
朝の勉強会を終えて、
わたしは書室で過ごす。
書室の利用者はわたし一人。
扉を閉めてランタン一つの
頼りない灯火の中。
毛深いイオスをクッションにして、
法律の棚にあった訴訟記録の続きを読む。
この本に興味があったわけでもない。
サンサが勧めてきた訴訟記録は難しく、
別の訴訟法の専門書を読んで
用語を理解しなければならない。
書字板を利き腕ではない左手で引くと、
蜜蝋がスタイラスで荒々しく削られていく。
大陸由来の単語も多く、習得は難しい。
けれどいまは、頭の中を支配する恥を、
難解な文字で掻き消してしまいたかった。
「ニクス姉…、こちらに
いらっしゃいますかー。」
扉が叩かれて、
ムネモスが書室に入ってくる。
わたしはイオスに突っ伏したまま
彼女を目で見た。
「そちらは法律の本ですか?
ニクス姉様はそんな高度な専門書も
嗜まれていらっしゃるんですね。」」
「愉しくないわよぉ。」
訴訟記録の中には過去の判例だけでなく、
事件の仔細、罪人の発言から最期まで
記述されている。
「トリンと一緒にお出掛けしませんか?」
ムネモスの後ろにはトリンも立っている。
ムネモスは新入りのフランジの中では、
誰よりも明るくて言葉遣いは丁寧だった。
貴族からフランジになった彼女が、
黒色のチュニックを着ているせいもあり、
アイリアの工房の生徒になる為に
館にを去ったレナタを思い出させる。
チュニックには長い袖が付き、
腹部には大きなポケットもあった。
なにより厚手のシルク生地が、
みんなの興味を引いた。
エルテル領に残るベリーが、
領地を発つ娘を思って用意したのは
想像に難くはない。
彼女の仕事振りは、
孤児院から来た他のフランジに比べて
失敗が多かった。
仕事をその場で見せて教えても、
見ているだけで行動に移さない。
年長のフランジが言い方を変えても、
異なる行動を取って失敗する。
ムネモスはエルテル先代領主の娘で
孤児院の選考会に関係が無いのに、
わたしはフランジから呼び出され、
彼女について毎日相談される。
『言われる前に行動しろ。
勝手な行動はするな。』
サンサがマルフに言ったこの言葉を例に、
相反する指導が失敗の原因になると教えた。
フランジが8人も増えると
仕事は充分に与えられず、
素養のあるトリンとムネモスの二人は、
ファウナの元で認証管理の仕事に回された。
育ちの良いはずのムネモスを、
ファウナも高くは評価しなかった。
ファウナは元は洞窟港の港長の娘で、
ムネモスと同じく身分を持っていた。
それでもファウナは娼館に来たムネモスを
妬んだり、憐れんだりもしない。
仕事に集中の無いムネモスより、
仕事に興味を持っていなくても、
要領の良いトリンを評価していた。
わたしはイオスの
柔らかお腹に顎を乗せて、
二人の格好を見上げた。
トリンもムネモスと同じ、
黒色の上着を着ている。
すでに二人は出掛ける準備が整っていた。
「わたしはいま外出したくない気分なの。
だからこうして、
自分の中の恥を雪いでるの。」
わたしが喋るとイオスのお腹が揺れ、
鳴いて迷惑がっている。
「なにかおかしなことがありました?」
「朝の勉強会で失敗してたからでしょ。
諳誦できずに舌を噛んだり、
南部言葉で奇妙な発音が混ざったり、
文章を途中で飛ばして読み間違えたり、
質問に答えてばかりで進まないし。」
全ての反省点をトリンに指摘され、
イオスのお腹に向かって呻いた。
抗議の鳴き声が聞こえるけれど気にしない。
新入りのミニとアミという黒髪の双子は、
入れ替わりで質問を繰り返して惑わせ、
わたしの諳誦に呆れたのか、
教育室を離席したまま戻らなかった。
「みんなの前でお話するなんて、
ニクス姉様は元老院議員のようで、
勇ましくて魅力でしたよ。」
また敬称を付けられたけれど、
指摘して訂正する気も湧かない。
「わたしは本を読み上げるだけで、
議員みたいに雄弁でなくてもいいのよ。」
「瑣末な失敗にも皆が耳を欹てていたのは、
学習に関心が生まれていたからですよね。
みんな喜んでましたでしょう?」
「それを笑われてたっていうんだよ。」
トリンの意見に
わたしの考えが一致してしまう。
「ミニとアミのお二人は、
姉様のお話してくれた本の話を、
食堂でずっとしてましたもの。」
「あの子達は孤児院に居た頃から、
喧しくて堪らないわ。
この子はここに置いて、
わたし達だけで市場に行こう。」
「それはいけません。
護衛も帯同させるように、
サンサお姉様から言われていますもの。
ニクス姉様、見てください。
私達 、お給金をいただきました。
これで姉様に、
市場に連れて行って貰いなさい、
とのことでした。
市場とはどこなのでしょうか?」
「やっぱりわたしも行くわっ!
買い物、してみたいもの。」
わたしが急に立ち上がったので、
イオスが驚いて毛を逆立てた。
「私もです!」
「は? 二人共、
買い物くらいしたことないの?」
「はい。
私はルースを手にしたのも初めてです。」
ムネモスが革袋から金貨を1枚取り出す。

「これ1枚でなにが買えるのでしょう?」
「そんなに買えないと思うわ。
テマッサで二つ…?」
ガロムの店のテマッサが一つ5ルース。
サンサはテマッサを4個買い、
ノーラに金貨を2枚渡していた。

これで1枚の価値は10ルースにあたる。
サンサ達が偽造した金貨の代わりに
新しく作られた硬貨とはいえ、
その金貨1枚がたった10ルースでは
価値が低い気がする。
「本当に10ルースかしら。本物?」
偽貨を疑い始めたわたしの顔を見て、
黙っていたトリンが堪り兼ねて指摘した。
「…いや、1,000ルースだよ、それ。」
想定していた価値の100倍もした。
「そんなに違うの?
100ルースでもなくて?」
「勉強会で教えてる立場なのに、
そんなことも知らないって…。」
トリンは呆れて深い溜め息を吐いた。
――経済の本ならまだしも、
物の相場を書いた本って、
書室には無いのよね…。
自分の不注意と勘違いで、
大きな損をするところだった。
「これだけあれば、館のひと達全員に
記念品を買ってあげられますね。」
「無駄使いしてはダメよ。
今日は見て回るだけにしましょう。
1,000ルースなんて市場に出しても、
使えないと思うもの。」
テマッサ200食分ものお金を使い切るには、
グルグスほどの大食いを100人も
連れ歩かなければいけない。
想像を超えてしまう。
「収穫祭が近くて旅客も多いから、
盗まれたりしないように。
「お買い物はお預けなんですね…。」
彼女は金貨を首に下げた革袋に戻すと、
胸元に隠して残念がった。
◆
スーは朝から写本で工場に行き、
サンサも収穫祭で行う演劇の準備に出た。
他のドレイプも、
新しく入ったフランジを連れ、
美術館の宝飾展などに出掛けてしまった。
胸に水袋を吊るした
大男のグルグスを見上げ、
玄関前で口を開けるムネモス。

「大陸の奴隷は巨体なんですねぇ…。」
「奴隷ではなくて護衛でしょ。」
「あっ。大変な失礼をしてしまいました。」
トリンから訂正を受け、
ムネモスは深く頭を下げた。
フランジだけの外出であっても、
護衛を連れ歩く必要がある。
その理由についてわたしは説明しなかった。
「え? ウントも来るの?」
「良いだろ。
オレは正式な護衛だぞ。
オーナーに言われてんだよ。
グーグスについて歩けって。」
「あっ! 止めなさいウント!」
イオスが悲鳴を放つ。
ウントに髭を引っ張られて、
イオスは館の中に走り去ってしまった。
今日の護衛塔で外出できるのは、
気弱なグルグスにお調子者のウント。

休養日だけあって、
館を出られる他の護衛は
全員外出中になっている。
頼りにしていた護衛のディーゴも、
朝からスーが連れて行ってしまった。
わたしはウントの相手をせずに、
トリンとムネモスを先導する。
イオスを抱えていないと右腕が落ち着かず、
余計に不安が募った。
「あちらの高い石塔が鐘楼ですか?」
「島に建ってるのよ。
街の中心に川が流れてるでしょ?」
「はぁー。
お城の尖塔よりも高い場所ですね。」
「天文学者や鐘撞きが寝泊まりして
火災を知らせたりもするのだから、
ずっと街を眺めてるのかしらね。
退屈な中で、過酷な仕事よね。」
館の建つ赤土の丘を西に下り、
運河を跨ぐ橋を越えると、
北には防壁が見える。
トリンは防壁を睨みつけていた。
羊の群れ、お魚の鱗が広がって空を覆う。
「防壁の先が禁足地なのですね。」
「ネルタの国境だ。
臆病な分水街が奴隷を集めて、
この防壁を作り始めたのは20年も前よ。」
「トリンは大陸語だけではなく、
島の歴史も教えてくれるんですよ。」
ムネモスに褒められると、
彼女は黙って下を向いてしまった。
「二人共、館の仕事には慣れた?
覚えることも多くて大変よね。
特に認証管理の仕事は。」
「補佐ね。」
「トリンには仕事の失敗を、
何度も助けられています。」

鐘楼の建つ日時計島の、
南側の広場には露天商が集まり、
大勢のひとが買い物で出入りをする。
川を越える橋から遠目に眺めても、
この街に住むひとの多さがよく分かる。
木々の緑は褪せ、
赤や褐色に色づき始める。
黄色の小粒の花を咲かせ、
風が甘い香りを運ぶ。
空には南から来た星鳥が、
群れを成して黒い雲を作っていた。
「ひとが大勢居ますね。
お祭りでしょうか?」
「ムネモス。走ってはダメよ。
…逸れると人攫いに遭うわよ。」
「いけません。
興奮してしまいました。
慎みがありませんものね。
私はよくお母様にも叱られました。」
サンサ達の使う子供騙しの脅し文句は、
ムネモス相手には通じなかった。
彼女はわたしとトリンの手を取って、
縦並びで歩くことを喜んだ。
ムネモスの手は柔らかく、暖かい。
広場には、
グルグスよりも大きな男達が居る。
黒装束に身を包んだ二人の道化が
静かに歩く。
一人は長い手を地面に着けて、
四つん這いに。
もう一人は長い足と1本の杖を突いて、
不安定に歩く。
「道化達は広場に普段から居る
オーブの曲芸師よ。」
「ねえ、あれって、どういう仕組み?」
トリンが誰にでもなく訊ねる。
「趾行器具というものですね。」
「趾行?」
ネルタでも使うひとを見ない道具で、
トリンも当然知らない。
「爪先で歩く犬や猫を真似た補助器具です。
オーブでは棒を足につけて魚を獲ったり、
メルセでは果樹の摘花に使われますね。」
「広場の道化は客引きみたいね。
あんな器具を手にする必要はないもの。」
「それにしたって、
なんであんなことをしてんのさ?」
ムネモスまでわたしを見る。
「なんでって…。」
古代の大陸から存在する道化の文化を、
ここで説明して理解してもらうのは難しい。
「あの道化は人間をお魚に見立てて、
オーブで漁を司る神の代わりに
お魚を集めているそうよ。」
道化の行う儀式の
意図だけを簡潔に説明した。
「私達はその魚なんですね。
では今日は豊漁ですね。」
「…なにが楽しいんだか…。」
お魚の群れに喜ぶムネモスとは逆に、
お魚を受けてトリンは苛立ちを見せる。
道化は大小様々な泡玉を飛ばす。
子供が小魚のように道化の足元に集まり、
道化を追いかけ、道化に追いかけられて、
耳を劈く絶叫と泣き声が広場に響く。
落ち着きのある子供などは、
人形使いの芸を見て楽しんでいた。
台の上に立つ、黒装束姿の女が
足元で操る人形を、子供は欲しがる。
黒く細い糸で吊るされる
棒で出来た操り人形は、
魂があるかのように歩き、走り、
激しく踊り、力強い声で歌う。
傀儡と呼ばれるその人形は、
飾緒をした大人にも人気が高く、
いくつか売れていた。
人形にはいずれも
義髪か染糸で頭髪が作られ、
布切れで作った王冠飾りが載せられている。
赤、黒、それから白糸は銀髪らしく、
各地の王や領主を模した人形がある。

人形を買って貰った子供は後に、
お金では技術が身に付かないことを学ぶ。
人形を手にしたところで、
人形使いほど巧みに動かすには、
相応の研鑽が必要になる。

傀儡であっても統治者は簡単には操れない。
以前この広場に来た時には、
気付かなかった発見がいくつかあった。
市場が開かれる広場では、
なにを売るにしても、
街の許可を得なければいけない。
店先には決まって数字と記号が刻印された、
営業許可証の板を掲げている。
数字と記号は、店や位置を記したもので、
縁には等間隔に長短の線が刻まれ、
館で使っている招待札と同じ仕組みがある。
広場に座って
太鼓を股に抱えて叩く娼婦達。
頭巾を頭に被せて宝飾巾を掛け、
法律によって露出を控えている。

跪いて笛を咥えて吹く男娼達。
宝飾巾の奥の彼らは若くて、
痩せ細っていた。

エルテルの隊商は豆類を
大きな天秤で量り売りしたり、
箱に詰めたポッポなどの根菜を
小分けにして売っている。

エルテル領で過剰生産された作物か、
分水街の方が高く売れるのかもしれない。
中には熟した果実を客の前に並べて、
売った客の籠に未熟な果実や、
腐った物を騙して入れる
悪質な店も紛れていた。
郊外近くの農家は季節の根菜に果物、
豆類の他に蔓草で編んだ籠やサンダル、
夏に売れ残ったストロー帽を置いている。

軽食屋台では食べ物以外にも、
調味料の箱が並べられて棚を賑わせる。
別の店には洗濯物のように広げられた
軟体動物の蛸や魷が吊るされて、
風に吹かれて回転しながら客を招く。

市場で売られる燻製肉や塩漬け肉を
客の要望で小型の窯を使って、
その場で焼いて調理する店もある。
グルグスは涎を垂らしているし、
ウントまで餌を前にした犬と化し、
引き離すのに苦労した。
誘惑から逃げて場所を変えると、
鮮やかな光が視界に飛び込んできた。
洞窟港から運ばれる真珠の輝きは、
光沢を持つ石粒なのに人々を魅了する。
表面を覆う石の層が光素を屈折させ、
層が均一で厚い綺麗な虹色を作り出す。
四時の札遊びで、雷霆の時に限って
貝札が3枚も並べられるようになったのは、
貝が作る真珠に由来していた。
飽きて店を勝手に離れようとするウントの
革の帯紐を掴んだままわたしは見て回った。
小さな宝石を埋めた装飾品、
顔が映るほど研磨された金属の食器。
釉薬の陶磁器に、琺瑯の花器。
オーブの媚薬という怪しい品物は獣臭くて、
わたし達は揃って鼻を塞いだ。
美容と健康を謳う、
効能の怪しい薬も売られていた。
それを100ルース、5個も買うひとが居た。
紐と骨や羽根で作られた、
異郷のお守りなどを売る小物屋も隣接する。
並べられた銀や鍍金の装飾品を見て、
レナタやスーが身に着けた時の姿を
想像していた。
彼女達に似合うと思ったけれど、
値段を見てすぐに踟った。
先に言いつけていたわたしが、
好きに買い物を始めては示しがつかない。
フランジの規範になっていたレナタに、
改めて深く感心する。
ムネモスがサンサへの贈り物を
提案したけれど、彼女にあげたところで
喜ぶ姿は想像し難い。
お客さんはドレイプに喜ばれる為に、
館に贈り物を持ち込む。
サンサは頂戴物には手をつけず、
従業員達に配るよう
わたし達に指示をする。
綺麗な宝石も繊細な装飾品も、
旬のおいしい果物であっても、
サンサを喜ばせることはできなかった。
美しく魅力のある装飾品の数々は、
薬とは桁違いの値札が付けられ、
顔を背けてもまた別の誘惑に襲われる。
大陸から来た珍しい鳴き声の小鳥。
大きくて静かな鳥、変わった羽色の鳥。
ひとの言葉を真似て喋る鳥。
飾られた色鮮やかな鳥の剥製が視線を集め、
違う色の鳥の羽根が売れていく。
遠くオーブから来た行商人は、
鳥の羽叩きや毛皮を売る。
金毛の小さな猿が牙を剥き出しにし、
狭い籠の中で窮屈に何度も跳ね回った。
猿が騒がしい店の隣では、
遮光布に覆われた籠の中で、
季節の虫が、翅を擦り合わせて
心地の良い音を鳴らす。
雄が雌を誘う演奏の巧妙さに、
猿を厭う前を通る人々が足を止めた。
甘い香りの木に誘われると、
木炭、泥炭が補充の度に売れ、
肉体労働者によって運ばれる。
冬の備えで取引される泥炭の値段は、
テマッサよりも高い。
竜のように巨大な獣の毛皮。
ナショーの未熟な皮のような赤い色柄。
冬の毛皮や尻尾は売り切れて、
夏の毛皮と鞣された穴開きの革が、
いくつか店頭に売れ残る。
立派な冬毛を店先に飾って
貧相な夏毛を売りつけていた者は、
詐欺行為が徴税人に見つかって
営業許可証を取り上げられていた。
毛皮の中には義髪も紛れている。
金髪に見えるように脱色された
人間の髪が、いくつか飾られていた。
厚い絨毯生地に大陸の模様が織られた、
奇抜な服装をした背の高い男女が並ぶ。
耳には羽根飾りや獣の頭蓋骨を被り、
両の足には足枷をつけている。
並べられた奴隷達は大陸語で反抗すると、
首のロープを引っ張られて棒で叩かれる。
絨毯の服はただのチュニックで、
人買いに捲られて女の奴隷は裸にされた。
若く血色の良い奴隷に人々は手を挙げ、
唾を飛ばして買値を叫び、
奴隷の価値が上がっていく。
値段を上げていくだけの者も
客の中に紛れている。
痩せ細った奴隷はペヌンの袋を身に着け、
買い手も居ないので端に集められる。
50ルースの値札が首に吊るされている。
台の上に立って値段を叫ぶ人買いを、
トリンがずっと睨みつけていた。
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