
食堂から繋がった南側の部屋には、
箱や小瓶がいくつも並んでいる。
黒い果実のマリセスが重ねた箱に入って、
甘い香りが鼻孔を擽る。
この部屋は貯蔵室で、パンの原料になる
穀物のブレズの粉が革の袋に詰められ、
わたしの背ほどの高さに積まれていた。

ブレズの子実を挽く必要が無いので、
石臼は見当たらない。
豆の袋は、地下の檻で着ていた
ペヌンの布袋に比べて丁寧に縫われ、
頑丈で布の質も良かった。
保存の利く根菜類は、
箱の中に分けて納められている。
柔らかい食材は、
積まれた重みで潰れないように
網棚に並べられている。
わたしにとって見たことのない食材も多い。
壁に設けられた棚の上には、
釉薬のされた瓶に入った油や、
ソースなどの調味料が
豊富に揃えられている。
食堂で昼食を終えると館には昼休みがあり、
スーの案内で館の中を引っ張り回された。
サンサとアル、メノーとレナタは
自分の部屋に戻って行った。
メノーとレナタの二人は、
病院に行くとも話していた。
「この貯蔵室は、
フランジもドレイプでも
勝手に入ってはダメな場所だよ。
厨房長のヤゴウが居る時は、
手伝いに入っても良いんだって。
悪さをしなければね。」
厨房でパンを焼いていた土色の髪の大男が、
睨みを利かせてわたしを見下ろす。
ヤゴウはここで働く数十人もの食事を、
絶やさず提供しなければならない。
「果物とか塩漬け肉とか
蜂蜜があるからって、
勝手に持ち出したらダメだよ。」
「当然だっ!」
ヤゴウは声を張って頷く。
彼の、膨れ上がったお腹から出た
その声が、貯蔵室の空気を震わせる。
声量にわたしは肩で驚いた。
「ヤゴウみたいに太らないように、
食べ過ぎには注意してね。
これで身体を動かしてなかったら、
貴族病になったりするんだよ。
でも痩せ過ぎても健康に良くないよ。」
スーは気にもせずに、
ヤゴウのお腹を手のひらで叩いた。
侮辱のような行為でも、
ヤゴウはスーを怒ったり叱ったりもしない。
軽快な音を耳にして彼は鼻で笑っている。
「普段は鍵がかかって入れないから、
こんな機会は無いんだよ。
でも、ここに侵入しなくても
お腹が空いたらヤゴウに言えば、
おいしいものを作ってくれるよ。」
「悪いな。
おいしいもんしか作らん。」
「あははっ。だって。」
ヤゴウは細い目で表情を変えない。
わたしは彼の警戒心に当てられ、
黙って首を縦に振る。
貯蔵室に窓はなく、
他の部屋に比べて暗くて肌寒い。
「ねぇ、あれは?」
置かれた食料や調味料以外で、
部屋には違和感があった。
枯れた草花や果皮などが
貯蔵室の片隅に置かれ、
または吊るされている。
食べ残しを吊るしたり、
銀の器に盛るはずはない。
ランタンの灯火で照らされた
床と壁の隙間の濡れた箇所は
液体で光が反射している。
コンクリートの亀裂は埋められ、
水が染み出ている風でもない。
食材、ソース、わたし達以外の香りが、
仄かに鼻腔を突く。
「これは貯蔵室内に虫が湧いたり、
鼠が入って来ないように
してるんだよ。でしょ?」
「扉の隙間にも油を塗ってる。」
「虫除けの臭気なんだね。
この奥の扉からも外に出られるの?」
「搬入と従業員用の出入り口だよ。
また外に出たいの?」
スーに訊ねられると、
わたしは黙って首を横に振った。
彼女は指を南の出入り口に向けて、
乾燥させたバイテスの実の粒を摘んで
わたしの口に入れた。

それを見逃さなかったヤゴウの目が、
ランタンに照らされ、わたしは畏縮する。
いたずらなスーの成果もあって、
ヤゴウには貯蔵室を追い出され、
わたし達は食堂に戻ってきた。
厨房から西に通じる扉は無く、
食堂を出て、外廊下から浴場の前を通る。
通路に備え付けられた流し台を通り抜け、
館の西側へと向かった。
そこは白と灰色の庭。

緑豊かな東側の庭園とは異なり、
庭は生活感に溢れている。
洗われたベッドシーツやチュニック、
口布、肌着に股布、飾り布などが干され、
穏やかな風に吹かれて揺れる。
まるで夢の中で見た船の帆のような光景。
玉石の敷かれた庭の中央には井戸がある。

井戸には蓋がされていて、
緑青に覆われた銅の水瓶が置かれている。
細長い瓶には屈曲した長い柄が伸び、
水を掬い上げるディッパーにも見える。
革のサンダルで庭の玉石を踏むと、
丸い石と石が擦れる奇妙な音が耳を撫でた。
足の感覚も不安定になって歩き難い。
「南に建ってるのがボイラー室。
主にお風呂のお湯を作る場所だね。
火を扱うから従業員以外は
入ったらダメだよ。
火傷するからね。」
薪などの燃料を使って水を熱して、
お湯を作る装置を古くからボイラーという。
ボイラー室から伸びた長い煙突の蒸気が、
風に吹かれて散逸する。
「風呂の水は井戸から汲むの?」
「赤土の丘に建つ館の水は、
水道管を地下から通して、
水が下から流れてくる仕組みだね。」
「それってサイフォン?」
名称を訊ねると、
説明していた彼女は目を驚かせた。
「うん? これは逆サイフォンだよ。
よく知ってるね。」
「『退化の科学論』で読んで…。」
サイフォンの仕組みは、
その理論書を読んで確かめたくて
昔実験をしたことがある。
塔で独り退屈をしていたわたしは、
水で満たされた杯と空の杯を二つ用意した。
それから水辺草を使う。

茎が中空のこの草は、
普段からよく乳母達が集めており、
ストロー帽や籠などを編んでいた。

わたしは乳母から貰った茎を
茎を曲線状に曲げた水道管に見立て、
管の内部を水で満たして、
茎の片方を水中に伸ばす。
すると杯の水は管内を昇るように吸い上げ、
渡らせた空の杯へと流れ落ちる。

管内部の水の均衡は
重力で落ちる水と同時に圧力が生じて、
杯の水が吸い上げられる原理。
杯の中の水が均等になると
管内部に差が無くなり、
水の移動は自然と止まる。
杯を手に持って水を移し替えなくても、
ポンプで吸い上げる必要もない。
水槽の底面から管を繋げるものは
逆サイフォンと呼ぶ。

この仕組みで丘の上に建つ館でも、
別の高い位置にある水槽から管が繋げられて、
重力によって水が供給されていた。
逆サイフォンは他にも
農地への水を均等に分配する分水施設や、
噴水の装置にも利用されている。
幼い頃に行った実験は成功したものの、
望んだ結果は得られなかった。
乳母達には水に濡れた床のせいで、
誤解されて理解されずに失望された。
「他になにか知ってる?」
「浴場にあるガラスの姿見も載ってたね。
サイフォンを使っているけれど、
ここではポンプは使わないの?」
「あの井戸に往復ポンプが備わってるよ。」
「あっ! あれがポンプなんだ…。」
蓋のされた井戸に置かれたあの銅の瓶と
長い柄はディッパーではなく、
往復ポンプだった。

スーが屈曲した柄を上下に動かして、
管から水を出して見せる。
「飲み水としては使わないようにしてね。」
長い柄を上下させると、井戸の水位まで
長く伸びた管の中の空気を吸い上げ、
内部の圧力で水を汲み上げる。
退化の科学論に描かれた水力機械が、
実在する姿をわたしは初めて目にした。
「清潔を保つのも
娼館には大切なことだからね。
『若いからって気を抜くと、
すぐわたしみたいになるわよ。』
って、オーナーが言うんだよ。
だからボイラー室で作ったお湯は
食堂の隣の浴場だけでもなく、
ドレイプの個室にも繋がってるよ。」
「部屋にもお湯が流れてるの?」
「サンサと、その下で認証管理してる
北端のボナの部屋には無いんだよ。
上が5番部屋で下が10番部屋ね。
ドレイプの浸かったお湯を目当てに、
館に侵入を企むひとも出るんだって。
おかしなひとには気をつけてね。」
「そんなひとが居るんだ…。」
「ほら、館を囲んでる塀の先に
鉄の棘が備わってるのは、
侵入を防止する目的だね。」
――脱走防止ではないのね…。
庭には丸い石が敷かれている。
下流から採集される角の取れた石。
子供達が水切りをして遊ぶ
平らな石もある。
わたしはその光景を塔の上から眺めていた。
「夜になるとねぇ。ふふふ…。
井戸から侵入者が出てきて、
かれらが玉石を踏むと、
音が響いてドレイプ棟にまで
聞こえてくるんだよぉ。」
声を低くして語気を強めるスー。
「ここは良い庭だね。」
「えっ? なんて?」
話を聞いて感心していると、
説明したスーは驚いて訊ねてきた。
「玉石が敷かれているから草も生えないし、
洗濯をしていても砂埃も立たない。
ここは高い木も無いから、
乾いた風もよく通って
洗った物は乾きやすいし、
だから足音も響くんだね。
侵入者が中から出られないように、
蓋に留め具をしておけば良いと思う。」
この庭の造りは合理的で気に入り始めた。
「…井戸から侵入者が出てくる、
って想像したことない?
怖くないの?」
「だってこの館には警備が居るよね。
それなら彼らに任せれば良いよ。」
侵入者が出てきたとして、
わたしがなにかできるとは思えない。
誰かを助けられるほど勇敢ではしないし、
剣を握って戦いを挑むほど無謀ではない。
「警備は兼ねてるけど、
主にドレイプやフランジの為の
護衛だよ。」
「侵入者が出てくるくらいなら、
井戸の中には湧き水以外で
水道かトンネルが掘られてたりするの?
出入りが出来るほど水が減るのなら、
太陽や月の位置に関わりがありそう。」
わたしの思いつきにスーが首を捻った。
「潮汐は関係無いよ。
そう言えば、最近は防犯に
犬を飼うひともいるよね。
ついでにあっちの小屋も
見ておこうか。」
言ってスーが南西に向かって前を歩く。
「こっちがフランジの寝室と端が教育室ね。
まとめてフランジ棟とか、
寝室棟って呼ぶかな。」
東向の扉の数からすると、
1階は部屋が5個に分かれている。

教育室を除けば、
フランジは一つの部屋に
4人ほどが詰め込まれる。
「レナタ達フランジが、
一緒に寝泊まりする場所だね。」
「わたしも?」
「今朝、それを話してたんだよ。
ニクスは私と一緒にサンサの部屋だって。
それともみんなと一緒に
こっちの方が良かった?」
わたしは慌てて首を横に振った。
事情を知らない子供達相手に、
出自を詮索されても困る。
スーはなにも詮索せず、
彼女が一方的に喋るおかげで、
わたしは必要以上に喋らなくて済んだ。
わたしが思い浮かんだ疑問も、
彼女からすぐに答えが返ってきて
なんでも質問してしまった。
逆に質問される立場になったらきっと、
わたしはなにも答えられなかった。
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