6、アルマン
どのくらい走っただろうか。
ぬかるんだ地面に足を取られ、エレノアはとうとう転倒した。
いつの間にか靴は脱げ、泥にまみれた足は傷だらけになっていた。枝に引っかかったドレスの裾はあちこちが裂け、泥を吸って重くなっている。
胸元を締めつけるコルセットのせいで、息を吸うのも苦しかった。
エレノアの体力はとうに底をついており、その場に力なく座り込むと、乱れた呼吸を繰り返した。
ふいに空を見上げると、頭上には息を呑むほど美しい星空が広がっていた。無数の星々が深い夜空に散りばめられ、手の届かない遠い世界で瞬いている。こんなときでさえ美しい。
そのことが、ひどく皮肉に思えた。頬を伝った涙が、泥に汚れた膝へと落ちる。
すると、草むらの奥で何かが蠢いた。暗闇に灯るいくつもの光が、じっとエレノアを見つめている。逃げ道を塞ぐように、魔獣たちがエレノアを取り囲んでいた。
「ああもう、どうしていつもこうなの。私が何をしたって言うのよ。こんな死に方あんまりだわ。みんなみんな同じように苦しんで死んじゃえばいいのに!じゃなきゃ、あの世から呪ってやる!あの化け物男爵も同罪よ!」
エレノアが喚き散らしたそのとき、つんざくような悲鳴が響き渡り、こちらを見つめていた光が次々と減っていく。
張り詰めた静けさが、辺りを包み込んだ。月明かりが木々の隙間から差し込み、あちこちに倒れ伏す魔獣の姿をぼんやりと浮かび上がらせる。
その間を縫うようにして、ひとりの男が近づいてきた。血に濡れた髪の隙間から覗く真っ黒な瞳。吸い込まれてしまいそうで、恐ろしい。エレノアは反射的に目を逸らした。
「お前がエレノア・ヴァレンシアか」
男は地を這うような低い声で、エレノアの名前を呼んだ。
こんな場所で自分の名前を呼ぶ人間などひとりしかいない。きっと、この人がアルマン・ベルクール男爵だ。
恐怖を悟られないように、震える身体を必死に抑えて気丈にうなずく。自分をこんな状況に陥れた張本人ではあるが、今エレノアを救えるのもこの男だけだ。
これ以上悪い印象を持たれて、ここに放置されては困る。
「はい、エレノア・ヴァレンシアでございます。あなたは…」
「チッ、泥まみれじゃねぇか。おい、とっとと立て。向こうに代わりの馬車が来てる。そのまま乗るなよ。その汚ねぇ服は脱げ」
エレノアは唖然とした。なんて粗野な言葉遣いだろう。さすがは元平民の軍人。そもそも誰のせいでこうなったと思ってるんだ、などの文句をぐっとこらえて笑顔で礼を言った。
「おい、リュシアン!とっととこいつを連れてけ」
「おいおい、アル。女性に向かってそれはないだろう…申し訳ございません、エレノア様。お手をどうぞ。お連れいたします。お召し物はどうしましょうか……はあ、仕方ない。一旦、下着になっていただいて、私の上着をお貸ししますね」
アルマンの部下だろうか。ひとりの優男風の男に手を取られ、馬車の方へ向かった。
最初のものよりずっと頑丈な造りだ。初めからこれで迎えに来てくれればいいのにと思って、エレノアは腹が立った。
馬車に乗り込むと、座席は厚いクッションで覆われていた。その柔らかさに安心したのか、急激な睡魔に襲われた。
まだ眠ってはだめだと必死に抗ったが、その努力も虚しく、エレノアは眠りの底へと引きずり込まれた。




