第6章 第6節 黒塗りの史(第3項)
「レナタはメノーのフランジとして
長く働いているのよね。
病気について話してくれないのは
なぜかしらね。
彼女はレナタを無視するなんて、
子供っぽいことはしないものね。」
「メノーもわたしを子供扱いしますよ。」
――年齢相応と言えるわね。
彼女の言い分を否定できず、
別の説得を試みる。
「レナタだけではなくてわたしやファウナ、
たぶんスーにも言ってないと思うよ。」
「だって、スーは…。」
「わたしはメノーをよく知らないわ。
レナタが身近に見ているメノーは、
普段どんなひとなのかしら?」
「色々教えてくれますよ。
よく話が逸れるのはちょっと困ります。
体調が悪くなければ仕事も休みません。
いつもはよく食べて、よく寝て…。
いつもと変わらず…。
前もニクスと一緒になって、
夜にクァンも食べてましたよね。
クァンは食べなかったのに。」
「クァンは嫌いだったの?
あぁ、味覚が変わったのね。
大人になると酒が飲めるみたいに。」
彼女がわたしの予想に近付いたので、
頭を捻ってから首を縦に振ってみせる。
「同じように過去に、
酸っぱい食べ物が好きになった
ドレイプを知ってる?」
「居ました! ノーラといって…。」
しばらくの間があって、
理由に気付くと跳ねる勢いで立ち上がった。
それを見てわたしは安堵の息を吐いた。
「ニクス…本当? でも…。
わたし、どうしたらいい?」
気付いて感情を沸き立たせるレナタ。
――メノーはきっと妊娠している。
ただし憶測に過ぎず根拠はない。
「いつもの通りレ、ナタは落ち着いて、
なにを言われても感情的にならず
冷静で居たら良いのよ。」
「えっ?」
レナタは固く握り締めた両手を落とした。
「驚かせるつもりのメノーやサンサを
逆に驚かせるつもりでね。
その時の二人の顔を想像しても良いわね。
レナタは二人が思っているほど
幼くはないもの。」
わたしの放った言葉は
彼女の望んだ言葉ではなかった。
「それ…、それで良いんでしょうか?」
「だってこれからすぐに
産まれるわけではないもの。
産まれるのは冬か、春かも。
何日も先なのよ?
勉強会で妊娠の話はしたのかしら?
メノーが妊娠するのは初めてよね。
初産の場合は厳しいことを言うと、
身体にとっては初めてのことだもの、
産んであげられない可能性もあるわ。
メノー本人に確認したわけでもないし、
わたしの勘違いかもしれないのよ。」
わたしにそこまで言われると、
レナタは静かに力無く座る。
「いまから興奮していたらきっと、
レナタのことを周囲が心配するわ。
これ以上伝えては不安になるから、
あの子には黙っておきましょう
って信頼を失うわね。
いつまでも子供扱いされるのよ?」
彼女は弱々しく頷く。
――子供扱いされたら誰だって嫌なのよ。
老人や子供を嘲笑する人間を、
『石臼を回す』と形容して諫んでも、
嘲笑された側は良い気分にはならない。
「館に入ってきたフランジが
ドレイプに憧れを持つのと同じで、
これから産まれてくる子が
見倣えるひとの方がいいでしょう?
レナタは年下でも直情的ではないし、
フランジをまとめているものね。
みんながよく知ってるのは、
幼かった過去のレナタだからかしらね。
いまのレナタを改めて知って貰えば、
メノーもサンサも安心して
あなたに告げられるわね。」
「…分かりました。
メノーを心配させてしまいますからね。
わたし、約束します。」
彼女は床に膝を突いて、
わたしの手を取り誓った。
無責任なわたしの言葉が、
正しいのかは分からない。
メノーの妊娠よりも気になることがあって、
わたしはレナタの手を握り返した。
「レナタ。
あなたはこれから画工になるのよね。
アイリアの生徒になるのかしら。」
「え、…なるんでしょうか?」
彼女は言って照れているけれど、
わたしの迂遠な言葉の意図には
気付いていなかった。
「レナタはこれから、
アイリアの工房で働くのよ。
夜の館を、
フランジを辞めて館を出るのね。」
「えーっ? そんな…
館を出たくありません…。」
「娼婦になんて、なることないのよ。」
わたしの言葉に
彼女は首を横に振って否定する。
豊かな銀の髪を揺らして目を濡らした。
「わたし、嫌だよ。」
喉を震わせるレナタ。
「いつまでも館に居られないのは、
レナタだって分かってるでしょ?」
――それはわたしも同じ。
彼女の藍色の瞳が涙で満ち、頬に零れた。
「ずっとみんなと一緒がいい!
せっかくニクスが来たのにっ!
どうしてニクスが、
そんなこと言うのぉ?」
彼女はわたしの太腿に顔を埋めて
大声で泣いた。
イオスがわたしの胸へと抱きつく。
――レナはわたしとは違う。
それがわたしを酷く動揺させた。
彼女には夜の館に居場所があり、
アイリアという憧れの存在があり、
画工という高い目標があった。
それでもドレイプの見習いで手伝い役、
フランジで居ることを彼女は望んだ。
銀色の髪がわたしの太腿に触れ、
彼女から流れる涙が足を濡らした。
なにもないわたしには彼女を慰められない。
離宮に戻ってきたスーとフルリーン、
アイリアが泣いているレナタに驚いていた。
「スー。」
わたしは助けを求めるように、
彼女の名前を口にした。
「レナタはどうしたいの?」
「だって、みんなと別れたくない…。」
「夜の館から通えば良いよね。
ハーフガンが護衛になるから嫌かな?」
スーは平然と言い、、
レナタを安心させる為に微笑する。
「すぐ近所なんだし、
帰りは上り坂で疲れるかもね。
ハーフガンに背負われるのが嫌なら、
厳寒馬でも飼って乗ってみる?
経験も勉強だよ。
だってレナタは法律で、
あと6年は娼婦になれないもんね。」
顔を涙で濡らすレナタに、
わたしの口布を当てて拭う。
レナタはわたしを拒むように
布を受け取って、自分の顔を拭いた。
「…それって、良いの?」
「えぇ。それで良いわよ。
生徒の部屋はいま、空きが無いの。
突然、新しい環境で過ごすよりも、
そっちのがあなたも楽でしょうし、
わたしも助かるわ。」
アイリアの顔は困って見える。
「覚えることは多いけど、
わたしが教えられることは、
多くないと思いますよ。」
スーに対しては丁寧に謙虚で、
穏やかな声で笑う。
「レナタは画工になるのが怖い?
なれないか不安になる?」
スーの質問に、レナタは鼻を鳴らしながら、
首を横に振った。
「なれるなら、いますぐなりたい。
おばあ、ルービィに心配されました。
でもサンサとメノーが説得してくれて。」
「いい家族ね。」
「…はい。」
――家族…。
「新しい挑戦って、怖いわよ。
画工の道は長く険しいわ。
それにあなたは女だもの。
天蓋山に登るくらいの気持ちは必要よ。
でも踏み出した先は崖峭ではないの。
あなたの人生はまだ長いのだから、
これから好きなだけ楽しみなさい。
それがあなたの絵の糧になるわ。」
「詩的な表現ね。」
「サンサに影響されたのかしら。」
スーの言葉にアイリアが照れて笑った。
――レナは画工になる。
わたしは喉に不安が込み上げる。
レナタがもう手も声も届かない遠くに居て、
立派な存在に見えた。
『この子はニース。』
頭の中でよく通る声の誰かが
わたしを嘲笑した。
◆ 第6章 『暗晦の道』 おわり




