第十七話 雨上がり 千葉支店編⑫
# 第十七話 雨上がり 千葉支店編⑫
六月五日 午後七時。
井上家から戻った後。
神谷は事務所の片隅で一人作業していた。
タグを書く。
パケに入れる。
だが手は止まりがちだった。
頭の中では佐伯の言葉が何度も繰り返される。
「信用は数字みたいに明日戻らない」
あの言葉が離れなかった。
その時だった。
中村拓海:お疲れー!
神谷悠真:お疲れ様です。
中村は缶コーヒーを一本投げる。
神谷は慌てて受け取った。
中村拓海:元気ねぇなー。
神谷悠真:まあ……。
中村拓海:元気ない原因、あのクーリングオフだろ?
神谷は苦笑した。
神谷悠真:そうなんですよ……。
少し沈黙。
神谷は思い切って聞いた。
神谷悠真:あの…中村さん。
中村拓海:ん?どしたー?
神谷悠真:あの案件、中村さんなら
あの日に全部買いましたか?
中村は笑った。
そして首を横に振る。
中村拓海:そりゃー買うわけないでしょ。
神谷悠真:え?そうなんですか?
中村拓海:少なくとも、あのタイミングではねー。
神谷は意外そうな顔をした。
中村拓海:だって息子さんの物だろ?
神谷悠真:でも…十年以上置きっぱなしで……要らないだろって。
中村拓海:想像してみろ。自分の青春時代の思い出が詰まったものが
いつの間にか勝手に売られてたら、どう思う?
神谷悠真:嫌…ですね。
中村拓海:それに、今回の案件、十年以上置いてる理由なんて聞かなきゃ分からないでしょー。
忘れてるだけかもしれない。
大切な思い出なのかもしれない。
売るつもりなのかもしれない。
元々残すつもりなのかもしれない。
それは本人じゃなきゃ分からないからなー。
神谷は黙る。
中村拓海:だから俺なら確認するよ。
家族構成、連絡頻度。
どんな息子さんなのか。
どれくらい帰ってくるのか。
その辺は最低でも全部聞くかな。
神谷悠真:佐伯さんも中村さんはそういうこと聞くって言ってました。
中村拓海:あー。まあ、佐伯さんの受け売りだけどな。
色々聞いた上で大丈夫そうなら確認取らず同じように買う。
ダメそうなら保留で確認入れてもらって再訪。
それだけだ。
神谷悠真:でも、それだと数字落ちません?
中村は笑った。
中村拓海:落ちないよー。むしろ上がる!
神谷は意味が分からなかった。
中村拓海:信用ってなー、一回作ると勝手に仕事連れてくるんだよ。
紹介も来る。
再訪も来る。
向こうから電話も来る。
巡り巡って結局数字になる。
神谷は黙る。
中村拓海:だから佐伯さんも俺もクーリングオフ無いんだよ。
目先の数字だけは追わないからさー。
神谷は缶コーヒーを見つめた。
中村拓海:まあでも、失敗したならラッキーだな。
神谷悠真:ラッキー?
中村拓海:新人のうちにやらかした方が覚えるし二度と同じことやらん。
今佐伯さんもそう思ってるだろうなー。
神谷は少しだけ笑った。
その日の会話はそこで終わった。
数日後 六月十九日。
千葉支店 朝礼前。
事務員:佐伯さん。
佐伯隼人:なんだ。
事務員:井上様からお電話です。
佐伯は受話器を取る。
数分後、電話を切った。
佐伯隼人:神谷。
神谷悠真:はい。
佐伯隼人:行くぞ。
神谷悠真:井上様ですか?
佐伯隼人:ああ。
神谷の胸が少しだけ高鳴った。
午後一時 井上家。
前回より空気は柔らかかった。
井上和代:この前はありがとうございました。
井上健二:色々話して、考えました。
私も査定結果の説明を受けてから、改めて決めようという決断になりました。
お手間かけて申し訳ないですが、改めて査定していただけますか?
佐伯は静かに頷く。
佐伯隼人:ありがとうございます。
査定させて頂きます。
佐伯は査定しながら一つずつ説明していく。
佐伯隼人:こちらは状態も良いです。
今の相場なら十分評価できます。
佐伯隼人:こちらは急いで売る必要はありません。
今後上がる可能性も十分あります。
ただ経年劣化でかなり価値が下がる物なので大幅に下がるリスクも同時にございます。
佐伯は一つ一つ、メリットデメリットをありのまま伝えていく。
そして、息子様のホビー。
健二が口を開いた。
井上健二:これはなー、取っておいてもらってたけど、いざとなると
残しておいてもなーと思ったんですよね。
佐伯隼人:なるほど。確かに売るかどうかを考え始めると案外いいか、となる方もいらっしゃいますね。
もちろん、残しておく選択肢もあると思います。
神谷は黙って聞いていた。
自分とは全然違う。
安く買う為の説明じゃない。
決めてもらう為の説明だった。
佐伯隼人:これだけの量ですので、厳選されるのはいかがでしょうか。
思い出が濃いお品物を1点、今のご自宅に飾るのもありだと思います。
井上健二:確かにな、それは良いかも!
佐伯隼人:高くなる可能性はあります。
ですが下がる可能性もあります。
残す選択をしたお品物は保管も必要です。
売り時を考え続ける必要もあります。
お二人が何を優先するかですね。
健二は黙る。
和代も黙る。
しばらく二人で話し合った。
そして。
健二が顔を上げた。
井上健二:決めました。
佐伯隼人:はい。
井上健二:全部お願いします。
神谷は思わず顔を上げた。
佐伯も少し驚いた顔をした。
井上健二:確かにもっと高くなる可能性はあると思います。
でも必ず儲かるって話じゃない。
保管も大変ですし。
正直、そこまで追う気もありません。
それに、佐伯さんが良い値段を出してくれてますし。
少し笑う。
井上健二:何より、ありのまま教えてくれた佐伯さんにお願いしたいです。
井上和代:私もそう思います。
神谷は言葉を失った。
前回…自分は一千万円を追った。
今回、佐伯はお客様の判断を優先した。
それなのに。
結果は契約だった。
契約書へサインが入る。
前回より買取金額は大きく上がった。
粗利は減った。
それでも粗利は八百万円近く残った。
神谷はその数字を見ても、不思議と悔しくなかった。
帰り道、車内。
神谷は静かに言った。
神谷悠真:値段上げたら結局買えたじゃないですか。
佐伯は少し笑った。
佐伯隼人:違う。
神谷悠真:え?
佐伯隼人:買わせてもらったんだ。
神谷は黙る。
窓の外を見る。
数日前まで降っていた雨は止んでいた。
厚い雲の隙間から少しだけ青空が見える。
神谷悠真(心の声):信用って……。
数字を作る為のものじゃない。
信用があるから数字になる。
少しだけ。
本当に少しだけ。
神谷はその意味が分かった気がした。




