9、葡萄酒
翌朝、朝食に一通のメモが添えられていた。
おそらくエルザが書いたもののだろう。端正な文字が一字一字、寸分の狂いもなく並んでいる。
その紙には、アルマンが今夜エレノアの部屋を訪れると記されていた。
このときが来てしまったのかと、エレノアは息を飲んだ。きっと今晩、あの粗暴な男と閨を共にしなくてはならない。
エレノアが回復するまで律儀に待っていたとは、意外と紳士な男なのだろうか。しかし、あの日の男からはそんな空気を全く感じなかった。
てっきり他にいい人がいて、エレノアには無関心なのかと考えていたのだが、そうもいかないことくらいは分かっているのだろう。
ここ数日、エレノアは驚くほど穏やかな日々を過ごした。わざわざ嫌味を言いにくる使用人もいないし、そもそも人が来ない。エルザとのやり取りも扉越しで済んでしまう。
ヴァレンシア邸の離れでの幸せな生活は終わってしまったと思ったけれど、またここで始まった。
後継者さえ産めば、このまま放っておいてくれるかもしれない。昨日エルザに口走ったことを後悔していたが、そう考えると途端に嬉しくなってきた。
今のまま過ごせるのなら、エロ親父にねちっこく抱かれ続けるよりかなりいい。だって噂と違って、アルマンは男前だったのだ。化け物なんてとんでもない。
エレノアは、あの日の姿をぼんやりと思い出す。
木の陰から、魔獣の死骸を掻き分けて近づいてきた男。
月明かりが男の髪を撫でると、黒く沈んでいた髪に深い赤が浮かび上がる。まるで夜の闇に血を溶かしたような色だった。
少し目線を下げると、黒曜石を思わせる艶やかな瞳があった。光を宿しているはずなのに、どこまでも暗い。その石をはめ込んだ顔は、整っているというよりも、幾度もの死線を越えてきたことを思わせる精悍さがあった。
加えて、無駄のない立ち姿には、戦場を生き抜いてきた者特有の隙のなさがある。
百九十近い背丈と、鍛え上げられた厚みのある身体。漆黒の軍服に身を包み、その中で錆びた真鍮色のボタンを鈍く煌めかせている。
彼が握っている大剣からは、血がぽたぽたと絶え間なく滴っており、その切っ先のように鋭い眼差しで、泥まみれのエレノアを見下していた。
…確かにエレノアの好みではあるが、少し心配になってきた。せっかく生き延びたというのに、今夜食い殺されてしまうのではないか。
エレノアは一抹の不安を抱えながら、どろどろと滑る粥を掬った。




