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金貨の娘  作者: 美穂
第8章 泥濘の澱

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第8章 第1節 賓客の賜(第3項)

挿絵(By みてみん)



館(やかた)の東(ひがし)側(がわ)を一(ひと)周(まわ)りして食(しょく)堂(どう)に入(はい)った。



厨(ちゅう)房(ぼう)では昼(ちゅう)食(しょく)の準(じゅん)備(び)をしており、

上(うわ)着(ぎ)を着(き)ていると暑(あつ)いくらいだった。



二人(ふたり)を座(すわ)らせて早(はや)めの昼(ちゅう)食(しょく)にした。



わたしはパンとスープを用(よう)意(い)する。



トリンは厨(ちゅう)房(ぼう)を眺(なが)めて口(くち)を閉(と)ざして、

わたしを見(み)るムネモスの考(かんが)えは

訊(たず)ねる必(ひつ)要(よう)もないほど分(わ)かりやすい。



「ムネモス。」



「はい、ニクス姉(ねえ)様(さま)。」



「ニクスでいいわ。


 わたしはあなたの姉(あね)ではないもの。


 敬(けい)称(しょう)は付(つ)けないで。


 あなたの義(ぎ)理(り)のお姉(ねえ)様(さま)も、

 そんな風(ふう)に呼(よ)ばれたら嫌(いや)がるでしょう。」



彼(かの)女(じょ)は困(こま)り顔(がお)を見(み)せる。



「でもサンサお姉(ねえ)様(さま)は私(わたし)達(たち)を取(と)り上(あ)げて、

 産(うぶ)湯(ゆ)に浸(つ)けてくださった方(かた)ですの。」



「サンサが出(しゅっ)産(さん)に立(た)ち会(あ)ったのね。


 本(ほん)人(にん)が嫌(いや)がってもなく、

 望(のぞ)んで許(ゆる)しているのなら

 呼(よ)んでも良(い)いのかしら。」



「それが…、

 あまり良(よ)い顔(かお)はされませんでした。」



ムネモスは目(め)を伏(ふ)せて寂(さび)しさを見(み)せる。



「ふふっ。

 エリク…あなたの父(ちち)も、

 サンサを敬(うやま)ったりはしてないでしょ。」



二人(ふたり)に器(うつわ)を用(よう)意(い)して、

切(き)り分(わ)けたパンを置(お)いていく。



「ニクス…は、あの…、お父(とう)様(さま)のことも?」



「よくは知(し)らないわ。


 サンサのせいで、あの庭(にわ)で一(いち)度(ど)だけ

 会(かい)談(だん)をさせられた程(てい)度(ど)に過(す)ぎないし。


 彼(かれ)の功(こう)績(せき)は、ここには資(し)料(りょう)がないのよ。


 でもとても愉(ゆ)快(かい)なひとで、

 もっと話(はなし)をしたかったわね。」



「お父(とう)様(さま)を覚(おぼ)えていただき、

 ありがとうございます。」



彼(かの)女(じょ)は座(すわ)ったまま、頭(あたま)を深(ふか)く長(なが)く下げる。



「目(め)元(もと)が似(に)ているわね。」



「良(よ)く言(い)われます。

 弟(おとうと)のクロノはお母(かあ)様(さま)に似(に)ています。


 私(わたし)の方(ほう)が背(せ)が高(たか)かったり、

 双(ふた)子(ご)なのに違(ちが)いがあるんですよ。」



第(だい)二(に)次(じ)性(せい)徴(ちょう)は女(おんな)の方(ほう)が早(はや)く発(はつ)現(げん)する。



そんな当(あ)たり前(まえ)のことを

冗(じょう)談(だん)のように言(い)うムネモスでも、

視(し)界(かい)の端(はし)ではトリンが疎(そ)外(がい)感(かん)で睨(にら)んでいる。



それが理(り)由(ゆう)でムネモスの表(ひょう)情(じょう)は晴(は)れない。



「それで、ニクス…に、

 お願(ねが)いがあるのですが…。」



「出(しゅつ)自(じ)は訊(たず)ねない。

 とは言(い)ったわよね。


 でもムネモスが勝(かっ)手(て)に語(かた)る分(ぶん)には、

 わたしは叱(しか)ったりしないわよ。


 言(こと)葉(ば)に鍵(かぎ)はかけられないものね。」



「それって、よろしいのでしょうか?」



瞬(まばた)きを繰(く)り返(かえ)してわたしを見(み)る。



秘(ひ)め事(ごと)の多(おお)い館(やかた)の人(にん)間(げん)に比(くら)べ、

彼(かの)女(じょ)の表(ひょう)情(じょう)は変(へん)化(か)に富(と)んで、

レナタと同(おな)じく感(かん)情(じょう)が分(わ)かりやすい。



「湖(みずうみ)から溢(あふ)れ出(で)た水(みず)は、

 湖(みずうみ)には戻(もど)らない、なんて諺(ことわざ)もあるわ。


 自(じ)分(ぶん)の取(と)った行(こう)動(どう)の責(せき)任(にん)は

 自(じ)分(ぶん)にあることを、

 常(つね)に心(こころ)に留(とど)めておくといいわね。


 あなたが名(な)乗(の)るべき相(あい)手(て)は、

 自(じ)分(ぶん)で見(み)て、考(かんが)え、選(えら)ぶこと、

 ってサンサも言(い)ってたわ。」



わたしが告(つ)げると、

ムネモスは深(ふか)く頷(うなず)いて、

隣(となり)に座(すわ)るトリンに向(む)き直(なお)った。



「トリン。


 せっかく隣(りん)人(じん)になりましたのに、

 欺(あざむ)き続(つづ)けるのは心(こころ)苦(ぐる)しいですよね。


 私(わたし)の出(しゅつ)自(じ)、正(せい)式(しき)な名(な)前(まえ)は

 エルテル・ハス・ムネモスといいます。


 エルテル先(せん)代(だい)領(りょう)主(しゅ)、エリクの娘(むすめ)ですが、

 同(おな)じフランジとして、これから一(いっ)緒(しょ)に

 助(たす)け合(あ)いましょう。」



ムネモスは水(みず)の入(はい)った杯(さかづき)を前(まえ)に出(だ)す。



「…なに、これ?」トリンが首(くび)を捻(ひね)った。



「乾(かん)杯(ぱい)ですよ?


 宴(えん)席(せき)での挨(あい)拶(さつ)です。」



「エルテルは酒(しゅ)宴(えん)の席(せき)でやるものね。

 この館(やかた)でやってるひとは見(み)たことないわ。


 決(き)まりも覚(おぼ)えなくてはいけないわね。」



食(しょく)事(じ)を終(お)えたイオスが

わたしの太(ふと)腿(もも)に乗(の)る。



口(くち)の周(まわ)りを舐(な)めながら、

わたし達(たち)の昼(ちゅう)食(しょく)を狙(ねら)っていた。



「だからそれで、なにをしてるの?」



「乾(かん)杯(ぱい)は飲(いん)食(しょく)の前(まえ)に行(おこな)います。


 お祝(いわ)いの席(せき)で普(ふ)段(だん)のお祈(いの)りの代(か)わりに、

 天(てん)の恵(めぐ)みに感(かん)謝(しゃ)と祝(しゅく)福(ふく)を祈(いの)ります。


 中(なか)身(み)を零(こぼ)してはいけませんよ。」



「わたしもやるわ。」



ムネモスを真似(まね)て顔(かお)の前(まえ)に杯(さかづき)を掲(かか)げると、

柔(にゅう)和(わ)にえくぼを作(つく)ってわたしに微(び)笑(しょう)する。



「天(てん)ってなに? 神(かみ)のこと?」



トリンは眉(み)間(けん)に力(ちから)を入(い)れて不(ふ)信(しん)感(かん)を示(しめ)した。



「エルテルでは天(てん)とは主(おも)に、

 気(き)象(しょう)のことを示(しめ)します。


 他(ほか)にも水(みず)、土(つち)、作(さく)物(もつ)のご機(き)嫌(げん)や、

 農(のう)民(みん)や妻(つま)、子(こ)供(ども)や良(よ)き隣(りん)人(じん)、

 家(か)畜(ちく)、虫(むし)、動(どう)物(ぶつ)達(たち)の健(けん)康(こう)を、

 なんとなぁくで祈(いの)るんですよ。」



「なんとなく?」



訛(なま)りではない彼(かの)女(じょ)の砕(くだ)けた言(い)い方(かた)に、

わたしは笑(わら)いが込(こ)み上(あ)げた。



「病(びょう)気(き)や天(てん)気(き)と一(いっ)緒(しょ)ですね。


 祈(いの)っても良(よ)くはなりませんが、

 気(き)象(しょう)に気(き)を病(や)んでしまっては

 仕(し)方(かた)がありませんもの。


 そんな時(とき)はとりあえず祈(いの)り、祝(いわ)って、

 愉(たの)しみましょうという考(かんが)えです。」



「楽(らっ)観(かん)的(てき)ね。」とトリンは冷(れい)笑(しょう)する。



「本(ほん)質(しつ)では悲(ひ)観(かん)的(てき)なのでしょうね。」



ムネモスは笑(え)顔(がお)を作(つく)らず首(くび)を横(よこ)に振(ふ)った。



「悲(ひ)観(かん)?」トリンが訝(いぶか)しむ。



「エルテルは過(か)去(こ)から現(げん)在(ざい)まで、

 大(だい)水(すい)害(がい)や人(にん)間(げん)の病(やまい)に限(かぎ)らず、

 家(か)畜(ちく)の病(びょう)死(し)や作(さく)物(もつ)の不(ふ)作(さく)を、

 何(なん)度(ど)も経(けい)験(けん)してきました。


 農(のう)家(か)は気(き)象(しょう)の影(えい)響(きょう)を大(おお)きく受(う)けます。


 不(ふ)作(さく)が続(つづ)けば口(くち)減(べ)らしや、

 人(じん)身(しん)売(ばい)買(ばい)が行(おこな)われます。


 家(か)畜(ちく)や作(さく)物(もつ)、人(にん)間(げん)、金(きん)品(ぴん)を奪(うば)うなど、

 生(い)きる為(ため)に道(みち)を誤(あやま)る者(もの)も出(で)てきます。


 晴(は)れの日(ひ)が続(つづ)けば水(すい)路(ろ)は涸(か)れ、

 水(みず)を巡(めぐ)って領(りょう)民(みん)同(どう)士(し)が血(ち)を流(なが)すことも、

 少(すく)なくはありません。


 雨(あめ)が続(つづ)けば小(ちい)さな生(せい)物(ぶつ)は増(ふ)え、

 作(さく)物(もつ)は腐(くさ)り、内(ない)臓(ぞう)や肺(はい)を患(わずら)い、

 病(やまい)が蔓(まん)延(えん)します。


 あらゆる生(せい)物(ぶつ)は生(せい)を受(う)ければ、

 育(そだ)ち、変(へん)化(か)し、そして死(し)にます。


 明日(あした)の保(ほ)証(しょう)のない領(りょう)民(みん)は、

 常(つね)に不(ふ)安(あん)が付(つ)き纏(まと)います。


 不(ふ)安(あん)、恐(おそ)れを拭(ぬぐ)い去(さ)り、

 今日(きょう)を良(よ)い日(ひ)にしたいから、

 わたし達(たち)は祈(いの)るんです。


 明日(あした)の自(じ)分(ぶん)を想(そう)像(ぞう)できるように。」



「…分(わ)かった。

 あんたはがお姫(ひめ)様(さま)だってことがね。」



トリンも杯(さかづき)を掲(かか)げると、

ムネモスはようやく元(もと)の笑(え)顔(がお)を取(と)り戻(もど)した。




 ◆




昼(ちゅう)食(しょく)を終(お)えて館(やかた)の西(にし)側(がわ)、玉(たま)石(いし)の庭(にわ)、

ボイラー室(しつ)、フランジ棟(とう)の教(きょう)育(いく)室(しつ)、

口(くち)布(ぬの)をして鶏(にわとり)小(ご)屋(や)を外(そと)から眺(なが)め、

最(さい)後(ご)に果(か)樹(じゅ)園(えん)を見(み)て回(まわ)った。



オレームとクァンの果(か)実(じつ)について

説(せつ)明(めい)を終(お)えると、書(しょ)室(しつ)に戻(もど)る道(みち)が

塞(ふさ)がれていた。



「これは…なにかの記(き)念(ねん)碑(ひ)でしょうか。」



「サンサの集(あつ)めたガラクタ…、

 ではなくて偉(い)大(だい)なる発(はつ)明(めい)の残(ざん)滓(し)ね。」



クァンの木立(こだち)から書(しょ)室(しつ)に戻(もど)る道(みち)が、

サンサの道(どう)具(ぐ)に妨(さまた)げられている。



「この果(か)樹(じゅ)園(えん)に

 フランジは立(た)ち入(い)り禁(きん)止(し)なのよ。」



「案(あん)内(ない)する前(まえ)に言(い)うべきだわ。」とトリン。



「見(み)てもいないものを

 大(たい)した理(り)由(ゆう)もなく禁(きん)止(し)したら、

 誰(だれ)だって入(はい)りたくなるでしょ?」



トリンがまだなにか言(い)おうとしたけれど、

彼(かの)女(じょ)はなにも言(い)わずに視(し)線(せん)を逸(そ)らした。



「鶏(にわとり)小(ご)屋(や)まで戻(もど)ろうかしら。」



「ここから通(とお)れますね。」



ムネモスがガラクタの抜(ぬ)け道(みち)を探(さが)し出(だ)した。



「それで、ここが書(しょ)室(しつ)ね。」



「牢(ろう)檻(かん)みたいなお部屋(へや)ですわね。」



「あのガラクタを片(かた)付(づ)けたから、

 これでも広(ひろ)くなったのよ?」



「あれを片(かた)付(づ)けたと言(い)えるの?」



「…片(かた)付(づ)けにも定(てい)義(ぎ)が必(ひつ)要(よう)ね。」



野(や)外(がい)に曝(さら)しただけのガラクタを、

トリンに指(し)摘(てき)されて否(ひ)定(てい)はできない。



「今日(きょう)の案(あん)内(ない)はこのくらいね。


 2階(かい)は従(じゅう)業(ぎょう)員(いん)の部屋(へや)で、

 本(ほん)人(にん)の許(きょ)可(か)無(な)しには見(み)せられないの。


 他(ほか)は後(ご)日(じつ)、誰(だれ)かがわたしよりも

 丁(てい)寧(ねい)に案(あん)内(ない)してくれるはずだわ。」



外(そと)は寒(さむ)いので書(しょ)室(しつ)を軽(かる)く掃(そう)除(じ)して、

夕(ゆう)食(しょく)までのあいだは

ここで本(ほん)を読(よ)むことにした。



挿絵(By みてみん)



道(どう)具(ぐ)置(お)き場(ば)兼(けん)面(めん)談(だん)室(しつ)から

ランタンを二(ふた)つ書(しょ)室(しつ)に運(はこぶ)び入(い)れ、

テーブルに乗(の)って一(ひと)つを天(てん)井(じょう)に吊(つ)り下(さ)げる。



もう一(ひと)つのランタンをテーブルに置(お)けば、

光(ひかり)を囲(かこ)んで本(ほん)が読(よ)める。



足(あし)元(もと)には従(じゅう)業(ぎょう)員(いん)のメグが持(も)って来(き)てくれた

熾(おき)火(び)がテーブルの下(した)にあるので、

扉(とびら)から入(はい)る冷(つめ)たい隙(すき)間(ま)風(かぜ)も気(き)にならない。



トリンはすでに本(ほん)を手(て)にして、

他(ほか)のことに関(かん)心(しん)を示(しめ)さずに

ページを捲(めく)っている。



「あ、私(わたし)はこれにします。」



「それ測(そく)量(りょう)の本(ほん)よ。読(よ)めるの?」



「嗜(たしな)み程(てい)度(ど)です。」



ムネモスが選(えら)んだ本(ほん)は

土(と)地(ち)の広(ひろ)さや距(きょ)離(り)、長(なが)さや高(たか)さ、

深(ふか)さを算(さん)出(しゅつ)する為(ため)の専(せん)門(もん)書(しょ)で、

相(そう)応(おう)の知(ち)識(しき)がなければ読(よ)めない。



彼(かの)女(じょ)は書(しょ)字(じ)板(ばん)に計(けい)算(さん)式(しき)を刻(きざ)む。



専(せん)門(もん)書(しょ)に書(か)かれた計(けい)算(さん)を解(と)くのは、

ドレイプでも容(よう)易(い)ではない。



「計(けい)算(さん)が得(とく)意(い)なの?」



「農(のう)地(ち)の広(ひろ)さで不(ふ)公(こう)平(へい)が生(しょう)じて、

 領(りょう)民(みん)が喧(けん)嘩(か)をしないように、

 お父(とう)様(さま)の仕(し)事(ごと)を手伝(てつだ)っていました。」



貴(き)族(ぞく)は商(しょう)人(にん)と取(とり)引(ひき)を行(おこな)うので、

騙(だま)されない為(ため)に文(も)字(じ)や数(すう)学(がく)の基(き)礎(そ)を学(まな)ぶ。



領(りょう)主(しゅ)は領(りょう)内(ない)の農(のう)地(ち)を区(く)分(わ)けし、

その決(けっ)定(てい)権(けん)を有(ゆう)する。



恐(きょう)慌(こう)の後(あと)で堆(たい)肥(ひ)が足(た)りず、

分(ぶん)水(すい)街(がい)から不(ふ)要(よう)物(ぶつ)を買(か)い付(つ)けるほどに、

エルテルは広(こう)大(だい)な農(のう)地(ち)を持(も)っていた。



「楽(たの)しそうね。」と、わたし。



計(けい)算(さん)をしていたムネモスが笑(え)顔(がお)を見(み)せ、

向(む)かいのトリンに本(ほん)を向(む)けた。



「トリンも解(と)きますか?」



「あなたはまだ、

 領(りょう)主(しゅ)の娘(むすめ)のつもりでいるの?」



「あ…いえ。


 トリンの言(い)う通(とお)り、

 いまの私(わたし)はフランジですね。」



ランタンの灯火(ともしび)に照(て)らされるムネモスは

表(ひょう)情(じょう)は曇(くも)らせた。



「ここにある写(しゃ)本(ほん)は全(すべ)てサンサが

 フランジの為(ため)に買(か)ったものだから、

 仕(し)事(ごと)以(い)外(がい)の時(とき)であれば

 好(す)きに読(よ)んでいいわよ。」



「…ドレイプにする目(もく)的(てき)で。」



「共(とも)にドレイプを目(め)指(ざ)しましょうっ!」



自(じ)分(ぶん)を励(はげ)ますように言(い)ったムネモスに、

トリンは同(どう)調(ちょう)しない。



「トリンはなにをお読(よ)みですか?」



「アラズ興(こう)亡(ぼう)詩(し)?」



彼(かの)女(じょ)は4冊(さつ)もある

分(ぶ)厚(あつ)い本(ほん)を見(み)て読(よ)み上(あ)げた。



大(たい)陸(りく)北(ほっ)方(ぽう)にあるソーンには、

アラズという名(な)の思(し)想(そう)家(か)の

物(もの)語(がたり)が流(りゅう)行(こう)していた。



大(たい)陸(りく)南(なん)方(ぽう)のクレワでも、

アリュールという異(こと)なる名(な)前(まえ)の

似(に)たような物(もの)語(がたり)が存(そん)在(ざい)する。



書(しょ)室(しつ)に置(お)かれたアラズ興(こう)亡(ぼう)詩(し)は、

中(ちゅう)央(おう)のエンカーで書(か)かれた翻(ほん)案(あん)になる。



大(たい)陸(りく)の南(なん)北(ぼく)は豊(ほう)富(ふ)な水(みず)や沃(よく)土(ど)を求(もと)め、

歴(れき)史(し)に思(し)想(そう)の名(な)前(まえ)を刻(きざ)むことを目(もく)的(てき)に争(あらそ)う。



神(しん)話(わ)の時(じ)代(だい)から人(にん)間(げん)は飽(あ)きずに

血(ち)肉(にく)を欲(ほっ)し、身(み)分(ぶん)や地(ち)位(い)を奪(うば)い、

布(ぬの)を巡(めぐ)って競(きそ)い、女(おんな)に騙(だま)される。



他(た)人(にん)の名(な)前(まえ)を騙(かた)り、

主(しゅ)張(ちょう)を暴(ぼう)力(りょく)の口(こう)実(じつ)に変(か)え、

様(さま)々(ざま)な理(り)由(ゆう)で争(あらそ)い合(あ)いを続(つづ)けていた。



興(こう)亡(ぼう)詩(し)はそんな大(たい)陸(りく)の歴(れき)史(し)を描(えが)く、

エンカーン(語)で書(か)かれた人(にん)気(き)の長(ちょう)大(だい)な恋(こい)物(もの)語(がたり)。



――って、ファウナは興(こう)奮(ふん)してたわね。



本(ほん)はボナの部屋(へや)に長(なが)いあいだ置(お)かれていた。



「それ、わたしも読(よ)もうと思(おも)ってた本(ほん)。」



勉(べん)強(きょう)を優(ゆう)先(せん)したわたしは、

まだ手(て)を付(つ)けていない。



この本(ほん)を読(よ)む前(まえ)に、

大(たい)陸(りく)史(し)を学(まな)ばなければ読(よ)めない、と

ファウナに諫(あさ)められていた。



わたしは日(ひ)陰(かげ)の庭(にわ)のテーブルに

開(ひら)いて放(ほう)置(ち)していた

歴(れき)史(し)書(しょ)を運(はこ)び入(い)れていた。



ムネモスが自(じ)分(ぶん)の計(けい)算(さん)を終(お)えると、

わたしの本(ほん)を見(み)て声(こえ)を掛(か)けてきた。



「ニクス…も、

 大(たい)陸(りく)語(ご)が読(よ)めるんですか?」



「教(おし)えられるほどではないけれどね。」



「…領(りょう)主(しゅ)の娘(むすめ)なのに読(よ)めないの?」



ムネモスに対(たい)し、トリンは呆(あき)れている。



「…はい。」



「あなた14歳(さい)でしょ?


 これくらいの本(ほん)ならわたしは

 10歳(さい)の頃(ころ)には読(よ)めたわよ。」



「お恥(は)ずかしいことに…。」



「恥(は)ずかしい話(はなし)でもないわよ。


 わたしも夏(なつ)までは

 大(たい)陸(りく)語(ご)が読(よ)めなかったもの。


 知(し)らないことの方(おお)が多(おお)いくらいよ。


 それにこの館(やかた)に入(はい)った子(こ)でも、

 大(たい)陸(りく)語(ご)を読(よ)めない子(こ)は多(おお)いわね。


 ドレイプになるのなら、

 お客(きゃく)さんの手(て)紙(がみ)の内(ない)容(よう)は

 大(たい)陸(りく)語(ご)の言(い)い回(まわ)しが多(おお)いから、

 知(し)っておいた方(ほう)が良(い)いわね。


 競(きそ)うものでもないのだから、

 ムネモスが必(ひつ)要(よう)と感(かん)じたのなら

 これから学(まな)べばいいわよ。」



測(そく)量(りょう)の本(ほん)が解(と)けるのに、

自(じ)信(しん)を持(も)たないムネモスでも

わたしの話(はなし)に頷(うなず)いてくれる。



「勉(べん)強(きょう)で自(じ)尊(そん)心(しん)を満(み)たすのも良(い)いけれど、

 他(た)人(にん)を貶(おとし)めるつもりで学(まな)ぶのは

 勧(すす)めないわね。


 思(し)想(そう)の服(ふく)を纏(まと)ったところで、

 実(じつ)物(ぶつ)の服(ふく)を着(き)ないことには、

 裸(はだか)と変(か)わらないものね。」



大(たい)陸(りく)にある詩(し)の引(いん)用(よう)にムネモスが微(び)笑(しょう)し、

隣(となり)のトリンには睨(にら)まれた。



ハーフガンと違(ちが)って舌(した)打(う)ちはされない。



「大(たい)陸(りく)の思(し)想(そう)の本(ほん)もあるのよ。


 学(まな)び、偉(えら)ぶるひとについて

 知(し)ることができるわよ。


 思(し)想(そう)の本(ほん)の内(ない)容(よう)は引(いん)用(よう)ばかりで、

 法(ほう)則(そく)や定(てい)理(り)が無(な)いのが問(もん)題(だい)ね。」



わたしはムネモスの背(はい)後(ご)の棚(たな)から、

別(べつ)の本(ほん)を取(と)り出(だ)して彼(かの)女(じょ)に見(み)せた。



「わたしはこの本(ほん)で大(たい)陸(りく)語(ご)を覚(おぼ)えたわよ。


 ムネモスくらいの年(とし)なら

 難(むずか)しい内(ない)容(よう)でもないはずよ。」



図(と)書(しょ)館(かん)でスーが買(か)ってくれた写(しゃ)本(ほん)は、

書(しょ)室(しつ)の棚(たな)に置(お)いて共(きょう)有(ゆう)物(ぶつ)にしていた。



ガラクタで埋(う)まっていたサンサの倉(そう)庫(こ)は

元(もと)の書(しょ)室(しつ)に戻(もど)った。



わたし以(い)外(がい)に書(しょ)室(しつ)の利(り)用(よう)者(しゃ)が増(ふ)えて、

内(ない)心(しん)で喜(よろこ)んでいることに気(き)付(づ)く。



「自(じ)分(ぶん)で学(まな)んで考(かんが)えて分(わ)からなければ、

 トリンに聞(き)けば教(おし)えてくれるわよ。」



「は?」トリンが驚(おどろ)く。



「ありがとうございます。


 よろしくお願(ねが)いしますね、トリン。」



「あんた…。」



恨(うら)むようにトリンが見(み)てくる。



わたしは彼(かの)女(じょ)の考(かんが)えを無(む)視(し)し、

またテーブルの本(ほん)の片(かた)付(づ)けに戻(もど)った。




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