
館の南の玄関から北の出口まで、
南北に繋がるコンクリート床の廊下。
その廊下を境界に、
低木と緑の敷かれた庭が
東と西に二つある。
トレイを押し付けられたわたしは、
スーに従ってテーブルの置かれた
西側の庭にやってきた。
「覚える必要のないことを教えてあげる。」
スーの言葉の意味が分からず顔を見ると、
彼女は視線を東に向ける。
「噴水のあるあっちが『歓喜の庭』、
こっちは『日陰の庭』って
名前があるんだよ。
でもあっちはみんな、
噴水庭園って呼んでるの。」
「庭に名前があるんだ。」
「建物にもあるよ。
南の玄関、待合室が『暮相の口』、
北の出口側が『黎明の足跡』ね。」
「入り口が夕刻で、出口が朝?」
「ここは夜の館だからね。
でも定着してるのは『日陰の庭』と、
『御不浄』くらいかな。」
この館では手洗い所を御不浄と呼ぶ。
「もしかして、まだ他にも
別の名前があるの?」
スーが西側を見た。
「食堂と浴場の棟は『美の脊椎』だって。
東のドレイプ棟は『星座の寝所』。
フランジで知ってる子も少なくて
伝わらないし、誰も呼ばないんだよ。
食堂なら食堂って呼ぶし、
部屋ならだいたいは番号で呼ぶから、
棟全体を呼ぶことはないもんね。
『花香の園』なんて呼ぶより、
フランジ棟って呼んだ方が伝わるよね。
でもドレイプになると皆、
話題作りに覚え直したりするよ。」
食堂と浴場がある西側の建物は、
美容と健康に関わる背骨と形容できる。

厳かな名前を付けても、
彼女達が生活で利用するものが
名前の通りに呼ぶとは限らない。
そんな中でも手洗い所が御不浄と呼ばれ、
定着したのは興味深い。
――『日陰の庭』…。
娼婦になるつもりもないのに、
わたしは胸の内で呟いた。
庭のテーブルは北側に配置している為に、
建物の影響で、いまも影が落ちている。
テーブルの足元に敷かれた
黒色の玉石が影を強調する。
スーは持ってきたトレイを
円形のテーブルの上に置いた。
ただし、裏返しだった。
四角のトレイに支配された
テーブルの天板は、見える部分が
僅かな隙間だけになった。
「二人共、ご苦労さま。」
手洗い所に繋がる北の階段から、
サンサが日陰の庭にやってきた。
アルが彼女の前を歩き、
西側の椅子に跳び乗った。
サンサは暗い紫紺の飾り布を肩に掛け、
チュニックの胸元に銀糸の飾緒を
渡らせている。
それから彼女は、輝きのある
鮮やかな赤色の布を手にしていた。
「今日は風もないし、
熾火も必要なさそうね。」
彼女はテーブルの北側の椅子に座り、
手にしていた赤い布を
折り重ねたまま膝に掛けた。
「おい! 客だぞ。」
ハンドベルが鳴らされて、
男の濁った声が庭に響く。
「不審者よ。」
「酔ってないハーフガンだよ。」
スーが言った。
「それは相反してるわね。
ハーフガンは酔っ払いの
代名詞なのに。」
「蔑称にしたのはサンサだよね。」
サンサとスーが笑う。
剣を佩いた黒髪に髭の中年男。
「今日は髭だけではなくて、
髪型が普段以上におかしいわね。」
「普段は脂まみれの寝癖頭だもんね。」
髪を左右不均等に分けた中年男は、
後ろに初老の男を一人連れていた。
「どうして館に入ってきたの?
普段こんな仕事しないでしょ?」
「おまえが館の外は物騒だと言って、
メノーのやつが連れてったんだよ。
俺は館の護衛じゃねえぞ。」
「あなたに護衛を任せようにも、
子供を追いかけられない上に
足元も覚束ないのだから。
連れ歩くだけで品位を損ねるわ。」
「くっ!」
「無いも同然の信用は、
これからの行動で示せばいいわよ。」
ハーフガンと呼ばれた男。

昨夜の館の脱走時に酔って外で寝ていた
浮浪者のような中年男が、服を新しくし
姿勢を正して髪を切り整えていた。
「せめて子供くらいは守りなさい。」
サンサになにも言い返せず、
彼はわたしを睨みつける。
彼の後ろに立つ初老の男が咳払いをした。
岩のような顔つきに細い目。
褐色の肌に濃い日焼けをした小男。

白羊毛の長いコートを肩に掛け、
裾の短いチュニックと黒色の帯布を巻く。
両の手首には豪奢な黄金の腕輪をしていた。
胸元の飾緒は長く4つに折り束ねられ、
ひと目で高い地位の持ち主と分かる。
顔には苦労と共に皺が深く刻まれ、
少ない白髪を生やした荒涼とした頭は
見事な半球形で、陽光が反射する。
男は持ってきた分厚い本をテーブルの足元、
玉石の上に捨て置く。
「ごきげんよう。マルフ総督。
手紙一つで突然呼び出して悪いわね。
待ってたのよ。」
――総督?
彼の肩書きにわたしは静かに驚いた。
――それって偉いひとよね?
サンサは『たいしたお客さんではない』と
言っていた、目の前に立つ総督とは、
都市で高い地位を持つ役職の貴族だった。
「今回も、困った問題を引き起こして
くれたものだな。」
マルフという男は怒りを見せている。
「あれでは鼠共がまた火を放つだろう。」
「今回のはただの残り火よ。
これで火災にでもなれば
エイワズの保険屋が儲かるわね。
スーに椅子を引かせましょうか?」
「その必要はない。
総督なら相応の覚悟をせねばならん。」
テーブルを挟み、
目の前の椅子に荒々しく座るマルフ。
サンサはハーフガンを横目にする。
彼女はなにも言わずに顎を前に出し、
ハーフガンに去るように促した。
彼は去り際までわたしを睨みつける。
――嫌われたのね…。
わたしは彼に不名誉を与え、
恨まれてしまった。
ハーフガンが去ったのを見て、
サンサは膝に掛けていた赤い布を
裏返しのトレイの上に置いた。
「スー。
これを頼めるかしら。」
「ニクス。そっちを広げて。」
スーに言われて意味を理解し、
わたしはアルの後ろに立った。
マルフが伏し目がちに
スーを見ているのが気になる。
わたしは布の両端を持って腕を広げ、
トレイをテーブルの天板ごと
布を覆い被せた。
「光って見えるね。」スーが言う。
「どう?
飾緒に使われるシルクを、
織って染めたものよ。」
マルフは椅子を立ち上がって布を見た。
建物の日陰の中でも
僅かな光で波打つ生地が光沢を作り、
わたしもその美しさに目を見張った。
「遥遠代より昔、
古代から織られていたのだけれど、
エルテル領で10年かけてようやく
生産技術の確立ができたのよ。
織り方も工夫してるのよ。」
「エルテル風邪のせいだろう。
しかし…むぅ…見事なもんだ。」
怒りを見せていたマルフも布に触れ、
滑る指先の感覚に口元を緩ませる。
「量産が整ったからと言って、
養母のベリーが館に
送りつけてくるのよ。」
サンサは、東にあるエルテル領の養女。
スーや本人から説明を受けても
わたしは信じられずにいる。
「これは美しいな…。」
宝石を砕いて散りばめたかのような
この美しい生地を目にして、
マルフは静かに息を呑み、感嘆する。
「大陸でもこの布を巡って、
戦争も起きるほどよ。
帰りにでも差し上げるわ。
アイリアも気に入るはずよ。」
「あぁ。確かにこういう物は好きそうだ。
それにサンサを相手に
妬まれても困る。」
「酷い言いようだこと。」
サンサは口元を手で隠し、
微笑を浮かべるのを見て、
わたしは彼女へさらに不信感を抱く。
彼女はテーブルの天板下の網棚から、
二つの小箱を取り出した。
「ここまで来たのなら、
札遊びに付き合って貰うわよ。
スー。渡して。」
「はい。」
サンサの左横に立っていたスーが、
受け取った箱をマルフの前に置く。
小箱の中から、
手のひらほどの革の束が出てきた。
「遊びに来たわけではないぞ。」
「わたしからの誘いを断るなんて、
恥を掻かせたいわけね。
勝負に負ける前に。」
その一言で娼婦に侮辱されると、
マルフも強くは断れずにいた。
スーが微笑している。
「サンサ相手とはいえ、
わしは手加減せんぞ。
…これは羊か?」
「普通の羊皮紙よ。
透かし防止で肉面を染めているの。」
「肉面を? 表面でもなく?」
箱から取り出した札を見て、
マルフは塗られた肉面を青空に翳す。
サンサも札を取り出し、
わたしは西側の席に立ってそれを見ていた。
札に描かれた数字や記号の反対側の面は、
全て濃紺色に染められていて、
相手から透かし見られる心配はない。
「従来の羊皮紙の製法だと、
どうしても体表側に捲れてしまって、
札として使いものにならないの。
これはソーマが作ったとされる技法よ。」
羊皮紙は通常、体毛の生える面を
表面にしてインクを載せる。
マルフは製法の説明には興味を示さず、
札を眺めてさらに目を細めて頷く。
「持ってる気がせん。
なるほどな。
片手で持てれば、
いつもの札立ても要らんか。
男は機能を重視し、
女は軽く小さなものを
常に求めるようだな。」
「なんでも男女に分けたがるなんて、
マルフはいまでも男らしさを
誇示したいのかしら?」
失礼な疑問を抱くサンサに対し、
横のスーが静かに言った。
「サンサ、下品は禁止だよ。」
「まだ言ってないわよ。」
サンサは言って笑っている。
「マルフはまだ若いつもりね。
そんなお年頃でもないでしょ。」
「ふんっ。
サンサの前では
いつでも若いつもりでいるさ。」
「それならもっと精励して貰わないと。
総督としてね。」
サンサは手にした札を
台となっている裏返したトレイの手前、
テーブルの隙間に数字の順に並べていく。
羊皮紙には数字と図柄が描かれた札と、
記号が描かれた札と種類がある。
「わしの札の紋標は剣と盾か…。
戦場に出んわしには似合わん札だ。」
「マルフにお似合いの男の紋標よ。
この女の札と交換しましょうか?」
「いや、よい。
意地悪なサンサからの贈り物だ。」
「手厳しい言葉ね。」
サンサは口元を隠してまた笑った。
▶