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金貨の娘  作者: 美穂
第8章 泥濘の澱

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第8章 第3節 闇路の獣(第1項)

空(そら)高(たか)くに伸(の)びた積(せき)乱(らん)雲(うん)が広(ひろ)がって、

昼(ひる)の太(たい)陽(よう)を遮(さえぎ)ると、周(しゅう)囲(い)は薄(うす)暗(ぐら)くなった。



広(ひろ)場(ば)には道(どう)化(け)に飽(あ)きた子(こ)供(ども)達(たち)が、

山羊(やぎ)の膀(ぼう)胱(こう)を膨(ふく)らませて作(つく)った球(たま)を

追(お)いかけている。



挿絵(By みてみん)



赤(あか)い紐(ひも)で縛(しば)られた歪(いびつ)な球(きゅう)体(たい)は、

蹴(け)られて地(じ)面(めん)に落(お)ちると弾(だん)力(りょく)で跳(は)ね、

予(よ)測(そく)不(ふ)可(か)能(のう)な方(ほう)向(こう)へと転(ころ)がる。



市(いち)場(ば)では品(しな)物(もの)を売(う)り切(き)った店(みせ)が

槌(つち)で骨(ほね)組(ぐ)みの解(かい)体(たい)を始(はじ)め、

広(ひろ)場(ば)に乾(かわ)いた音(おと)の波(なみ)が反(はん)復(ぷく)する。



わたし達(たち)は軽(けい)食(しょく)屋(や)台(たい)で買(か)ったものを、

近(ちか)くの長(なが)椅(い)子(す)に座(すわ)って食(た)べ、

静(しず)かに片(かた)付(づ)けを眺(なが)めた。



硬(かた)めのパンに削(けず)ったチーズを乗(の)せて、

炙(あぶ)った薄(うす)切(ぎ)りの燻(くん)製(せい)を頬(ほお)張(ば)る。



チーズの下(した)に敷(し)いた香(こう)草(そう)を噛(か)むと、

強(きょう)烈(れつ)な匂(にお)いが鼻(び)腔(くう)を突(つ)き、

舌(した)を刺(し)激(げき)する味(あじ)に涙(なみだ)が滲(にじ)む。



ウントが痛(いた)がり、騒(さわ)いでいる。



彼(かれ)は倒(たお)れた時(とき)に舌(した)を噛(か)み、

顎(あご)を擦(す)り剥(む)いたらしい。



ウントの行(こう)動(どう)には問(もん)題(だい)はあったけれど、

その程(てい)度(ど)のケガで済(す)んで良(よ)かった。



市(いち)場(ば)の賑(にぎ)わいが収(おさ)まりつつある中(なか)で

街(がい)娼(しょう)達(たち)が踊(おど)り、演(えん)奏(そう)をして宴(うたげ)を開(ひら)く。



近(ちか)くには中(ちゅう)老(ろう)の肥(ひ)満(まん)男(おとこ)が居(い)る。



貴(き)族(ぞく)病(びょう)と呼(よ)ばれる肥(ひ)満(まん)体(たい)。



彼(かれ)に雇(やと)われた娼(しょう)婦(ふ)が太(ふと)い棒(ぼう)を握(にぎ)り、

革(かわ)を張(は)った太(たい)鼓(こ)を股(また)に挟(はさ)んで打(う)ち、

男(だん)娼(しょう)は笛(ふえ)を咥(くわ)えて演(えん)奏(そう)をする。



この街(まち)ではよく見(み)かける光(こう)景(けい)。



『ハーフガンは夢(ゆめ)を見(み)る。

 酒(さか)樽(だる)抱(だ)いて宝(たから)の夢(ゆめ)。


 ハーフガンは酔(よ)っ払(ぱら)い。

 海(うみ)でもないのにふーらふら。』



聞(き)き覚(おぼ)えのある歌(か)唱(しょう)に、

黙(だま)っていたムネモスが口(くち)を開(ひら)いた。



「あれ…将(しょう)軍(ぐん)の詩(うた)、でしょうか?」



「酔(よ)っ払(ぱら)いの詩(うた)だろ。」と、トリン。



「大(たい)陸(りく)北(ほっ)方(ぽう)のソーンと戦(たたか)った将(しょう)軍(ぐん)が、

 この街(まち)では酔(よ)っ払(ぱら)いの扱(あつか)いで

 酒(しゅ)宴(えん)に歌(うた)われてるのよ。」



「それは、なぜでしょうか?」



「なぜかしらね。」わたしも首(くび)を捻(ひね)る。



この場(ば)の誰(だれ)も分(わ)からないことに、

知(し)ったつもりの愚(ぐ)者(しゃ)になる気(き)もないので、

ムネモスの質(しつ)問(もん)に疑(ぎ)問(もん)で返(かえ)すしかなかった。



「二人(ふたり)共(とも)、まだ見(み)たいものはある?」



トリンは黙(だま)って首(くび)を横(よこ)に振(ふ)る。



目(め)を赤(あか)くしているムネモスが呟(つぶや)いた。



「馬(うま)が…。」



彼(かの)女(じょ)のパンを持(も)つ手(て)がずっと止(と)まっている。



「馬(うま)? 広(ひろ)場(ば)に馬(うま)は入(はい)れないわよ。」



日(ひ)時計(どけい)島(とう)の南(みなみ)の広(ひろ)場(ば)は

市(いち)場(ば)として開(かい)放(ほう)されていても、

橋(はし)には鉄(てつ)杭(くい)が突(つ)き出(で)ているので

馬(ば)車(しゃ)の通(とお)り抜(ぬ)けはできない。



広(ひろ)場(ば)には品(しな)物(もの)を高(たか)く積(つ)み上(あ)げた驢馬(ろば)や駄(だ)馬(ば)、

荷(に)車(ぐるま)を運(はこ)ぶ肉(にく)体(たい)労(ろう)働(どう)者(しゃ)の姿(すがた)を多(おお)く見(み)かける。



「ねぇ、なにあれ? 生(い)き物(もの)?」



トリンは初(はじ)めて見(み)る動(どう)物(ぶつ)に静(しず)かに慄(おのの)いた。



「…あぁ、駱(らく)駝(だ)ね。」



広(ひろ)場(ば)には使(し)用(よう)人(にん)に連(つ)れられた駱(らく)駝(だ)が、

群(ぐん)衆(しゅう)に囲(かこ)われている。



挿絵(By みてみん)



金(きん)の体(たい)毛(もう)に覆(おお)われ、背(せ)中(なか)に二(ふた)つの瘤(こぶ)がある。



長(なが)い睫(まつ)毛(げ)を持(も)つ駱(らく)駝(だ)の顔(かお)は、

本(ほん)に描(えが)かれていた以(い)上(じょう)に美(うつく)しい。



赤(あか)ら顔(がお)のあの肥(ひ)満(まん)男(おとこ)が、

街(がい)娼(しょう)を連(つ)れて自(じ)慢(まん)する。



挿絵(By みてみん)



肥(ひ)満(まん)男(おとこ)の所(しょ)有(ゆう)物(ぶつ)らしい。



「あれが駱(らく)駝(だ)?」トリンがわたしを疑(うたが)う。



大(たい)陸(りく)語(ご)を知(し)るトリンでも、

大(たい)陸(りく)の動(どう)物(ぶつ)を見(み)る機(き)会(かい)は

市(いち)場(ば)以(い)外(がい)ではわたしも知(し)らない。



「大(たい)陸(りく)の動(どう)物(ぶつ)で、馬(うま)の代(だい)用(よう)品(ひん)ね。


 北(ほっ)方(ぽう)ソーンと、中(ちゅう)央(おう)のラギリの

 あいだにある交(こう)易(えき)路(ろ)の、

 沙(さ)漠(ばく)を乗(の)り越(こ)える為(ため)の使(し)役(えき)獣(じゅう)。


 荷(に)を背(せ)負(お)わせる駄(だ)獣(じゅう)ね。


 駱(らく)駝(だ)は偶(ぐう)蹄(てい)だから、

 馬(うま)よりも牛(うし)に近(ちか)いのかしら。」



右(みぎ)手(て)の中(ちゅう)指(し)と環(かん)指(し)を開(ひら)いて

偶(ぐう)蹄(てい)を真似(まね)て見(み)せると、

ムネモスも同(おな)じ手(て)の形(かたち)を作(つく)る。



「なにも食(た)べずに月(つき)が一(ひと)回(まわ)りしても、

 背(せ)中(なか)の瘤(こぶ)に貯(た)めた脂(あぶら)で生(い)きられるの。


 生(せい)物(ぶつ)学(がく)の棚(たな)にある

 大(たい)陸(りく)動(どう)物(ぶつ)の本(ほん)に描(か)かれてるから、

 生(せい)態(たい)も知(し)れて楽(たの)しいわよ。」



「あの肥(ひ)満(まん)男(おとこ)も、

 絶(ぜっ)食(しょく)させたら生(い)きられるのか?」



貴(き)族(ぞく)病(びょう)の男(おとこ)を顎(あご)で示(しめ)す。



彼(かれ)は鼻(はな)の下(した)に髭(ひげ)を生(は)やし、

頭(あたま)には金(こん)色(じき)の義(ぎ)髪(はつ)を被(かぶ)せていた。



わたしは男(おとこ)とグルグスを見(み)比(くら)べる。



似(に)たような巨(きょ)体(たい)を持(も)つグルグスは、

もう一(ひと)つのパンを食(た)べながら、

わたしを見(み)て首(くび)を横(よこ)に振(ふ)った。



わたしはまだなにも言(い)っていない。



グルグスの身体(からだ)は

槍(やり)も通(とお)さないような硬(かた)く厚(あつ)い筋(きん)肉(にく)で、

皮(ひ)膚(ふ)の弛(たる)んだ男(おとこ)と比(くら)べるまでもない。



「動(どう)物(ぶつ)、人(にん)間(げん)が生(い)きるのに必(ひつ)要(よう)なのは、

 脂(あぶら)以(い)外(がい)にも水(みず)と塩(しお)が大(たい)切(せつ)よね。」



グルグスの持(も)っていた水(みず)袋(ぶくろ)を手(て)にして

ムネモスに向(む)けた。



彼(かの)女(じょ)もまた首(くび)を横(よこ)に振(ふ)った。



「ムネモスはあいつ、

 駱(らく)駝(だ)は見(み)たことある?」



トリンが訊(たず)ねた。



「…はい。駱(らく)駝(だ)は

 エルテルにもたまに入(はい)りますが、

 羊(ひつじ)ほど毛(け)も取(と)れません。


 それに秋(あき)といえば馬(うま)です。」



「なんで?」



「馬(うま)を所(しょ)有(ゆう)するひとは、

 資(し)産(さん)を周(しゅう)囲(い)に誇(こ)示(じ)できます。


 輸(ゆ)送(そう)や戦(せん)争(そう)だけではなく、乗(じょう)馬(ば)に馬(うま)旅(たび)、

 豊(ほう)穣(じょう)の祝(いわ)い、収(しゅう)穫(かく)祭(さい)の時(じ)期(き)には、

 染(せん)色(しょく)した布(ぬの)や綱(つな)で馬(うま)にお粧(めか)しをします。


 鬣(たてがみ)を整(ととの)えて、綺(き)麗(れい)に編(あ)みもします。


 家(いえ)ごとに違(ちが)いがあって壮(そう)観(かん)ですよ。」



ムネモスは故(こ)郷(きょう)を思(おも)い出(だ)し、

空(そら)笑(わら)いを浮(う)かべる。



近(ちか)くの街(がい)娼(しょう)達(たち)が緑(みどり)の上(うえ)に絨(じゅう)毯(たん)を広(ひろ)げ、

踊(おど)りや演(えん)奏(そう)を休(やす)んでいるあいだ、

わたし達(たち)の会(かい)話(わ)に耳(みみ)を傾(かたむ)けていた。



こうしてフランジだけで

行(こう)動(どう)している姿(すがた)を、物(もの)珍(めずら)しく見(み)る。



子(こ)供(ども)達(たち)は道(どう)化(け)が飛(と)ばした泡(あわ)玉(だま)を、

動(どう)物(ぶつ)のように追(お)って燥(はしゃ)いでいる。



夕(ゆう)刻(こく)に入(はい)ったことを知(し)らせる鐘(かね)が鳴(な)る。



展(てん)望(ぼう)台(だい)から紫(し)黒(こく)色(いろ)の帯(おび)を付(つ)けた

ロープを降(お)ろす鐘(かね)撞(つ)きの影(かげ)が見(み)えた。



「あいつは馬(うま)の代(か)わりにならないのか?」



トリンは議(ぎ)長(ちょう)が誇(ほこ)る駱(らく)駝(だ)を指(し)示(じ)した。



「奇(き)抜(ばつ)なものを手(て)にして誇(ほこ)っても、

 他(た)人(にん)の馬(うま)とは比(くら)べられません…。」



「ひとと馬(うま)には差(さ)別(べつ)があるわね。


 どんなに力(ちから)持(も)ちのグゥグスでも、

 馬(うま)みたいには働(はたら)けないものね。


 グゥグス、ウント。」



わたしは巨(きょ)体(たい)のグルグスと

小(こ)柄(がら)なウントを呼(よ)んで立(た)たせた。



二人(ふたり)を並(なら)ばせると、

その違(ちが)いは明(めい)白(はく)になる。



アルもイオスも居(い)ないので、

二人(ふたり)には2匹(ひき)の代(か)わりになってもらった。



「島(しま)の人(にん)間(げん)と大(たい)陸(りく)人(じん)や

 数(すう)字(じ)の貝(かい)札(ふだ)同(どう)士(し)のように、

 同(おな)じ立(たち)場(ば)でこそ較(こう)差(さ)として評(ひょう)価(か)される。」



「駱(らく)駝(だ)をお粧(めか)しをしても、

 馬(うま)にはなりませんものね。」



「駱(らく)駝(だ)に馬(うま)の服(ふく)を着(き)せたわけだ。」



わたしが避(さ)けた諺(ことわざ)を、

トリンが言(い)って理(り)解(かい)したので

首(くび)を縦(たて)に振(ふ)った。



「なに見(み)てんだよ。」



グルグスに集(たか)る子(こ)供(ども)に

隣(となり)に立(た)っているウントが威(い)嚇(かく)する。



ウントに脅(おど)された程(てい)度(ど)で子(こ)供(ども)は泣(な)かず、

擦(す)り剥(む)いた顎(あご)を見(み)て憐(あわ)れみを浮(う)かべた。



「馬(うま)の服(ふく)とはなんですか?」



ムネモスの疑(ぎ)問(もん)に、

街(がい)娼(しょう)達(たち)も口(くち)々(ぐち)になにか言(い)い始(はじ)めたので、

わたしがまとめて説(せつ)明(めい)した。



「『話(はなし)に王(おう)の服(ふく)を着(き)せる』って諺(ことわざ)。


 『荒(あ)れ地(ち)に王(おう)座(ざ)を作(つく)った』

 って言(こと)葉(ば)があるわよね。


 カヴァの氏(し)族(ぞく)は住(じゅう)民(みん)を集(あつ)めるのに、

 農(のう)作(さく)に適(てき)した東(ひがし)の暖(あたた)かい土(と)地(ち)ではなく、

 西(にし)の寒(さむ)い荒(こう)野(や)に国(こっ)家(か)を築(きず)いたことで、

 こんな言(こと)葉(ば)で嘲(あざけ)られたの。


 そこから変(へん)化(か)した諺(ことわざ)でしょうね。」



「知(し)らない。」



言(い)ったはずのトリンは首(くび)を横(よこ)に振(ふ)る。



「南(なん)部(ぶ)にも地(ち)域(いき)によって、

 似(に)た使(つか)い方(かた)があってね。


 簡(かん)潔(けつ)に説(せつ)明(めい)すると、

 『王(おう)は次(つぎ)のように仰(おっしゃ)った。』と伝(つた)えて、

 その言(こと)葉(ば)に従(したが)うひとが居(い)たとしても、

 あなたは王(おう)ではない、という教(おし)えね。


 わたしが王(おう)と僭(せん)称(しょう)したところで、

 わたし自(じ)身(しん)は偉(えら)くはないもの。


 服(ふく)や喋(しゃべ)り方(かた)の真似(まね)をしても、

 そのひとにはなれないって意(い)味(み)。


 二人(ふたり)の言(い)った通(とお)り、

 駱(らく)駝(だ)を馬(うま)の装(そう)具(ぐ)で飾(かざ)っても、

 馬(うま)にはならないわね。」



「ふぅん…。」頷(うなず)くトリン。



耳(みみ)を傾(かたむ)けていた街(がい)娼(しょう)達(たち)も

頷(うなず)いてくれた。



「東(とう)部(ぶ)でしたら南(みなみ)のオーブには、

 『ソーマも羊(ひつじ)の皮(かわ)を被(かぶ)る。』

 という諺(ことわざ)がありますね。」



ムネモスは地(ち)域(いき)の諺(ことわざ)を愉(たの)しみ、

彼(かの)女(じょ)の知(ち)識(しき)にある似(に)た言(こと)葉(ば)を見(み)つけた。



「いつまで勉(べん)強(きょう)会(かい)やってんだよぉ。」



パンを食(た)べ終(お)えて退(たい)屈(くつ)していたウントは、

護(ご)衛(えい)の仕(し)事(ごと)を忘(わす)れて不(ふ)満(まん)を口(くち)にする。



「ウントは意(い)味(み)を知(し)ってるかしら?


 『ソーマも羊(ひつじ)の皮(かわ)を被(かぶ)る。』って。」



「は? そいつは寒(さむ)がりなんだろ?」



そんなウントの解(かい)釈(しゃく)に、

街(がい)娼(しょう)達(たち)から笑(わら)われる。



太(たい)鼓(こ)が盛(せい)大(だい)に叩(たた)かれて、

高(たか)い笛(ふえ)の音(ね)が鳴(な)らされた。



「人(にん)間(げん)味(み)溢(あふ)れる良(い)い回(かい)答(とう)ね。」



羞(しゅう)恥(ち)するウントは鞘(さや)のまま剣(けん)を空(そら)に掲(かか)げ、

緑(みどり)の上(うえ)で見(けん)物(ぶつ)していた街(がい)娼(しょう)を追(お)い払(はら)った。



取(と)り残(のこ)された駱(らく)駝(だ)と議(ぎ)長(ちょう)の男(おとこ)。



それから、

道(どう)化(け)に見(み)間(ま)違(ちが)われるグルグスと遊(あそ)びたがる

近(きん)所(じょ)の子(こ)供(ども)達(たち)が残(のこ)った。



ようやくパンを食(た)べ終(お)えた

ムネモスの手(て)を引(ひ)いて、

わたしは彼(かの)女(じょ)を立(た)ち上(あ)がらせた。



「歩(ある)き疲(つか)れて雨(あめ)も降(ふ)りそうだから、

 ムネモスお嬢(じょう)様(さま)のご要(よう)望(ぼう)に応(こた)えて、

 中(ちゅう)継(けい)所(じょ)に寄(よ)って帰(かえ)りましょうか。


 お金(かね)もまだあるものね。」



「中(ちゅう)継(けい)所(じょ)?」



「んだ。」



トリンの疑(ぎ)問(もん)に、

グルグスが下(した)を見(み)てから地(じ)面(めん)を指(し)示(じ)した。



それは広(ひろ)場(ば)の床(ゆか)石(いし)に刻(きざ)まれた、

西(にし)を向(む)く馬(うま)の頭(あたま)のレリーフだった。




 ◆




長(ちょう)距(きょ)離(り)の輸(ゆ)送(そう)を行(おこな)う馬(うま)を休(やす)ませ、

交(こう)代(たい)させる場(ば)所(しょ)を中(ちゅう)継(けい)所(じょ)という。



古(こ)代(だい)には駅(えき)とも呼(よ)ばれていた。



北(ほく)端(たん)の洞(どう)窟(くつ)港(こう)から南(なん)部(ぶ)のオーブまでには、

メルセ領(りょう)とエルテル領(りょう)の主(しゅ)要(よう)都(と)市(し)を繋(つな)ぐ

街(かい)道(どう)沿(ぞ)いに、中(ちゅう)継(けい)所(じょ)が多(おお)く置(お)かれている。



東(ひがし)のエルテル領(りょう)と西(にし)のカヴァとの交(こう)流(りゅう)は

ほとんど無(な)く、中(ちゅう)間(かん)に位(い)置(ち)する

分(ぶん)水(すい)街(がい)の中(ちゅう)継(けい)所(じょ)の需(じゅ)要(よう)は少(すく)ない。



それが原(げん)因(いん)で、

この街(まち)の中(ちゅう)継(けい)所(じょ)は終(しゅう)端(たん)駅(えき)とも蔑(さげす)まれ、

扱(あつか)いが良(よ)いとは言(い)えない。



終(しゅう)端(たん)駅(えき)で馬(うま)を待(たい)機(き)させるよりも、

競(けい)馬(ば)場(じょう)で走(はし)らせた方(ほう)が稼(かせ)げる、

という無(む)責(せき)任(にん)な記(き)述(じゅつ)も見(み)かけた。



日(ひ)時計(どけい)島(とう)から北(きた)にある分(ぶん)岐(き)点(てん)、

エルテル領(りょう)とカヴァを直(ちょく)通(つう)する街(かい)道(どう)近(ちか)くの

中(ちゅう)継(けい)所(じょ)を目(め)指(ざ)す。



わたし達(たち)は西(にし)の橋(はし)を渡(わた)って、

川(かわ)の流(なが)れに沿(そ)って北(きた)へと歩(ある)く。



このあたりは緑(みどり)が少(すく)なく、

中(ちゅう)流(りゅう)階(かい)級(きゅう)の集(しゅう)合(ごう)住(じゅう)宅(たく)になっていて、

塀(へい)のない4階(かい)建(だ)ての高(たか)い建(たて)物(もの)が多(おお)い。



周(しゅう)囲(い)の道(みち)には日(ひ)陰(かげ)も多(おお)く、

降(こう)雨(う)が近(ちか)いこともあってか、

湿(しめ)った風(かぜ)が建(たて)物(もの)に当(あ)たって激(はげ)しく吹(ふ)く。



「いまにも降(ふ)りそうね。」



トリンの呟(つぶや)きにムネモスが小(こ)走(ばし)りして屈(かが)む。



「あっ、ここにもありました。


 みなさん、早(はや)く行(い)きましょう。」



北(ほく)西(せい)の方(ほう)角(がく)を向(む)いた

馬(うま)のレリーフを見(み)つけ出(だ)し、

ムネモスは燥(はしゃ)いでわたし達(たち)の前(まえ)を走(はし)った。



「待(ま)って! ムネモスッ。」



彼(かの)女(じょ)は路(ろ)地(じ)に入(はい)ってしまった。



トリン、ウントが先(さき)に走(はし)って彼(かの)女(じょ)を追(お)い、

わたしより後(うし)ろのグルグスは遅(おく)れていた。



「グゥグス! 早(はや)く来(き)てっ。」



遅(おく)れるグルグスを振(ふ)り向(む)いた時(とき)、

彼(かれ)は口(くち)から赤(あか)い泡(あわ)を吐(は)いて飛(と)ばした。



厚(あつ)い胸(むね)に吊(つ)るした水(みず)袋(ぶくろ)が破(やぶ)れ、

身体(からだ)を貫(つらぬ)いた刃(は)先(さき)が光(ひかり)って見(み)える。



汚(よご)れて黒(こく)変(へん)している床(ゆか)石(いし)が、

赤(あか)い水(みず)に濡(ぬ)れていく。



頭(あたま)の中(なか)に灰(はい)色(いろ)の靄(もや)が漂(ただよ)い、

状(じょう)況(きょう)をすぐには受(う)け入(い)れられない。



「ムネモスッ!」今(こん)度(ど)はトリンが叫(さけ)んだ。



跪(ひざまず)き、倒(たお)れるグルグスから顔(かお)を背(そむ)けると、

先(せん)頭(とう)にいたムネモスは男(おとこ)に捕(つか)まり、

口(くち)を布(ぬの)で塞(ふさ)がれていた。



ムネモスの喉(のど)元(もと)に短(たん)剣(けん)を見(み)せつけられて、

別(べつ)の男(おとこ)達(たち)が路(ろ)地(じ)に押(お)し寄(よ)せ、

わたし達(たち)を取(と)り囲(かこ)む。



「グーグスになにしてんだ!

 卑(ひ)怯(きょう)だぞ! てめえらぁ!」



怒(いか)りに湧(わ)くウントが、

鞘(さや)から剣(けん)を抜(ぬ)いてしまう。



「待(ま)ちなさいっ! ウントッ!」



フランジでしかないわたしの命(めい)令(れい)は、

路(ろ)地(じ)に虚(むな)しく響(ひび)く。



護(ご)衛(えい)一人(ひとり)が複(ふく)数(すう)の男(おとこ)を相(あい)手(て)に剣(けん)を抜(ぬ)いても、

数(かず)の時(じ)点(てん)で敵(かな)わない。



勇(ゆう)敢(かん)と無(む)謀(ぼう)の違(ちが)いを、彼(かれ)は理(り)解(かい)していない。



グルグスを刺(さ)した濃(こ)い髭(ひげ)の男(おとこ)に向(む)かって、

ウントは剣(けん)を大(おお)振(ぶ)りして

空(くう)を切(き)る音(おと)を鳴(な)らした。



ルービィから護(ご)衛(えい)に認(みと)められても、

日(ひ)の浅(あさ)い彼(かれ)の剣(けん)先(さき)は服(ふく)さえ掠(かす)めない。



対(たい)する髭(ひげ)の男(おとこ)が太(ふと)い腕(うで)を横(よこ)に振(ふ)る。



ウントの頭(あたま)を、床(ゆか)石(いし)に斬(き)り落(お)とした。



一(いっ)瞬(しゅん)の出(で)来(き)事(ごと)だった。



護(ご)衛(えい)を囮(おとり)にして走(はし)って逃(に)げ出(だ)すことも、

ムネモスが捕(つか)まった状(じょう)態(たい)では、

わたしには選(せん)択(たく)できなかった。



「これで二人(ふたり)だぜぇ。」



ウントを斬(き)った髭(ひげ)の男(おとこ)が息(いき)を吐(は)き、呟(つぶや)く。



「これまでの賠(ばい)償(しょう)金(きん)分(ぶん)、

 教(きょう)育(いく)してやんねえとなぁ。」



どこかの窓(まど)から誰(だれ)かが見(み)ていたのか、

女(おんな)の甲(かん)高(だか)い叫(さけ)び声(ごえ)がする。



わたしの心(しん)音(おん)が高(たか)鳴(な)る。



「トリン…。トリンッ!」



わたしはトリンの手(て)を取(と)って身体(からだ)を寄(よ)せる。



「なに、こいつら。」



状(じょう)況(きょう)が飲(の)み込(こ)めず、混(こん)乱(らん)しているトリン。



「黙(だま)って。落(お)ち着(つ)いて。」



「おいっ! ムネモスを離(はな)せっ!」



ムネモスを拘(こう)束(そく)する男(おとこ)に向(む)かって、

感(かん)情(じょう)を沸(わ)かせるトリンが叫(さけ)んだ。



わたし達(たち)は彼(かれ)らに命(めい)令(れい)できる立(たち)場(ば)にはない。



何(なん)度(ど)か見(み)覚(おぼ)えのある髭(ひげ)の男(おとこ)。



挿絵(By みてみん)



彼(かれ)らは街(まち)の西(にし)側(がわ)を支(し)配(はい)するユヴィルの傭(よう)兵(へい)。



「トリン、静(しず)かにして。」



「わたしに命(めい)令(れい)しないでっ。」



「抵(てい)抗(こう)すれば次(つぎ)はムネモスが死(し)ぬわよ。」



トリンはそれを頭(あたま)で理(り)解(かい)していても

感(かん)情(じょう)が昂(たか)ぶり、息(いき)が荒(あら)々(あら)しい。



護(ご)衛(えい)のグルグスとウントはもう動(うご)かない。



わたしの身体(からだ)は急(きゅう)激(げき)に熱(ねつ)を失(うしな)い、

冷(つめ)たくなって身(み)震(ぶる)いした。



『死(し)を受(う)け入(い)れなさい。』



サンサの言(こと)葉(ば)が思(おも)い浮(う)かぶ。



ユヴィルの傭(よう)兵(へい)集(しゅう)団(だん)を相(あい)手(て)に、

わたし達(たち)だけで敵(かな)うはずはなかった。



『相(あい)手(て)の本(ほん)質(しつ)を見(み)ること。』



彼(かの)女(じょ)の言(こと)葉(ば)の意(い)味(み)を考(かんが)えて、

わたしは小(ちい)さく息(いき)を吸(す)い、

できるだけ大(おお)きな声(こえ)で訊(たず)ねた。



「今日(きょう)はユヴィルは、隠(かく)れて見(み)てないの?」



「旦(だん)那(な)は居(い)ねえなぁ。」



「夜(よる)の館(やかた)の護(ご)衛(えい)を二人(ふたり)も殺(ころ)せて、

 これで満(まん)足(ぞく)したのかしら?」



「サンサってのはお前(まえ)か?」



「こんなに薄(うす)暗(ぐら)い路(ろ)地(じ)では

 証(しょう)明(めい)もできないわね。」



彼(かれ)らがサンサを『売(う)れ残(のこ)りの傷(きず)物(もの)』としか、

認(にん)知(ち)していないのは分(わ)かっていた。



フルリーンとの騒(そう)動(どう)で目(め)立(だ)っていた

護(ご)衛(えい)のグルグスを標(ひょう)的(てき)にしての軽(けい)挙(きょ)。



わたしは首(くび)に下(さ)げていた、

蝶(ちょう)の装(そう)飾(しょく)がされた銀(ぎん)の鍵(かぎ)を取(と)り出(だ)す。



帯(おび)紐(ひも)に結(むす)んだ青(せい)銅(どう)の鍵(かぎ)と重(かさ)ねる。



「あなた達(たち)が護(ご)衛(えい)を殺(ころ)してくれたせいで、

 これではユヴィルとの商(しょう)談(だん)も

 立(た)ち消(き)えてしまうわね。」



「商(しょう)談(だん)だぁ?


 小(こ)娘(むすめ)がよぉ、なんだその鍵(かぎ)は。」



「マルフが欲(ほ)しがっている、

 劇(げき)場(じょう)の権(けん)利(り)に繋(つな)がるものよ。」



「はぁ?」路(ろ)地(じ)に男(おとこ)の低(ひく)い声(こえ)が響(ひび)く。



突(とっ)飛(ぴ)な提(てい)案(あん)で、中(なか)には嘲(ちょう)笑(しょう)する者(もの)もいた。



わたしは目(め)を逸(そ)らさずに告(つ)げる。



「青(せい)銅(どう)の鍵(かぎ)を夜(よる)の館(やかた)に届(とど)ければ、

 わたしの身(み)元(もと)を証(しょう)明(めい)できる。


 この銀(ぎん)の鍵(かぎ)は、

 ユヴィルの秘(ひ)め事(ごと)を保(ほ)管(かん)した場(ば)所(しょ)の鍵(かぎ)よ。


 あなた達(たち)で、大(たい)切(せつ)に使(つか)いなさい。


 カミーリャの花(はな)が咲(さ)く前(まえ)に、

 その蕾(つぼみ)を落(お)としたくはないでしょう。」



わたしは二(ふた)つの鍵(かぎ)を、足(あし)元(もと)に落(お)とした。



挿絵(By みてみん)



「わたし達(たち)をユヴィルの元(もと)に案(あん)内(ない)しなさい。


 彼(かれ)を、交(こう)渉(しょう)の席(せき)に座(すわ)らせるつもりが

 あるのならね。」



「なにが目(もく)的(てき)だ?」



髭(ひげ)の男(おとこ)から目(め)を逸(そ)らさずに、

わたしは顎(あご)を突(つ)き出(だ)す。



「ユヴィルの代(か)わりが務(つと)まるの?


 交(こう)渉(しょう)の席(せき)を汚(よご)したあなたに。」



周(しゅう)囲(い)の傭(よう)兵(へい)達(たち)から、

髭(ひげ)の男(おとこ)に視(し)線(せん)が集(あつ)まる。



わたしを睨(にら)み、近(ちか)付(づ)く髭(ひげ)の男(おとこ)。



目(め)の前(まえ)が一(いっ)瞬(しゅん)、真(まっ)白(しろ)になった。



平(ひら)手(て)で叩(たた)かれたと分(わ)かり、

揺(ゆれ)れる身体(からだ)の手(て)足(あし)に力(ちから)を入(い)れた。



頬(ほお)と鼻(はな)の激(はげ)しい痛(いた)みに耐(た)えながら、

それでもわたしは微(び)笑(しょう)する。



「拾(ひろ)いなさい。


 いまの愚(ぐ)行(こう)はそれで許(ゆる)してあげる。」



周(しゅう)囲(い)の傭(よう)兵(へい)達(たち)が髭(ひげ)の男(おとこ)を促(うなが)すので、

彼(かれ)は舌(した)打(う)ちをして鍵(かぎ)を拾(ひろ)った。



「爺(じじい)と連(れん)絡(らく)がつくまで、

 お前(まえ)らは館(やかた)には戻(もど)れねえぞ。」



その言(こと)葉(ば)を聞(き)いて、

わたしは浅(あさ)く安(あん)堵(ど)の息(いき)を吐(つ)く。



「賢(けん)明(めい)な判(はん)断(だん)ね。」



鼻(はな)血(ぢ)が唇(くちびる)に触(ふ)れる。



手(て)札(ふだ)を隠(かく)したまま、

彼(かれ)らを交(こう)渉(しょう)の席(せき)に着(つ)かせることができた。



わたしを恐(きょう)喝(かつ)する目(もく)的(てき)で

男(おとこ)から叩(たた)かれることが分(わ)かっていたら、

痛(いた)みを覚(かく)悟(ご)した身体(からだ)が

反(はん)射(しゃ)で、強(こわ)張(ば)っていたに違(ちが)いない。



上(うわ)唇(くちびる)に垂(た)れた鼻(はな)血(ぢ)を口(くち)布(ぬの)で抑(おさ)えると、

口(くち)の中(なか)に銅(どう)貨(か)の味(あじ)が広(ひろ)がった。



「彼(かの)女(じょ)をこちらに渡(わた)しなさい。


 子(こ)供(ども)に逃(に)げられるような

 酔(よ)っ払(ぱら)いでもないでしょう。」



わたしはムネモスを目(め)で呼(よ)んだ。



髭(ひげ)の男(おとこ)の合(あい)図(ず)で彼(かの)女(じょ)は解(かい)放(ほう)される。



髭(ひげ)の男(おとこ)が指(し)示(じ)を待(ま)たず、

また独(どく)断(だん)で行(こう)動(どう)をすれば、

ユヴィルの顔(かお)をさらに潰(つぶ)すことになる。



寄(よ)りかかるムネモスを左(ひだり)腕(うで)に抱(だ)いて、

わたし達(たち)は傭(よう)兵(へい)達(たち)に囲(かこ)まれながら

目(もく)的(てき)の中(ちゅう)継(けい)所(じょ)に向(む)かった。




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