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数年後

彼女と別れてから、数え切れない季節が過ぎた。


大学を出て、就職し、社会の歯車のひとつとして流される日々の中、彼女の存在は決して遠くならなかった。


広告に写る笑顔、テレビの端でちらりと映る姿、誰かの口から漏れる彼女の名前

それらすべてが、かつて二人で過ごした時間の影を呼び起こした。


彼女の死は、報道されていた。

華やかな舞台の世界で活躍した女優の突然の訃報は、ニュースでも雑誌でも取り上げられた。


しかし、彼にとってその事実は、目の前で起きた現実ではなかった。

胸の奥で、彼女はまだ笑っているのではないか

生きているのではないか

という微かな希望が、心を支配していた。


悲しみは、ニュースという紙面や画面では伝わらなかった。

文字や映像では、彼女の体温や息遣いは決して届かないのだ。


年が明け、冬の空気がまだ凍りつく頃、法律事務所から書留が届いた。


封筒に記された文字は淡々としていて冷たい。

「ご遺族の承諾により、遺品をお渡しいたします」

紙切れ一枚の事務的な言葉が、胸の奥でずしりと重く響く。


手が震え、息が止まる。

「遺品……?」

彼の頭は一瞬、空白になった。


遺品とは、もう二度と手を触れられない、

残された証だということを、心はまだ受け入れられなかった。


法律事務所で箱を受け取る。

灰色のボックス。表には、彼女の名前と管理番号が淡々と印字されている。

箱を抱えた瞬間、重さよりも恐怖が先に体を支配した。


彼女の生の匂いはもうない。

手に取るのは紙と紙切れだけだ。


それでも彼は、覚悟を決めるように箱の蓋を開ける。

中には、かつて彼女が泣きながら書き連ねた日記帳があった。


角は擦り切れ、ページは黄ばんでいる。

震えた筆跡が、彼女の手の温度を想像させた。

その下に、小さな封筒。封筒の中には、彼に宛てた手紙が入っていた。

最初のページをめくった瞬間、彼の胸を鋭い痛みが突き抜ける。


「助けて」

「私は誰?」

「行かないで」


どの文字も、生々しい叫びそのものだった。


呼吸が荒くなる。手が震え、視界が揺れる。


あの時、彼女を守れなかった自分の無力さが、全身を覆う氷のように冷たく突き刺さる。

胸の奥で、ずっと押さえ込んでいた後悔が、一気に噴き出した。


読み進めるほどに、彼女の恐怖、怒り、悲しみが胸に押し寄せる。

現場での葛藤、両親との衝突、事務所の理不尽、そして彼に伝えられなかった叫び。


彼女は必死で耐えていたのだ。


それを、彼は知らなかった。

「ごめん……ごめん、俺が……」

声にならない声が漏れる。喉が裂けるほど、涙が止まらない。

守ることを諦め、見守ることしかできなかった自分。


会いたくても会えなかった日々の無力感。

すべてが、一度に押し寄せ、彼を打ちのめす。


最終ページにたどり着くと、文字は途切れ、震える筆圧だけが残っていた。



〈会いたい〉



胸を押さえ、床に膝をつく。

涙が頬を伝い、膝の上のノートに滲む。


彼女は、自分の弱さを曝け出し、必死に愛を訴え、そして最後まで、孤独の中で戦っていたのだ。

その事実に、彼は打ちのめされる。


封筒に入った手紙を取り出す。


『大好きなあなたへ。会いたい。どうしてもそれだけは止められなかった。

 私がいなくなっても、あなたは生きて。私の分まで生きて。

 ずっと、愛してる』


その文字を一行ずつ声に出して読む。

涙で文字が滲み、視界がぼやける。


彼女の声が、胸の中で、脳の奥で、絶え間なく響く。


「守れなかった……守れなかったんだ……」


嗚咽を押し殺しながら、彼は自分の無力さに打ちひしがれる。


もしあの時、少しでも踏み込んでいれば、もしあの瞬間、言葉を選ばずに抱きしめていれば


そんな“もしも”が無数に胸を刺す。

夜空の下、彼は箱とノートを抱え、しばらく立ち尽くす。

空気が冷たく、心臓の鼓動だけが異様に大きく響く。


世界は動いているのに、彼の時間だけが止まってしまったかのようだ。


彼女はもういない。もう、二度と。


それでも、彼はノートを閉じられない。

閉じれば、彼女の声まで閉じ込めてしまうようで、怖くてできなかった。


開いたままの箱を胸に抱き、膝を抱える。

彼女の悲痛な声、愛の叫び、そして残酷な現実が、永遠に心の奥で鳴り続ける。


明け方、鳥の声が窓の外に届く。街の灯りがぼんやりと揺れる。

彼は便箋を握りしめ、小さくつぶやいた。


「俺も、ずっと会いたかった」


答えは返らない。

彼女はもう戻らない。


彼女の存在は、紙の上の文字と、心の奥に焼き付いた声だけになった。

しかし、彼は立ち上がれない。


胸に穴が開き、世界の色を失ったまま、箱とノートと手紙の中に閉じ込められたままだ。


守れなかった、愛していた、遅すぎた


そのすべてが、夜の闇に絡みつき、彼の呼吸を重く締め上げる。


生きることは許される。

だが、心はまだ、彼女の声と涙の中に囚われたまま、動かない。


世界が明るくなるほど、胸の痛みは深くなり、孤独と絶望だけが、残る。


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