「あ、忘れるところだった。
これ使って。」
スーは庭に干していた、
布切れを1枚摘み取って手渡してきた。
彼女はキャシュクの
懐から同じ布を取り出し、
正方形の布の角を対角線で折り重ねた。
「鶏小屋の埃を吸わないようにね。
『病は口から』って標語があるんだよ。
エルテル風邪が東部で蔓延したからね。
10年以上昔の出来事だけど、
酷い風邪を拗らせて子供も大人でも、
死んでしまうほどだったんだよ。
病気の原因になる埃が空気に混ざって、
鼻や口から体内に入るからだって。
こんな感じで顔を覆ってね。」
スーが口布を着けた姿を見て、
昨夜のサンサの宝飾巾姿を思い出す。
わたしは口布を重ねて後頭部で端を結ぶ。
「固く結んでおけば、こんな感じに、
形をそのまま維持することもできるよ。」
スーは口布を顔から外して、首元に落とす。
結び目は解けず、形が維持され、
首や鎖骨が隠れて装飾にも見える。
わたしが試しに結んでみても
指の力が無くて、顔から外した途端に
結び目は解けてしまった。
後ろ側で結ぶのは苦手だった。
「指の力って鍛え難いから、
これには慣れが必要だね。」
彼女はわたしの口布を結んでくれた。

「こっちがその鶏小屋ね。」
塀に囲まれた館の南西にある独立した建物。
煉瓦壁に木製の厚い扉。
外から中の様子は見えない。
壁には通気用の穴がいくつか空いている。
わたし達の足音に気付くと
中から羽音を立て、
喉を鳴らすような
囀りや叫びが聞こえる。
強い臭気が鼻腔を突く。
「ここで飼ってる鶏は、
従業員の子が毎朝卵を取ってくるんだよ。
ニクスは動物を飼った経験、ない?
私も動物を飼った経験はなかったよ。
この館みたいに大勢のひとを雇って、
生活を充足させるのだって大変なのに、
命を育てて糧を得るのは難しそうだよね。
農家はそれを熟してるんだから、
本で学んだ知識だけで実際の苦労なんて
簡単に想像できないよね。
サンサはアルを飼ってるけど、
あれで躾が行き届いて利口だよね。
アルはなにか、理解してるのかな。
犬と違って猫って
その時の気分で行動するし、
気が短くて、芸が仕込めるほど
忠実でもないんだって。」
「猫ってそんな動物なんだ。」

塔で暮らして居た時に見た猫は
乳母に追い払われていたし、
本以外で見る機会はほとんど無かった。
口布を突き破ってくる獣臭に、
わたしは目を細めて鼻筋に力を込めた。
小屋の横には、強烈な臭気を放つ
鶏糞が積まれている。
「まだ今日は手入れしてないのかな?
ちょっとここで待ってて。
入るには鍵が必要だから。」
「入るの?」
わたしの疑問にスーは気にせず、
玉石の庭に戻ってしまった。
彼女に置いていかれたわたしは、
臭気の激しい小屋から離れて、
緑豊かな北の木立を眺めるしかない。
木の放つ甘い香りに包まれていると、
遠くで鳴き声がする。
鶏ではない。
耳を澄ますとビャオォと、
掠れた鳴き声が聞こえる。
――近くに、なにか居るのかしら?
わたしは周囲を見渡し、
鳴き声の聞こえる方向へと歩いた。
「誰だ?」
子供が木立のあいだに座っていた。
切り揃えた前髪が特徴の 線の細い少女が、
足元に白猫を抱いているのが見えた。
昨日、玄関で籠を抱えていた子だった。

「ここはフランジが
入って良いところじゃないぞ。」
「ごめんなさいっ…。」
知らない少女に注意されて、
わたしは急いでその場を去った。
慌てて逃げたこともあり、
気付けばフランジ棟の裏側を
一周りしていた。
「あれ、ニクス。
こっちから来たの?」
木立を抜けた先にはスーが居た。
彼女は貯蔵室にあった
長い果物を食べている。
「従業員の子の代わりに、
鶏小屋に入ろうとしたら断られて、
これで買収されちゃった。」
笑って言うと、彼女は手にした果物を
わたしに分け与えた。
「そっちの果樹園は館の古い決まりで、
フランジは入ったらダメなんだよ。」
「さっき、聞いた…。」
「私は良く入るけどね。
誰も見てないからいまのうちに
これ、食べていいよ。
食べ歩きってお行儀悪くて、
ドレイプに見つかると叱られるから、
見つからなければ良いんだよ。」
当然のことを言って、彼女は笑っている。
立ったまま食べるのは初めてだった。
紫色をした厚い果皮は縦に裂け、
中身は薄い黄色の見慣れない果肉が現れる。

鶏糞の強い匂いのあとでは
果肉に鼻を寄せても、
薄い匂いは感じ取れない。
口にすると歯を立てただけで、
細長い果肉が簡単に折れて
唇と舌で受け取った。
果肉の表面は乾燥していて果汁は出ない。
舌には穏やか刺激と、
仄かな甘さが口に広がる。
噛んでみると少し粘性があり、
すぐに溶けてなくなってしまい、
馴染みのない食感が口の中に残った。
「ナショーっておかしな形してるでしょ。
何十本もの実が房を作って、
短い実はフランジが食べて良いんだよ。
大きな草にできる果実で、
元は大陸原産の植物なんだって。
北東のペタ領から来る、
大農場主からの頂戴物。
向こうだと皮ごと焼いて、
蒸し料理にして食べるみたい。
風邪でつらくても
これをヨーグルトと一緒にすると、
食欲が無くても食べられるんだよ。
今度作ってあげよっか。」
「風邪になった時にね。
…スーはお料理できるの?」
「ううん、ヤゴウがするんだよ。
さっきのお腹のひとが厨房長ね。
厨房を使うには責任者、厨房長の
ヤゴウの許可が必要になるよ。
火や刃物があって危ないもんね。
食材の管理や器具の清掃を徹底しないと、
食中毒を起こす可能性もあるよね。」
火の扱いを誤れば火災に繋がり、
子供に刃物を扱わせないのも理解できる。
「フランジはまだしも、サンサなんて
オーナーから厨房の立ち入りを
禁止されてるんだよ。」
――下働きの子供だって
厨房に立ってたのに…、
サンサってひとはなにを
やらかしたのかしら。
ナショーを食べながらスーの話を聞いた。
彼女は発音に忠実でとても聞き取りやすく、
声には心地良さがある。
わたしみたいな濁った声の
南部言葉ではないし、澄んだ声で
罵倒や暴力どころか嘲笑もしてこない。
館にはわたしを責めるひとが居ないせいか、
それが妙に落ち着かない。

「ここがサンサの言ってた場所ね。」
フランジ棟のすぐ隣、玉石の庭、
南に建つボイラー室の反対側の北の一室。
スーはわたしに館を案内するついでに、
サンサから遣いを頼まれていた。
扉のハンドルを引いてを開けると、
まずガラクタが目に飛び込んでくる。
室内に詰められたガラクタは
いまにも崩れ落ちそうで、
わたしは反射的に顔を背けて
右手を前に出していた。
「見てこれ、なんの部屋だと思う?」
「…ゴミ捨て場?」
二つのナショーの果皮を
両手に持て余したわたしは、
室内の惨状を見て率直に言った。
「違うよ…とは言い切れないよね。
ここは本当は書室なんだけど、
みんなはサンサの倉庫って呼んでる。」
「書室? 本があるの?」
「あの、奥ぅーの方にね。」
テーブルの上に置かれたガラクタの、
さらに奥を指示して背伸びしたスーが言う。
背の低いわたしには、なに一つ見えない。
「どうしてこんなに荒らされてるの?
なにか盗まれてない?」
「偉大なる発明の残滓…かなぁ。」
言ったスーも首を捻り、
口布を顔にして書室の中に入っていった。
彼女が入ろうにも足場はなく、
長い手と足を伸ばして壁の棚にあった
目的の物を引き摺り出した。
埃に包まれて出てきたのは、
木製の四角く広いトレイ。
「西側も大略は見たし、庭に戻ろっか。
お客さん、もう来てるかもね。」
昼からの来客に備え、
必要なものがこのトレイだった。
――あれが書室。
ここへ来るよりも前のわたしは、
本を読んで暮らしていた。
そこはネルタの城内ではなくて、
わたしだけが暮らす塔の中。
少し前のことを遠い昔のように感じて、
ゴミ捨て場ではない書室をあとにした。
▶