第3章 第2節 夜の館の朝(第1項)
遠く、澄んだ鐘の音が、
館にまで心地良く響く。
この都市の朝は、日時計島に建つ
鐘楼の鐘の音と共に始まる。
鐘の音に反応して小屋の鶏達が鳴き、
遠くで犬の遠吠えも微か聴こえた。
屋根瓦の隙間などに巣を作った、
小鳥の囀りが耳に入る。
日の出を告げる鐘の音に、
わたしはすぐに起きられず、
毛皮とクッションに挟まれた。
木羊草の繊維で作られたクッションは
柔らかなだけでなく、ベッドの中の
保温性を高める。
木羊草のコットンを撚らずに、
クッションにする理由を体感する。
部屋はまだ寒い。
柔らかな毛布の中で、
鐘の音が鳴り終わるのを待って、
わたしは身体を丸くする。
力を入れるだけで全身が痛む。
家具職人が組み立てた、
わたし用の広いベッド。
塔に住んでいた頃に使っていた、
木枠に干し草を敷いただけの寝椅子と、
このベッドの寝心地では比べ物にならない。
足も好きな方向に伸ばせて、
寝返りを打って落ちたりもしない。
ベッドの上であれば、ずっと寝ていられる。
押せば反発するコットンのクッションと
柔らかな毛布に包まれて、
ベッドがわたしを開放してくれない。
心地の良い眠気が、
わたしをいつかの夢の中へと誘う。
暗い、暗い地下の檻。
けれどそんな夢の途中で、
同室のスーに毛布を奪われた。
「おはようっ! ニクス。」
「…おはよ、スー。」
スーがベッドに立ち、寝ていたわたしの
右腕を引っ張って身体を起こした。
わたしのベッドはスーのベッドの隣で、
サンサの部屋の入り口近くに置かれていた。
「おはよぉぅ、スー…。」
欠伸が出る。
「うん。おはよう、ニクス。
それさっき言ったよ。
今日はお仕事の日だよ。」
――今日は…。
「仕事…。」
寝惚けた頭で彼女の言葉をただ繰り返す。
日時計島にある市場から帰った翌日。
朝であっても天窓からの光は弱々しく、
コンクリート床を素足で立てば、
背筋が震えるほど冷たかった。
日の出の鐘の音が鳴っても、
ドレイプ棟の部屋から出てくるひとは
わたしとスーしか居ない。
外廊下から噴水庭園を眺めて歩き、
日陰の庭を見下ろす。
テーブルの天板に埋め込まれた石は、
2階からでも光って見える。
手洗い所で用事を済ませて、
痛む足で階段を下りる。
流し台から出る冷たい水で、
顔を洗って歯木で歯を磨く。
玉石の庭から石の擦れる音を鳴らし、
フランジがやってきた。
みんな眠気と戦いながら、
怠惰に挨拶を交わす。
わたしを見て驚いたのか、
目を覚ます子もいた。
食堂の奥の貯蔵室ではお腹の大きな男が、
険しい顔で材料を取り出して
下準備を始めている。
厨房長のヤゴウと下働きの女が二人。
「おはよう。ヤゴウ。
ミョーン、ラッタマ。
今日はよろしくね。」
スーに続いてわたしは控えめに頭を下げた。
「おう。サンサの部屋の。」
ヤゴウは素気無い挨拶の後で、
食材を一つずつ見て手早く籠に分ける。
「ミョーンとラッタマは
ヤゴウと婚姻してるの。」
「二人も妻が居るの?」
「もう一人、
フォッターも居るから3人だね。
彼女が子供の面倒を見てる日かな。」
「そんなに養えるなんて、
彼って実は貴族?」
「まさか。
ヤゴウは中流階級の労働者だよ。
でもお給金だけでいえば
夜の館で働けるひとは、
自分のお店を持てるくらいには
払いは良いはずだよ。」
妻を二人以上も持つには、
夫は相応の資産が無ければ養えない。
婚姻相手に資産が無い場合、
妻は生活の為に働き続けて赤子を産めず、
育てる余裕も無くなってしまう。
――だからみんなして、
この館で働いているのかしら?
そんな詮索はこの館では必要がない。
渋顔のヤゴウと比べるまでもなく、
彼女達の表情はとても柔らかい。
ネルタで見てきた下女達と違い、
赤みを帯びた血色の良い顔をしている。
「ニクス。
鶏小屋に行って
卵を取ってこよう。」
スーが耳元で囁き、
彼女は手にした物を懐に入れた。
「ここはいいの?」
他のフランジは
根菜のポッポを洗って泥を落とし、
スタイラスの平な柄尻に似た道具で
芽を刳り貫く作業をしている。
「いましかできない仕事があるんだよ。
この私が館の仕事というものを、
教えてしんぜよう。」
いつもに増しておかしな口調。
「わたしでもできる仕事?」
「レナタにだって
できるくらいだもん。
二人でやっちゃおう。」
フランジの視線を気にしながら、
スーの後ろを歩いて食堂を出る。
わたしよりも5歳も年下の、
レナタでもできる仕事というのも
想像がつかない。
「館の休養日ってなにするの?」
「この館がお休みの日でも、
みんなここで暮らしてるからね。
その生活を支えてくれるひと達、
従業員は普段通りに働くわけだよね?」
「うん…。」
流し台の前を通り抜けて玉石の庭では
下働きの女達、従業員が風呂場の
残り湯をタライに注ぐ。
従業員に混ざってフランジが働いている。
ベッドシーツなどの幅広の布は、
タライに入れて踏み洗い洗濯する。
懸命に働くフランジを見つめて、
従業員達は笑みを絶やさない。
「庭のお手入れや掃除の従業員でも、
順番にお休みをあげるの。
入れ替わり制だね。」
「休すみがあるの?」
わたしの質問にスーは少し驚いていた。
「もちろん。
ヤゴウにだってお休みはあるよ。
でも毎日厨房に立ってるんだよ?
彼っていつも渋顔だけど、
本当にここの仕事が大好きみたいだね。」
彼女のお喋りはまだ続く。
「館で働くひとでも身分や階級に関係なく
毎日ごはんを食べて、夜に寝るのは
誰だって一緒だよね。
お金を払って、誰かが代わりに
してくれるものでもないからね。
自分が働いて得たお給金で
お買い物をしたり、遊んだりして
息抜きをしないと。
働くばかりだと
みんな疲れるもんね。」
「分かるけれど…。」
肉体労働者は例外無く、
休み無しに毎日働くものと思っていた。
ネルタの塔での暮らしが長く、
本にない知識は身に付いていない。
この街での常識が欠落しているわたしでも、
彼女は嘲笑や罵倒をしてこない。
「それに娼館って遊ぶ場所だもんね。
『遊ぶ為の場所で、働くひとを
遊ばせないなんて酷でしょう?』
って、サンサも言ってたよ。」
サンサを真似て言ったスーに、
わたしは納得して首を縦に振る。
「仕事を真摯に行った上での話だよ。
はい、口布をしよっか。
『病は口から』ってね。」
喧しく鳴き叫ぶ鳥獣。
小屋の中で激しい羽音を立て、
鶏糞の強烈な臭気に
わたしは反射的に目を閉じた。
口布をして口で呼吸しても
鼻腔は塞がらず、臭気は遮断できない。
口布は相変わらず固く結べなかった。
「私が結んであげる。
あっちの果樹園には前に入ったよね。」
「うん。
入ってはダメって前に言ってた。
あの木はなにが実っているの?」
後頭部を向けて口布を結ばれるあいだ、
小屋の北にある木立を見た。
あの木立に入ると一変して、
甘くて澄んだ香りがしたのを覚えている。
「あれはオレームだよ? 油の。
採った果実を塩漬けにして発酵させたり、
潰して絞って油を得る為だね。
加工すれば肌に塗る乳液になるんだよ。
果肉には毒があるって言われてて、
フランジは立ち入りを禁止されてるの。」
「オレームの木なんだ…。」
高地で寒冷な気候のネルタでは、
オレームの木は栽培に適さず、
湖のお魚で作る魚油も貴重なものだった。
「はい、どうぞ。
出来ましたわよ。」
「ありがと。スー。」
「どういたしまして。」
また奇妙な口調になっている。
スーの手で固く結ばれた口布の結び目は、
大きな瘤になっていた。
彼女は懐から、
厨房で手に入れた鍵を取り出した。
「これから小屋に入って
卵をあるだけ取ってきてね。
そこに籠があるから。
はい、退いて退いてー。」
小屋の中に入ったわたしは、
羽根を広げて鳴く鶏に威嚇された。
壁に囲われた小屋は、
足元と天井近くの通気口しか
光は入らず、薄暗い。
スーは入り口に居座る鶏を除け、
翼や爪で攻撃されながら籠を拾い上げる。
「鶏は爪に気をつければ
ほら、簡単でしょ。
痛たっ。
痛いよっ、もう!
静かにしてっ!」
彼女は赤土色の羽をした
雄鶏と戦い始めた。
激しい羽音と甲高い鳴き声が耳を劈く。
わたしは喧騒の中で、言われた通り
棚にあるとされる卵を探した。
干し草の上の鶏が
足のあいだで温めている卵を見つけ、
わたしは右腕を差し込んだ。
すると鶏から啄かれるだけでは済まず、
飛び掛かられて鋭い爪で腕を蹴られた。
「わぁっ! 止めっ! 止めてっ!」
「卵を取られるのは
いつものことだから、
すぐに諦めてくれるはずだよ。」
助けを求めてスーを見ると、
暴れていた雄鶏は、彼女に首を掴まれたまま、
太い足を伸ばして静かに吊るされている。
卵を取りに来たはずが、
彼女は鶏の首を捻って折った。
「スーってば、ダメよっ。」
声を放って小屋に入ってきたのは
レナタだった。
彼女の豊かな銀髪が、
暗い小屋の中では白色の羽毛に見え、
黒のチュニックがより羽毛を際立たせる。
後ろに立つ下働きの少女も驚き、
それから諦めて溜め息を吐いた。
「おはよう。レナタ。デーン。」とスー。
「あ、おはよう。」わたしも続く。
「おはようございます。お二人共。」
と、スーを叱っていたレナタが頭を下げる。
「今度こそ止めようと思ってたのに。
鍵を使って勝手に鶏を絞めて…。」
「また…。」後ろの少女が呟いた。
スーからデーンと呼ばれていた少女は
口布の向こうで眉間に力を入れ、
目を細めて睨むようにするだけで
自己紹介をして来なかった。
「…また?」
困惑して訊ねるわたしに、
スーは自慢気に頷く。
「フランジを飢えさせてはいけないって、
オーナーがよく言ってるんだよ。
レナタだってニクスにおいしいもの、
食べさせてあげたいよね?」
「確かに言われてますが…、
ここに処理場はありませんよ。
今日こそスーが下処理するんですか?」
黙って笑ったスーが薄明かりの中で、
わたしとレナタに2本の指を向ける。
――うん?
レナタの方は分かりきった様子で、
彼女もまた、溜め息を吐いていた。
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