第6章 第1節 館の落実(第3項)
邸宅地を曲がると通りから鐘楼が見え、
そこには夜の館のオーナー、
ルービィ達の住む館がある。
「おかえりなさい。お嬢様方。」
「ただいまぁ、ドロシア。」
「ジュースを用意してるから
後で持って行くわね。」
「ありがとうございます。」
ルービィの妹、ドロシアに迎えられて
わたし達は玄関から館に入る。
「ドロシアが書類仕事をしてくれて
助かったわ。」
ドロシアはいまこの館で、
使用人のような仕事を趣味にしている。
ドレイプの銀行口座の管理や給金、
納税、身分証の登録なども行っている。
彼女の存在が無ければ、
わたしや、夜の館さえ成立しない、
とまでサンサは言っていた。
「ところで本職は良いの?
最近あなたの活躍を耳にしないけれど。」
と、サンサが訊ねる。
「そっちは若い子達に任せてるわ。
マルフみたいに
若い子から仕事を奪ったら、
成長しないものね?」
「それはいい心掛けね。
後ろの護衛二人の面倒も、
ついでに見て欲しいわ。」
ドロシアとサンサが笑い合っていると、
ハーフガンとウントは黙って庭で別れた。
◆
「はぁ、疲れたぁ。」
応接室に着くと、
メノーはさっそく革のソファに寝転がる。
「早かったわねぇ。」
部屋の奥から果物の入った
ガラスの器を持ってきたルービィは、
わたしを見て頬に美しい皺を作った。
年齢を重ねたひとにだけ生まれる表情は、
動きのない絵には出せない魅力がある。
「ルービィ。
本日はご多忙の中、お招きに与り
ありがとうございます。」
わたしは半歩下がって
片膝を床に触れるほど低く腰を落とし、
館の主に向かって深く頭を垂れる。
「やぁーまた美人になってぇ。」
器をテーブルに置くと、
ルービィは無理に高い声を出して
わたしを抱き寄せる。
彼女は白髪交じりの長い赤髪を、
後頭部に巻き上げている。
「ルービィ。
これ以上レナを甘やかさないでよ。」
サンサの言い分を無視して、
彼女はわたしの髪を優しく撫でた。
「狡いわよ。
あんた達は毎日見てるんだから。
長旅を終えて帰ってきたわたしを、
労ってくれるのはこの子だけよ。」
「わたし、ジュース飲みたぁい。」
ルービィを気にもせず、
メノーは横臥した状態で
器の果物に手を伸ばす。
「家に帰ってきてすぐこれって、
いかがなものかしら。
親の顔が見たいわねぇ。」
「あなたよ。あなた。」
と、サンサが言ったから、
ルービィの腕の中でわたしは笑った。
「ほら、新入りのイオスよ。
挨拶なさい。」
サンサは義腕を
アームカバーごと乱雑に外すと、
イオスを手にして抱えた。
「小さな護衛ね。」
ルービィが鼻先に手を向けて挨拶すると、
イオスはビャオと掠れた声で鳴いた。
「それで、本は書けたの?」
「えぇ、あるわよ。
後ろの棚に。
これが最高傑作よ。」
「エルテルに行くまで、
ずっと書けないって言ってたのに。
不安しかないわね。」
「本? 劇場の?」
「ルービィは戯曲なんて書かないわよ。」
わたしは今日、
3人でルービィの館に来た理由を知らない。
彼女が長い旅行から帰って来たのを知り、
いつもの挨拶のつもりだった。
「女手一つで娼館を大きくしたオーナー、
ルービィの最高傑作を
本にして売るのよ。」
「なによ。依頼通りに書いたわよ。
まとまってないけれどね。」
「ふふっ。
先に最高傑作と言ったのは
ルービィ、あなたよ。
で、そんな本を成功させる為に、
レナにこれから働いて貰うわよ。」
「わたし? なにができるの?
法律に引っかからない?」
「メノーはそこで脱いでて。」
「はぁい。」
サンサの粗略な指示でも、
メノーはなにも疑問を持たずに
キャシュクと肌着を脱いでソファで寛ぐ。
「オーブにも行ってきたの?」
狩猟で有名なオーブ領の
雄鹿の毛皮がソファに掛かっていたので、
メノーがそれを両肩に掛ける。
「えぇ。あの子達が居たから、
賑やかな旅行だったわよ。
言葉は分かってなかったけれど。」
「大陸のひとと一緒でしたよね?」
「フレヤとレイヤね。」
「あの子達も政略とはいえ、
監視までついて同情するわねぇ。
あなたやサテュラほどではなくても。」
ルービィが口にしたサテュラは、
スーの母の名前だった。
「比べるものではないのよ、ルービィ。
あなたにも、
他人の物差しや天秤の錘で比べられない
経験はあるでしょう。」
サンサの忠告に、
ルービィも頷いて口を閉ざした。
「メノーは括れを強調して腰を捻って。
あなた、大きくなったわね。」
「えぇ。そんなことないよねぇ。」
「大きくなったわよ。」とルービィも言う。
モザイク画の頃とは違うメノーの姿に
わたしも頷く。
夜の館と病院との往復頻度が増えると、
馬車での移動のあいだに必ず果物を食べる。
食べている途中で彼女は寝て、
馬車の揺れに酔ったりもして、
食べたものを吐くこともあった。
ニクスと一緒になって夜食まで食べている。
「レナはあのメノーを理想化して描いて。
アイリアの壁画くらいね。
得意でしょ?」
「絵を描かされるなんて、
わたし聞いてませんっ!」
わたしは首を横に振って抗議した。
「まだ使ってない羊皮紙か、
白い布はあるかしら?」
「テーブル掛けならあるわよ。
これに描くの? 大きいかしら。」
ルービィは巻いた生地を棚から取り出して
テーブルに広げた。
「ルービィも、レナが勉強会の時、
ずっとお絵描きしてるのは
知ってるでしょ?」
「えぇ。
あなた、蔑ろにされてるのよねぇ。
レナタは仕事に真摯でも、
それでは他のフランジに
示しがつかないわねぇ。」
ルービィは腕を組んでわたしを見下ろす。
喉からなにかが出てきそうな、
不安な気分になる。
するとサンサがわたしの髪を撫でた。
「レナは将来、
アイリアみたいな画工になりたいのよ。
それでベッドの下に色々隠してるわ。」
「えっ、なんで知ってるのっ!」
サンサがわたしの秘め事を暴いたので、
大声を放ってしまった。
「わたしは知ってたよ。」とメノー。
「ほら、ルービィを黙らせるくらい、
巧く描いてみせたらいいのよ。
メノー、それ食べたらもっと太るわよ。」
メノーは器に置かれた黄色の果実、
拳ほどあるダギラに手を伸ばした。
メノーの咀嚼音が耳を擽り、
イオスがソファに前脚を伸ばし、
何度も鳴いてダギラを要求している。
アルまで隣に座って待っていた。
サンサがわたしのチュニックから
木炭を取り出して押し付ける。
「…良いの?」
「わたしがレナのやっていること、
否定したことあったかしら?」
彼女から木炭を受け取って、
すぐに思い浮かんだことを言った。
「果樹園からクァンを取った時に…。」
「あったねぇ。」
メノーがダギラを頬張って懐かしむ。
「なにしたの?
それ、おばあにも教えて。
サンサはどうしてそんな大事なこと、
わたしに報告しないのかしらぁ。」
先日のことを懐かしむメノーと、
わたしを問い詰めるルービィ。
わたしはそれで余計に恥ずかしくて、
黙って布と絵に向き合った。
ダギラを貰えずにイオスが叫んでいる。
「酔っ払いはどうしてるの?」
「庭で待たせてるわよ。
外が騒がしいから、
新入りのウントを教育してるのね。」
わたしがメノーを描いているあいだ、
サンサはルービィと館について話をする。
木剣を打ち合う乾いた音が庭に響いて
応接室にまで聞こえてくる。
「ウントに剣を渡したら
ソーマを帰そう思うわ。」
「あなたの企み通りにいくのかしら。」
「彼が自分自身を縛ってたのよ。」
「そんな風には見えなかったわよ。」
「加齢と共に視力は衰えるのよねぇ。」
「メノーは黙ってなさい。」
メノーがおかしなことを言ったせいで
ルービィに叱られている。
メノーが姿勢を変えたから、
わたしは布を横に移動させて
まだなにも描いていない余白を探す。
「あなたはまだなにか企んでるの?」
「人聞きが悪いの悪い訊ね方ね、それ。
人間は一人では生きていけないけれど、
誰であれ、時には独りになって、
自分に向き合う時間が必要なのよ。」
「…お祈りみたいな?」
サンサの言葉にわたしは訊ねた。
「似ているわね。
炭がついてるわよ。」
サンサは頷いて、
絵を描くわたしの顎を布で拭った。
「あんな男でも居なくなると寂しい?」
「えぇー…。なんで?」
「わたしは寂しいわよ。
みんな、いつかお別れが来るのよ。
突然ね。」
「うん…。
ウラも居なくなりましたからね。」
わたしと同じメノーの部屋のフランジで、
春に入ってきたのがウラだった。
すぐに病気になってしまって、
病院の別館に隔離されると、
彼女はそのまま帰ってこなかった。
入れ替わりで夜の館にニクスが来て、
ウラとは話すことがあったのに
なにも言えずにお別れをしてしまった。
彼女を思い出すと目の周りが熱くなる。
「ウラの件は残念だったわねぇ。
レナタも、彼女の最期を
看取ってくれてありがとう。
つらかったでしょう。」
わたしは黙って首を横に振った。
「わたしへの労いの言葉はぁ?」
「メノーは黙って
レナタの為に動かないでっ。」
「ふぁい。」
ルービィがそんなことを言ったから、
退屈しているメノーは欠伸をする。
「帰ってからなにか問題はない?」
「物騒な連中が歩き回ってるわね。
今日も忘れ物があったわよ。
あなたがこちらに帰ってきてからね。」
「ユヴィルの傭兵連中ねぇ。」
「執念深いわねぇ。
手切れ金を支払ってあげたのに
まだ催促に来るのかしら。」
「脅せばお金が取れるとでも
思ってるんでしょう。」
ルービィがお金の話を始めたから、
サンサがわたしに目で合図する。
「井戸の水も、汲み続ければ
いつかは涸れることを知らないのよ。
学の無い相手って嫌になるわね。
うちの子達は大丈夫?」
「心配いらないわ。
勉強会もメノーに任せてあるし。
鷹も戻ってきたのだから
鼠除けにはなるわよ。」
「鷹?」
鷹は狩りを行う肉食の鳥類で、
山などの涼しい土地を好み、
人間を強く警戒するので
街で見かけるのは珍しい。
赤土の丘では
今朝のように羽を広げた姿を見た。
でもサンサ達の会話は
その鳥の鷹ではなかった。
「ラッガのことよねぇ。」
「どうして鷹なんですか?」
「オーブでは優秀な男に
動物の名前を与えて、
獰猛な魂にする為ね。
空を飛べるはずはないのにね。」
「ラッガと言えば
ネルタの子はどうしてるの?
カヴァまで行って拾わせたんでしょ?」
「心配しなくても
ルービィは館を売らずに済むわよ。」
「そんなお金に汚い感じの訊ね方、
してないでしょ。
大丈夫なのねぇ。
フレヤとレイヤがずっと心配してたわ。」
「今日は館で待機してるわよ。
エルテルから手紙が来てたのよ。
ベリーがまた夏服を届けてくるからね。」
「もうそんな時期なのねぇ。
返礼も考えないといけないわ。」
ベリーというひとはエルテル領主の夫人で、
サンサの養母にあたる。
夏と冬になると、
彼女は作った服を夜の館に送ってくれる。
彼女の作った服を着たドレイプの影響で、
夜の館から街の流行になることもある。
わたしは未だに会ったことがない。
「あのひとの楽しみなのだから
気を使う必要はないわよ。
ニクスに衣装室の鍵を預けたのよ。
忙しい時はレナも頼むといいわよ。」
「ニクスはいつもスーと一緒ですね。
彼女が来てくれて
わたしも助かってます。」
「いまごろ庭で退屈しているスーに
付き合わされていると思うわ。」
「今日もニクスは
難しそうな本を見てましたよ。
あれもメノーの医学書ですか?」
目を閉じているメノーから返事はなく、
微かな寝息が聞こえる。
彼女は天井を仰いで寝始めた。
「あの子も好奇心の塊よね。
『正統記』があったわ。
ルービィが欲しがってた本を、
マルフが持ってきてくれたのよ。
あなたが周遊に出た日にね。
ニクスに預けているから
しばらくは読めないわね。」
「いつでもいいわよ。
どうせ要らない本なんだもの。」
「欲しがっていた本ではないのですか?」
要らない本を欲しがるルービィ。
「わたしの持ち物でもないし、
所在を確認したかっただけだもの。
どうせ読みはしないわ。
マルフはわたしに媚びる為ではなく、
サンサへの貸しを返したかっただけよ。
わたしはあなたみたいに
無謀な買い物はしないの。」
夜の館の書室をガラクタ置き場にした
サンサに向かって言っている。
メノーはダギラを手にしたまま寝る。
サンサに言われた通りに、
わたしはメノーを理想化して描く。
アルが床に伸びたまま
果物をまだ狙っていたけれど、
イオスはアルの尻尾で遊んでいた。
「このひとはまだ、
ノーラとスーのことを
言ってるのかしら。」
「もういいのよ、あの二人のことは。
あぁ、でもスーもいつか、
ノーラみたいになるのかしらねぇ。」
「可能性は否定しないわよ。」
「あの子も高かったのよ?
わたしはスーでまた
石臼を回すんだわ…。」
「ルービィ、また言ってますよ。」
伝わるように溜め息を吐く。
「だってぇ、レナタぁ。」
ルービィは泣き言を漏らして
わたしの腰に抱きつく。
彼女の服に残った
虫除けの香りが鼻を刺激した。
ルービィはスーの未成年後見人になり、
街に高い保証金を支払った。
そんなスーは自分の保証金を
財産の所有権と共に総督に売却し、
ルービィに支払い返したという。
ルービィはスーの持つ権利を失ったことを
いまも悔いているのに、当のスーは
気にする様子を見せたことがない。
「おばあはお金の心配ばかりし過ぎよ。」
「あなたが『おばあ』って呼ばないでっ。
2歳しか違わないでしょっ!」
ルービィはよく分からない点で怒るけれど、
捓うサンサはずっと子供っぽい。
「館を退いたのなら
ルービィもノーラと差は無いわよ。
スーの将来はどうなるかしらね。」
サンサに抱かれたアルが
ミャオと鳴いて返事をした。
イオスは寝ているメノーの手から
床に落ちたダギラに飛びかかり、囓りつく。
アルも床に飛び降り、
前脚でイオスの頭を押さえつけ、
ダギラを独占した。
「レナも、フランジの噂を
耳にしてるでしょ?」
「流言は好まず。ではありませんか?」
「ここは夜の館ではないわよ。」
決まりを作り出したオーナーの、
ルービィが言うのだから狡い。
わたしは木炭の手を止めて考える。
応接室が静まり、メノーの寝息と
ダギラを奪い競う猫達の声が響く。
「スーは生まれた時からずっと、
この街で育ってきたんですから。
館という庭は、彼女にとっては
狭いのではないのでしょうか?」
こんなわたしの見解に、
サンサは口元を緩めて深く頷く。
「今日もきっと、
静かに待機なんてしてないはずよ。」
サンサに抱かれたアルは静かになり、
イオスがダギラを抱えて
呻りながら咀嚼をした。
「ノーラと同じで、
あの子もサンサの影響を受けてるのよ」
「スーはサンサより奔放ですからね。」
「比べられても
嬉しくないわよ。」
わたしにまで言われると、
サンサは強く否定できずに
下唇を軽く噛んで悔しがった。
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