出掛けることが決まると、
スーはすぐに厩舎の若い従業員に
馬車の手配をさせた。
今日は休養日ということもあり、
館の馬車は全て出ていて、
街道に立って乗合馬車を呼び止めた。
護衛のグルグスを連れ、
フルリーンと4人で図書館に向かう。
わたしも当然のように帯同させられた。
図書館の場所は夜の館のある赤土の丘から
西へ向かって橋を二つと日時計島を通り、
また橋を二つ通った先にある。

馬車で行けばすぐの距離でも
久しぶりの馬車移動だったので、
降りてからの足の感覚がおかしい。
「まだ地面が揺れてる気がする。」
「ニクスは三半規管って知ってる?」
わたしは瞼を一度閉じて頷き、
母指・示指・中指を、上・前・左の
3方向に立ててスーに見せる。
耳の奥に備わっている半円状の3本の管は、
管内の体液が流動することで、
前後・左右・上下の傾き感知する。
これが姿勢を保つ平衡感覚の仕組みと、
メノーから借りた医学書に記されていた。
「帰りは徒歩にする?」
「大丈夫…でもないひとが居る。」
わたしの視界には、
まだ揺れる地面に鞄と共に蹲る女が居た。
腰の革紐には護身用の短剣が見える。
フルリーンが短剣1本で遠くのオーブから、
分水街まで来られたのは不思議に思う。
「短い距離でこんなに酔うのに、
フルリーンはオーブから
どうやって来たんですか?」
スーが当然の疑問を投げかける。
「本物の馬?」
「…歩いて来たに決まってるだろ。
妾腹の娘なんて、
馬にも乗せられないからな。
オーブでは当然の扱いだ。」
「馬でも月の半分は掛かる距離ですよ?」
南東の山間にあるオーブ領から
旅行鞄を一つ牽いて歩いて来た、
と言うのでわたしも耳目を疑ってしまう。
「偏屈爺が死ぬまで、
あいつの世話係しか
させられなかったんだぞ。
こんなに美人の孫娘を。」
彼女は言って笑っている。
「それに銀髪だから、
余計にカヴァの下働きと同じ扱いだ。
手紙を貰ってさっさと抜け出したわけだ。
あの馬。
あれに車輪つけて
乗って届けられたら良かったんだがなぁ。
『退化の科学論』にあったやつ。」
「完成しなかったんですか?」
「歯車が重くなるし
衝撃にも弱いから諦めたんだよ。
子供が使うからって曲軸を軽くする為に、
耐久性の低い木製にしたのが原因だな。
オーブみたいな山も多くて、
道が整備されてないとこだと
車輪が機能しないんだよ。
馬車に揺られて移動するくらいなら、
趾行器具で歩いた方がまだ楽だぜ。
車輪はせいぜい、
この鞄につけて引き摺るくらいだな。」
熱心に解説するフルリーン。
「元気になりましたね。」
スーが体調を指摘したので、
彼女は笑って頷く。
雨染みに汚れた大理石の重厚な建物。
そこに幾人もの彫像が壁に刻まれ、
石壁から隆起した筋肉や
纏う布が力強く波打つ。
――…魂だわ。
石像はいまにも動き出しそうで魂を感じる。
建物の入り口には
二人の男が待ち構えている。
腕を掲げてコートを靡かせる者と、
分厚い本を片手にする者の二つの石像。
「ニクス、知ってる?
あっちがソーマで、
こっちもソーマなんだよ。」
「二つともソーマなの?」
見上げた石像の顔は似ている気がする。
「指導者のソーマと裁判官のソーマ。
他にも開拓者に冒険家とか、
地域によって色々なソーマ像が
あるんだよ。」
「オーブは射手のソーマが
祀られてるぜ。」
「あそこで弓を引いてるのが
オーブの射手のソーマですね。」
「土地ごとにソーマが居るんだ。
ソーマって地位の肩書きなの?」
壁面に彫られているものは
全て同じソーマらしい。
「おかしいでしょ。」
「ソーマを知らないって、
大陸から来た人間か?
あんた、どこの出身なんだ?」
「えっ? あ…。」
フルリーンが
銀色の冷たい瞳でわたしを見つめる。
「フルリーン。
彼女はナルシャのニクスですよ。」
「ナルシャのニクス。
夜の女神か…、
そいつは仕方がないか。
ニクス。
あんたは品もあって豪胆だから、
無知なお姫様かと思ったんだがなぁ。」
「あ、はい…? いいえ…。」
首を縦に振って、
疑問を抱いてから否定した。
忙しいわたしを見てスーが笑う。
◆
護衛のグルグスを図書館の外で待機させ、
階段を上がってわたし達は館内に入る。
「わぁ…。あれが全て本なの?」
館内の壁は棚で埋め尽くされて、
そこには大量の本が置かれている。
「本の貸し出しは、
受付の司書官に申請する仕組みです。」
大勢の利用者が列を作って、
その向こうでは司書官達が本を探し回る。
「自由に見れないのか。」
「恐慌が起きていた頃は犯罪が増えて、
中流階級に開放されない時もありました。
最近になって放火は減りましたけど、
議長の保険屋は放火で儲かった
と言われています。
司書が写本して貸し出した本が
西側の過激な連中に燃やされたり、
契約を無視して又貸しで紛失したり、
勝手に売られていたりと問題も多いとか。
この街の歴代の総督への手紙も、
地下の保管室に残されてるんですよ。」
「そんなことまでよく知ってるな。
名前、なんだっけ?」
「スースです。
気軽にスーと呼んで下さい。
いまの西側は治安が悪いので、
図書館へ行くことは減りましたね。
街の西側は総督のマルフではなく、
ユヴィルという人物が仕切っていて
いまも焦げ臭いと評判ですね。」
「焦げ臭い?」
オーブから来た彼女は
スーの言い回しに引っ掛かる。
「街の東と西は仲が悪いんだよね。」
「政治なんかに興味ねえなぁ。」
スーは館内に置かれている
書字板とスタイラスを手にした。
「ニクスも、
借りたい本があったら言ってね。」
しばらく考えても答えは出ない。
ファウナから借りたゼズ島冒険記や、
サンサに押し付けられた本も読めていない。
「フルリーンは地図以外ですと、
天文学はいかがですか。」
「天文学かぁ。」
「ニクスも読む?
改暦してみる?」
「スーの棚にあるその本は
手にしたことすらないんだよ。」
「それで改暦でもできたら、
女でも統治者に近付けるなぁ。」
「欲が透けてるよ。」
わたしの指摘に彼女は鼻で笑う。
「夜の館のドレイプになれば、
向こうからやってくるのか。」
「相応の知識がなければ、
そんなドレイプにはなれませんよ。」
「ほら前、進んだぞ。」
フルリーンがスーの頭を片手で掴み、
前を向かせて列の進行を促す。
「なにか読みたい本はありますか?」
「街の開拓記録と料理の本かな。
こっちの祭事の記録とかはあんの?」
「オーブは息女でもお料理をするの?」
「継承権の無い妾腹だぞ。
下働きをさせられてたって言っただろ。
食べられるもんなら作れるぞ。」
「それってお料理っていうの?」
「食材を仕込めばなんでも料理だろ。」
彼女の意見は否定できない。
料理をしないわたしは、
料理の定義を想定できずに首を捻る。
「焼く、炒める、茹でる、
煮る、蒸す、揚げる。
料理で火を使うのはこの6個だね。
切る、捌く、砕く、混ぜる、練る、
塗る、包む、絞る、濾す、発酵、
といった工程が含まれると
料理っぽくなるよね。
一番料理っぽいのってなんだと思う?」
書字板に要望の本を記しながらスーが問う。
「それって謎解き?
『料理っぽい』って主観の話?」
「作る側で考えてね。」
「道具が必要な『切る』とか?」
曖昧な設問には疑問で回答するしかない。
「人類の歴史からしたら
火を扱う『焼く』だろ。
火を通して
食中毒を起こさないのが大切だ。
胃腸の弱った相手なら命に関わる。」
フルリーンの意見にも納得感があって、
わたしもスーまでも頷いている。
生肉を食べて死者を出すようなオーブの
娘らしくはない答えだった。
「私の答えは『味見』でした。」
「えぇー。」
「なんだよそりゃ。」
フルリーンも不満を浮示かべる。
複数の状態を持つ広い定義の設問から、
項目以外の正解を導けるはずはなかった。
「食材が腐っていては、
料理になりませんからね。」
わたしの知る彼女の味見行為は主に、
料理やお菓子の摘み食いのような気がする。
「腐敗と発酵は、
人体にとって有害か有益かの違い
でしかありません。
料理で大切なのは、
味覚という曖昧な標準に従うことです。
「曖昧な標準…。」
相反していたので復唱した。
「あぁ、なるほどな。
料理はいくら味付けしても、
食材が腐ってたら意味がないからな。」
料理をするフルリーンが納得した為、
わたしは意見を控えた。
「フルリーンはここで
お料理をするから本が欲しいの?」
「オーブとこっちだと気候が違うから、
作物や流通にも変化があるだろ。
祭事は地方によって貢ぎ物も違う。
それと流行の本も見ておくか。
技術書関係で珍しい本もあれば
読んでおきたい。
大陸語でもいい。
服に装飾品、ついでに
人気の猥本も何冊か見たいな。」
「猥本?」
そんな名前の本は
読んだことも見たこともない。
「図書館に猥本は置いてませんよ。
汚されやすい内容ですし、
秘め事にも繋がります。
夜の館でも通いの商人に依頼するしか
入手方法はありませんね。」
「あっ!」
スーの説明に気付いて声が出た。
「それにこの街ではエルテルの、
旧中央街から来る写本ばかりですよ。
街角で売られてる人気の本も、
徴税人が検閲します。」
「それならしょうがないな。」
フルリーンの話を聞きながら、
スーは注文用の書字板を
埋め尽くすほど記載した。
受付台の向こうに司書が座っている。
彼らは来館者の身分証を確認して、
注文が彫られた書字板を眺め、
要望の本を持ってくる。
――司書ってこういう仕事なのね。
彼らの働きを眺めながら、
塔に住んでいた時に会った
司書官のゴレムを思い出した。

わたし達の順番が来て
要望した本の書字板を渡すと、
司書の男は意図して渋顔になる。

司書官は顔を上げ、
わたしとフルリーンを見てから
溜め息を吐いて見せた。
「あんた達、身分証は?
言っとくがカヴァの蛮族や、
無産街のガキには貸し出しはできない。」
「なんだ、こいつは?」
フルリーンが不敬な男に指示する。
ネルタの赤髪のわたしならまだしも、
司書官はフルリーンの銀髪を見て、
カヴァの血筋と勘違いして侮辱した。
「私の身分証で借りるよ。
これでいいでしょ?」
スーは首に下げた布袋を、
豊かになった胸の谷間から引っ張り出し
手のひら程度の銅の板を摘んで見せる。

周囲の視線は彼女の胸の方に集まる。
手にした銅板には名前といくつもの数字と、
いくつかの記号が打ち込まれている。
この身分証は他領でも用いられる
装飾品の飾緒とは異なる。
公共の施設で提示すると、
スーが分水街の自由身分を持った
権利の主体者であることが示せる。
スーの身分とは関係のないところで
フルリーンは驚いていた。
「スーって、もしかして成年なのか?」
「えぇ。16歳です。
でも娼婦、ドレイプではありませんよ。」
「同い年か! 妙だと思った。」
「え! フルリーンも16歳なの?
大人っぽいから年上だと思ってた。
ちゃんと喋ってたから疲れちゃったよ。」
言って両手を握り合わせて踊り燥ぐ二人に、
司書官は分かりやすく咳払いをした。
「あんたらの利用は許可できない。
どうせ本を返しはしないだろ。」
顎を突き出して口角を上げる司書官。
「ん? ダメなのか?」
「ダメなはずはないよ。
一人で大量に借りようとするから、
彼は訝しむんだよ。」
「さっき言ってた、
又貸しってやつだろ。」
フルリーンも納得して頷く。
「なぜ許可が降りないの?」
司書官が許可しない理由に、
わたしは納得いかずに抗議した。
銅の身分証は中流階級の労働者でさえ
持つことが許されていない。
外の領地からの旅客でも手にできず、
孤児や奴隷にも与えられない。
「必要なものがあるのなら説明すべきよ。
あなたは図書館の下男ではなく、
司書なのよね?」
「子供が騒ぐ場ではないぞ。
これ以上騒ぐようなら警備を呼ぶぞ。」
司書官は身分証を持たないわたし相手に、
目を合わせようともしない。
理不尽を受け入れられないわたしに、
スーがわたしの腕を組んで来て
彼とフルリーンに言った。
「利用する前に契約書を交わすよ。
フルリーンも無くす前に謝っとく?」
「契約書を交わすんなら
本は返すべきだろ。
あたしが借りに来たんだから、
スーが身分証を出してたら又貸しになる。
言い掛かりがつけやすい。
身元保証人はメテオラで良いか?
知っての通りオーブの領主だ。
銀行屋のマイダスを望むんなら、
後日ミカにでも送り届けさせるが。
こいつで身分は保証されてるはずだろ?」
フルリーンは受付台に上半身を乗せ、
銀の長い飾緒を見せつけつつ、胸元から
折り重ねた羊皮紙の証書を開いて見せる。
年下の女相手に言われて
格好がつかない司書官は、
一番弱そうなわたしを睨みつける。
彼が保身の為に
わたしを睨んだところで怖くは無い。
感情の底知れないハーフガンの睨みに
慣れているせいもある。
「で、どうなんだ?」
「早くしろよっ。いつまでやってんだ。」
後ろに並ぶ男が言うと、
フルリーンが騒ぐ彼の頭を
掴むように撫でる。
「ちょっと静かにしような? な?」
後ろの男を脅して黙らせたところで、
前の司書は依頼を受け付けない。
スーはまた袋から、
今度は布に包んだ金貨を
摘み出して司書官に渡す。

「借りるのは辞めとこうか。
この図書館は
司書に頼めば写本を買えるんだよね。
これで買えるかな?」
「まさか…ユイガス金貨…?」
「あぁー、買収だぞ、そいつは。」
誘惑される司書を見て、
フルリーンは腕を組んで喜ぶ。
「貸し出し可能な本は
どれも写本で貴重でもないし、
ここでなら買えるからね。
地図は最新のモノでお願いね。
ここに記載した写本は
全部買い取るから。」
「それ1枚で買えるの?」
表面にエンボスされた肖像画には、
宝飾巾をした男の顔がある。
「放蕩息子が欲しがる物で、
『館を売って金貨を集める。』
なんて言葉もあるしなぁ。」
「そんなに価値があるものなんだ。
そんな金貨を出して良かったの?
ただの写本だよ?」
スーは苦笑を浮かべて首を横に振る。
「いまは使われない古い金貨だからね。
ニクスはまだ真似したらダメだよ。」
「まだって…。」
「これでお願いね。」
「では、少々お待ちください。」
スーの身分証を改めて確認し、
金貨を見て喜びを隠しきれない司書官は、
書字板を受け取ると本を目指して走り出す。
「精励しろよ~。」
と、フルリーンは小声で声援を送る。
わたし達を拒んでいた司書官に、
スーは彼の望むものを見せつけて
気を引かせることで行動を促した。
彼女はわたしと腕を組んだまま
顔を見て微笑する。
「司書を非難するニクスは、
なんだかサンサみたいだったね。」
「比べられても嬉しくないよっ。」
スーは褒めたつもりでも、
わたしは下唇を軽く噛んで不満を見せた。
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