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値札の向こう側 ―新人古物買取査定員 神谷悠真の記録―  作者: 神谷 悠真


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第十五話 失ったもの 千葉支店編⑩

# 第十五話 失ったもの 千葉支店編⑩


井上健二:全部、クーリングオフします。

神谷悠真:え……。


井上健二:手続きお願いします。


ツー。

ツー。

ツー。


電話が切れる。

受話器を持つ手が止まった。


ホワイトボードを見る。

神谷悠真 1,260万円


その数字が、一瞬で色を失った。

神谷悠真(心の声):なんでだ……。


初めてのクーリングオフだった。


事務員:クーリングオフですか?

神谷悠真:……はい。


事務員は何も言わなかった。


ただホワイトボードへ向かう。

ペンを持つ。


1,260万円

その数字を消した。


神谷は思わず目で追う。

そして書き換えられる。


260万円


神谷悠真(心の声):あ……。


一瞬だった。

昨日までのトップが消えた。

事務所は妙に静かだった。


その時。

中村拓海:何かあったのか?


神谷はクーリングオフの電話が来たこと、昨日の査定の出来事を説明した。

中村は黙って聞いていた。


話を聞き終えると、眉をひそめた。


中村拓海:ちょっと待て。

神谷悠真:はい。


中村拓海:ホビー、息子さんに確認取ったんじゃなかったのか?

神谷悠真:十年以上置きっぱなしだったみたいで……。


中村拓海:いや、そういう話じゃねぇ。


神谷は黙る。


中村拓海:十年だろうが二十年だろうが。

     残してる理由は分からねぇだろ。

神谷悠真:……。


中村拓海:コレクションなんて特にな、

     価値があるから残してるのか。

     思い出だから残してるのか。

     売るつもりで残してるのか。

     本人しか分からねぇ。


神谷は返せなかった。


中村拓海:俺でも裏取るぞ。

     息子さんはどういう人なのか。

     連絡頻度はどれくらいか。

     帰ってくる予定あるか。

     品物についてどんなことを言っていたか。

     最低でもそのあたりの話を聞いて、大丈夫そうなら買う。


神谷悠真:……。

中村拓海:だって、額が額だぜ。リスクでけぇもん。

     しかも、佐伯さんの紹介案件だろ?

     先輩の顔に泥塗るわけにはいかないからな。


神谷はしてしまった事の大きさを思い知った。


その時だった。

事務所の扉が開く。

佐伯が入ってくる。


佐伯隼人:おはよう。


誰も返事をしない。


佐伯は空気で察した。

そしてホワイトボードを見る。


260万円。

神谷を見る。


佐伯隼人:クーリングオフか。

神谷悠真:……はい。


佐伯は静かに頷いた。

驚いた様子は無かった。

まるで予想していたようだった。


佐伯隼人:神谷。

神谷悠真:はい。


佐伯隼人:お前は今回の買取で何を失った?


神谷は即答した。


神谷悠真:粗利です。

佐伯隼人:違う。


事務所が静まり返る。


佐伯隼人:俺の信用だ。


神谷は言葉を失った。


佐伯隼人:お前は俺の紹介で家に入った。

     俺の紹介で話を聞いてもらった。

     俺の紹介で契約した。

神谷悠真:……。


佐伯隼人:紹介案件は品物より先に信用がある。

     だが、お前はその信用を使って何をした?


神谷は答えられない。


佐伯隼人:目先の数字を追った。

神谷悠真:……。


佐伯隼人:正直、こうなる可能性は少なからずあると思ってはいた。

神谷悠真:え?


佐伯隼人:最近の神谷は数字に関してはうなぎ登りだったからな。

     自分なりに一線引いて、再訪に繋げてくれると思ってたが…

     俺の判断が甘かった。紹介案件を任せるには早かった。


その言葉が胸に刺さる。


神谷悠真:……。

佐伯隼人:だが買った物は仕方ない。

     なら、今回の件はお前の薬になってもらうしかない。


神谷は何も言えなかった。

中村も黙っている。


佐伯隼人:あと一つ。

神谷悠真:……はい。


佐伯隼人:今回のクーリングオフ、原因は買取が安かったからじゃない。

神谷悠真:え?


佐伯隼人:不安だったから息子さんに相談したんだ。


神谷の表情が固まる。


佐伯隼人:本当に納得してたなら、わざわざ息子に電話しない。

     今、井上様から俺のほうにもメッセージが来た。

     息子に電話したと。


その言葉が重かった。


昨日、井上和代は笑っていた。

ありがとうと言っていた。

満足していると思っていた。


だが違ったのかもしれない。


その時だった。

事務所の電話が鳴る。


事務員が出る。

少し話した後、受話器を佐伯へ渡した。


事務員:紹介者の方です。


佐伯は受話器を取る。

神谷にも聞こえていた。


男性の声だった。


紹介者:佐伯さん。紹介した案件なんだけど。

    どうなってるの?先方から連絡来たよ。

佐伯隼人:申し訳ございません。


神谷の肩が揺れた。


紹介者:佐伯さんだから紹介したんだけど。

    ちょっと困るよ。

佐伯隼人:申し訳ございません。


佐伯が頭を下げていた。

紹介者に、神谷の代わりに。


電話が終わる。

誰も何も言わない。


佐伯は受話器を置いた。

そして神谷を見る。


佐伯隼人:今日数字は消えた。

神谷悠真:……。


佐伯隼人:だがな。


少し間を置く。


佐伯隼人:信用は数字みたいに明日戻らない。


神谷は黙ったままホワイトボードを見た。


260万円。

昨日まであった1260万円はもう無い。


だが今、胸に残っているのは数字じゃなかった。


「俺の信用だ。」


その言葉だけだった。


神谷悠真(心の声):俺……。本当に間違えたのか……?


初めてのクーリングオフ。

それは粗利を失った日ではなかった。


信用の重さを知った日だった。

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