第6章 第6節 黒塗りの史(第2項)
「あなた達が来るから
今朝、マーリャが作ってくれたのよ。」
アイリアの使用人のマーリャが、
お菓子と飲み物を持ってきた。
スーとフルリーンの居ない離宮は
とても静かになる。
テーブルに置かれたガラスの浅い器には、
氷でもなく固まった水に埋もれる形状で、
薄切りにされた果物が入っている。
スプーンを差し込むと
固まった水は簡単に割れて、
薄黄色の果物が切れた。
器を手にしても固まった水は波を立てず、
果物は位置を変えない。
「不思議な食べ物…。」
「ダギラをゼラチンで固めたものよ。」
アイリアはわたしの呟きを聞き逃さない。
ダギラは四時の説明をしていた時に、
スーが言っていたカヴァの高級な果物。
恐慌が起これば需要は減り、
この果物の価値は保てなくなる。
「これがゼラチン…。」
「とってもおいしいです。」
すでに食べているレナタに倣って、
わたしもスプーンに乗せて口に運ぶ。
冷たいゼラチンは砂糖で甘く味付けされて、
ダギラの果肉は噛む度に軽快な音を立てる。
この果物は夜の館でも
お客さんが館によく持ち込み、
贈り物としても毎日のように届く。
それをフランジ達の間食にしたり、
デーンは皮ごと囓ったり、
砂糖で煮詰めて保存していた。
「ゼラチンに
クァンの果汁が入ってるのね。」
仄かな酸味が鼻腔を通る。
「よく気付いたわね。
苦手だったかしら?」
「いいえ。
冷たくておいしいわ。
ゼラチンって初めて食べたの。
動物から取るものだけれど、
これって食べられるのね。」
「ゼラチンって食べ物ではないんですか?」
わたしの言葉を不思議がるレナタ。
「原料の膠は木や革製品の
接着剤に使うはずよ。
扇や楽器にも使われてるのよ。」
動物の皮や骨を裁断して、
お湯に漬けてを抽出、濾過、さらに
煮詰めて濃縮させたものを乾燥させ、
まず接着剤になる膠が出来る。
この膠をまた加熱して溶出、
濾過、清澄を繰り返し行うと、
濃度が高く、澄んだゼラチンになる。
狩猟を行うネルタでも膠までしか作らず、
需要も無いので食べる習慣はなかった。
わたしが気付いていないだけで、
これまでヤゴウの料理には
使われていたのかもしれない。
「ゼラチンは最近では画材にも使うわよ。
溶かして顔料と混ぜ合わせてね。
ソフィの画材屋には
質の良い物があるのよ。」
認証管理のボナを目当てに
夜の館を訪れたソフィは、
このゼラチンで画材の商売をしていた。
「わたしもこれを食べたのは、
サンサに初めて会った日だったわ。」
「サンサとは
昔からの知り合いなのよね?」
レナタはお菓子を食べながら、
二人の関係に目を見開く。
緑の飲み物は酸味と甘味が混ざって、
苔の緑色から想像した通りの風味が
咥内を支配する。
レナタが頬の裏で舌を動かして、
その味に堪えている。
「彼女は最初、
マルフに声を掛けて来たのよ?」
「清浄屋よね。
マーリャ。
レナタには水か
別のジュースを貰えるかしら。」
わたしは手を挙げて
アイリアとの会話を中断し、
彼女の使用人に飲み物を求めた。
「これは好みが分かれる飲み物ね。
レナタの分はわたしが貰うわ。」
「…ごめんなさい。」
項垂れる彼女の手元から、
杯をわたしに寄せる。
おそらく野菜を潰して濾した飲み物で、
甘いものが苦手なマルフの為に
作っているものと思えた。
少量の砂糖が加えられていても癖があり、
繊維質が主張する食感の残留物が
舌の上からしばらく離れない。
太腿の上のイオスが前足を伸ばして、
ダギラのお菓子を狙っていた。
わたしはイオスの頭を掴んで黙って制する。
野菜の飲み物をイオスの口元に寄せると、
身体を捻って逃げて太腿に顔を埋めた。
「謝らなくていいわよ。
お菓子が甘いものだから、
口直しになるものと思って
わたしが用意したの。」
「マルフ向けの飲み物なのね。
彼は今日も仕事かしら?」
マルフは清浄屋という会社を営み、
分水街のゴミ回収をしている。
彼の会社は館の不要物の回収も行う。
「えぇ。今日も従業員に、
小言を並べてるはずよ。
お菓子を食べながら、
話す内容ではなかったかしら。」
アイリアが言うと、
瓶を持ってきた使用人のマーリャを
離宮から下がらせる。
「マルフは街で集めた不要物を堆肥にして、
郊外まで運ぶ謂わば賤業なのよ。」
「街にとっては重要な仕事だわ。」
「アイリアはマルフのどこに
惹かれたのですか?」
「レナタ…。
それは聞くべきではないと思うよ。」
「だって…、気になりませんか。
二人共、好き会ったからですよね?」
夜の館で育った彼女は、
そんな話に興味を持つ年頃
なのかもしれない。
「言い広める話ではないわよ。
わたしと違って、
綺麗なものが好きな性格が
気に入ったのかしらね。
あぁ見えて。」
彼女の言葉に踟いはない。
「えぇ。それはつまり、
マルフにとってアイリアが
綺麗に見えたからですよね。」
「あはは。そんなこと初めて言われたわ。
わたしはいつも、
モルタルや絵の具で汚れてるもの。
マルフにも言われたことないのよ?」
言ったことに照れるレナタに、
アイリアが笑って喜ぶ。
「マルフを総督にしたのはサンサだって
彼が言っていたけれど、あのひとは
なにをやらかしたの?」
「やらかした?
あなた達が想像するほど、
酷い話でもないわよ。ふふっ。
不要物に手間を加えて、
肥料にしてエルテルに運んだの。
あのひとはエルテルの養女でしょう?
領地がエルテル風邪から回復しても、
肥料不足で不作が続いてたのね。」
彼女の話にわたしは頷く。
「『捨てるものにも価値はある。』
そんなことを以前、
サンサが言ってたわ。」
「無産街で生まれ育ったわたし達は、
社会に捨てられたも同然の存在ね。」
杯を口に運んだアイリアは
わたしを見て自嘲する。
「価値と言ったのは不要物のことで、
アイリア達の境遇を知って
言ったわけではないのよ。」
わたしは慌てて訂正した。
「あなたはおかしな子ね。」
アイリアの意見に
レナタが同意してわたしを見てきた。
「なんて名前だったかしら。
セリーニではなくて、ニケ…。」
「彼女はナルキアのニクスですよ。
サンサの部屋のフランジです。」
「あぁ。
夜の女神からなんて変わった名前よね。
ナルキアということはルービィ…、
いえドロシアの隠し子かしら。
だからサンサの部屋なのね。」
彼女は口元を隠して目を逸らす。
「彼女の言い間違いで
わたしはナルシャの孤児よ。
マルフには迷惑を掛けて
コートを預かっているわ。」
館に来た翌日、庭で倒れたわたしは
彼が着ていた羊毛のコートを掛けられた。
彼が忘れ物にして置いていったコートは、
いまは衣装室に入ったままにしている。
「白羊毛のコートね。
あのひとは偉ぶる時だけ着て、
似合ってなかったわね。
清浄屋なんだから、
汚れてもいい黒羊毛を着るべきだわ。
あなたが着れば、雪原に咲く花のようで
よく似合うはずね。」
彼女は言って頭を傾け、
なにを想像しているのか深く頷く。
「あなたが、春に来た
夜の女神のニクスなのね。
あぁ、やっと思い出したわ。
あのひとから聞いた話とは違って、
家名もないからわからなかったわ。
わたし達もナルシャだもの。
出自を問いはしないわよ。
家族は居たけど、
貧しくて家名は無かったのよ。」
声を控え、彼女は目を細めて苦笑する。
「モザイク画でアイリアに並ぶひとは、
この街には居ないくらい巧いんです。」
「レナタみたいな若い子に言われると、
落ち着かなくなるわ。」
「わたしはアイリアの足元にも及びません。
モザイク画は
一つも作ったことがありませんし。
この『入植十二画』はこの街の
至宝とも評価されてるんですよ。」
彼女はわたしに向かって、
自分のことのように誇っている。
「それを言ったのはあなたが初めてよ。」
――スーはメノーの壁画を
秘宝なんて言ってたね。
「絵から魂を感じるほど巧みだものね。
レナタが気に入るのも分かるわ。
わたしもメノーの壁画を初めて見た時、
生きてるひとかと思ったほどよ。」
離宮の天井から入る光の加減で、
壁に埋められた絵の表情が変わって見える。
「夜の館に入る孤児の中には、
スーやファウナのような
妙な経歴の子も居るけど、
サンサの部屋のあなたも別格ね。」
「ニクスはおかしいんですよ。」
「意地悪な言い回しね。
レナタはわたしのこと、
そんな風に見てたの?」
レナタが奇妙な言い方をしたせいで、
アイリアはテーブルに顔を伏せて
哄笑してしまう。
「アイリア。
レナタは館では普段、
フランジをまとめてるのよ。
今日は熱でもあるのかしら。」
「すみません。わたし…。」
気分が高揚していたレナタも、
指摘されて気を落とす。
「レナタのことなら、
ずっと前から知ってるわよ。
ルービィもドロシアも、
メノーも辞めたノーラも、
猫のアルもね。
元気なことは良いことよ。
わたしなんていまは右腕を患ってるの。」
「最近新作が出ないのは、
病気が原因だったのですね。
お大事なさってください。」
「なにかの病気?」
「これまで酷使したものね。
サンサが言うのよ。
老いればなんでも悪くなるって。
どんな名医でも、
老いという病までは
治せないと言うものね。
若いあなた達が羨ましいわ。」
「サンサは他人の老いを
羨ましく思うんですよ。」
「彼女は若いままだものね。
あの若さの秘訣が知りたいわ。」
アイリアの好奇心に、
わたしも同意して首を縦に振る。
「あ、メノーも最近、体調を崩していて、
なにかの病気らしいんです。」
「メノーが?」
それを聞いてアイリアは驚く。
「館にも顔を見せずに、
ルービィの館と病院ばかりで。」
レナタの話にアイリアはわたしの顔を見た。
彼女は説明を求めている。
「すぐに良くなるわよ。
サンサも『たいした病気ではない。』
って言ってたでしょ?」
「でも…。」
レナタの心の中ではきっと、
春に病で死んだウラのことが
見えないほど深い傷跡になっている。
「1番部屋のメノーがお休みだなんて、
どうしたのかしらねぇ。」
わたしはアイリアへの説明を考えて、
開きかけた口を固く結んで首を横に振った。
「ふふっ。
あなたを試すようで悪かったわね。
流言は好まず、よね。」
わたしは黙って頷いて見せる。
「ニクスはなにか知ってるんですか?」
――レナタがメノー本人やサンサから
聞いてないのには理由があるのよね?
「しばらく席を外すわね。」
「えぇ。心遣いに感謝するわ。」
アイリアは瞼を閉じて見せ、
わたしに向かって頷いた。
彼女が離宮を出たのを確認してから、
わたしはレナタへの説明を探る。
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