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金貨の娘  作者: 美穂
第1章 悪夢の檻

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第1章 第2節 鏡面の歪(第1項)

「そのチュニックは大(たい)切(せつ)なもの?


 館(やかた)のキャシュクを用(よう)意(い)するから、

 いらなかったらその籠(かご)に入(い)れてね。」



着(き)替(が)えをする為(ため)の準(じゅん)備(び)室(しつ)に立(た)つスーは、

隅(すみ)に置(お)かれた籠(かご)を指(し)示(じ)した。



挿絵(By みてみん)



牢(ろう)檻(かん)では古(ふる)いチュニック1枚(まい)と、

布(ぬの)切(き)れのみしか持(も)たされなかった。



地(ち)下(か)の牢(ろう)檻(かん)を出(で)てから、

獣(けもの)の男(おとこ)がわたしを売(う)る為(ため)に買(か)い与(あた)えた服(ふく)。



――姿(すがた)見(み)だわ。



姿(すがた)見(み)と呼(よ)ばれる、壁(かべ)に備(そな)え付(つ)けられた

背(せ)の高(たか)いガラス製(せい)の鏡(かがみ)に、

歪(いびつ)なわたしの姿(すがた)が映(うつ)る。



挿絵(By みてみん)



「あとなにか持(も)ってたら、

 その棚(たな)の好(す)きな所(ところ)に置(お)いていいよ。」



正(せい)六(ろっ)角(かく)形(けい)に組(く)まれた箱(はこ)が、

横(よこ)倒(だお)しで蜂(はち)の巣(す)状(じょう)に納(おさ)められ、

棚(たな)となって壁(かべ)に並(なら)んでいる。



スーは手(て)早(ばや)く帯(おび)紐(ひも)と帯(おび)布(ぬの)を外(はず)し、

淡(たん)黄(おう)色(しょく)のキャシュクを脱(ぬ)いだ。



肌(はだ)着(ぎ)の肩(かた)紐(ひも)を外(はず)して足(あし)元(もと)に落(お)とすと、

わたしの前(まえ)でも平(へい)然(ぜん)と豊(ゆた)かな乳(ち)房(ぶさ)を見(み)せる。



彼(かの)女(じょ)と年(ねん)齢(れい)は大(たい)して離(はな)れていないのに、

背(せ)も高(たか)くて発(はつ)育(いく)が良(よ)い。



――いまのわたしはなにも持(も)っていない。



黒(くろ)髪(かみ)の少(しょう)女(じょ)、サンサの質(しつ)問(もん)に

わたしはなにも答(こた)えられなかった。



大(たい)陸(りく)語(ご)の読(よ)み書(か)きもできなければ、

教(きょう)育(いく)を受(う)ける機(き)会(かい)もなかった。



同(おな)じ年(とし)頃(ごろ)の子(こ)ができる刺(し)繍(しゅう)や、

下(した)働(ばたら)きもできない。



肌(はだ)着(ぎ)を脱(ぬ)ぐのを踟(ためら)うわたしを気(き)遣(づか)って、

服(ふく)を脱(ぬ)ぐのを待(ま)っていたスーは先(さき)に浴(よく)室(しつ)に入(はい)った。



逃(に)げ出(だ)したい気(き)持(も)ちはあったけれど、

わたしは自(じ)分(ぶん)の体(たい)臭(しゅう)が気(き)になり

肌(はだ)着(ぎ)も全(すべ)て脱(ぬ)いだ。



脱(ぬ)いだチュニックを籠(かご)に入(い)れ、

浮(う)いた肋(ろっ)骨(こつ)に手(て)足(あし)の弛(たる)んだ皮(ひ)膚(ふ)が露(ろ)出(しゅつ)する。



西(にし)側(がわ)の、テーブルの置(お)かれた庭(てい)園(えん)から、

隣(となり)にある建(たて)物(もの)に入(はい)ってすぐの広(ひろ)い浴(よく)場(じょう)。



お湯(ゆ)は清(せい)潔(けつ)で透(とう)明(めい)感(かん)があり、

白(しろ)い大(だい)理(り)石(せき)の巨(きょ)大(だい)な浴(よく)槽(そう)には

赤(あか)い花(はな)びらが多(おお)く浮(う)かぶ。



天(てん)井(じょう)近(ちか)くの壁(かべ)にはガラス窓(まど)が備(そな)わっていて、

差(さ)し込(こ)む光(ひかり)がお湯(ゆ)と湯(ゆ)気(げ)で光(こう)素(そ)が拡(かく)散(さん)する。



「はい、ニクスは

 ここに座(すわ)ってくださいな。」



喋(しゃべ)り方(かた)を変(か)えたスーが笑(わら)った。



誰(だれ)も居(い)ない浴(よく)場(じょう)で、スーの声(こえ)が響(ひび)く。



言(い)われるまま、わたしは

彼(かの)女(じょ)に背(せ)中(なか)を向(む)けて椅(い)子(す)に座(すわ)る。



自(じ)分(ぶん)の貧(ひん)弱(じゃく)な身体(からだ)を

笑(わら)われたように思(おも)えて、恥(は)ずかしくなる。



ここは大(たい)衆(しゅう)浴(よく)場(じょう)でもないらしく、

他(ほか)のひとの姿(すがた)はない。



「こんな時(じ)刻(こく)にお湯(ゆ)に浸(つ)かれることは、

 珍(めずら)しいから不(ふ)思(し)議(ぎ)だね。


 どっちが好(す)き?

 香(かお)りで選(えら)んで。」



両(りょう)手(て)に渡(わた)した光(こう)沢(たく)を持(も)つ白(しろ)い石(いし)、

石(せっ)鹸(けん)を見(み)たのは久(ひさ)しぶりだった。



わたしの黒(くろ)く汚(よご)れた手(て)の上(うえ)で輝(かがや)き、

両(りょう)手(て)に溢(あふ)れ出(で)るほどの大(おお)きさ。



鼻(はな)を近(ちか)付(づ)けても自(じ)分(ぶん)の体(たい)臭(しゅう)が頭(あたま)から離(はな)れず、

どちらも選(えら)べずにいた。



「私(わたし)はこっちが好(す)きかな。


 身体(からだ)に纏(まと)わりつく甘(あま)い香(かお)りより、

 鼻(び)腔(くう)を通(とお)るような爽(さわ)やかな香(かお)りがするよ。


 この石(せっ)鹸(けん)は香(かお)り付(づ)けに、

 クァンの皮(かわ)を使(つか)ってるんだよ。


 もう一(ひと)つは、あとで試(ため)してみよっか。」



――よく喋(しゃべ)る子(こ)なのね。



クァンがなにかを知(し)らないわたしは、

喋(しゃべ)り続(つづ)ける彼(かの)女(じょ)に黙(だま)って耳(みみ)を傾(かたむ)ける。



足(あし)先(さき)から少(すこ)しずつにお湯(ゆ)を浴(あ)びせ、

お腹(なか)、背(せ)中(なか)、そして髪(かみ)の埃(ほこり)を洗(あら)い流(なが)す。



まだ浴(よく)槽(そう)に入(はい)っていないのに、

大(たい)量(りょう)に浴(あ)びるお湯(お)の勢(いきお)いに溺(おぼ)れかけて、

息(いき)を吸(す)って空(くう)気(き)を求(もと)めた。



「ちょっとだけ堪(こら)えてね。


 みんなで使(つか)うお風(ふ)呂(ろ)だから、

 浴(よく)槽(そう)のお湯(ゆ)はできるだけ

 綺(き)麗(れい)に保(たも)ちたいから。」



泡(あわ)立(だ)てた石(せっ)鹸(けん)で髪(かみ)についた脂(あぶら)や

頭(あたま)に溜(た)まった皮(ひ)脂(し)を揉(も)み落(お)とし、

繰(く)り返(かえ)し洗(あら)い流(なが)す。



汚(よご)れた皮(ひ)脂(し)は溶(と)け難(にく)く、

泡(あわ)はすぐに消(き)えていく。



「まだでございますよ。」



スーは洗(あら)いながら下(した)働(ばたら)きを楽(たの)しんでいる。



『ちょっとだけ堪(こら)えて』と

彼(かの)女(じょ)は言(い)っていたけれど、

わたしは長(なが)く耐(た)え続(つづ)けた。



荒(あら)々(あら)しい洗(せん)髪(ぱつ)によって、

石(せっ)鹸(けん)水(すい)が目(め)に入(はい)って痛(いた)む。



目(め)を閉(と)じると乳(う)母(ば)達(たち)の姿(すがた)が思(おも)い浮(う)かんだ。



次(つぎ)はスポンジに石(せっ)鹸(けん)を擦(す)りつけて、

身体(からだ)を首(くび)の後(うし)ろ、背(せ)中(なか)から順(じゅん)に

激(はげ)しく洗(あら)われていく。



挿絵(By みてみん)



地(ち)下(か)での暮(く)らしが長(なが)く、

皮(ひ)膚(ふ)が爛(ただ)れていたので、

痛(いた)みが全(ぜん)身(しん)を突(つ)き刺(さ)す。



手(て)足(あし)の爪(つめ)を荒(あら)くブラシ掛(が)けされ、

わたしはお湯(ゆ)に浸(つ)けられた。



「もう熱(あつ)い?


 細(ほそ)いとお湯(ゆ)の熱(ねつ)が身体(からだ)に

 巡(めぐ)りやすいんだよ。


 人(ひと)肌(はだ)くらい温(あたた)かいお湯(ゆ)が、

 肌(はだ)も傷(きず)つけないし良(い)い温(おん)度(ど)

 なんだってね。」



スーもお湯(ゆ)を浴(あ)びて

身体(からだ)の埃(ほこり)を落(お)としてから、

この巨(きょ)大(だい)な浴(よく)槽(そう)に浸(つ)かる。



ただのお湯(ゆ)でも浮(う)いている花(はな)びらから、

仄(ほの)かに甘(あま)くておいしそうな匂(にお)いがする。



「喉(のど)が乾(かわ)いても、

 お湯(ゆ)を飲(の)むのはダメだよ。


 食(しょく)中(ちゅう)毒(どく)になっちゃうからね。」



「分(わ)かってるよ…。」



年(ねん)齢(れい)に差(さ)もない彼(かの)女(じょ)に子(こ)供(ども)扱(あつか)いを受(う)けて、

サンサだけではなく彼(かの)女(じょ)にも

強(つよ)く言(い)い返(かえ)してしまう。



目(め)の前(まえ)にある大(たい)量(りょう)の清(せい)潔(けつ)なお湯(ゆ)には、

不(ふ)思(し)議(ぎ)な誘(ゆう)惑(わく)があった。



わたしは顔(かお)をお湯(ゆ)に近(ちか)付(づ)け、

窄(すぼ)めた口(くち)で、花(はな)びらに息(いき)を吹(ふ)きかける。



遠(とお)くに流(なが)そうと吹(ふ)いてみても、

花(はな)びらは風(かぜ)を受(う)けて回(かい)転(てん)する。



「それと、手(て)はお湯(ゆ)の中(なか)に

 沈(しず)めたらダメだよ。」



「…どうして?」



考(かんが)えても決(き)まりの理(り)由(ゆう)が

分(わ)からなくてスーに訊(たず)ねると、

彼(かの)女(じょ)は踟(ためら)ってから口(くち)を開(ひら)く。



「簡(かん)単(たん)に説(せつ)明(めい)はできないけど、

 みんなで使(つか)うお風(ふ)呂(ろ)のお湯(ゆ)は

 遊(あそ)びの道(どう)具(ぐ)ではないってことかな。」



共(きょう)同(どう)浴(よく)場(じょう)を使(つか)うのは初(はじ)めてだった。



集(しゅう)団(だん)生(せい)活(かつ)の中(なか)に決(き)まりがあるのは

理(り)解(かい)できたので、自(じ)分(ぶん)を納(なっ)得(とく)させた。



「こうして腕(うで)を伸(の)ばして浮(う)かべるか、

 肩(かた)を揉(も)むとかが良(い)いよね。


 長(なが)旅(たび)で筋(きん)肉(にく)が凝(こ)り固(かた)まってない?」



わたしはスーに心(しん)配(ぱい)されるほど、

身体(からだ)に肉(にく)が付(つ)いていない。



「夜(よ)空(ぞら)の蕾(つぼみ)、花(はな)咲(さ)く日(ひ)。


 いくら待(ま)っても朝(あさ)は来(こ)ず、

 燦(さん)然(ぜん)の星(ほし)が流(なが)れ、大(だい)地(ち)に降(お)りる。


 わたしは海(うみ)に漂(ただよ)うばかり。

 わたしは海(うみ)に漂(ただよ)うばかり。」



金(こん)色(じき)の髪(かみ)を頭(あたま)の上(うえ)に束(たば)ねたスーが

突(とつ)然(ぜん)、歌(うた)いだした。



顔(かお)を耳(みみ)まで染(そ)めて照(て)れ笑(わら)いをして、

心地(ここち)の良(よ)い歌(うた)声(ごえ)を浴(よく)場(じょう)に響(ひび)かせた。



彼(かの)女(じょ)は、フレヤとレイヤと同(おな)じで、

逆(ぎゃく)三(さん)角(かく)形(けい)の耳(みみ)をしている。



――彼(かの)女(じょ)も売(う)られた奴(ど)隷(れい)なのかしら…。

  飾(しょく)緒(しょ)もしてなかったし。



「いい歌(うた)でしょ? 流(なが)れ星(ぼし)の歌(うた)。」



流(なが)れ星(ぼし)は彼(かの)女(じょ)の名(な)前(まえ)の由(ゆ)来(らい)になっている。



スーが歌(うた)い終(お)えると、

わたしは浴(よく)槽(そう)から引(ひ)き摺(ず)り出(だ)され、

また椅(い)子(す)に座(すわ)らせられた。



「これ、やってみたかったんだよね。」



挿絵(By みてみん)



持(も)ってきたのは長(なが)い青(せい)銅(どう)の肌(はだ)掻(か)きの棒(ぼう)で、

わたしの首(くび)や背(せ)中(なか)に肋(ろっ)骨(こつ)が浮(う)き出(で)た身体(からだ)、

腕(うで)や指(ゆび)のあいだの垢(あか)まで削(けず)り取(と)られた。



大(たい)量(りょう)の垢(あか)が掬(すく)い取(と)れ、

その成(せい)果(か)をスーは喜(よろこ)んだ。



痛(いた)いやら恥(は)ずかしいやら、

自(し)然(ぜん)と緩(ゆる)くなる唇(くちびる)を結(むす)び、

足(あし)の指(ゆび)を動(うご)かして悶(もだ)えながら耐(た)えた。



わたしはなにもしてないのに

疲(つか)れてしまう。



垢(あか)を削(そ)ぎ落(お)としてから、

次(つぎ)は違(ちが)う石(せっ)鹸(けん)で身体(からだ)を洗(あら)って、

浴(よく)槽(そう)に入(い)れられるとスーはまた歌(うた)った。



心地(ここち)良(よ)さに気(き)を抜(ぬ)くと、

深(ふか)いお湯(ゆ)の中(なか)に落(お)ちかける。



わたしは囲(かこ)んだ腕(うで)の中(なか)に浮(う)かぶ花(はな)びらに

息(いき)を吹(ふ)いて、響(ひび)く歌(うた)声(ごえ)に耳(みみ)を澄(す)ました。




 ◆ 



挿絵(By みてみん)



スーが白(はく)磁(じ)の小(こ)瓶(びん)を上(じょう)下(げ)に振(ふ)る。



蓋(ふた)を開(あ)けて小(こ)瓶(びん)を傾(かたむ)けると、

中(なか)から白(しろ)色(いろ)の液(えき)体(たい)が細(ほそ)い糸(いと)状(じょう)に伸(の)び、

わたしの右(みぎ)手(て)に降(お)りてくる。



それをスーが手(て)で伸(の)ばして笑(わら)って言(い)った。



「これは肌(はだ)のお手(て)入(い)れですわよ。


 お風(ふ)呂(ろ)上(あ)がりの肌(はだ)は傷(きず)ついたり、

 脂(あぶら)を失(うしな)って服(ふく)の擦(す)れに弱(よわ)くなるから、

 乳(にゅう)液(えき)を塗(ぬ)って肌(はだ)を守(まも)ってあげますの。」



彼(かの)女(じょ)はまた、おかしな喋(しゃべ)り方(かた)をしている。



――この子(こ)は下(げ)女(じょ)なのかしら?



長(なが)湯(ゆ)で茹(ゆ)で上(あ)がったわたしは、

タオルで水(みず)気(け)を拭(ふ)き取(と)られた後(あと)、

準(じゅん)備(び)室(しつ)内(ない)の寝(ね)椅(い)子(す)の上(うえ)に倒(たお)された。



乳(にゅう)液(えき)は顔(かお)と首(くび)、お腹(なか)、腕(うで)と足(あし)の指(ゆび)、

身体(からだ)を裏(うら)返(がえ)されて背(せ)中(なか)と臀(でん)部(ぶ)に至(いた)るまで、

全(ぜん)身(しん)に塗(ぬ)られていった。



疲(つか)れて抵(てい)抗(こう)する力(ちから)を失(うしな)い、

爛(ただ)れた皮(ひ)膚(ふ)には

バターのような凝(ぎょう)乳(にゅう)物(ぶつ)が塗(ぬ)られた。



腕(うで)に塗(ぬ)られた凝(ぎょう)乳(にゅう)物(ぶつ)に鼻(はな)を近(ちか)付(づ)けると、

仄(ほの)かに甘(あま)く爽(さわ)やかな香(かお)りがする。



「蜂(はち)蜜(みつ)と蜜(みつ)蝋(ろう)を混(ま)ぜた特(とく)製(せい)品(ひん)ですわよ。


 簡(かん)単(たん)に作(つく)れるのに美(び)肌(はだ)効(こう)果(か)があるから、

 不(ふ)老(ろう)不(ふ)死(し)の薬(くすり)なんて言(い)われて

 高(たか)値(ね)で売(う)られてるんだよ。」



彼(かの)女(じょ)はそんな説(せつ)明(めい)をして口(く)調(ちょう)を戻(もど)す。



わたしの住(す)んでいた所(ところ)では、

蜂(はち)蜜(みつ)どころか蜜(みつ)蝋(ろう)さえも

簡(かん)単(たん)には手(て)に入(はい)らない。



彼(かの)女(じょ)に塗(ぬ)られた凝(ぎょう)乳(にゅう)物(ぶつ)のおかげか、

皮(ひ)膚(ふ)にあった刺(さ)すような痛(いた)みは

次(し)第(だい)に和(やわ)らいでいった。



準(じゅん)備(び)室(しつ)の棚(たな)には新(あたら)しい服(ふく)が用(よう)意(い)されていた。



「これ肌(はだ)着(ぎ)ね。

 あと股(また)布(ぬの)を履(は)いて。」



肌(はだ)着(ぎ)は輪(わ)にした布(ぬの)に肩(かた)紐(ひも)がついたもの。



「これって、コットン…?」



「うん。

 服(ふく)はだいたいエルテル産(さん)だね。


 木(ぼく)羊(よう)草(そう)は南(なん)部(ぶ)では生(は)え難(にく)いもんね。


 早(はや)く着(き)ないと湯(ゆ)冷(ざ)めするよ。」



コットンの生(き)地(じ)は肌理(きめ)が細(こま)かく、

薄(うす)手(で)で柔(やわ)らかな肌(はだ)触(ざわ)りで、

胸(むね)に触(ふ)れても過(す)ごしやすい。



島(しま)の北(ほく)部(ぶ)で育(そだ)つ植(しょく)物(ぶつ)の、

種(しゅ)子(し)を包(つつ)む繊(せん)維(い)が原(げん)料(りょう)になる。



挿絵(By みてみん)



その繊(せん)維(い)の白(しろ)い毛(け)になった塊(かたまり)が、

羊(ひつじ)を模(も)しているので木(ぼく)羊(よう)草(そう)と呼(よ)ばれる。



わたしのよく知(し)る南(なん)部(ぶ)草(そう)に比(くら)べると、

北(ほく)部(ぶ)でしか採(と)れないコットンは珍(めずら)しかった。



それに股(また)布(ぬの)というものを初(はじ)めて見(み)た。



肌(はだ)着(ぎ)と同(おな)じ服(ふく)の一(いっ)種(しゅ)で、

男(おとこ)のひとが履(は)く長(なが)い布(ぬの)に、

紐(ひも)が付(つ)いたものとは異(こと)なる履(は)き物(もの)。



「足(あし)を通(とお)して、骨(こつ)盤(ばん)の上(うえ)で紐(ひも)を結(むす)ぶの。」



肌(はだ)着(ぎ)の半(はん)分(ぶん)程(てい)度(ど)の長(なが)さの黒(くろ)色(いろ)の布(ぬの)は、

下(した)側(がわ)が厚(あつ)手(で)の布(ぬの)で縫(ぬ)い付(つ)けられている。



履(は)き口(ぐち)は広(ひろ)く、裾(すそ)は極(きょく)端(たん)に短(みじか)いスラックス。



腰(こし)部(ぶ)分(ぶん)に赤(あか)い紐(ひも)が通(とお)してあり、

紐(ひも)を絞(しぼ)ることで腰(こし)から下(さ)がらなくなる。



スーが紐(ひも)を結(むす)んでくれたけれど、

結(むす)び目(め)が紐(ひも)の塊(かたまり)になっていた。



挿絵(By みてみん)



「オーブで履(は)かれてるスラックスを、

 サンサが改(かい)良(りょう)した股(また)布(ぬの)って言(い)うんだよ。


 変(か)わった肌(はだ)着(ぎ)だよね。


 この街(まち)でも履(は)いてるのは

 この館(やかた)の子(こ)くらいだけど、

 月(げっ)経(けい)の時(とき)にはこの中(なか)に

 コットンを敷(し)いておくんだよ。」



わたしはまだ初(しょ)経(けい)が来(き)ていない。



本(ほん)で読(よ)んだ知(ち)識(しき)だけはあったので、

彼(かの)女(じょ)の説(せつ)明(めい)は理(り)解(かい)できて首(くび)を縦(たて)に振(ふ)る。



肌(はだ)着(ぎ)の肩(かた)紐(ひも)を掛(か)け、股(また)布(ぬの)を履(は)けば、

次(つぎ)は淡(たん)黄(おう)色(しょく)のキャシュクを着(き)る。



布(ぬの)を袋(ふくろ)状(じょう)に縫(ぬ)っただけの

チュニックとは違(ちが)い、キャシュクは

身体(からだ)の型(かた)に合(あ)わせて布(ぬの)を切(き)る。



生(き)地(じ)を贅(ぜい)沢(たく)に使(つか)ったキャシュクは、

貴(き)族(ぞく)にのみ着(き)ることが許(ゆる)されていた。



背(せ)中(なか)側(がわ)になる後(うしろ)身(み)頃(ごろ)に、

左(さ)右(ゆう)2枚(まい)の前(まえ)身(み)頃(ごろ)を縫(ぬ)い合(あ)わせる。



短(みじか)い袖(そで)に腕(うで)を通(とお)して、右(みぎ)身(み)頃(ごろ)をお腹(なか)に当(あ)て、

左(ひだり)身(み)頃(ごろ)を上(うえ)に被(かぶ)せて紐(ひも)を結(むす)んで固(こ)定(てい)する。



紐(ひも)で絞(しぼ)った腰(こし)には括(くび)れと、

美(うつく)しい皺(しわ)が生(う)まれる。



挿絵(By みてみん)



――ニースだわ…。



以(い)前(ぜん)着(き)ていたキャシュクに比(くら)べ、

渡(わた)されたこの服(ふく)は裾(すそ)がとても短(みじか)い。



キャシュクは、踝(くるぶし)を隠(かく)すくらいの

裾(すそ)の長(なが)さが適(てき)切(せつ)なのに対(たい)して、この服(ふく)は

膝(ひざ)どころか太(ふと)腿(もも)まで露(ろ)出(しゅつ)してしまう。



服(ふく)の大(おお)きさからして幼(おさな)子(ご)用(よう)でもない。



――どうしてこんなに短(みじか)いのかしら。



同(おな)じキャシュクを着(き)たスーも、

膝(ひざ)や太(ふと)腿(もも)を出(だ)して平(へい)然(ぜん)としている。



彼(かの)女(じょ)は胸(むね)がある分(ぶん)、

前(まえ)身(み)頃(ごろ)の裾(すそ)が上(うえ)に引(ひ)っ張(ぱ)られていた。



足(あし)を露(ろ)出(しゅつ)するのは、気(き)品(ひん)を感(かん)じない。



「一人(ひとり)でちゃんと着(き)られるね。

 帯(おび)紐(ひも)、結(むす)んであげようか?」



スーの申(もう)し出(で)を断(ことわ)ると、

彼(かの)女(じょ)は残(ざん)念(ねん)がって自(じ)分(ぶん)の帯(おび)布(ぬの)を巻(ま)く。



わたしもキャシュクの腹(ふく)部(ぶ)に帯(おび)布(ぬの)を巻(ま)いた。



帯(おび)布(ぬの)は、お腹(なか)から腰(こし)に巻(ま)き付(つ)ける

幅(はば)広(ひろ)い厚(あつ)手(で)の布(ぬの)を、ボタンで止(と)めて、

その上(うえ)を帯(おび)紐(ひも)で結(むす)ぶ。



昔(むかし)は、キャシュクの前(まえ)身(み)頃(ごろ)が

開(ひら)かないように、腰(こし)に紐(ひも)を巻(ま)いて

結(むす)ぶしかなかったらしい。



腰(こし)の紐(ひも)のせいでキャシュクが擦(す)れ、

生(き)地(じ)が傷(いた)むので、猟(りょう)師(し)は腰(こし)に革(かわ)の|帯(おび)を巻(ま)き、

革(かわ)の紐(ひも)をして鉈(なた)を佩(は)いた。



民(みん)衆(しゅう)が猟(りょう)師(し)を真(ま)似(ね)すると、貴(き)族(ぞく)は

服(ふく)に染(せん)色(しょく)された帯(おび)と紐(ひも)で着(き)飾(かざ)ることで、

富(とみ)を誇(こ)示(じ)していった。



肩(かた)に掛(か)ける飾(かざ)り布(ぬの)は、

さらに多(おお)くの布(ぬの)を使(つか)う為(ため)に

貴(き)族(ぞく)のあいだで流(りゅう)行(こう)した。



キャシュクの内(うち)と外(そと)に紐(ひも)が付(つ)くと、

前(まえ)身(み)頃(ごろ)が崩(くず)れずに利(り)便(べん)性(せい)は向(こう)上(じょう)し、

帯(おび)布(ぬの)や帯(おび)紐(ひも)の必(ひつ)要(よう)が無(な)くなるはずだった。



キャシュクの新(しん)奇(き)性(せい)が受(う)け入(い)れられても、

帯(おび)布(ぬの)の需(じゅ)要(よう)は無(な)くならずに増(ふ)え続(つづ)けた。



身体(からだ)に巻(ま)きつけていた帯(おび)布(ぬの)や帯(おび)紐(ひも)は、

ただの装(そう)飾(しょく)品(ひん)へと用(よう)途(と)が変(か)わっていく。



帯(おび)紐(ひも)に、帯(おび)飾(かざ)りと呼(よ)ばれる金(きん)銀(ぎん)の細(さい)工(く)を

付(つ)けた奢(しゃ)侈(し)なひとも、この都(と)市(し)で見(み)た。



帯(おび)布(ぬの)は腰(こし)を細(ほそ)く見(み)せる為(ため)に巻(ま)き、

色(いろ)や太(ふと)さの違(ちが)うものが壁(かべ)に飾(かざ)られていた。



わたしはキャシュクと同(おな)じ

淡(たん)黄(おう)色(しょく)の帯(おび)布(ぬの)を背(せ)中(なか)にあててから、

褐(かっ)色(しょく)の帯(おび)紐(ひも)を手(て)にして背(せ)中(なか)へ半(はん)回(かい)転(てん)させる。



服(ふく)を着(き)るのが多(た)少(しょう)は楽(らく)になっても、

服(ふく)の型(かた)そのものは変(へん)化(か)しない。



「それなら私(わたし)の帯(おび)紐(ひも)をあげる。」



スーは、自(じ)分(ぶん)の帯(おび)布(ぬの)にしていた

金(きん)赤(あか)色(いろ)の帯(おび)紐(ひも)を外(はず)し、

わたしの帯(おび)布(ぬの)に結(むす)び付(つ)けた。



上(じょう)質(しつ)な金(きん)赤(あか)色(いろ)の紐(ひも)が光(こう)沢(たく)を放(はな)つ。



――やっぱりニースになったわ…。



彼(かの)女(じょ)の作(つく)った帯(おび)紐(ひも)の結(むす)び目(め)は、

兎(うさぎ)の耳(みみ)を無(む)理(り)に縛(しば)ったような

歪(いびつ)な形(かたち)になっていた。



外(そと)はまだ明(あか)るいけれど、

風(ふ)呂(ろ)上(あ)がりであっても肌(はだ)寒(ざむ)い。



庭(にわ)にある円(えん)形(けい)のテーブル席(せき)に場(ば)所(しょ)を移(うつ)すと、

足(あし)元(もと)には熾(おき)火(び)が用(よう)意(い)されていた。



燃(も)やされた木(もく)炭(たん)の奥(おく)が赤(あか)く、

力(ちから)強(づよ)い光(ひかり)と熱(ねつ)を内(ない)包(ほう)する。



テーブルの下(した)に敷(し)かれた、

黒(くろ)色(いろ)の玉(たま)石(いし)が光(ひかり)を受(う)けて暗(くら)く輝(かがや)く。



わたしは、サンサの座(すわ)っていた

北(きた)側(がわ)の椅(い)子(す)に座(すわ)らせられた。



スーに髪(かみ)を梳(す)かれ、櫛(くし)の歯(は)に虱(しらみ)が挟(はさ)まる。

傷(いた)んだ髪(かみ)はよく絡(から)まり、よく切(き)れた。



やることもないわたしは、

帯(おび)紐(ひも)にある不(ぶ)格(かっ)好(こう)な兎(うさぎ)の耳(みみ)を

指(ゆび)先(さき)で辿(たど)ると指(ゆび)が迷子(まいご)になった。



熾(おき)火(び)が足(あし)を温(あたた)め、股(また)布(ぬの)でお腹(なか)が温(あたた)められ、

全(ぜん)身(しん)が心地(ここち)の良(よ)い熱(ねつ)に包(つつ)まれる。



髪(かみ)に櫛(くし)が入(はい)る度(たび)に頭(あたま)が後(うし)ろに倒(たお)れる。



眠(ねむ)気(け)が勝(まさ)って頭(あたま)が回(まわ)らない。



そんなわたしの口(くち)に、鼻(び)腔(くう)を突(つ)く、

鋭(するど)い香(かお)りの木(き)の枝(えだ)が突(つ)っ込(こ)まれた。



歯(は)磨(みが)きに使(つか)う歯(し)木(ぼく)だった。



挿絵(By みてみん)



「荒(あら)波(なみ)に揺(ゆ)られてたよ。


 終(お)わるまでそれで歯(は)を磨(みが)いてて。


 あとで確(かく)認(にん)するからね。」



歯(し)木(ぼく)は枝(えだ)の先(さき)を奥(おく)歯(ば)で噛(か)み潰(つぶ)して、

筋(すじ)に沿(そ)って割(さ)いてから歯(し)間(かん)を掻(か)いて

掃(そう)除(じ)する。



抜(ぬ)けた奥(おく)歯(ば)が気(き)になった。



歯(は)磨(みが)きをしても眠(ねむ)気(け)に耐(た)えきれず、

口(くち)に入(い)れたままの歯(し)木(ぼく)がお腹(なか)に落(お)ちて、

重(おも)たい頭(あたま)が前(ぜん)後(ご)左(さ)右(ゆう)に揺(ゆ)れる。



天(てん)蓋(がい)山(さん)の麓(ふもと)、ネルタの湖(みずうみ)に浮(う)かぶ船(ふね)。



わたしはその船(ふね)に乗(の)っている夢(ゆめ)を見(み)た。



わたしが息(いき)を吹(ふ)くと船(ふね)の帆(ほ)が膨(ふく)らみ、

気(き)持(も)ち良(よ)く川(かわ)を下(くだ)っていく、

お湯(ゆ)に浮(う)かぶ花(はな)びらの夢(ゆめ)。



船(ふね)が進(すす)んだ川(かわ)の先(さき)に、なにがあるのか、

夢(ゆめ)でその先(さき)を見(み)ることは叶(かな)わなかった。




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