馬車を降りて見上げた劇場は、
長い歴史を持つ闘技場に
見劣りしない壮観な建造物だった。
太い柱が一定の間隔で並び、
半円を描くように屹立する。
近年建てられたメリエの劇場の列柱は、
清掃が行き届いて雨染みも見当たらない。
列柱のあいだには黒色の布が張られ、
周囲を多くの警備が見張る。
飾緒を持たないおよそ浮浪者が、
侵入を試みては警備に捕まると、
立ち上がれなくなるまで叩かれていた。
子供達が浮浪者の持ち物や服を盗んで、
裸にされた状態で放置される。
布の向こうのすぐ先は舞台で、
役者や下働きの者達が
慌ただしく大声を放って出入りする。
馬車を降りて馭者を見ていたわたしは、
スーに引っ張られ舞台の最前列に導かれる。
今日の馭者は
裁判所でゼオと名乗った老馭者ではなく、
厩舎で働く銀髪の若い男の従業員だった。

列柱の並びに沿って歩くと
円形の舞台が姿を現し、
両端には篝火が二つ置かれている。
ゼズ山脈の斜面を利用して作られた
正面の客席は、遠く高い石段になっていた。
客席は大勢の民衆で賑々しく山裾を染める。
「私達はもっと先の席だね。」
スーは手にした絵札を見て、
絨毯の絵柄と見比べる。
「スー! ニクス!」
聞き馴染みのある声がして
客席に顔を向けた。
最前列の中央には総督のマルフと、
画工のアイリアが座っていた。

二人が連れてきた使用人のマーリャ、
生徒の中にレナタが立って声を掛けてきた。

「こんにちは。スー、ニクス。
それと…ムネモスではなくて?」
「トリンよ。」
女神の名前が由来のムネモスに比べ、
男性名に似た簡素なトリンの名前は、
一度会っただけでは覚え難い。
「トリンが働く部屋は、
まだ決まってないんだよね。」
スーが言うとトリンは立ったまま見下ろし、
レナタは立ち上がって銀の頭を下げた。
その頭に背中の頭巾が落ちてくる。
レナタは以前着ていた黒のドレスに、
裾のとても短い真白なケープで
肩を覆っていた。
闇の館の娼婦達はケープを、
『紐無しのコート』とも蔑み
好んで着たがらない。
コートであっても腕を通す袖も無く、
裾も胸部までと短いので貧相に見られる。
胸元の飾緒を隠してしまう服の構造も、
身分を気にする娼婦達からの
ケープの評価は低くなる。
ケープは太い血管のある肩周辺や
背中が冷え難く、首元も温かくなる。
娼婦達は防寒性を犠牲にして、
夜の館よりも目立つことができるかを
一方的に競っていた。
「ニクスとお揃いですね。」
レナタが自らの白のケープに触れ、
わたしが抱くイオスとコートを指示した。
「でもこれは
あるお客さんの忘れ物だけれどね。」
それを告げるとマルフは首を横に振り、
隣のアイリアは微笑した。
「スー、大丈夫?」レナタが気遣う。
スーは微笑して頷いた。
「鼠を駆除してくれた総督のおかげで、
今年の冬は穏やかに過ごせそうだね。」
「サンサがこれ以上、
問題を起こしてくれなければな。」
口元を緩ませるマルフ達。
劇場の権利を欲しがるマルフも、
いまはその欲を抑えている。
「いつまで立ってるの?」
トリンは語気に苛立ちを見せていた。
「また後でねっ、レナタ。」
スーは見ていなかったけれど、
わたし達が通り過ぎると、
夫妻は立ち上がって彼女に深く頭を下げた。
この劇場の成り立ちを知る夫妻は、
スーを前にすると決まって恭しくなる。
スーが向かった席には、
赤と金の鶏が描かれた
派手な絨毯が敷かれている。
手にしていた同じ絵柄の札を、
近くの警備に渡す。
絵の中には同じ2進数も引かれていた。
「いいの? こんなに前の席なんて。」
隣には長い金糸の飾緒や驕奢な腕輪、
豊富な飾り布をした中老の肥満男が座り、
決まって怪訝な顔をされる。
「おい! 紐無しの小娘がっ!
座っていい場所ではないぞ!」
わたし達が前を歩いたことで、
空き席の隣で女達を帯同する
赤ら顔の男が怒鳴った。
「あら、エイワズ議員。
お久しぶりですね。」
「知らんぞ、お前なんぞ。」
金色の義髪を被り、
口髭を弄ってわたし達に威厳を示す。

「夜の館でサンサの部屋の
フランジをしています。
覚えてないのも無理はありませんが、
エッセとサテュラの娘、
メリエ・ハス・テレス改め、スースです。
失礼しました。
いまは元老院の、
議長をされてるんでしたね。」
スーは笑顔を向けると、
男の顔の前まで深く頭を下げた。
「げぇっ!」
スーにエイワズと呼ばれたのは、
日時計島の広場に駱駝を連れていた肥満男。
「誰ぇ?」
「議長の隠し子だ。」
「違うっ! お前らは黙っとれっ!」
エイワズは隣の情婦達を怒鳴りつけても、
女達は放った冗談に笑っている。
濃いピンク色をした派手な飾り布を、
肩側で結び目を見せて逆にしている。
――西側の娼婦かしら。
「座長に席を用意して貰いました。
お隣、よろしいかしら。」
「いや、構わず座ってくれ。
夫人に似てきたんではないか?」
「まぁ、こんな小娘を口説いては、
相伴に嫌われてしまいますよ。」
「ワシに遠慮などせず観劇を楽しんでくれ。
だがな…。」
エイワズは脂汗を浮かべて条件を持ちかけ、
スーは仔細を問わず笑顔のまま頷く。
「私達は観劇に来ただけです。
コロイド保険を所有する
議長ほどの資産家でしたら、
フランジに負けるようなことは
ありませんよ。」
「あぁ、手柔らかに頼む。」
具合を悪くするエイワズを余所に、
スーに促されてわたし達は隣に座った。
持ち込んだクッションを敷いて、
石の座席の硬さや冷たさを和らげる。
わたしより先にクッションに座り、
序列を守らないイオスを持ち上げた。
ハーフガンとディーゴが
幅広の毛布を置いていってくれる。
「わたしの分は必要ないわよ、ディーゴ。」
わたしは頭を下げてそれを拒み、
クッションと毛布を二人に押し付けた。
「スーの毛布を借りるし、
イオスが居るから平気よ。
今日は寒いから、
あなた達で使って。
ありがと。」
「…あぁ。楽しめ。」
ハーフガンが目を見開いて驚く。
「お礼言われて、旦那ぁ照れてるぜ。」
隣のディーゴがハーフガンを捓った。
ディーゴは護衛の中ではハーフガンと唯一、
と言っていいほど仲が良い。
「うるせえな!
お前いまから闘技場行って来い!」
「素直に喜びゃいいもんを。」
毛布を両肩に巻くディーゴは彼を笑って、
他の護衛達の構える後ろの席に座る。
「ハーフガンも座って。
始まるわよ。」
促すとハーフガンはわたしを睨んでから、
ディーゴの隣に座った。
ディーゴに肘で小突かれたので、
ハーフガンは彼の頭を拳で殴っていた。
「使用人に頭を垂れるなんて。」
トリンが言う。
「この街では偉いひとが頭を下げるのよ。」
太腿の上にはイオスが乗り、
わたしは羊毛のコートを着て
イオスを包んだ。
アルもスーの膝の上に座っている。
洗われたコートは縮んでいて、
袖も捲らずに指先が出せた。
「ねぇ、スーって偉いひとなの?」
トリンの疑問の呟きに、
わたしは黙ってイオスの額を指で撫でた。
――本人の許可なく言うのは良くないわね。
以前、スーの言った言葉を、
わたしは頭の中で繰り返す。
この街の総督、マルフや画工のアイリアも、
エイワズと同じく彼女に対して
畏敬して接していた。
――スーも元は、身分のある家に生まれた
普通の子だった。
舞台の左右によく似た顔の双子が立ち、
ハンドベルを同時に鳴らした。
「どうしよ、ニクス。
なんだか楽しみになってきちゃった。」
わたしを誘ったスーは、
碧色の瞳に涙を溜めて笑っていた。
再度ハンドベルが鳴らされ、
客席に開演を告げる。
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