箱型馬車は西へと向かう。
中継所で暇をしていた若い馭者は、
傭兵達取り囲われて泣くムネモスや
鼻血を抑えるわたしを見て、
彼らの利用を拒んだ。

しかし傭兵達に何度か殴られた後に
赤い髪を掴まれ、剣で恫喝されると
馭者も命を惜しんで従うしかない。
ムネモスはずっと泣いているし、
トリンはずっとわたしに苛立っている。
向かっている先は獣の巣穴か、
墓穴になる闇の娼館のどちらかだった。
指で鼻の下を触ると
鼻血はすでに止まって乾いたので、
髭の男を見て口角を上げる。
彼に叩かれた頬はまだ熱を発していた。
不安はあっても気取られないように
背筋を伸ばす。
騒いで馬車から跳び降りても、
街の西側では事態が好転するとも思えない。
剣先で床を一定間隔で叩く髭の男が、
わたしを睨みつけている。
記憶は灰色の靄に包まれていても、
敵意は身に覚えがあった。
こんな状況でも
冷静な自分に内心驚かされる。
雨が馬車の屋根を叩き鳴らした。
――グルグスとウントは濡れてないかしら。
路上で死んだ二人の身を案じ、
意味のない思考が過る。
間もなく馬車が止まった。
移動時間からして距離は短い。
西側の防壁が近く、
周囲の建物が低いおかげで、
鐘楼は北東側に小さく見える。
――競馬場の近くかしら。
広い庭の、館の離れにある建物。
石階段を下り、
奥の薄暗い地下室にわたし達は入れられた。
看守役は部屋の近くで酒を飲み、
札遊びに興じている。
不要物の臭気が籠もる地下で、
嗚咽交じりにムネモスは泣き続ける。
わたしはムネモスを寝椅子に座らせた。
彼女の身体はずっと強張り、震えている。
ムネモスを横臥させて、
わたしの太腿の上で
涙で濡れる目に口布を被せた。
彼女の緊張を和らげる為、
しばらくのあいだ背中を撫でる。
「あのさぁ。
カミーリャだかって、なんの話?」
地下の臭気に咽るトリンが苛立ち、
気を紛らわせようとわたしに話を振る。
『カミーリャの花が咲く前に、
その蕾を落としたくはないでしょう。』
髭の男に向かって、
わたしはそんなことを言った。
「カミーリャは濃い緑の葉を茂らせて、
冬から春に赤くて綺麗な花を咲かせるの。
館の入り口に植えてあるわね。
花弁の散らない花を開かせるのは、
蜜を吸いにくる鳥の嘴に花粉を付け、
別の花に運ばせる目的があるのよ。」

「花の説明なんて聞いてない。」
「以前、オーブ領から来たお客さんが、
彼らと騒動を起こした時に、
カミーリャの花に例えて脅したのよ。
彼らの頭目に短剣を押し付けてね。
花首から落ちるカミーリャの比喩よ。」
ウントの最期を思い浮かべ、
トリンは気分を害する。
「そいつのせいで
わたし達が巻き添えになったわけか。」
フルリーンを便宜的に『お客さん』と
呼んでいた為、トリンは彼女のことを
ドレイプを買いに来た男と勘違いしている。
発端はわたしが館を脱走して、
サンサがユヴィルの護衛を殺害したことが
原因だったのだけれど、訂正は省いた。
いまとなってはフルリーンのように
髭の男の『証人』を蹴り上げて、
暴力で事態が解決できるはずもない。
「ムネモス。
エルテルではこんな時に、
『犬の尻尾を踏む』って言うのよね。」
疲労は蓄積して緊張は長くは続かないので、
優しく話し掛けて和ませるように言う。
「勉強会を開いてる場合ではないでしょ。
それで、これからどうするつもり?」
「夕食はなにが出てくるのかしらね。
トリン、当ててみて?」
「はぁ?」
苛立つトリンの声が室内に響く。
わたしは早くも犬の尻尾を踏んでしまった。
「静かに。」
扉の向こうで傭兵達が喧嘩をしているのか、
騒ぎ立てる声がこの部屋にも届く。
「銀の鍵もただの照合室の鍵だもの。
認証管理をしたトリンも
見たことがあるでしょ?
サンサなら護衛を殺してくる相手に、
権利の交渉なんて最初からしないわよ。」
「それならなんで、
交渉なんて言ったのさ。」
まだ冷静でいられない彼女は、
理解できずに眉間に力を入れる。
「こんな状況だもの。
時間を稼ぐ必要があったわ。
彼らはまず、
鍵の出処を確認するでしょうね。
鍵屋に確認するのかしら。
劇場は総督も欲しがる権利だもの、
慎重に動くわね。」
「交渉の場としたから、
やつらは手を出さないのか?」
トリンの理解にわたしは頷く。
「こちらの護衛が殺されたから、
わたしも対等な発言ができたわ。」
乾いた笑いが浮かぶ。
ムネモスが捕まった時点で逃げるのは諦め、
わたしは二人の死体を囮に
交渉の材料とした。
傭兵達は罪の意識がないので、
店主相手に使った脅しは通用しない。
「ユヴィルの代理になる人物も、
あの場には居なかった。
今回の件は全て、
あの髭の男の独断かしらね。
彼らでは判断できないから、
わたし達は殺されずに済んだ。」
路地で夜の館の護衛を二人も殺し、
フランジの誘拐を目的とした彼ら。
わたしが鍵を使って手札を余裕を見せると、
明らかに困惑していた。
傭兵達は護衛を殺して、
次に出す札を考えて無かった。
「雨風が防げる場所で良かったわ。」
「なにも良くはない。」
「最悪でもないわね。」
「まだなにかあるの?」
「路地での事件が問題になって、
ユヴィルが髭の男との
関係を断った場合を想像して。」
――ユヴィルに対する忠誠は
絶対ではないのよね。
軽挙な髭の男と、
周囲の傭兵達の反応は異なった。
――統率を失った組織ほど
危ういものはない。
「ユヴィルが夜の館との交渉を望まず、
髭の男が単独犯にさせられた場合。
わたし達は人質としての価値を失う。」
わたしは半分自棄になって、
微笑を浮かべて見せた。
そうならない為に、
わたしは二つの鍵を投げて彼らを試した。
――頭目の秘め事を暴く為の鍵は、
権能の奪い合いを目的にした餌で、
彼らには仲間割れをして貰えたわ。
「ここから出るには、
まず護衛の死体を理由に近隣住民が
善意で警備に願い出てくれないと。
夜になっても館に帰らないわたし達が、
ユヴィルの傭兵に連れて行かれたことを
サンサは知るわね。
ユヴィルから無理な要求をされても、
サンサは受け入れてくれるわよ。」
根拠のない、気休めの言葉を並べる。
――サンサにとっては
わたし達を人身御供にして、
ユヴィルを潰した方が利があるわよね。
仕事のできないわたしに、
市場の奴隷以上の価値がある
とは言い切れない。
「後は総督が議会の合意を得て、
兵を送る可能性を祈って
待つしかないわね。
この場所は分かるのかしら。」
「可能性はあるの?」
トリンの疑問に、
わたしは黙って首を縦に振ってみせた。
――確率は0ではないわね。
「あいつらにムネモスの出自を明かせば?
エルテル領のお姫様だって言えば、
騎士団を恐れて解放するんじゃないか。」
「ムネモスの首に
また短剣を当てさせるつもり?」
「は?」
トリンの理想的な提案に、
わたしが疑問を投げかけたので
彼女は苛立った。
東部風の冗談とも思える
彼女の考えは狭く浅く、
ユヴィルの傭兵連中と差がない。
「身代金目当ての誘拐になれば、
東西の均衡が崩壊するわね。
エルテル領が動く頃まで、
食事の手配やお部屋の清掃も
彼らがしてくれるのかしら…。
ベッドも用意して欲しいわね。」
わたしなりの東部風の冗談に、
提案した側のトリンが浅はかさを理解し、
こちらを睨んで苛立ちを見せる。
この状況でムネモスを責めて欲しくはない。
中継所に向かおうと提案したのは
わたしだった。
「このままなにもされず、
放置されたら飢え死にするわね。
彼らの娼婦になるつもりもないわ。
市場でもっと食べて、
駱駝のように脂を溜めるべき
だったかしら。」
彼女達に危害を加えられないように
部屋への侵入を防ぐ方法も考えても、
扉を破られるか放置されて飢えるだけで
なにも解決にはならない。
最悪の想像もできたけれど、
いまのわたしにはそれらを避ける術がない。
「わ、私達…、
どうなってしまうのでしょうか?」
わたしの太腿をクッションにして、
お腹に抱きつくムネモスが口を開く。
「寝て待っていれば、
朝には館のベッドで目を覚ますわよ。」
根拠のない気休めを述べると、
わたしが次の手札を持っていないことを
トリンは察して睨んでくる。
わたしが傭兵達に見せた強気な札は、
劣位な値の札に過ぎない。
「わたし達は娼館に売られるか、
殺されるより酷い目に合うんだな。
誰かのせいで。」
トリンが語気を荒げてわたしを責める。
ムネモスはそれで泣き、
さらに責任を重く感じてしまう。
「なんでも悪い方向に考え過ぎよ。
心配いらないわ、ムネモス。」
「あんたの言葉には根拠がないっ。」
「うるせえぞ!」
看守役の傭兵が怒鳴って扉を蹴った。
泣き続けるムネモスが肩を驚かせ、
わたしは彼女の頭を抱き、
泣き声をお腹の中で抑えた。
――トリンの指摘通りだわ。
――わたしの考えは仮初めでしかない。
――路地でムネモスが捕まった時に
彼女を置いて逃げてしまえば、
わたし達のうちの、
どちらかは助かったかもしれない。
――足の遅いわたしが先に捕まるわね。
――交渉なんて嘘もすぐに露見する。
――サンサが、夜の館がわたし達を
見捨てる可能性も、否定できない。
――彼らに跪いて、
命乞いをすべきだったかもしれない。
――裁判ではどうなるのかしら。
こんな時にサンサがよく言っていた
言葉を思い出す。
『本が世の全てではないわよ。』
いくら本や訴訟記録を読んでいても、
この部屋からは出られない。
いまは状況に身を任せるしかなく、
半ば諦めかけていると
トリンは帯布の中からナイフを取り出した。
「トリン、それ…どうしたの?」
「金物屋に置いてあったでしょ?」
暗い鈍色のナイフを握って見せる。

市場でトリン達と一度逸れた時に、
安売りされた包丁と客の混雑に紛れて
彼女は盗みを働いていた。
「それで、なにするつもり?」
傭兵相手に喧嘩で敵うはずはない。
フルリーンのようにはいかず、
失敗は想像できる。
「なにもできないのなら
娼婦らしくその股を使って、
太鼓でも叩いて男を誘えばいい。」
彼女は左手にしたナイフの柄尻で、
扉を繰り返し叩いた。
その音にムネモスは怯える。
トリンは扉を叩き続け、
内開きの扉の横で壁に背中を張り付けた。
トリンの緊張が、わたしの鼻を刺激する。
「うるせえぞ! 犯されてえのがぁ…。」
看守役の男が怒鳴りながら留め具を外し、
扉を開け入ってきたその瞬間、
トリンは彼の首をナイフで切り裂いた。
刃は頸動脈へと深く入る。
男は首から血を吹き出し、
立つだけの力を失う。
彼女は男を押し倒して
一人で部屋を飛び出すと、
奥には別の男が控えていた。
「おい、ガキぃ!」
彼女はすぐに引き返し、扉を閉めた。
男の低い声が、
廊下から部屋にまで響く。
声の主はフルリーンに負け、
ウントを殺した髭の男。
トリンは再び壁を背にして、
標的が入ってくるのを待ち構えた。
足元の死体に足を止め、
警戒して部屋には入らない。
「おい! 一人やられたぞ! 誰か来いっ!
最初っから犯して売ればよかったんだ!
誰か! 居るんなら誰か来いってんだ!」
「お父様! お母様! クロノォ…。」
ムネモスは泣き続ける。
「怖がらせてるだけよ。」
恐怖に泣き喚くムネモスを、
部屋の隅に移動させて鎮めた。
状況は想定した以上に最悪なものになった。
『あんたの言葉には根拠がない。』
わたしを責めるトリンの声が頭に響く。
――でも、トリンの責任ではない。
髭の男は扉を蹴り壊した。
すぐに中に入っては来ない。
蝶番を破壊した扉を横目に見て、
怯えたムネモスを抱き抱えるわたしを睨む。
部屋に足だけ踏み入れて見せた髭の男は
ナイフの手を突き出したトリンに気付いた。
警戒していた男は、
右手の剣で彼女の身体を貫こうとする。
わたしは扉に体当たりした。
男の毛深い腕が剣ごと扉に挟まれ、
彼女の目の前で刃先が止まった。
「トリンッ!」
わたしの声にトリンは気がつき、
扉に挟まった男の右腕を
ナイフで突き刺した。
怒りと悲鳴の混ざった声が室内に響く。
彼は痛みに堪えきれず、剣を落とした。
男が屈強な肉体で押し返し、
扉と共にわたしを弾き飛ばした。
トリンが男の剣を拾うよりも先に、
彼の蹴りがトリンの脇腹を抉った。
悶え苦しむトリンは、
床に跪いたまま立ち上がれない。
「舐めやがってっ! …ガキ共!
知らねぇ! もう知らねえよっ!
全員殴って、殺して、犯してやる!」
叫び、怒りを顕わに吠える髭の男。
その男は血の泡を吐き、
両膝を落として床に伏せると、
目を開いて動かなくなった。
キャシュクから血が滲み出している。
「なんで…?」
――ニースだわ…。
扉を閉める為に立ち上がると、
打った背中が痛みだして熱を帯びる。
わたしは廊下の奥に立つ、男の人影を見た。
見覚えのあるその男は、
すぐに立ち去ってしまう。
遠くなっていく柔らかな革靴の音と、
入れ替わるかたちで別の足音が響き、
部屋に誰かが近付いてくる。
足音が左右で微かに異なる、
この音には聞き馴染みがある。
「姉様っ!」ムネモスがわたしに抱きつく。
「もう平気よ…。
トリンは立てる?
さぁ、ここを出ましょう。」
確信はあったものの確証はなく、
根拠のないわたしの言葉は二人に届かない。
「ニクスー? ムネモス?」
「サンサ。」

サンサは死体を二つ跳び越えて、
真黒な床の血溜まりを踏み、
雪のように白い足を汚した。
「手加減を知らんのか…。」
サンサに遅れてハーフガンと、
街の兵士達もやってきた。

「3人共生きてるみたいね。」
「お姉様ぁっ!」
「痛い痛いっ。」
ムネモスは泣きながらサンサに飛び込み、
力強く抱いて彼女を苦しめた。
トリンは蹴られた脇腹を抑えて立つ。
死んだ髭の男に憎悪の視線を向けたまま
剣を握り締めていた。
「トリン。それはもう必要ないわ。」
サンサに言われ、
トリンは自分の手にした剣を見つめた。
「生きてたらダメだろ。こんなやつら…。」
傷つけた右腕を踏み、
死体に剣を突き立てる。
「もう死んでるわよ。」とサンサ。
「わたしに命令しないで!」
「トリン、ごめんなさい。
私の…せいなんです。
ニクス姉様も…わたしが、
護衛も…。」
ムネモスがわたしにまで謝る。
過程は散々なものだったけれど
結果的にわたし達は助かった。
多くの偶然が重なって、
サンサ達によって助けられたに過ぎない。
トリンもこの結末には納得していない。
彼女は状況を悪化させ、救助が遅れていたら
わたし達は全員この男に殺されていた。
トリンはそれを理解して、
剣を持つ強張った左手を、
もう片方の手で引き剥がした。
「ニクスは…。」
汚れたわたしの姿を見て、
サンサは頷くだけだった。
鼻血はもう乾いている。
わたしも彼女の目を見て首を縦に振る。
言葉にしないサンサは、
わたしの変化に気付いたのかもしれない。
血で汚れたサンサの足元を見た。
闇の中で闇色の液体。
あの地下の、檻での記憶が蘇る。
――あのひとの名前は、ラミー…。
――わたしの姉だったひとだわ。
わたしの中にあった記憶の靄が晴れた。
向かいの檻に居た闇色の死体は、
わたしの名前を呼びはしない。
――彼女の弱った身体では、
冬を越えられなかった。
安堵でも罪の意識でもない、
綯い交ぜの感情が発露して、
涙となって頬を流れた。
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