第十六話 雨の前 千葉支店編⑪
# 第十六話 雨の前 千葉支店編⑪
六月五日 朝。
空は厚い雲に覆われていた。
梅雨入り前の重たい空気。
今にも雨が降り出しそうだった。
神谷悠真は支店の駐車場で空を見上げる。
昨日の出来事が頭から離れない。
クーリングオフ…紹介案件。
佐伯の信用。
ホワイトボードから消えた一千万円。
どれだけ考えても答えは出なかった。
朝礼後、佐伯が立ち上がる。
佐伯隼人:神谷。
神谷悠真:はい。
佐伯隼人:行くぞ。
神谷悠真:どこへですか?
佐伯隼人:井上様宅だ。
神谷の胃が重くなる。
車内、しばらく沈黙が続いた。
神谷悠真:佐伯さん。
佐伯隼人:なんだ。
神谷悠真:やっぱり安すぎたんですかね……。
佐伯は前を見たまま答えた。
佐伯隼人:まだ分かってないな。
それ以上は何も言わなかった。
午前十時 井上家。
インターホンを押す。
玄関が開く。
井上和代:わざわざすいませんね…お越しくださってありがとうございます。
どうぞこちらへ。
佐伯隼人:ありがとうございます。
失礼致します。
昨日とは違う。
少し申し訳なさそうな表情だった。
井上和代:ごめんなさいね。
神谷は胸が痛む。
神谷悠真:いえ……。
リビングへ案内される。
そこには井上健二もいた。
井上健二:昨日はすみません。
電話、少し感情的になってしまって。
昨日の勢いは無かった。
冷静だった。
神谷悠真:いえ……。
テーブルには契約書が置かれる。
そして、佐伯が口を開いた。
佐伯隼人:健二さん。
井上健二:はい。
佐伯隼人:まずはこの度はこちらの不手際申し訳ございませんでした。
一点確認ですが…今回一番気になったのは金額ですか?
健二は少し考える。
スマホを取り出した。
井上健二:ロレックスも調べました。
ホビーも少し。
画面を見せる。
フリマサイト。
オークションサイト。
表示される金額はバラバラだった。
神谷悠真(心の声):全然ちゃんと調べられてないな……
型番も違う。
状態も違う。
比較対象にもなっていない。
井上健二:正直、調べ方も分からず本当の相場は分かりません。
母にも、プロが言う値段だから間違いはないはずよと言われ
確かに買取金額と販売金額は違うし、品物が同じもの、同じ状態かは分からないなと。
佐伯は静かに頷いた。
佐伯隼人:そうですよね。
そして続けた。
佐伯隼人:今回の件、本来は息子様のお品物は案内のみで
確認を取るまで買取は保留するべきでした。
健二も和代も黙って聞いている。
佐伯隼人:その上で、旦那様の品物の中で
相場変動が大きい物。
早めに売った方が良い物。
まずはそういったお品物だけご提案させて頂き
残りは同様に息子様にご確認の流れが本来の進め方でした。
少し頭を下げる。
佐伯隼人:私の指導不足です。
申し訳ございませんでした。
神谷は顔を上げた。
まさか佐伯が頭を下げるとは思っていなかった。
井上健二:いや……。
そこまで言って頂かなくても。
佐伯は続ける。
佐伯隼人:ですので今回は。お電話で頂いた通り
全てクーリングオフ処理し、全品ご返却致します。
神谷は思わず顔を上げる。
井上健二:そのほうが助かります。
少し間。
佐伯隼人:お電話を頂いた後、私でも品物を確認したのですが、
……正直に申し上げると、このままお持ち頂いた方が
高く売れる可能性があるお品物もございます。
神谷の目が開く。
ホビー…ロレックス…小判。
神谷なら絶対に言わなかった言葉だった。
値段を上げるから引き続き買わせてくれと懇願したことだろう。
だが、佐伯は違った。
売ったことに対してのデメリット、こちら側の非をしっかり伝えた。
佐伯隼人:改めて、息子様へ聞いた方が良いかもという奥様のご意向
蔑ろにしてしまい申し訳ございませんでした。
健二が少しだけ表情を緩める。
井上健二:……。
佐伯隼人:ですので一度、お母様とゆっくりお話してください。
佐伯隼人:残すのか、売るのか。
それを決めてからで構いません。
沈黙。
佐伯隼人:もちろん。弊社に売る必要もありません。
先ほどお伝えした通り、早いほうが良いお品物、残しておいた方が良いお品物など
改めて私のほうからご説明させて頂きます。
それを踏まえた上で、お二人でご相談頂ければと思います。
健二が驚いた顔をした。
井上健二:いいんですか?
佐伯隼人:はい。もちろんです。
名刺を差し出す。
佐伯隼人:その上で、もしまた弊社にご依頼頂けるのであれば
私のほうで再度一点一点しっかり査定しお買取りさせて頂きます。
しばらく沈黙が続いた。
そして。
井上健二:分かりました。
ご丁寧にありがとうございます。
少しだけ笑った。
昨日の警戒心は消えていた。
帰りの車。
神谷はずっと考えていた。
神谷悠真:佐伯さん。
佐伯隼人:なんだ。
神谷悠真:あれで良かったんですか。
佐伯隼人:何がだ。
神谷悠真:説得して再度買い取らなくて…粗利、全部飛びました。
粗利一千万円。
頭に浮かぶ。
佐伯は少し笑った。
佐伯隼人:そうだな。
神谷悠真:あれだけ利益があったのに。
佐伯は前を見たまま答える。
佐伯隼人:紹介案件だからな。
少し間。
佐伯隼人:目先の利益より。
次も呼ばれる方が大事だ。
前にも言っただろ?一度目より、二度目。
神谷は黙る。
神谷悠真:でも……中村さんなら買ってた気がします。
佐伯は少し笑った。
佐伯隼人:中村か。
神谷悠真:はい。中村さんなら、ああいう案件でも僕より上手くまとめてたような気がして。
少し沈黙。
佐伯隼人:あいつは買わないよ。
神谷悠真:え?
佐伯隼人:むしろ俺より慎重だ。
神谷は思わず顔を上げる。
神谷悠真:そんな風には見えませんけど。
佐伯隼人:だろうな。
少し笑う。
佐伯隼人:あいつは相手の懐に入るのが上手い。
だからそう見えるだけだ。
お前は表面しか見てない。
神谷は黙る。
佐伯隼人:中村はな、相手が何を大事にしてるか聞く。
誰の物か確認する。
家族の話も聞く。
売る理由も聞く。
信用を作る為の判断材料部分は、ちゃんとやってるんだよ。
神谷悠真:……。
佐伯隼人:その上で、あいつは応用が利く。
相手に合わせて話し方を変えれる。
空気も読める。
引くところも押すところの見極め方もちゃんと分かってる。
だから人一倍数字が出るし、クーリングオフも一度もない。
もちろん数字がどれだけ上がっても慢心しない。
神谷は黙った。
佐伯隼人:信用だけなら俺でも作れる。
数字だけなら出せる奴もいる。
窓の外を見る。
空はさらに暗くなっていた。
佐伯隼人:両方できるから、あいつは千葉支店のナンバーワンなんだ。
神谷悠真:……。
佐伯隼人:だから皆認めてる。
神谷は窓の外を見る。
今まで見ていたのは数字だった。
月間五千万円。
圧倒的な粗利。
誰も追いつけない結果。
だが…その数字の土台にあるものを
自分は何も見ていなかったのかもしれない。
神谷悠真(心の声):俺はずっと……。
中村さんの結果だけ見てたのかもしれない。
フロントガラスに小さな雨粒が落ちる。
ポツ。
また一粒。
ポツ。
やがて雨は静かに降り始めた。
朝から空を覆っていた雲が、
ようやく崩れた。
神谷は流れていく雨粒を眺める。
昨日まで当たり前だった価値観が、
少しずつ揺らぎ始めていた。
六月の雨は、まだしばらく続きそうだった。




