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金貨の娘  作者: 美穂
第8章 泥濘の澱

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第8章 第3節 闇路の獣(第2項)

箱(はこ)型(がた)馬(ば)車(しゃ)は西(にし)へと向(む)かう。



中(ちゅう)継(けい)所(じょ)で暇(ひま)をしていた若(わか)い馭(ぎょ)者(しゃ)は、

傭(よう)兵(へい)達(たち)取(と)り囲(かこ)われて泣(な)くムネモスや

鼻(はな)血(ぢ)を抑(おさ)えるわたしを見(み)て、

彼(かれ)らの利(り)用(よう)を拒(こば)んだ。



挿絵(By みてみん)



しかし傭(よう)兵(へい)達(たち)に何(なん)度(ど)か殴(なぐ)られた後(あと)に

赤(あか)い髪(かみ)を掴(つか)まれ、剣(けん)で恫(どう)喝(かつ)されると

馭(ぎょ)者(しゃ)も命(いのち)を惜(お)しんで従(したが)うしかない。



ムネモスはずっと泣(な)いているし、

トリンはずっとわたしに苛(いら)立(だ)っている。



向(む)かっている先(さき)は獣(けもの)の巣(す)穴(あな)か、

墓(はか)穴(あな)になる闇(やみ)の娼(しょう)館(かん)のどちらかだった。



指(ゆび)で鼻(はな)の下(した)を触(さわ)ると

鼻(はな)血(ぢ)はすでに止(と)まって乾(かわ)いたので、

髭(ひげ)の男(おとこ)を見(み)て口(こう)角(かく)を上(あ)げる。



彼(かれ)に叩(たた)かれた頬(ほお)はまだ熱(ねつ)を発(はっ)していた。



不(ふ)安(あん)はあっても気(け)取(ど)られないように

背(せ)筋(すじ)を伸(の)ばす。



騒(さわ)いで馬(ば)車(しゃ)から跳(と)び降(お)りても、

街(まち)の西(にし)側(がわ)では事(じ)態(たい)が好(こう)転(てん)するとも思(おも)えない。



剣(けん)先(さき)で床(ゆか)を一(いっ)定(てい)間(かん)隔(かく)で叩(たた)く髭(ひげ)の男(おとこ)が、

わたしを睨(にら)みつけている。



記(き)憶(おく)は灰(はい)色(いろ)の靄(もや)に包(つつ)まれていても、

敵(てき)意(い)は身(み)に覚(おぼ)えがあった。



こんな状(じょう)況(きょう)でも

冷(れい)静(せい)な自(じ)分(ぶん)に内(ない)心(しん)驚(おどろ)かされる。



雨(あめ)が馬(ば)車(しゃ)の屋(や)根(ね)を叩(たた)き鳴(な)らした。



――グルグスとウントは濡(ぬ)れてないかしら。



路(ろ)上(じょう)で死(し)んだ二人(ふたり)の身(み)を案(あん)じ、

意(い)味(み)のない思(し)考(こう)が過(よぎ)る。



間(ま)もなく馬(ば)車(しゃ)が止(と)まった。



移(い)動(どう)時(じ)間(かん)からして距(きょ)離(り)は短(みじか)い。



西(にし)側(がわ)の防(ぼう)壁(へき)が近(ちか)く、

周(しゅう)囲(い)の建(たて)物(もの)が低(ひく)いおかげで、

鐘(しょう)楼(ろう)は北(ほく)東(とう)側(がわ)に小(ちい)さく見(み)える。



――競(けい)馬(ば)場(じょう)の近(ちか)くかしら。



広(ひろ)い庭(にわ)の、館(やかた)の離(はな)れにある建(たて)物(もの)。



石(いし)階(かい)段(だん)を下(お)り、

奥(おく)の薄(うす)暗(ぐら)い地(ち)下(か)室(しつ)にわたし達(たち)は入(い)れられた。



看(かん)守(しゅ)役(やく)は部屋(へや)の近(ちか)くで酒(さけ)を飲(の)み、

札(ふだ)遊(あそ)びに興(きょう)じている。



不(ふ)要(よう)物(ぶつ)の臭(しゅう)気(き)が籠(こ)もる地(ち)下(か)で、

嗚(お)咽(えつ)交(ま)じりにムネモスは泣(な)き続(つづ)ける。



わたしはムネモスを寝(ね)椅(い)子(す)に座(すわ)らせた。



彼(かの)女(じょ)の身体(からだ)はずっと強(こわ)張(ば)り、震(ふる)えている。



ムネモスを横(おう)臥(が)させて、

わたしの太(ふと)腿(もも)の上(うえ)で

涙(なみだ)で濡(ぬ)れる目(め)に口(くち)布(ぬの)を被(かぶ)せた。



彼(かの)女(じょ)の緊(きん)張(ちょう)を和(やわ)らげる為(ため)、

しばらくのあいだ背(せ)中(なか)を撫(な)でる。



「あのさぁ。

 カミーリャだかって、なんの話(はなし)?」



地(ち)下(か)の臭(しゅう)気(き)に咽(むせ)るトリンが苛(いら)立(だ)ち、

気(き)を紛(まぎ)らわせようとわたしに話(はなし)を振(ふ)る。



『カミーリャの花(はな)が咲(さ)く前(まえ)に、

 その蕾(つぼみ)を落(お)としたくはないでしょう。』



髭(ひげ)の男(おとこ)に向(む)かって、

わたしはそんなことを言(い)った。



「カミーリャは濃(こ)い緑(みどり)の葉(は)を茂(しげ)らせて、

 冬(ふゆ)から春(はる)に赤(あか)くて綺(き)麗(れい)な花(はな)を咲(さ)かせるの。


 館(やかた)の入(い)り口(ぐち)に植(う)えてあるわね。


 花(か)弁(べん)の散(ち)らない花(はな)を開(ひら)かせるのは、

 蜜(みつ)を吸(す)いにくる鳥(とり)の嘴(くちばし)に花(か)粉(ふん)を付(つ)け、

 別(べつ)の花(はな)に運(はこ)ばせる目(もく)的(てき)があるのよ。」



挿絵(By みてみん)



「花(はな)の説(せつ)明(めい)なんて聞(き)いてない。」



「以(い)前(ぜん)、オーブ領(りょう)から来(き)たお客(きゃく)さんが、

 彼(かれ)らと騒(そう)動(どう)を起(お)こした時(とき)に、

 カミーリャの花(はな)に例(たと)えて脅(おど)したのよ。


 彼(かれ)らの頭(とう)目(もく)に短(たん)剣(けん)を押(お)し付(つ)けてね。


 花(はな)首(くび)から落(お)ちるカミーリャの比(ひ)喩(ゆ)よ。」



ウントの最(さい)期(ご)を思(おも)い浮(う)かべ、

トリンは気(き)分(ぶん)を害(がい)する。



「そいつのせいで

 わたし達(たち)が巻(ま)き添(ぞ)えになったわけか。」



フルリーンを便(べん)宜(ぎ)的(てき)に『お客(きゃく)さん』と

呼(よ)んでいた為(ため)、トリンは彼(かの)女(じょ)のことを

ドレイプを買(か)いに来(き)た男(おとこ)と勘(かん)違(ちが)いしている。



発(ほっ)端(たん)はわたしが館(やかた)を脱(だっ)走(そう)して、

サンサがユヴィルの護(ご)衛(えい)を殺(さつ)害(がい)したことが

原(げん)因(いん)だったのだけれど、訂(てい)正(せい)は省(はぶ)いた。



いまとなってはフルリーンのように

髭(ひげ)の男(おとこ)の『証(しょう)人(にん)』を蹴(け)り上(あ)げて、

暴(ぼう)力(りょく)で事(じ)態(たい)が解(かい)決(けつ)できるはずもない。



「ムネモス。


 エルテルではこんな時(とき)に、

 『犬(いぬ)の尻尾(しっぽ)を踏(ふ)む』って言(い)うのよね。」



疲(ひ)労(ろう)は蓄(ちく)積(せき)して緊(きん)張(ちょう)は長(なが)くは続(つづ)かないので、

優(やさ)しく話(はな)し掛(か)けて和(なご)ませるように言(い)う。



「勉(べん)強(きょう)会(かい)を開(ひら)いてる場(ば)合(あい)ではないでしょ。


 それで、これからどうするつもり?」



「夕(ゆう)食(しょく)はなにが出(で)てくるのかしらね。


 トリン、当(あ)ててみて?」



「はぁ?」



苛(いら)立(だ)つトリンの声(こえ)が室(しつ)内(ない)に響(ひび)く。



わたしは早(はや)くも犬(いぬ)の尻尾(しっぽ)を踏(ふ)んでしまった。



「静(しず)かに。」



扉(とびら)の向(む)こうで傭(よう)兵(へい)達(たち)が喧(けん)嘩(か)をしているのか、

騒(さわ)ぎ立(た)てる声(こえ)がこの部屋(へや)にも届(とど)く。



「銀(ぎん)の鍵(かぎ)もただの照(しょう)合(ごう)室(しつ)の鍵(かぎ)だもの。


 認(にん)証(しょう)管(かん)理(り)をしたトリンも

 見(み)たことがあるでしょ?


 サンサなら護(ご)衛(えい)を殺(ころ)してくる相(あい)手(て)に、

 権(けん)利(り)の交(こう)渉(しょう)なんて最(さい)初(しょ)からしないわよ。」



「それならなんで、

 交(こう)渉(しょう)なんて言(い)ったのさ。」



まだ冷(れい)静(せい)でいられない彼(かの)女(じょ)は、

理(り)解(かい)できずに眉(み)間(けん)に力(ちから)を入(い)れる。



「こんな状(じょう)況(きょう)だもの。

 時(じ)間(かん)を稼(かせ)ぐ必(ひつ)要(よう)があったわ。


 彼(かれ)らはまず、

 鍵(かぎ)の出(で)処(どころ)を確(かく)認(にん)するでしょうね。


 鍵(かぎ)屋(や)に確(かく)認(にん)するのかしら。


 劇(げき)場(じょう)は総(そう)督(とく)も欲(ほ)しがる権(けん)利(り)だもの、

 慎(しん)重(ちょう)に動(うご)くわね。」



「交(こう)渉(しょう)の場(ば)としたから、

 やつらは手(て)を出(だ)さないのか?」



トリンの理(り)解(かい)にわたしは頷(うなず)く。



「こちらの護(ご)衛(えい)が殺(ころ)されたから、

 わたしも対(たい)等(とう)な発(はつ)言(げん)ができたわ。」



乾(かわ)いた笑(わら)いが浮(う)かぶ。



ムネモスが捕(つか)まった時(じ)点(てん)で逃(に)げるのは諦(あきら)め、

わたしは二人(ふたり)の死(し)体(たい)を囮(おとり)に

交(こう)渉(しょう)の材(ざい)料(りょう)とした。



傭(よう)兵(へい)達(たち)は罪(つみ)の意(い)識(しき)がないので、

店(てん)主(しゅ)相(あい)手(て)に使(つか)った脅(おど)しは通(つう)用(よう)しない。



「ユヴィルの代(だい)理(り)になる人(じん)物(ぶつ)も、

 あの場(ば)には居(い)なかった。


 今(こん)回(かい)の件(けん)は全(すべ)て、

 あの髭(ひげ)の男(おとこ)の独(どく)断(だん)かしらね。


 彼(かれ)らでは判(はん)断(だん)できないから、

 わたし達(たち)は殺(ころ)されずに済(す)んだ。」



路(ろ)地(じ)で夜(よる)の館(やかた)の護(ご)衛(えい)を二人(ふたり)も殺(ころ)し、

フランジの誘(ゆう)拐(かい)を目(もく)的(てき)とした彼(かれ)ら。



わたしが鍵(かぎ)を使(つか)って手(て)札(ふだ)を余(よ)裕(ゆう)を見(み)せると、

明(あき)らかに困(こん)惑(わく)していた。



傭(よう)兵(へい)達(たち)は護(ご)衛(えい)を殺(ころ)して、

次(つぎ)に出(だ)す札(ふだ)を考(かんが)えて無(な)かった。



「雨(あめ)風(かぜ)が防(ふせ)げる場(ば)所(しょ)で良(よ)かったわ。」



「なにも良(よ)くはない。」



「最(さい)悪(あく)でもないわね。」



「まだなにかあるの?」



「路(ろ)地(じ)での事(じ)件(けん)が問(もん)題(だい)になって、

 ユヴィルが髭(ひげ)の男(おとこ)との

 関(かん)係(けい)を断(た)った場(ば)合(あい)を想(そう)像(ぞう)して。」



――ユヴィルに対(たい)する忠(ちゅう)誠(せい)は

  絶(ぜっ)対(たい)ではないのよね。



軽(けい)挙(きょ)な髭(ひげ)の男(おとこ)と、

周(しゅう)囲(い)の傭(よう)兵(へい)達(たち)の反(はん)応(のう)は異(こと)なった。



――統(とう)率(そつ)を失(うしな)った組(そ)織(しき)ほど

  危(あや)ういものはない。



「ユヴィルが夜(よる)の館(やかた)との交(こう)渉(しょう)を望(のぞ)まず、

 髭(ひげ)の男(おとこ)が単(たん)独(どく)犯(はん)にさせられた場(ば)合(あい)。


 わたし達(たち)は人(ひと)質(じち)としての価(か)値(ち)を失(うしな)う。」



わたしは半(はん)分(ぶん)自棄(やけ)になって、

微(び)笑(しょう)を浮(う)かべて見(み)せた。



そうならない為(ため)に、

わたしは二(ふた)つの鍵(かぎ)を投(な)げて彼(かれ)らを試(ため)した。



――頭(とう)目(もく)の秘(ひ)め事(ごと)を暴(あば)く為(ため)の鍵(かぎ)は、

  権(けん)能(のう)の奪(うば)い合(あ)いを目(もく)的(てき)にした餌(えさ)で、

  彼(かれ)らには仲(なか)間(ま)割(わ)れをして貰(もら)えたわ。




「ここから出(で)るには、

 まず護(ご)衛(えい)の死(し)体(たい)を理(り)由(ゆう)に近(きん)隣(りん)住(じゅう)民(みん)が

 善(ぜん)意(い)で警(けい)備(び)に願(ねが)い出(で)てくれないと。


 夜(よる)になっても館(やかた)に帰(かえ)らないわたし達(たち)が、

 ユヴィルの傭(よう)兵(へい)に連(つ)れて行(い)かれたことを

 サンサは知(し)るわね。


 ユヴィルから無(む)理(り)な要(よう)求(きゅう)をされても、

 サンサは受(う)け入(い)れてくれるわよ。」



根(こん)拠(きょ)のない、気(き)休(やす)めの言(こと)葉(ば)を並(なら)べる。



――サンサにとっては

  わたし達(たち)を人(ひと)身(み)御供(ごくう)にして、

  ユヴィルを潰(つぶ)した方(ほう)が利(り)があるわよね。



仕(し)事(ごと)のできないわたしに、

市(いち)場(ば)の奴(ど)隷(れい)以(い)上(じょう)の価(か)値(ち)がある

とは言(い)い切(き)れない。



「後(あと)は総(そう)督(とく)が議(ぎ)会(かい)の合(ごう)意(い)を得(え)て、

 兵(へい)を送(おく)る可(か)能(のう)性(せい)を祈(いの)って

 待(ま)つしかないわね。


 この場(ば)所(しょ)は分(わ)かるのかしら。」



「可(か)能(のう)性(せい)はあるの?」



トリンの疑(ぎ)問(もん)に、

わたしは黙(だま)って首(くび)を縦(たて)に振(ふ)ってみせた。



――確(かく)率(りつ)は0ではないわね。



「あいつらにムネモスの出(しゅつ)自(じ)を明(あ)かせば?


 エルテル領(りょう)のお姫(ひめ)様(さま)だって言(い)えば、

 騎(き)士(し)団(だん)を恐(おそ)れて解(かい)放(ほう)するんじゃないか。」



「ムネモスの首(くび)に

 また短(たん)剣(けん)を当(あ)てさせるつもり?」



「は?」



トリンの理(り)想(そう)的(てき)な提(てい)案(あん)に、

わたしが疑(ぎ)問(もん)を投(な)げかけたので

彼(かの)女(じょ)は苛(いら)立(だ)った。



東(とう)部(ぶ)風(ふう)の冗(じょう)談(だん)とも思(おも)える

彼(かの)女(じょ)の考(かんが)えは狭(せま)く浅(あさ)く、

ユヴィルの傭(よう)兵(へい)連(れん)中(ちゅう)と差(さ)がない。



「身(みの)代(しろ)金(きん)目(め)当(あ)ての誘(ゆう)拐(かい)になれば、

 東(とう)西(ざい)の均(きん)衡(こう)が崩(ほう)壊(かい)するわね。


 エルテル領(りょう)が動(うご)く頃(ころ)まで、

 食(しょく)事(じ)の手(て)配(はい)やお部屋(へや)の清(せい)掃(そう)も

 彼(かれ)らがしてくれるのかしら…。


 ベッドも用(よう)意(い)して欲(ほ)しいわね。」



わたしなりの東(とう)部(ぶ)風(ふう)の冗(じょう)談(だん)に、

提(てい)案(あん)した側(がわ)のトリンが浅(あさ)はかさを理(り)解(かい)し、

こちらを睨(にら)んで苛(いら)立(だ)ちを見(み)せる。



この状(じょう)況(きょう)でムネモスを責(せ)めて欲(ほ)しくはない。



中(ちゅう)継(けい)所(じょ)に向(む)かおうと提(てい)案(あん)したのは

わたしだった。



「このままなにもされず、

 放(ほう)置(ち)されたら飢(う)え死(じ)にするわね。


 彼(かれ)らの娼(しょう)婦(ふ)になるつもりもないわ。


 市(いち)場(ば)でもっと食(た)べて、

 駱(らく)駝(だ)のように脂(あぶら)を溜(た)めるべき

 だったかしら。」



彼(かの)女(じょ)達(たち)に危(き)害(がい)を加(くわ)えられないように

部屋(へや)への侵(しん)入(にゅう)を防(ふせ)ぐ方(ほう)法(ほう)も考(かんが)えても、

扉(とびら)を破(やぶ)られるか放(ほう)置(ち)されて飢(う)えるだけで

なにも解(かい)決(けつ)にはならない。



最(さい)悪(あく)の想(そう)像(ぞう)もできたけれど、

いまのわたしにはそれらを避(さ)ける術(すべ)がない。



「わ、私(わたし)達(たち)…、

 どうなってしまうのでしょうか?」



わたしの太(ふと)腿(もも)をクッションにして、

お腹(なか)に抱(だ)きつくムネモスが口(くち)を開(ひら)く。



「寝(ね)て待(ま)っていれば、

 朝(あさ)には館(やかた)のベッドで目(め)を覚(さ)ますわよ。」



根(こん)拠(きょ)のない気(き)休(やす)めを述(の)べると、

わたしが次(つぎ)の手(て)札(ふだ)を持(も)っていないことを

トリンは察(さっ)して睨(にら)んでくる。



わたしが傭(よう)兵(へい)達(たち)に見(み)せた強(つよ)気(き)な札(ふだ)は、

劣(れつ)位(い)な値(あたい)の札(ふだ)に過(す)ぎない。



「わたし達(たち)は娼(しょう)館(かん)に売(う)られるか、

 殺(ころ)されるより酷(ひど)い目(め)に合(あ)うんだな。


 誰(だれ)かのせいで。」



トリンが語(ご)気(き)を荒(あら)げてわたしを責(せ)める。



ムネモスはそれで泣(な)き、

さらに責(せき)任(にん)を重(おも)く感(かん)じてしまう。



「なんでも悪(わる)い方(ほう)向(こう)に考(かんが)え過(す)ぎよ。


 心(しん)配(ぱい)いらないわ、ムネモス。」



「あんたの言(こと)葉(ば)には根(こん)拠(きょ)がないっ。」



「うるせえぞ!」



看(かん)守(しゅ)役(やく)の傭(よう)兵(へい)が怒(ど)鳴(な)って扉(とびら)を蹴(け)った。



泣(な)き続(つづ)けるムネモスが肩(かた)を驚(おどろ)かせ、

わたしは彼(かの)女(じょ)の頭(あたま)を抱(だ)き、

泣(な)き声(こえ)をお腹(なか)の中(なか)で抑(おさ)えた。



――トリンの指(し)摘(てき)通(どお)りだわ。



――わたしの考(かんが)えは仮(かり)初(そ)めでしかない。



――路(ろ)地(じ)でムネモスが捕(つか)まった時(とき)に

  彼(かの)女(じょ)を置(お)いて逃(に)げてしまえば、

  わたし達(たち)のうちの、

  どちらかは助(たす)かったかもしれない。



――足(あし)の遅(おそ)いわたしが先(さき)に捕(つか)まるわね。



――交(こう)渉(しょう)なんて嘘(うそ)もすぐに露(ろ)見(けん)する。



――サンサが、夜(よる)の館(やかた)がわたし達(たち)を

  見(み)捨(す)てる可(か)能(のう)性(せい)も、否(ひ)定(てい)できない。



――彼(かれ)らに跪(ひざまず)いて、

  命(いのち)乞(ご)いをすべきだったかもしれない。



――裁(さい)判(ばん)ではどうなるのかしら。



こんな時(とき)にサンサがよく言(い)っていた

言(こと)葉(ば)を思(おも)い出(だ)す。



『本(ほん)が世(よ)の全(すべ)てではないわよ。』



いくら本(ほん)や訴(そ)訟(しょう)記(き)録(ろく)を読(よ)んでいても、

この部屋(へや)からは出(で)られない。



いまは状(じょう)況(きょう)に身(み)を任(まか)せるしかなく、

半(なか)ば諦(あきら)めかけていると

トリンは帯(おび)布(ぬの)の中(なか)からナイフを取(と)り出(だ)した。



「トリン、それ…どうしたの?」



「金(かな)物(もの)屋(や)に置(お)いてあったでしょ?」



暗(くら)い鈍(にび)色(いろ)のナイフを握(にぎ)って見(み)せる。



挿絵(By みてみん)



市(いち)場(ば)でトリン達(たち)と一(いち)度(ど)逸(はぐ)れた時(とき)に、

安(やす)売(う)りされた包(ほう)丁(ちょう)と客(きゃく)の混(こん)雑(ざつ)に紛(まぎ)れて

彼(かの)女(じょ)は盗(ぬす)みを働(はたら)いていた。



「それで、なにするつもり?」



傭(よう)兵(へい)相(あい)手(て)に喧(けん)嘩(か)で敵(かな)うはずはない。



フルリーンのようにはいかず、

失(しっ)敗(ぱい)は想(そう)像(ぞう)できる。



「なにもできないのなら

 娼(しょう)婦(ふ)らしくその股(また)を使(つか)って、

 太(たい)鼓(こ)でも叩(たた)いて男(おとこ)を誘(さそ)えばいい。」



彼(かの)女(じょ)は左(ひだり)手(て)にしたナイフの柄(え)尻(じり)で、

扉(とびら)を繰(く)り返(かえ)し叩(たた)いた。



その音(おと)にムネモスは怯(おび)える。



トリンは扉(とびら)を叩(たた)き続(つづ)け、

内(うち)開(びら)きの扉(とびら)の横(よこ)で壁(かべ)に背(せ)中(なか)を張(は)り付(つ)けた。



トリンの緊(きん)張(ちょう)が、わたしの鼻(はな)を刺(し)激(げき)する。



「うるせえぞ! 犯(おか)されてえのがぁ…。」



看(かん)守(しゅ)役(やく)の男(おとこ)が怒(ど)鳴(な)りながら留(と)め具(ぐ)を外(はず)し、

扉(とびら)を開(あ)け入(はい)ってきたその瞬(しゅん)間(かん)、

トリンは彼(かれ)の首(くび)をナイフで切(き)り裂(さ)いた。



刃(やいば)は頸(けい)動(どう)脈(みゃく)へと深(ふか)く入(はい)る。



男(おとこ)は首(くび)から血(ち)を吹(ふ)き出(だ)し、

立(た)つだけの力(ちから)を失(うしな)う。



彼(かの)女(じょ)は男(おとこ)を押(お)し倒(たお)して

一人(ひとり)で部屋(へや)を飛(と)び出(だ)すと、

奥(おく)には別(べつ)の男(おとこ)が控(ひか)えていた。



「おい、ガキぃ!」



彼(かの)女(じょ)はすぐに引(ひ)き返(かえ)し、扉(とびら)を閉(し)めた。



男(おとこ)の低(ひく)い声(こえ)が、

廊(ろう)下(か)から部屋(へや)にまで響(ひび)く。



声(こえ)の主(ぬし)はフルリーンに負(ま)け、

ウントを殺(ころ)した髭(ひげ)の男(おとこ)。



トリンは再(ふたた)び壁(かべ)を背(せ)にして、

標(ひょう)的(てき)が入(はい)ってくるのを待(ま)ち構(かま)えた。



足(あし)元(もと)の死(し)体(たい)に足(あし)を止(と)め、

警(けい)戒(かい)して部屋(へや)には入(はい)らない。



「おい! 一人(ひとり)やられたぞ! 誰(だれ)か来(こ)いっ!

 最(さい)初(しょ)っから犯(おか)して売(う)ればよかったんだ!


 誰(だれ)か! 居(い)るんなら誰(だれ)か来(こ)いってんだ!」



「お父(とう)様(さま)! お母(かあ)様(さま)! クロノォ…。」



ムネモスは泣(な)き続(つづ)ける。



「怖(こわ)がらせてるだけよ。」



恐(きょう)怖(ふ)に泣(な)き喚(わめ)くムネモスを、

部屋(へや)の隅(すみ)に移(い)動(どう)させて鎮(しず)めた。



状(じょう)況(きょう)は想(そう)定(てい)した以(い)上(じょう)に最(さい)悪(あく)なものになった。



『あんたの言(こと)葉(ば)には根(こん)拠(きょ)がない。』



わたしを責(せ)めるトリンの声(こえ)が頭(あたま)に響(ひび)く。



――でも、トリンの責(せき)任(にん)ではない。



髭(ひげ)の男(おとこ)は扉(とびら)を蹴(け)り壊(こわ)した。



すぐに中(なか)に入(はい)っては来(こ)ない。



蝶(ちょう)番(つがい)を破(は)壊(かい)した扉(とびら)を横(よこ)目(め)に見(みて)て、

怯(おび)えたムネモスを抱(だ)き抱(かか)えるわたしを睨(にら)む。



部屋(へや)に足(あし)だけ踏(ふ)み入(い)れて見(み)せた髭(ひげ)の男(おとこ)は

ナイフの手(て)を突(つ)き出(だ)したトリンに気(き)付(づ)いた。



警(けい)戒(かい)していた男(おとこ)は、

右(みぎ)手(て)の剣(けん)で彼(かの)女(じょ)の身体(からだ)を貫(つらぬ)こうとする。



わたしは扉(とびら)に体(たい)当(あ)たりした。



男(おとこ)の毛(け)深(ぶか)い腕(うで)が剣(けん)ごと扉(とびら)に挟(はさ)まれ、

彼(かの)女(じょ)の目(め)の前(まえ)で刃(は)先(さき)が止(と)まった。



「トリンッ!」



わたしの声(こえ)にトリンは気(き)がつき、

扉(とびら)に挟(はさ)まった男(おとこ)の右(みぎ)腕(うで)を

ナイフで突(つ)き刺(さ)した。



怒(いか)りと悲(ひ)鳴(めい)の混(ま)ざった声(こえ)が室(しつ)内(ない)に響(ひび)く。



彼(かれ)は痛(いた)みに堪(た)えきれず、剣(けん)を落(お)とした。



男(おとこ)が屈(くっ)強(きょう)な肉(にく)体(たい)で押(お)し返(かえ)し、

扉(とびら)と共(とも)にわたしを弾(はじ)き飛(と)ばした。



トリンが男(おとこ)の剣(けん)を拾(ひろ)うよりも先(さき)に、

彼(かれ)の蹴(け)りがトリンの脇(わき)腹(ばら)を抉(えぐ)った。



悶(もだ)え苦(くる)しむトリンは、

床(ゆか)に跪(ひざまず)いたまま立(た)ち上(あ)がれない。



「舐(な)めやがってっ! …ガキ共(ども)!

 知(し)らねぇ! もう知(し)らねえよっ!

 全(ぜん)員(いん)殴(なぐ)って、殺(ころ)して、犯(おか)してやる!」



叫(さけ)び、怒(いか)りを顕(あら)わに吠(ほ)える髭(ひげ)の男(おとこ)。



その男(おとこ)は血(ち)の泡(あわ)を吐(は)き、

両(りょう)膝(ひざ)を落(お)として床(ゆか)に伏(ふ)せると、

目(め)を開(ひら)いて動(うご)かなくなった。



キャシュクから血(ち)が滲(にじ)み出(だ)している。



「なんで…?」



――ニースだわ…。



扉(とびら)を閉(し)める為(ため)に立(た)ち上(あ)がると、

打(う)った背(せ)中(なか)が痛(いた)みだして熱(ねつ)を帯(お)びる。



わたしは廊(ろう)下(か)の奥(おく)に立(た)つ、男(おとこ)の人(ひと)影(かげ)を見(み)た。



見(み)覚(おぼ)えのあるその男(おとこ)は、

すぐに立(た)ち去(さ)ってしまう。



遠(とお)くなっていく柔(やわ)らかな革(かわ)靴(ぐつ)の音(おと)と、

入(い)れ替(か)わるかたちで別(べつ)の足(あし)音(おと)が響(ひび)き、

部屋(へや)に誰(だれ)かが近(ちか)付(づ)いてくる。



足(あし)音(おと)が左(さ)右(ゆう)で微(かす)かに異(こと)なる、

この音(おと)には聞(き)き馴(な)染(じ)みがある。



「姉(ねえ)様(さま)っ!」ムネモスがわたしに抱(だ)きつく。



「もう平(へい)気(き)よ…。

 トリンは立(た)てる?


 さぁ、ここを出(で)ましょう。」



確(かく)信(しん)はあったものの確(かく)証(しょう)はなく、

根(こん)拠(きょ)のないわたしの言(こと)葉(ば)は二人(ふたり)に届(とど)かない。



「ニクスー? ムネモス?」



「サンサ。」



挿絵(By みてみん)



サンサは死(し)体(たい)を二(ふた)つ跳(と)び越(こ)えて、

真(まっ)黒(くろ)な床(ゆか)の血(ち)溜(だ)まりを踏(ふ)み、

雪(ゆき)のように白(しろ)い足(あし)を汚(よご)した。



「手(て)加(か)減(げん)を知(し)らんのか…。」



サンサに遅(おく)れてハーフガンと、

街(まち)の兵(へい)士(し)達(たち)もやってきた。



挿絵(By みてみん)



「3人(にん)共(とも)生(い)きてるみたいね。」



「お姉(ねえ)様(さま)ぁっ!」



「痛(いた)い痛(いた)いっ。」



ムネモスは泣(な)きながらサンサに飛(と)び込(こ)み、

力(ちから)強(づよ)く抱(だ)いて彼(かの)女(じょ)を苦(くる)しめた。



トリンは蹴(け)られた脇(わき)腹(ばら)を抑(おさ)えて立(た)つ。



死(し)んだ髭(ひげ)の男(おとこ)に憎(ぞう)悪(お)の視(し)線(せん)を向(む)けたまま

剣(けん)を握(にぎ)り締(し)めていた。



「トリン。それはもう必(ひつ)要(よう)ないわ。」



サンサに言(い)われ、

トリンは自(じ)分(ぶん)の手(て)にした剣(けん)を見(み)つめた。



「生(い)きてたらダメだろ。こんなやつら…。」



傷(きず)つけた右(みぎ)腕(うで)を踏(ふ)み、

死(し)体(たい)に剣(けん)を突(つ)き立(た)てる。



「もう死(し)んでるわよ。」とサンサ。



「わたしに命(めい)令(れい)しないで!」



「トリン、ごめんなさい。


 私(わたし)の…せいなんです。


 ニクス姉(ねえ)様(さま)も…わたしが、

 護(ご)衛(えい)も…。」



ムネモスがわたしにまで謝(あやま)る。



過(か)程(てい)は散(さん)々(ざん)なものだったけれど

結(けっ)果(か)的(てき)にわたし達(たち)は助(たす)かった。



多(おお)くの偶(ぐう)然(ぜん)が重(かさ)なって、

サンサ達(たち)によって助(たす)けられたに過(す)ぎない。



トリンもこの結(けつ)末(まつ)には納(なっ)得(とく)していない。



彼(かの)女(じょ)は状(じょう)況(きょう)を悪(あっ)化(か)させ、救(きゅう)助(じょ)が遅(おく)れていたら

わたし達(たち)は全(ぜん)員(いん)この男(おとこ)に殺(ころ)されていた。



トリンはそれを理(り)解(かい)して、

剣(けん)を持(も)つ強(こわ)張(ば)った左(ひだり)手(て)を、

もう片(かた)方(ほう)の手(て)で引(ひ)き剥(は)がした。



「ニクスは…。」



汚(よご)れたわたしの姿(すがた)を見(み)て、

サンサは頷(うなず)くだけだった。



鼻(はな)血(ぢ)はもう乾(かわ)いている。



わたしも彼(かの)女(じょ)の目(め)を見(み)て首(くび)を縦(たて)に振(ふ)る。



言(こと)葉(ば)にしないサンサは、

わたしの変(へん)化(か)に気(き)付(づ)いたのかもしれない。



血(ち)で汚(よご)れたサンサの足(あし)元(もと)を見(み)た。



闇(やみ)の中(なか)で闇(やみ)色(いろ)の液(えき)体(たい)。



あの地(ち)下(か)の、檻(おり)での記(き)憶(おく)が蘇(よみがえ)る。



――あのひとの名(な)前(まえ)は、ラミー…。



――わたしの姉(あね)だったひとだわ。



わたしの中(なか)にあった記(き)憶(おく)の靄(もや)が晴(は)れた。



向(む)かいの檻(おり)に居(い)た闇(やみ)色(いろ)の死(し)体(たい)は、

わたしの名(な)前(まえ)を呼(よ)びはしない。



――彼(かの)女(じょ)の弱(よわ)った身体(からだ)では、

  冬(ふゆ)を越(こ)えられなかった。



安(あん)堵(ど)でも罪(つみ)の意(い)識(しき)でもない、

綯(な)い交(ま)ぜの感(かん)情(じょう)が発(はつ)露(ろ)して、

涙(なみだ)となって頬(ほお)を流(なが)れた。




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