第9章 第3節 薄暮の星
山裾の岩盤を削って作られた客席の
最上段の席までは、100以上もある階段を
上らなければならない。
――斜面に向かって、真直に登るのは、
効率が悪いのよ。
館に来たばかりの頃に比べれば、
体力は付いても筋肉が付いてない。
段を踏むごとに太腿は重たくなり、
呼吸も続かず、膝が痙攣を起こした。
「もう無理ぃ。」
階段を8割ほど上って、
わたしは力が尽きた。
近くの客席に座って
白羊毛のコートをクッションにし、
そのまま仰向けになった。
右手に触れた石の客席は冷たくて、
身体を冷やすのに適している。
わたしに運ばれて楽をしていたイオスが、
身体の上に乗ってベッド代わりにする。
「イオスー。」
不満を顕わに名前を呼んでも、
こちらに構わず喉を鳴らし、
前足で何度も胸を踏みつける。
服の奥で金属同士の擦れる音が耳を撫でる。
わたしから降りる様子もないので、
両手で顔だけを撫で回すことにした。
皮が寄ったり伸びたりすると、
目には白い瞬膜を見せて
奇妙な顔がいくつも作れる。
「ニクスー。
いい景色でしょー。」
最上段から呼びかけてきたスーとレナタは、
ずっと元気だった。
レナタはマルフとアイリア達と別れて、
わたし達と合流した。
収穫祭の今日は、
わたし達と一緒に館に戻って
そのまま泊まる予定らしい。
「酷い景色ね。」
わたしより下の段に居たトリンは
付き合いでここまで上り、
呟いて深い溜め息を吐く。
大衆浴場の煙突から昇る太い蒸気が見え、
無産街にはいくつかの炊煙が立つ。
日が傾き、その煙に濃い影が生まれる。
街は川を境界にして、
上流の邸宅地から目立つ緑が
貧富の差を明確にした。
赤土の丘に建つ夜の館は、
侵入者を拒む塀の先の棘が輝いて見えた。
――罪人の王冠ね。
最上段まで行ったスーが、
客席を跳ね下りて戻ってきた。
彼女の頭に乗っていたアルは
激しく揺られて不気味に喉を鳴らし、
客席に降りると背中を痙攣させ、
吐き気を催している。
「公演は楽しかったねっ。
トリンは? 楽しめた?」
「興味ない。」
「退屈でもなかったよね。レナタ?」
「待ってスーっ! わぁっ!」
レナタもスーの真似をして階段を下り、
勢いづいて走ってくる。
まだ小さな身体に客席と歩幅が合わず、
レナタは足を縺れさせると宙に倒れ、
わたしは慌て彼女を受け止めた。
恐怖で身体を震わせるレナタは
藍色の瞳が笑っている。
あと一歩でも踏み違えれば、
大きなケガを負うところだった。
レナタの代わりに
イオスが座席の足元に落ちていた。
レナタの手がわたしの胸元に当たり、
軽い金属音が身体に伝わる。
「スーの真似なんてしたら危ないわ。」
「気を付けないとね。」
危険な行動をしたスーが言う。
「ふふっ。助かりました。
ありがとうございます。
ニクスは上らないんですか?」
「もう息が苦しいもの。」
わたしはレナタのケープの頭巾を被せた。
彼女の銀の髪には白の頭巾がよく似合う。
「高い場所は空気が薄いからだよね。」
スーが奇妙なことを言うと、
レナタが後ろを振り向く。
髪の量が多いので、
頭巾の後ろ姿が膨らんでいる。
「でもわたし達、上りましたよね?」
「スーも久しぶりだからって
レナタに適当なことを教え込まないで。
スーは迂遠な言い回しで
胡乱な誇張をしたのよ。
天蓋山の山頂に登るでもしなければ
平気よ。
ゼズ山脈だって高い場所には
大きな木が生えないものね。」
「嘘だったんですか?」
「嘘でもないよね。」
言ったスーは笑っていたし、
捓われたレナタも怒ってはいない。
「館に居ない二人の為に、
市場でお守りを買ったのよ。」
胸元に納めた革袋から、
二つの装飾品を取り出した。
「わぁ。綺麗。」
指の先ほどの大きさの、
淡いピンク色のリボンの輪を広げ、
小さな蹄鉄の形をした銀の装飾品を
レナタの首に掛けた。
指の先ほどの小さく薄い蹄鉄は、
市場で売られていたお守り。
ムネモス達と市場に行った時に見つけて
ずっと気になっていた。
店主に聞けば、このカヴァの装飾品は、
東側の旅客に高く売りつけていたらしい。
リボンは彼女の身体にはまだ長かったので、
首の後ろで結んで長さを調節する。
「私にも?」
金の蹄鉄はスーに渡す。
「うん。
サンサに押し付けられたお給金の、
使い道を考えてたの。」
レナタが黙ったままトリンを見ると、
彼女は眉間に力を入れて首を横に振る。
「二人にはこれまで色々と
助けて貰ったから、その礼。」
市場でカヴァを嫌悪していたトリンには、
どんな物でも受け取るはずはないので
用意はしなかった。
「でもスーには黄金の方が
似合うと思ったけれど、
市場だと鍍金しか無かったの。」
スーのお守りは鍍金がされた銅製で、
とても軽いものだったので
店主相手に値下げ交渉が出来た。
「ううん。ありがとう。
鍍金でも構わないよ。
ニクスが私の為に、
選んでくれたものだから嬉しいよ。」
スーは金糸の飾緒と同じ紐のお守りを、
手首に付けてわたしに見せてくれた。
「似合う?」
その姿が想像通りで笑った。
わたしの太腿に座って離れないレナタは、
イオスの両前足を掴んで抱き上げる。
彼女の抱き方が気に入らなかった為に、
イオスはミャオと短く鳴いた。
◆
「スー。
あんたって本当は貴族よね?」
ずっと静かだったトリンが、
突然そんな質問をした。
「私はトリンと同じ孤児院の出身だよ。
あなたと同じで、
別館と呼ばれる避難所に住んでた。」
「それは嘘だね。
今日のあいつらはなんなのさ?
貴族の連中はあんたに頭を下げてっ。
あいつら全員、偉い奴らよね?」
話を黙って聞いているレナタが
困惑してわたしの顔を見るので、
こう言っているようだった。
『出自は訊ねない。ですよ。』
レナタが館の決まりを守っていても、
トリンはその決まりを守らない。
わたしはレナタの考えに首肯して
言葉を選ぶ。
「スーを疑ったところで、
得られるものはないわよ。
この街では偉いひとほど、
頭を下げるものだからね。」
「あんたの言葉は信じない。」
ユヴィルの傭兵達に誘拐された事件以来、
わたしは彼女に信用も信頼もされていない。
仕方がなく口を閉ざす振りをする。
わたしの顔を見たレナタが口元を緩めた。
彼女を笑わせたいわけではない。
「私の名前はメリエ・ハス・スース。
街の外から来たトリンが、
この家名を知らないのも当然だよね。」
「スー…。」
呼びかけたわたしは両の唇を軽く噛み、
目を逸らした。
それでもスーはわたしの目を見て、
顎を引く。
「私が生まれたメリエ家は、
この街が出来た頃から、
代々総督をやっていたんだよ。
トリンは知らないよね。
あの舞台上で
わたしの父母が殺されたのを。」
スーは遠く小さくなった舞台を見下ろした。
わたしはその事件について、
訴訟記録を読んで知っている。
彼女の居た邸宅も同時刻に盗賊に襲われ、
スーは家族を全員失った。
「…殺した相手は?」
「無産街の娼婦だよ。」
「は? なんで娼婦が?
不貞行為でもしてたのか?」
「トリンッ。」
トリンにとっては冗談のつもりでも、
わたしは嘲笑した彼女を諫む。
「トリンが孤児院に住んでた頃、
神殿に連れて行かれなかった?」
「なに? 川向こうの?
わたしは行かなかったわ。」
ネルタで生まれ育った彼女は、
他所の土地で別の神には祈らない。
「昔はあの神殿に
赤子を連れた娼婦が入って、
決まって男児を置いていったんだよ。
何人もの若い娼婦が
月の女神セリーニに祈って、
永遠の命が与えられることを願い、
子供を置き去りにする。」
「…それが、なんの話?」
トリンは眉間に力を入れて、
迂遠な話に苛立ちを顕わにする。
女神セリーニは惚れた男に対し、
人間に寿命があることを嘆き、
男に不老不死を与えたとされる。
しかし不老不死の代償に、
男は永遠の眠りについてしまう。
「女神セリーニの神話。
神殿に放置された男児は
神官から『黄金の祝福』を与えられ、
永遠の眠りに就く。
そして近くの涸れ井戸に捨てられる。
母親からすれば男児は
自分達と同じ娼婦にはなれないからね。
女児なら健康な子はすぐに売られる。
その意味はトリンも分かるはずだよ。」
「それにあんたの両親と、
なんの関係があるのさ?」
トリンは腕を組み、足を踏み、階段を叩く。
「ハミウス法の原案よ。」わたしは言った。
トリンには理解されず、
彼女は首を横に振る。
静かな声でスーが続けた。
「娼婦が生きていけるだけの
最低限の報酬を法で定め、
子供の売買を禁止する法案だよ。
私の父母は買い手を一掃し、
孤児院で子供の保護に尽力してた。
でもこの劇場が完成して
すぐに殺された。
守ろうとした娼婦相手に
殺されるなんてね…。
後任のハミウスは私の父親の法案を、
自分のものにして成立させた。
でも彼を総督にするべきではなかった。」
「なんでさ?
あんたの親の忘れ物が、
正式な法になったんだろ?」
スーは目を閉じ、首を横に振る。
「トリンにとっては
きっと信じられない話。
総督になったハミウスは
地位を利用して瀆職し、
ネルタに子供を売ってたんだよ。」
「嘘言わないでっ!」
トリンは高い声で激昂した。
「スーの話は嘘ではないわ。
孤児院を含む街の東側では、
ハミウスの名は忌避されている。
ハミウスの訴訟記録も残っているのよ。
多数の孤児が、
無産街からネルタに連れてこられた。」
「は? …そんなの知るわけない。」
わたしの言葉を信じてはくれない。
「トリンはゴレムを、
ナルキック・ゴレムを知ってる?」
「…知ってる。
けれどなんでっ、なんであんたが
その名前を知ってるのさ?」
「ゴレムとわたしは知り合いだもの。
ネルタの最高司書官で
王の右の手とも呼ばれた彼は、
王のケイロウに殺された。
あなたの家族がケイロウを恐れ、
ネルタから逃げ出した年のことよ。」
「だからなんで、
あんたがそんなこと知ってるのよ!」
トリンが知りたいことは、
その質問には存在しない。
「わたしは自分自身が、
なにも知らないということを
知っているからよ。」
その答えに
トリンはわたしから目を逸らした。
――ナルキック・トリン。
王と対立したゴレムの死で、
トリンの家族、ナルキック族が
ネルタから離反する契機になった。
ゴレムの子、トリンの父で
ナルキック族の長となったカパネは、
家族を引き連れてネルタを離れても、
無産街の難民にはならなかった。
カパネは同族を集めると、
家族単位で組織を結成して、
街道の隊商を襲っていた。
ネルタとカヴァの戦争での混乱に乗じて、
かれらの略奪は長い間続けられた。
しかし戦争が終わり、
分水街の調査兵に捕まると、
カパネは強制労働者になった。
訴訟記録にはその刑罰が記されている。
当時まだ15歳だったトリンと、
幼いクイナは恩赦を受けて、
共に孤児院に入れられた。
「信じなくてもいいよ。
わたしは神の化身を騙る鍍金の王と、
お嬢様の最期も見てきた。
どんな言葉を弄しても、
あなたには証明できない。」
「この嘘吐きっ!」
彼女はサンダルを脱いで
わたしに投げつける。
レナタに向かって飛んだサンダルは、
反射的に伸ばしたわたしの右手に
偶然当たって落ちた。
トリンはそれで諦めたのか、
もう一方のサンダルを投げはしなかった。
「わたしの正式な名前は、
ネルタ・ネク・ニクス。
ネルタの王、ケイロウの娘。
お嬢様と呼ばれた息女、
ラミーの異母妹がわたしよ。」
「あのお嬢様に異母妹なんて…。」
「わたしが落胤だからよ。
月の館と呼ばれた別館に居たあなたなら、
西の塔に暮らすニースという名前の娘を
耳にしたことはあるわよね。」
この蔑称に心当たりのある彼女は、
目を見張り、口を開いてなにか言いかけた。
――ニースよね。
ネルタでは『普通ではない』という意味で、
慎みを知らない乳母達が
陰でわたしをニースと呼んだ。
「あなたの言う通り、
わたしの言葉に根拠はないわよ。」
彼女は勝ち誇ろうとするも、
微笑は不自然になり、顔を引き攣らせる。
「あなたはなにを根拠に自分を信じるの?」
質問に質問で返すトリンのように、
わたしは彼女自身の在り方を問う。
――狡いやり方だわ…。
彼女は後退りして階段を踏み外すと、
転げ落ちかけて姿勢を崩した。
彼女の持っていた自信は家族が居た時の、
ネルタの貴族という生まれついてのもので、
全ては過去のものでしかない。
祈りを捧げていた神の化身も、
仕えていた王女も、
いまの彼女を導きはしない。
最高司書官をしていた自慢の祖父も、
盗賊団を主導する父親もすでに居ない。
トリンは家族と共に理想を失い、
彼女自身は理念を持たなかった。
「あっ…わたしは…っ…。
奪っ、奪われたんだっ!
分水街に、あいつらにっ!」
トリンは混乱し、スーを指示する。
「スーはなにも奪ってない。
そんなこと、トリンだって
分かってるわよね?」
癇癪を起こした
子供を相手にしている気分で、
わたしは彼女を諫む。
「違うっ! 奪ったっ!
だから分水街のやつらから!
奪うんだっ! 返してよ!」
聞くに堪えない言葉を並べる彼女に、
わたしは首を横に振る。
「湖から溢れ出た水は、
湖には戻らないのよ。」
睨み、涙を零す彼女に掛けられる言葉は、
ゴレムから教わった言葉しかなかった。
「…ニクス、見てください。」
スーもわたしも黙っていると、
囁いたレナタがわたしの手を握って、
南の空を見上げて指先を向ける。
レナタの手は柔らかく、温かい。
雲の無い空には、
星々が薄く光って見え始める。
赤紫色の空から東の夜空に向かって、
弱々しく頼り無い光点が流れる。
「あれ、流れ星ですか?」
レナタに訊ねられたものの、
なにか明確に答えられないうちに
光点はすぐに消えてしまった。
不思議な光なら本で読んだ記憶がある。
雷の元になる雷素が集まり球状になって、
高い熱を持って光った状態のまま空を舞う。
球電と書かれたそれを指示すれば、
そのひとに向かって雷が落ちる
とネルタでは畏れられている。
スーは見ていなかった様子で、
立ったままトリンを見下ろしていた。
トリンは階段で蹲り、
声を抑えて泣いている。
苦しむ彼女にわたしはなにもできない。
「帰りましょうか。わたし達の館に。」
家族を失いフランジになったトリンに、
わたしはこう呼び掛けることしか
できなかった。
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