で、一人の学生が思わず息を呑む。その小さな動揺は、地下4階にも地下2階にも、同じように広がっていた。
だが、教官たちの冷酷な宣告はそれで終わらなかった。
「さらにだ。今夜の就寝時間は、完全に剥奪する」
各階からどよめきすら起きない。あまりに理不尽で、しかしこの学校では絶対の宣告に、学生たちは凍りついたように固まる静かな絶望に包まれた。
「貴様らはこれまで、夜間に機材の分解・組み立て検閲という生ぬるいペナルティーを与えられてきたが……フッ、それすら甘えの温床になっていたようだな。本日の惨憺たる総括として、これから朝の起床時間まで、そのペナルティーを数倍に増幅する!」
ライメイ教官とシンカイ教官が不敵に笑い、イオウダニ教官が爆発的な怒号でそれを叩き伏せるように怒鳴り散らした。
「おい、聞こえているのか貴様ら! 返事はどうした!!」
「は、はいっ……!!」
各階の教官の前で散り散りになったか細い声が重なる。その返事は無線を通じて指揮区画にも届いた。イオウダニ教官がさらに目を血走らせて咆哮した。
「聞こえんぞ! その腐り切った声は! もう一度聞く、聞こえているのか!!」
「っ――はいっ!!!」
学生たちは必死に声を張り上げ、恐怖と疲労をねじ伏せるように答える。
「よろしい! 貴様らのその絶望に満ちた顔、実に素晴らしい! ではこれから、総合講評の総括として、ペナルティーによる深夜の部を執行する!」
ガンドウ教官が冷酷に告げたペナルティーの内容は、過酷な3つのフェーズとして学生たちに叩きつけられた。
「まず21:30から23:30までの2時間、場所は一つ上の地下1階、メイン実習教場だ! 【視覚・聴覚剥奪】『無音・完全暗闇のモールス通信リレー地獄』を執り行う! CBRN実習の熱気と蒸れがこもったAGB Biohazard Maintenanceスーツを着たまま、教場の照明を完全にシャットダウンする! 完全な暗闇と無音の中、厚手のグローブをはめた手をつなぎ、不規則なモールス信号によるエラー伝達を隣へ正確につなげ! 一人でもミスすればゼロからやり直しだ! チーム全体の同調圧力とパニックを存分に味わうがいい!」
続いて、トドロキ教官が一歩前に出て冷徹に言い放つ。
「23:30から深夜02:30までの3時間、場所は地下1階コンクリート中庭だ! 【生理・体温崩壊】『氷水シャワーとAGB Biohazard Maintenanceスーツ耐久フラットアウト』を執行する! 密閉されたAGB Biohazard Maintenanceスーツを着たままの上から、容赦なく氷水を浴びせかけてやる! 外側が氷水で濡れ、冷え切ったAGB Biohazard Maintenanceスーツを纏い、暖房のないコンクリートの教床に正座しろ! 呼吸コントロールだけで心拍数と体温の低下を防ぎ、凍てつく震えに耐えながら朝を待つがいい! 睡魔と低体温症のダブルパンチが貴様らの肉体を極限まで追い詰める!」
さらに、ライメイ教官とシンカイ教官が冷ややかな笑みを浮かべて引き継ぐ。
「そして 02:30から翌朝04:30までの2時間、場所は第2研究棟・地下資料室だ! 【情報処理・手作業崩壊】『無限カルテ・マニュアル筆写と解体パズル』だ! 外側が水に濡れて冷え切った重いAGB Biohazard Maintenanceスーツと、完全に感覚が麻痺した防護グローブのまま、分厚いマニュアルの筆写と人工心肺パーツの組み替えパズルを交互に強要する! 意識が朦朧とする中で脱字やミスをすれば、容赦なく最初からやり直しだ! そしてそのまま翌朝04:30の朝礼・検閲へと突入する!」
イオウダニ教官が最後にとどめを刺すように咆哮した。
「休憩は一切なし! 今から指定された時間までに、そのAGB Biohazard Maintenanceスーツを着たまま、一言も喋らずに各教場へ集合しろ! 時間に遅れた者は即時退学処分とする!――以上、解散!!!」
その命令は、各階で待機する学生たちに同時に告げられた。担当教官たちは無線と画面で集合先を示し、学生番号を確認しながら整列を解いていく。各班の学生たちは、もはや一か所に集まり直すこともなく、それぞれ指定された次の教場へ向かい始めた。
教官たちの怒号が響き渡る中、シムラは息つく暇もなく、汗と結露で鉛のように重く感じられるAGB Biohazard Maintenanceスーツを引きずりながら、さらなる地獄の深夜教習へと足を踏み出していくのだった――。




