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金貨の娘  作者: 美穂
第1章 悪夢の檻

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第1章 第1節 丘上の館(第1項)

――もう誰(だれ)も、

  わたしの名(な)前(まえ)を呼(よ)びはしない。



虚(うつ)ろを見(み)つめるわたしに呼(よ)び掛(か)けたのは、

言(こと)葉(ば)も発(はっ)さない足(あし)元(もと)の鼠(ねずみ)だった。



挿絵(By みてみん)



暗(くら)い鈍(にび)色(いろ)の鼠(ねずみ)はわたしの足(あし)の指(ゆび)を囓(かじ)って、

わたしの死(し)を確(かく)認(にん)する。



なにをされたのか理(り)解(かい)できず、

反(はん)射(しゃ)で足(あし)を引(ひ)いて痛(いた)みから逃(に)げた。



この動(うご)きに驚(おどろ)いた鼠(ねずみ)は跳(は)ねて部屋(へや)を逃(に)げ、

わたしが死(し)ぬのを廊(ろう)下(か)で待(ま)つ。



部屋(へや)と廊(ろう)下(か)を、

古(ふる)く錆(さ)びついた鉄(てつ)格(ごう)子(し)が隔(へだ)てる。



この場(ば)所(しょ)は、悪(あく)夢(む)の中(なか)の牢(ろう)檻(かん)。



何(なん)度(ど)寝(ね)ても、何(なん)度(ど)起(お)きても、

夢(ゆめ)から覚(さ)めずに、いつもの場(ば)所(しょ)、

いつもの暗(くら)闇(やみ)、いつもの悪(あく)夢(む)。



遠(とお)くの入(い)り口(ぐち)から迷(まよ)い込(こ)んだ明(あ)かりが、

暗(くら)闇(やみ)に曖(あい)昧(まい)な輪(りん)郭(かく)を生(う)み出(だ)す。



壁(かべ)の隙(すき)間(ま)から水(みず)が滲(し)み、

床(ゆか)には黴(かび)が黒(くろ)い影(かげ)を作(つく)る。



僅(わず)かな光(ひかり)の中(なか)でも蜘蛛(くも)が巣(す)を編(あ)み、

獲(え)物(もの)が掛(か)かるのを待(ま)っている。



細(ほそ)くなった指(ゆび)で細(ほそ)くなった膝(ひざ)を抱(かか)えて、

霞(かす)む目(め)で周(しゅう)囲(い)を眺(なが)めた。



わたしのベッドは土(つち)を盛(も)った台(だい)座(ざ)で、

形(かたち)を失(うしな)いつつある土(つち)塊(くれ)に背(せ)中(なか)を委(ゆだ)ねる。



鉄(てつ)格(ごう)子(し)は浸(しん)水(すい)で腐(ふ)食(しょく)し、歪(ゆが)んでいる。



この地(ち)下(か)の檻(おり)に入(い)れられて、

何(なん)日(にち)経(た)ったかは分(わ)からない。



看(かん)守(しゅ)も居(い)なければ、食(しょく)事(じ)も運(はこ)ばれない。



湿(しめ)った空(くう)気(き)に混(ま)ざる黴(かび)の臭(しゅう)気(き)にも慣(な)れ、

鼻(び)腔(くう)を突(つ)く不(ふ)要(よう)物(ぶつ)の臭(しゅう)気(き)にも慣(な)れた。



甘(あま)く張(は)り付(つ)くような臭(しゅう)気(き)が充(じゅう)満(まん)する。



長(なが)い空(くう)腹(ふく)と寝(ね)不(ぶ)足(そく)で、

頭(あたま)の中(なか)には常(つね)に靄(もや)がかかっている。



地(ち)下(か)に棲(す)む鼠(ねずみ)や蜘蛛(くも)などは、

餌(えさ)を求(もと)めて共(とも)食(ぐ)いを始(はじ)める。



次(つぎ)に目(め)を覚(さ)ます時(とき)は、

これが夢(ゆめ)であればと願(ねが)って、

また瞼(まぶた)を閉(と)じて浅(あさ)い眠(ねむ)りにつく。



顔(かお)の近(ちか)くを飛(と)び交(か)う蠅(はえ)が

耳(みみ)の真(ま)横(よこ)で翅(は)音(おと)を立(た)て、

鼠(ねずみ)が再(ふたた)び足(あし)の指(ゆび)を囓(かじ)り、

わたしの睡(すい)眠(みん)を妨(ぼう)害(がい)した。



布(ぬの)切(き)れを頭(あたま)まで被(かぶ)っても眠(ねむ)れずに

不(ふ)快(かい)感(かん)から爪(つめ)で頭(とう)皮(ひ)を掻(か)き毟(むし)る。



それから首(くび)、背(せ)中(なか)、枯(か)れ枝(えだ)のような腕(うで)、

服(ふく)の縫(ぬ)い目(め)の隙(すき)間(ま)に手(て)を入(い)れて

肋(ろっ)骨(こつ)の浮(う)いたお腹(なか)の垢(あか)を爪(つめ)で削(そ)ぐ。



いまは全(ぜん)身(しん)が不(ふ)快(かい)感(かん)に包(つつ)まれている。



――こんな服(ふく)を、

  チュニックと呼(よ)べるのかしら…。



チュニックと呼(よ)ばれるこの服(ふく)は、

わたしの国(くに)では奴(ど)隷(れい)に着(き)せる

とても粗(そ)末(まつ)な布(ぬの)だった。



本(ほん)によるとこの服(ふく)の作(つく)り方(かた)は簡(かん)素(そ)で、

どこにでも生(は)えて垂(すい)直(ちょく)に伸(の)びる

南(なん)部(ぶ)草(そう)で作(つく)られる。



挿絵(By みてみん)



伐(ばっ)採(さい)した南(なん)部(ぶ)草(そう)の茎(くき)を叩(たた)いて柔(やわ)らかくし、

乾(かん)燥(そう)させて繊(せん)維(い)にする。



大(たい)陸(りく)にあった繊(せん)維(い)の代(だい)用(よう)品(ひん)なので、

ペヌンとも呼(よ)ばれている。



挿絵(By みてみん)



繊(せん)維(い)のペヌンを梳(す)き、細(ほそ)く長(なが)い糸(いと)に紡(つむ)ぎ、

複(ふく)数(すう)の糸(いと)を並(なら)べて吊(つ)るし、横(よこ)から糸(いと)を

何(なん)度(ど)も交(こう)差(さ)させて1枚(まい)の布(ぬの)を織(お)る。



質(しつ)の悪(わる)い布(ぬの)は元(もと)から肌(はだ)触(ざわ)りが問(と)われず、

パンの原(げん)料(りょう)、穀(こく)物(もつ)のブレズの

子(し)実(じつ)を詰(つ)める袋(ふくろ)だった。



挿絵(By みてみん)




袋(ふくろ)が傷(いた)めば奴(ど)隷(れい)用(よう)の服(ふく)に転(てん)用(よう)される。




チュニックはペヌンで織(お)られた縦(たて)長(なが)の布(ぬの)袋(ぶくろ)の底(そこ)側(がわ)を、

中(ちゅう)心(しん)から半(はん)円(えん)に切(き)り、頭(あたま)を通(とお)す穴(あな)を作(つく)る。



布(ぬの)袋(ぶくろ)の脇(わき)に腕(うで)を通(とお)す箇(か)所(しょ)を作(つく)れば、

奴(ど)隷(れい)に着(き)せる服(ふく)、チュニックが完(かん)成(せい)する。



挿絵(By みてみん)



ロープと同(どう)様(よう)に、粗(そ)雑(ざつ)に梳(す)かれた

繊(せん)維(い)のペヌンで織(お)られたこの布(ぬの)は、

首(くび)周(まわ)りに襟(えり)がなくて皮(ひ)膚(ふ)に痛(いた)く、

常(つね)に痒(かゆ)みを与(あた)える。



両(りょう)脇(わき)の縫(ぬ)い糸(いと)は足(た)りなくて、

最(さい)初(しょ)から何(なん)箇(か)所(しょ)か綻(ほころ)び破(やぶ)れている。



――身(み)分(ぶん)の低(ひく)い者(もの)の着(き)る服(ふく)が

  チュニックではなくて、

  生(き)地(じ)の質(しつ)が悪(わる)いから、

  奴(ど)隷(れい)はこんな服(ふく)を着(き)せられるのね。



本(ほん)から得(え)られない知(ち)識(しき)に独(ひと)り納(なっ)得(とく)した。



惨(みじ)めな格(かっ)好(こう)で

浅(あさ)ましく身体(からだ)中(じゅう)を掻(か)いても、

叱(しか)られないこの悪(あく)夢(む)の中(なか)では

罵(ば)倒(とう)も暴(ぼう)力(りょく)も嘲(ちょう)笑(しょう)もされない。




廊(ろう)下(か)の奥(おく)の、格(こう)子(し)の先(さき)にも檻(おり)がある。



顔(かお)を起(お)こすと、向(む)かいの檻(おり)にある

物(ぶっ)体(たい)が視(し)界(かい)に入(はい)った。



あるのは一(ひと)つ。闇(やみ)色(いろ)の物(ぶっ)体(たい)。



命(いのち)の火(ひ)を失(うしな)った死(し)体(たい)。



死(し)体(たい)は甘(あま)く張(は)り付(つ)くような異(い)臭(しゅう)を放(はな)ち、

その臭(しゅう)気(き)はこの地(ち)下(か)だけではなく、

わたしの鼻(び)腔(くう)、頭(あたま)の中(なか)まで占(せん)領(りょう)する。



動(うご)かないものの上(うえ)を、白(しろ)い蛆(うじ)が蠢(うごめ)く。



死(し)体(たい)に産(う)み付(つ)けた蠅(はえ)の卵(たまご)は蛆(うじ)になり、

死(し)体(たい)と蛆(うじ)は鼠(ねずみ)の餌(えさ)になる。



――わたしが死(し)ねば、鼠(ねずみ)に食(た)べられ。

  鼠(ねずみ)が死(し)ねば、蛆(うじ)に食(た)べられる。



――生(せい)命(めい)は循(じゅん)環(かん)する。

  本(ほん)に書(か)かれている通(とお)りだわ。



檻(おり)の壁(かべ)から漏(も)れ出(で)る僅(わず)かな水(みず)は

黴(かび)を増(ふ)やし、床(ゆか)に滲(し)みるばかりで、

不(ふ)要(よう)物(ぶつ)を洗(あら)い流(なが)してはくれない。



――湖(みずうみ)から溢(あふ)れ出(で)た水(みず)は湖(みずうみ)に戻(もど)らない。



わたしの思(し)考(こう)はこの湧(わ)き水(みず)のように、

床(ゆか)土(つち)の中(なか)へと消(き)えていく。



伸(の)びた爪(つめ)を噛(か)み、詰(つ)まった垢(あか)を口(くち)にした。



――わたしの身体(からだ)の鍍金(めっき)…。



これがこの檻(おり)での唯(ゆい)一(いつ)の食(しょく)事(じ)になる。



代(たい)謝(しゃ)によって排(はい)出(しゅつ)されたものは、

空(くう)腹(ふく)を満(み)たしてはくれない。



頬(ほお)を叩(たた)かれた時(とき)に

不(ふ)安(あん)定(てい)になっていた奥(おく)歯(ば)が抜(ぬ)けて、

手(て)のひらに吐(は)き出(だ)した。



口(くち)の中(なか)に血(ち)が湧(わ)いて出(で)る。



――銅(どう)貨(か)の味(あじ)がする。



銅(どう)も硬(こう)貨(か)も食(た)べられるものではないのに、

血(ち)の味(あじ)はこのように形(けい)容(よう)される。



わたしはもうずっと、

まともな食(しょく)事(じ)をしてない。



地(ち)下(か)の檻(おり)で過(す)ごすわたしは、

昼(ちゅう)夜(や)の感(かん)覚(かく)も失(うしな)っている。



干(ほし)し草(くさ)を敷(し)いた寝(ね)椅(い)子(す)もなければ、

本(ほん)棚(だな)や湖(みずうみ)を見(み)渡(わた)す窓(まど)もない。



与(あた)えられた布(ぬの)切(き)れは薄(うす)く穴(あな)だらけで、

廊(ろう)下(か)から流(なが)れる冷(つめ)たい風(かぜ)を

防(ふせ)いではくれない。



布(ぬの)切(き)れに包(つつ)まれたまま

誤(あやま)って手(て)足(あし)を伸(の)ばせば、

すぐに破(やぶ)れてしまう。



布(ぬの)の裂(さ)け目(め)は数(かぞ)え切(き)れない。



ここにあるのは死(し)体(たい)と小(ちい)さな生(せい)物(ぶつ)と、

遠(とお)く廊(ろう)下(か)の明(あ)かりしかない。



目(め)は陽(ひ)の光(ひかり)、森(もり)の緑(みどり)、

塔(とう)から眺(なが)めた湖(みずうみ)の青(あお)さを

忘(わす)れかけている。



暗(くら)闇(やみ)と、黒(くろ)い苔(こけ)、鉄(てつ)格(ごう)子(し)と蜘蛛(くも)の巣(す)を、

布(ぬの)切(き)れの隙(すき)間(ま)から眺(なが)める。



手(て)のひらに抜(ぬ)け落(お)ちた赤(あか)い髪(かみ)の毛(け)も、

ここではなんでも黒(くろ)く見(み)える。



異(い)臭(しゅう)を厭(いと)い、

地(ち)下(か)には誰(だれ)も姿(すがた)を見(み)せない。



――早(はや)く眠(ねむ)ろう…。



また目(め)を閉(と)じて、悪(あく)夢(む)の中(なか)で悪(あく)夢(む)を望(のぞ)む。



わたしはこの退(たい)屈(くつ)な檻(おり)の中(なか)で独(ひと)り、

死(し)を待(ま)っていた。




 ◆ 





地(ち)下(か)の檻(おり)に、階(かい)段(だん)を下(お)りる足(あし)音(おと)が響(ひび)く。



厚(あつ)い靴(くつ)の音(おと)。

それともう一(ひと)つ、柔(やわ)らかな革(かわ)靴(ぐつ)の音(おと)。



目(め)を覚(さ)ましたわたしは

近(ちか)くの布(ぬの)切(き)れを被(かぶ)り、

両(りょう)の耳(みみ)を塞(ふさ)いで目(め)を固(かた)く閉(と)じた。



石(いし)塊(くれ)のように身体(からだ)を丸(まる)くして、

故(こ)郷(きょう)の広(ひろ)い湖(みずうみ)を思(おも)い浮(う)かべた。



眩(まぶ)しい光(ひかり)が反(はん)射(しゃ)する湖(こ)面(めん)、

釣(つ)りや網(あみ)漁(りょう)をする丸(まる)木(き)舟(ぶね)。



南(みなみ)を向(む)けばその山(さん)頂(ちょう)に雲(くも)を戴(いただ)く、

雄(ゆう)大(だい)な天(てん)蓋(がい)山(さん)が目(め)の前(まえ)に聳(そび)える。



足(あし)音(おと)はさらに近(ちか)付(づ)き、

鉄(てつ)格(ごう)子(し)の扉(とびら)が開(あ)けられる。



太(ふと)い声(こえ)の大人(おとな)の男(おとこ)達(たち)の会(かい)話(わ)。



発(はっ)せられた罵(ば)声(せい)は廊(ろう)下(か)に反(はん)響(きょう)する。



耳(みみ)を塞(ふさ)ぐ手(て)のひらから、

心(しん)臓(ぞう)の拍(はく)動(どう)が伝(つた)わる。



――早(はや)く眠(ねむ)ろう。早(はや)く…。



力(ちから)を込(こ)めて焦(あせ)れば焦(あせ)るほど

眠(ねむ)りから遠(とお)のく。



すると布(ぬの)切(き)れが剥(は)ぎ取(と)られ、千(ち)切(ぎ)られた。



わたしの身体(からだ)は布(ぬの)切(き)れごと引(ひ)き倒(たお)され、

驚(おどろ)いて、悲(ひ)鳴(めい)が出(で)てしまい、

寒(さむ)さで小(こ)刻(きざ)みに身体(からだ)を震(ふる)わせた。



「こっちを見(み)ろ。」



ランタンの灯火(ともしび)。真赤(まっか)な顔(かお)。鋭(するど)い目(め)。

赤(あか)い毛(け)に埋(う)もれた、獣(けもの)のような顔(かお)をした男(おとこ)。



挿絵(By みてみん)



黒(くろ)い腕(うで)、黒(くろ)い足(あし)。



太(ふと)い手(て)で右(みぎ)腕(うで)を掴(つか)んで立(た)たされると、

わたしの意(い)識(しき)はそこで途(と)切(ぎ)れた。



――夢(ゆめ)だった。まだ夢(ゆめ)だと思(おも)う。



次(つぎ)に目(め)が覚(さ)めると

周(しゅう)囲(い)は酷(ひど)く眩(まぶ)しくて、

手(て)近(ぢか)な布(ぬの)を手(て)にして顔(かお)を覆(おお)った。



その布(ぬの)は引(ひ)っ張(ぱ)っても破(やぶ)れず、

檻(おり)の布(ぬの)切(き)れではなかった。



『キャッ!』



『おいっ。放(はな)せっ!』



女(おんな)の高(たか)い声(こえ)。

異(い)国(こく)の悲(ひ)鳴(めい)に異(い)国(こく)の言(こと)葉(ば)。



白(しら)む視(し)界(かい)の中(なか)で浮(う)かび上(あ)がる、

似(に)たような顔(かお)をした二人(ふたり)。



挿絵(By みてみん)



わたしはその内(うち)の一人(ひとり)から、

右(みぎ)手(て)で服(ふく)の裾(すそ)を引(ひ)っ張(ぱ)っていた。



目(め)が覚(さ)めた場(ば)所(しょ)は

揺(ゆ)れ動(うご)く屋(や)根(ね)付(つ)き馬(ば)車(しゃ)の床(ゆか)で、

大(たい)量(りょう)の干(ほし)し草(くさ)の上(うえ)には絨(じゅう)毯(たん)が敷(し)かれていた。



叩(たた)いて柔(やわ)らかくなった干(ほし)し草(くさ)が、

激(はげ)しく揺(ゆ)れる馬(ば)車(しゃ)の振(しん)動(どう)を吸(きゅう)収(しゅう)する。



車(しゃ)内(ない)には草(くさ)の青(あお)い匂(にお)いと、

女(おんな)達(たち)の香(こう)料(りょう)の匂(にお)いが混(ま)ざっている。



挿絵(By みてみん)



濃(こ)い肌(はだ)の小(こ)柄(がら)な女(おんな)がわたしの右(みぎ)腕(うで)を掴(つか)む。



胸(きょう)甲(こう)をして細(ほそ)い剣(けん)を佩(は)く。



わたしは何(なん)度(ど)も瞬(まばた)きを繰(く)り返(かえ)し、

周(しゅう)囲(い)を眺(なが)めて目(め)を細(ほそ)め、

肌(はだ)の荒(あ)れた首(くび)を掻(か)いた。



檻(おり)の布(ぬの)切(き)れも死(し)体(たい)も無(な)いのに、

身体(からだ)の痒(かゆ)みは夢(ゆめ)の続(つづ)きのままだった。



夢(ゆめ)の中(なか)で、座(すわ)っている異(い)国(こく)の女(おんな)の

一人(ひとり)から罵(ば)声(せい)を浴(あ)びた。



わたしは似(に)た顔(かお)の二人(ふたり)の女(おんな)から

知(し)らない言(こと)葉(ば)で怒(ど)鳴(な)られながら、

重(おも)たい革(かわ)の水(みず)袋(ぶくろ)とパンを貰(もら)った。



『食(く)え、食(しょく)事(じ)。』



女(おんな)は大(たい)陸(りく)語(ご)を使(つか)っても発(はつ)音(おん)は明(めい)瞭(りょう)で、

わたしに通(つう)じるように

身(み)振(ぶ)り手(て)振(ぶ)りを繰(く)り返(かえ)す。



胸(きょう)甲(こう)の女(おんな)はわたしを警(けい)戒(かい)して睨(にら)む。



身体(からだ)は思(おも)い通(どお)りに動(うご)かず、起(お)き上(あ)がれず、

わたしは寝(ね)た状(じょう)態(たい)のまま水(みず)を飲(の)むと、

喉(のど)を通(とお)らなくて咳(せ)き込(こ)んで零(こぼ)した。



硬(かた)いパンを震(ふる)える指(ゆび)の、

伸(の)びた爪(つめ)で千(ち)切(ぎ)って口(くち)に含(ふく)んでみても、

不(ふ)快(かい)感(かん)が込(こ)み上(あ)げて、絨(じゅう)毯(たん)の上(うえ)に

水(みず)を吐(は)き出(だ)してしまった。



喉(のど)の痛(いた)みに何(なん)度(ど)も咳(せ)き込(こ)んで、

鼻(はな)の痛(いた)さに泣(な)きたくなったけれど、

涙(なみだ)は涸(か)れて出(で)なかった。



馬(ば)車(しゃ)が止(と)まり、馭(ぎょ)者(しゃ)台(だい)への扉(とびら)が開(ひら)かれる。



白(しろ)髭(ひげ)を蓄(たくわ)えた老(ろう)馭(ぎょ)者(しゃ)の隣(となり)に、

あの赤(あか)い獣(けもの)の顔(かお)をした畏(おそ)ろしい男(おとこ)を見(み)た。



挿絵(By みてみん)



わたしの記(き)憶(おく)はまた朧(おぼろ)気(げ)になり、

しばらく嘔(おう)吐(と)と腹(ふく)痛(つう)を繰(く)り返(かえ)した。



――あの檻(おり)に戻(もど)りたい。



苦(く)痛(つう)の中(なか)で、自(し)然(ぜん)とそう願(ねが)った。



わたしは熱(ねつ)を出(だ)して

寝(ね)たきりだったせいもあり、

地(ち)下(か)の檻(おり)を出(で)てから何(なん)日(にち)か宿(やど)に泊(と)まった。



熱(ねつ)が治(おさ)まれば獣(けもの)の男(おとこ)に抱(かか)えられ、

わたしは馬(ば)車(しゃ)の中(なか)の干(ほし)し草(くさ)の上(うえ)で、

床(ゆか)に寝(ね)たままどこか東(ひがし)へと移(い)動(どう)した。



移(い)動(どう)中(ちゅう)の食(しょく)事(じ)は、

パンを山羊(やぎ)のお乳(ちち)に溶(と)かした

お粥(かゆ)だけだった。



移(い)動(どう)の途(と)中(ちゅう)でわたしの熱(ねつ)が酷(ひど)くなった為(ため)に、

また何(なん)日(にち)か宿(やど)に泊(と)まることになる。



雨(あま)音(おと)と遠(えん)雷(らい)が頭(あたま)の中(なか)に響(ひび)く。



発(はつ)熱(ねつ)でなにも考(かんが)えられず、

霞(かす)む目(め)は、よく似(に)た顔(かお)をした

二人(ふたり)の女(おんな)を自(し)然(ぜん)と追(お)っていた。



――奴(ど)隷(れい)服(ふく)、チュニックの女(おんな)。

  わたしの介(かい)助(じょ)をしてくれるひと。



二人(ふたり)に懐(なつ)かしさを覚(おぼ)える。



――これは、誰(だれ)なのかしら…。



記(き)憶(おく)の中(なか)の朧(おぼろ)気(げ)な姿(すがた)。



湖(みずうみ)を見(み)下(お)ろす塔(とう)の中(なか)にある

わたしの部屋(へや)、同(おな)じ景色(けしき)に、

いくつもの顔(かお)が重(かさ)なり霞(かす)む。



わたしには乳(う)母(ば)が居(い)た。



数(かず)多(おお)く居(い)た乳(う)母(ば)だけれど、

いまとなっては乳(う)母(ば)達(たち)の顔(かお)は、

誰(だれ)一人(ひとり)として思(おも)い出(だ)せない。



わたしは生(う)まれた時(とき)から

母(はは)を知(し)らなかった。




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