第7章 第1節 黄金の蜜(第1項)
読み終えた本に、わたしは頭を捻った。
本の末尾は赤い糸で縫われ、
その中身が読めない。
――開いていいのかしら?
――一応、預かりものなのよね。
オーナーの本を。
糸には触れずに本を閉じ、
革表紙のエンボスに触れる。
――『正統記』。
サンサに押し付けられたネルタの本は、
大陸のエンカーンで書かれていた。
読めるようになったエンカーンでも、
内容は婉曲な表現が多くて読解が困難で、
本の全てを理解することはできなかった。
「開けてー。」
「はぁい。」
部屋の扉がサンサに蹴られる。
隻腕の彼女がまたなにかを持って
部屋に戻ってきた。
今日は布を挟んだ銅板を、
何枚か重ねて抱えている。
板から擦れ合った低い金属音が鳴る。
「ありがと。
まだ寝てるわね。
スー。起きなさい。」
「仕方がないよ。
毎日、忙しくしてるし。」
朝食の時刻が過ぎてもスーは寝ている。
彼女はアイリアの生徒になった
レナタを連れて、フルリーンと共に
工房での作業に明け暮れる。
帰りはいつも夕刻になる。
部屋に戻っても寝るまでのあいだ、
彫刻刀で残りの作業をするスー。
彼女達はルービィの本を作る為に、
レナタの絵を羊皮紙に載せようと
試作を繰り返していた。
「セリーニに見初められたのかしらね。
アル。」
黒猫のアルがミャオと鳴けば、
高い方の棚に跳び乗って
スーの身体へ跳び落ちた。
「ぶあっ! なに? アル!
なぁんだ…。びっくりしたぁ。」
ベッドの上の羊皮紙を何枚か落とし、
スーが慌てて跳ね起きた。
「今日も出掛けるんでしょ?」
「サンサ。あ、ニクス。おはよう。」
「おはよう…。大丈夫? 疲れてない?」
白猫のイオスが鳴いてアルを真似し、
ベッドの上からわたしの胸に跳びついた。
「ちゃんと寝たから大丈夫。」
「これ。
作らせたから、試しに使ってみなさい。」
サンサが抱えていた銅板を渡す。
「重ぉい…あ、これ、レナタの絵でしょ?
あれ? 見たことない絵だ…。」
見せられた銅板には何本もの 線が浮かび、
裸のメノーが描かれていた。
「これどうしたの?」スーが目を輝かせる。
「レナが布のもう半分に描いてた絵を、
知り合いに頼んで作って貰ったのよ。」
「作らせた、ってさっき言ったよね?」
わたしの指摘にサンサは目を逸らす。
「えぇー…。
職人の知り合いが居るなら
先に紹介してよぉ。
私達、何枚も彫って
昨日ニスまでしたのに。」
「本業ではないから紹介しないわよ。
彼は大陸史が好きなだけの
ただの道楽者よ。
完成するか分からないものを
期待しても仕方がないでしょ。」
「どんなひと?
本業はなにしてるの?
アイリアは知ってる?
オーブの知り合い?
カヴァのひとかな?
ニクスは誰だと思う?」
「わたしに聞かれても…。」
「…迷える仔羊みたいな男よ。
今日はフルリーンを
市場に連れて行くんでしょ?
レナはもう工房に行ったわよ。」
「あっ! 忘れてたっ。」
スーの洪水のような質問も
サンサは軽々と聞き流してしまう。
「護衛はディーゴを連れて行きなさい。
剣を持たせたばかりのウントでは、
技能的にも体力的にも難しいでしょ。」
「ウントは勝手に喧嘩を始めそう…。」
わたしの想像にサンサも頷く。
「ウントがついてきて
もし街で喧嘩にでもなったとしたら、
置いていっても構わないわよ。」
騎士のハーフガンがエルテルに帰り、
彼の代わりに護衛になったウントは
剣を佩いて自慢していた。
護衛になっても彼の言動は変わらず、
ドレイプはだれも彼を帯同しない。
「護衛なのに、囮にするの?」
「それが護衛の本来の務めよ。」
「喧嘩なんて
護衛がやることではないもんね。」
「軽挙は身を滅ぼすのよ。
ニクスも覚えておきなさい。」
身に覚えがあっても
サンサの言葉には首肯できない。
スーはキャシュクを着て、
ベッドの上でわたしの持ってきた
朝食を食べ始める。
金髪の後頭部が寝癖で跳ねていたので、
わたしは櫛の油を拭き取ってから
絡まった髪を解き、梳いていく。
それを見たイオスが前足で
わたしの肘を突いて、
今日もブラシ掛けを要求してきた。
ブラシを取って左手で顔の前に見せると、
イオスは自分から顔を擦り付けて
歩いて尻尾の根元まで当てる。
ブラシには大量の毛が付いていた。
「サンサ。
ニクスの考えたスタンプが
どうしても綺麗に写らないんだよね。
インクを吸いやすい紙って使えない?」
スーは硬いパンをスープに浸し、
解してお粥にしている。
「犢皮紙かしら?
写本に使うには高いわね。
あなた達が作ってる木製のスタンプは、
耐久性に問題があるわよ。
100冊作る前に壊れるでしょ。」
「レナタの絵は線が細いから、
板に割れ目がよくできちゃってさ。」
「それよりインクを変えた方が早いわ。
ペンを使って滑らかに
文字を書く必要はないから、
インクが紙に付きやすいように、
ゼラチンや鉄粉を混ぜれば
粘性が増すのよ。
画材のことなら専門家が居るでしょ。
ソフィに頼んでみたら?」
「あぁ、それだ。発想の転換だね。」
ソフィはアイリアも使う画材屋の経営者で、
認証管理をしているボナのお客さん。
彼女はサンサを経由して、
オーブのゼラチンを買い求めていた。
わたしは羊皮紙の積まれたベッドの上で、
銅板に1枚だけ混ざった
黒色をした手触りの異なる板に気付いた。
「この板だけ厚いのは…鉄?」
ベッドに置いた鉄板の上に、
イオスが座ろうとしたので持ち上げた。
イオスへのブラシ掛けを続けると、
アルが鳴きもせずに隣に座る。
こうなると猫の中での序列を守る為に、
アルを優先しなければいけない。
「装丁用に準備させたやつね。
これなら革に使えるでしょ。」
「装丁って、本の表紙の?」
「革の上に鉄板を置いて、
叩いて圧をかけて作るんだよ。
薄い銅板でやると、
エンボスが潰れるもんね。
出来上がりが楽しみになってきた。」
鉄の板は厚い革表紙の加工用で、
銅板のような線描だけではなく、
曲面が多く立体的になっている。
「インクに鉄粉を混ぜると
擦れて鉄板が錆びやすくなるから、
使い終えたら手入れしなさいよ。」
「フルリーンに任せるから安心して。」
「…賢明ね。」
サンサは諦めに近い表情を見せる。
わたしは布を重ねたまま板を縛って、
フルリーン特製の旅行鞄に入れて
スーが出掛ける準備を済ませる。
「あいがとぉ、ニクスぅ。」
スーは歯木を口にしたまま礼を言う。
食べ終えた食器をトレイに載せ、
彼女は慌ただしく部屋を出て行った。
「今日は来客の予定もないけれど、
ニクスは本を読んで過ごすつもり?」
「これは読み終えたよ。
ファウナから借りた本も。」
彼女から借りた『ゼズ島冒険記』は、
アイリアの『入植十二画』を見たので
話の流れを知れて言葉の理解も深まった。
「早いわね。
冬まで読み終わらないかと思ってたわ。」
「スーの写本のおかげかも。」
図書館で買ってくれた写本が役に立った。
「それならいま暇でしょ?」
「暇ではないわ…。」
反射的に言ったもののやることはない。
館も閑散期は過ぎても、
誰もわたしの手伝いを必要とはしない。
多忙なファウナでさえ。
暇を持て余した手元は、イオスに続いて
アルのブラシ掛けしかしていない。
自分の場所を奪われたイオスが、
アルの臀部に噛みついて反抗した。
アルに前足で強く叩かれるイオス。
イオスはわたしの肩へと跳んで逃げると、
尻尾を振ってわたしの背中を擦った。
「暇ならスーに頼んで
一緒に市場に行けばよかったのよ。
あなたはまだ、
レナを泣かせたことを
引き摺っているのかしら。」
「わ、わたしは本が読みたいの。」
『正統記』を開いても、
本の文字は頭に入ってこない。
「逃げもしない本を優先するものかしら。
本はあなたに知識を与えるけれど、
あなたに罰を与えはしないわよ。
そんな本よりも今日は
わたしに付き合ってくれる?」
サンサに言われて断る理由ももうないので、
わたしは彼女について部屋を出た。
外は少し肌寒くて、持ってきた上着を着る。
アルとイオスが揃って庭を駆け、
庭園の向こうに姿を消した。
庭園の緑には赤や黄色が増えて、
低木の葉も少し色褪せてみえる。
「今日は羊が群れているわね。」
サンサが見た空には
羊の群れが走っている。
寒さを肌で感じるようになると、
高く積み重なる夏の雲よりも、
雲の小さな集まりが広がった空を見かける。
この高積雲がさらに集まると、
冷たい雨を降らせる。
農民に収穫を促す意味で、
羊の群れと名付けられた雲。
わたしの住んでいたネルタでは、
空を覆う雲をお魚の鱗に見立てる。
やがて降る雨が湖を満たし、
豊漁を願って関連する名前を付けた
と本には書かれていた。
羊の群れは見たことがないし、
お魚も分水街ではあまり食べられない。
わたしにはブレズの粉に水を含ませて、
パン生地を伸ばした空にも見える。
水の粒の集まりでしかない雲が、
見るひとや土地によって名前が変わる。
空気は冷たくなったのに、
日差しはまだ肌を焼くように強い。
「レナは昔、空の羊を追いかけると、
転んで泣いて羊を嫌ったのよ。
そのあとで
初めて仔羊のお肉を食べたら、
今度は羊が好きだなんて言うの。
あの子の感情は忙しいわね。」
誰にだって幼い頃であれば
想像に難くない。
サンサはよく
レナタを子供扱いして捓うけれど、
彼女にもそんな頃はあったのかもしれない。
サンサの幼少期を想像するのは難しい。
「ニクスは、
仔羊のお肉を食べたことあるかしら?」
「話が逸れてるよ。
食べたことは無いけれど。」
「あなたからすればレナは子供でも、
あなたが思ってるほど幼くもないわよ。」
「わたしがサンサに言ったのよ、それ。」
――レナタはわたしが娼婦を忌避したから、
失望しているはずだわ。
「1番部屋を目指して館に来る子もいれば、
孤児院での生活を抜け出す為に
館に来る子も居るのよ。
ユヴィルの館や街娼になるよりは、
ここでの生活は安定しているものね。
中には婚姻相手を探す子も居るけれど、
あまりお勧めではないわね。
そんな他人の考えなんて
本には書かれていないでしょう。」
「知ってるよ。」
認証管理補佐のファウナは、
ドレイプを目指してはいない。
「それなら次に読む本は
もっと大人向けの本が良いわね。」
「大人向けってなに? また猥本?」
「違うわよ。
それはあなたが読みたいだけでしょ。
俗な本ね。
ありふれた、下品で、身にならない本。」
「そんなものが大人向け?」
わたしを子供扱いして捓った彼女は、
前を歩いて肩で笑っている。
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