5、望み
ベルクール領は、ここアルセーヌ王国の西端に位置する。
かつては別の家が治める土地だったのだが、数年前に魔族の襲撃に遭い、そのほとんどが焼け野原になった。
その際に領主も亡くなり、そこら一帯は無法地帯と化した。生き残りの住民たちは皆、別の地域に逃れ、残ったのはごろつき共だけだった。
現在は、ベルクール男爵が武力を行使して無法者たちを制圧し、治安は安定しているように見えるが、一度蔓延った悪がそう簡単に消えることはない。
残党たちがまだ身を潜めていることや、魔族が住む森に隣接していることから、国内の他の地域と比べると、かなり異質で殺伐とした空気が漂っているらしい。
まあ、そんな場所にわざわざ訪れる人などそうそういないので、ただの風聞でしかないのだが。
*
迎えの馬車の座席は硬い木の板だった。車輪が石を踏むたびに尻が跳ね、衝撃が腰まで響いた。
エレノアの尻がとうとう限界を迎えたそのとき、馬車が大きく音を立てて急停止した。
体が宙を舞い、床になだれ込んでしまう。衝撃の痛みに耐え、カーテンの下から外を覗いたが、周囲は闇に包まれていて何も見えない。
耳を澄ますと、風が吹き荒れ、木々が耳障りなほどにざわめいている。その騒々しさの向こうから、低くくぐもった唸りが聞こえてきた。
その音を聞いた瞬間、血の気が引いた。魔獣だ。
おそらくここは、夜啼きの森だろう。日が暮れると魔獣が活発に動き出すので、森に入るときは護衛をつけるのが鉄則だ。
だから、いくら王都からベルクール領への近道だと言っても、こんな粗末な馬車で入るなど正気の沙汰ではない。
御者に一体何を考えているのかと問いただしたいが、そもそも彼がまだ生きているのかすら分からない。悲鳴もなにも聞こえなかった。
しばらく身を縮めてじっとしていたが、心細さに耐えられなくなって窓に手を伸ばそうとした瞬間、バキンッと耳をつんざく音がした。
その轟音とともに扉が真っ二つに割れ、地面に裂け落ちた。砕けた木片が車内に飛び散り、冷たい夜風が吹き込んでくる。その風の中に、獣臭さを帯びた生温い空気が混じった。
頭上で屋根が軋んだのを感じて、視線をゆっくりと上げると、壊れた扉の上から何かがこちらを覗き込んできた。
白目のない濁った眼が、瞬きひとつせずこちらを見つめている。頬は不自然なほどこけ落ち、裂けた口元から黄ばんだ歯がびっしり並んでいるのが見えた。口角は耳元まで吊り上がり、笑っているようにも見える。
その瞬間、エレノアは自分の死を悟った。長生きするつもりもなかったが、まさかこんなにも早くそのときが訪れるとは思わなかった。
ふと、ルイの顔が脳裏に浮かぶ。純粋に慕ってくれるあの眼差しが嬉しかった。
弟がいたらあんな感じなのだろうか。エレノアが死ねば、心優しいあの子はきっと悲しんでくれるだろう。
むしろ幻滅される前に、綺麗な思い出のまま別れられて良かったかもしれない。また会おうと約束しなくて正解だった。
……でも、それでも心の底ではまた会えることを願っていた。いつか再会して、立派な騎士になったルイを褒めてあげたかった。こんな素敵な子が自分を慕ってくれるのだと誰かに自慢したかった。
眼前へと迫る魔獣が大きく口を開いた。エレノアは逃げることもできず、ぎゅっと目を瞑り、胸の前で指を組んだ。
どうか、まだ死にたくない。祈るように唇を引き結び、襲いくるであろう痛みに身を固くする。しかし、いつまで経ってもその衝撃は訪れなかった。
エレノアは恐る恐る瞼を持ち上げる。鼻先には、今にも喰らいつかんとする魔獣の顔があるのだが、その動きがぴたりと止まっている。
理由を考えている暇などなかった。エレノアは床に手をつき、魔獣と床のわずかな隙間へ身を投げ出した。ドレスの裾が引っかかったが、構わず身体をねじ込み、這いずるように抜け出すと弾かれたように駆け出した。




