第2話 森に潜む異変
2話
第2話
朝日が窓から差し込む。
昨日と同じように、小鳥のさえずりが聞こえ、市場へ向かう人々の声が遠くから響いてくる。ルシアンは寝台の上で目を開け、しばらく天井を見上げたまま、体の中にまだ残る眠気を追い払っていた。
「……よし」
身を起こし、寝台を出る。窓の外は昨日と変わらない、澄み渡った空が広がっていた。着替えを済ませて階下に下りると、マーサはすでに朝食の支度を終えていた。
「おはよう、ルシアン。今日は早いね」
「おはよう、マーサさん。なんだか、いつもより早く目が覚めたんだ」
「そりゃ良かった。今日はゆっくり食べられるね」
朝食を済ませ、外へ出ると、隣の家の戸口から見覚えのある大柄な青年が姿を現した。狼族特有の灰褐色の耳と尻尾を持つ、ガルディオだった。この村で冒険者として活動している彼は、ルシアンにとって物心つく前から知っている、近所の兄のような存在だ。
「おう、ルシアン。今日も早いな」
「おはよう、ガルディオ。今日は依頼とかないの?」
「今日は特にないな。のんびりするつもりだったが……」
ガルディオはそう言いながら、大きく伸びをした。狼耳がぴくりと動き、尻尾も心地よさげに揺れる。
「そういえば、昨日、水路の掃除だったんだろ。ダリオがぼやいてたぞ、ルシアンのやつ手際いいから楽できたって」
「そんなことないよ、ダリオが速いんだって」
「はは、謙遜するのはお前らしいな」
ガルディオはそう言って、ルシアンの頭を軽くぽんと叩いた。この村では珍しく背が高く、体格も逞しい彼だが、その気配には荒々しさよりも、どこか安心感を覚えさせるものがある。困っている者を放っておけない性分は、村の誰もが知るところだった。
「マーサさんの飯、今日はなんだった?」
「野菜のスープと、焼いたパン」
「相変わらずいい飯食ってんな。今度俺の飯も食わせてくれよ、母さんの味付けとどう違うか気になる」
「ガルディオがそう言うと、なんか審査されてる気分になるよ」
「はは、そうかもしれねぇな」
そんな軽い笑い声が二人の間に流れる。市場へ向かう村人たちが、そんな二人を見て軽く手を振ったり、朝の挨拶を交わしたりしていく。この村では、誰かと誰かが立ち話をしている光景は、ごく当たり前の風景だった。
「今日、リゼのところにも寄るのか?」
「うん、行くつもり。トビーにも会いたいし」
「あのちびっ子、最近お前にべったりだな。うちの弟妹どもと同じくらいうるさいぞ」
ガルディオは苦笑しながらそう言った。彼の家には幼い弟妹が多く、幼い頃から誰かの世話をすることに慣れているのだと、以前マーサから聞いたことがあった。その経験が、今の面倒見の良さに繋がっているのかもしれない。
そんな話をしていると、通りの向こうから、自警団の腕章をつけた中年の男が足早に歩いてくるのが見えた。ガルディオを見つけると、真っ直ぐにこちらへ向かってくる。
「ガルディオ、いいところに。ちょっと頼みがあるんだが」
「おう、なんだ?」
自警団の男は、少し声を落として話し始めた。
「昨日の夜、国境近くの見張り台から報告があったのは知ってるか。獣とも魔物とも判断がつかない、妙な遠吠えの件だ」
「ああ、聞いたぜ」
「それで、今朝方また、森の外れで木々が荒らされたような跡が見つかったらしい。大した被害じゃないんだが、村長も気にしてる。悪いが、様子を見てきてくれないか。何かの魔物が近付いているようなら、早めに確認しておきたい」
ガルディオは軽く頷き、腕を組んだ。
「分かった。まあ、そう深刻な話じゃないんだろ?」
「今のところはな。単に、迷い込んだ獣かもしれないし、注意深くなり過ぎてるだけかもしれない。ただ……最近、色々と噂が重なってるからな。念のためだ」
「了解だ。すぐに行ってくる」
自警団の男は礎に頭を下げ、また忙しそうに次の場所へと向かっていった。ガルディオはその後ろ姿を見送りながら、大きく息を吐いた。
「ったく、こういう時だけ俺を頼りにしやがって」
「気を付けてね、ガルディオ」
「なんだよ、心配してくれるのか?」
「当たり前だよ」
真っ直ぐにそう言うと、ガルディオは少し驚いたような顔をして、それからくしゃりと笑った。
「ま、そう深刻な顔するな。森の外れをちょっと見てくるだけだ。俺がそう簡単にやられるわけねぇだろ」
「うん、分かってる。それでも、気を付けて」
「はいはい」
ガルディオはそう言いながら、腰に佩いた愛用の剣を確かめるように軽く叩いた。それから、いつものように無造作な様子でルシアンの肩に手を置く。
「お前も、無茶するんじゃねぇぞ」
「僕は森に行かないよ」
「そういう意味じゃねぇよ。誰かのために自分を後回しにするのも、たまには考えろって話だ」
その言葉に、ルシアンは少し戸惑ったように瞬きをした。ガルディオはそれ以上何も言わず、ただ軽く笑って背を向ける。
「じゃあな。また後で」
「うん、行ってらっしゃい」
大きな背中が通りを進んでいくのを、ルシアンはしばらくその場に立って見送った。狼族らしい俊敏な足取りが、次第に村の外れへと遠ざかっていく。その姿が完全に見えなくなるまで、なぜか目を離すことができなかった。
「……気を付けてね」
もう一度、誰にも届かない声で呟き、ルシアンは自分の一日を始めるべく、市場の方へと足を向けた。
朝の空気はいつもと変わらず澄んでいて、市場の喧騒も日課のように賑やかだった。だが、胸の奥には、ガルディオの言葉と、自警団の男が口にした「念のため」という言葉が、小さく残り続けていた。
市場を一巡りして家に戻ると、マーサは庭先で干していた薬草を取り込んでいるところだった。乾いた葉の束を丁寧に籠へ収めていく手つきは、いつもと変わらず落ち着いている。
「マーサさん、手伝うよ」
「ああ、ちょうど良かった。上の段、私じゃ少し届きにくくてね」
物干し棒に吊るされた薬草の束を、ルシアンは背伸びをしながら一つずつ下ろしていく。乾いたラベンダーのような香りが鼻先をくすぐり、朝の慌ただしさから少しだけ気が緩んでいくのを感じた。
「今日はいい風が吹いてたから、よく乾いたよ」
「本当だ、パリパリしてる」
「これだけあれば、冬まで薬が持つね」
マーサは満足そうに頷きながら、籠を抱え直した。ルシアンはその隣を歩きながら、家の裏手にある小さな作業場へ荷物を運び込む。薪の香りと乾いた薬草の匂いが混ざり合う、この場所特有の空気が、なんとなく心を落ち着かせた。
「そういえば、ガルディオが森の方に出たって聞いたけど」
マーサがふと口にした。ルシアンは薬草を棚に並べる手を止め、少しだけ視線を落とした。
「うん。自警団の人が頼みに来て。木が荒らされてたとか、変な遠吠えのこととか」
「そうかい」
マーサはそれ以上深く聞くことはせず、静かに作業を続けた。だが、その手の動きがほんの一瞬だけ緩やかになったのを、ルシアンは見逃さなかった。
「マーサさんも、心配?」
「そりゃ、村の子が森へ行くって聞いて、まったく気にしないわけがないさ。でも、ガルディオはしっかりした冒険者だ。伊達に村中から頼りにされてるわけじゃないよ」
「うん……そうだね」
言葉ではそう返しながらも、ルシアンの胸の奥には、朝に見た大きな背中の残像が、まだ小さく残っていた。何かできることがあればと思うが、今の自分にできることは、ここで日々の仕事を丁寧に続けることくらいだ。そのことが、少しだけもどかしく感じられた。
「さあ、暗い顔してても仕方ないよ。手が空いてるなら、これを届けてくれるかい」
マーサはそう言って、小さな包みをいくつか手渡した。
「これは?」
「隣のオルガさんに頼まれてた咳止めの薬と、ロゼッタさんへの追加の湿布薬だよ。ちょうどいい機会だ、行っておいで」
「分かった」
薬の包みを受け取り、ルシアンは再び外へ出た。日はすでに真上を越え、村の影が少しずつ長さを増し始めている。
隣家のオルガに薬を届けると、彼女は嬉しそうに何度も礼を言い、代わりに焼いたばかりの芋を包んで持たせてくれた。市場を通りかかると、リゼが店番をしながら、少し暇そうにしているのが見えた。
「ルシアン! お使い?」
「うん、ロゼッタさんのところに湿布薬届けに行くんだ」
「私も一緒に行こうかな。お母さんに、店番代わってもらえるか聞いてくる」
リゼはそう言って、隣の店の母親に短く声をかけると、すぐに戻ってきた。
「大丈夫だって。少しの間なら」
「ありがとう。じゃあ、一緒に行こうか」
二人で並んで歩く道は、いつもと変わらぬ賑わいの中にあった。市場の喧騒が徐々に遠ざかり、静かな住宅の並ぶ通りへ入っていく。途中、井戸端で洗濯をしていた女性たちが二人を見かけ、軽く声をかけてきた。
「あら、二人一緒かい。仲がいいねぇ」
「幼馴染ですから」
リゼが得意げに答えると、女性たちはくすくすと笑いながら手を振った。そんな他愛のないやり取りの積み重ねが、この村の空気を作っているのだと、ルシアンは改めて感じる。
ロゼッタの家に着くと、老女は縁側で豆の筋を取る作業をしていた。
「おや、二人揃って来てくれたのかい。今日は賑やかだね」
「マーサさんから、追加の湿布薬を届けに来ました」
「ああ、助かるよ。膝の具合、この頃また悪くてね」
薬を手渡すと、ロゼッタは嬉しそうに礎に頭を下げた。それから、豆の入った籠を指し示す。
「よかったら、これも手伝ってくれるかい。まだ半分残ってるんだ」
「もちろんです」
リゼとルシアンは、老女の隣に腰を下ろし、豆の筋を取る作業を手伝い始めた。日陰になった縁側は涼しく、遠くから聞こえる鳥の声と、時折吹く風の音だけが、静かにその場を満たしていた。
「そういえば、リゼちゃんは最近、店番も上手になったねぇ」
「もう子供じゃないですから」
「あら、随分な言い方だね」
ロゼッタが笑うと、リゼは少し頬を赤らめながら、豆の筋を取る手を早めた。ルシアンもその様子に、思わず小さく笑ってしまう。
作業の合間、ロゼッタがふと、思い出したように口を開いた。
「そういえば、さっき、隊商の連中が話してたよ。国境の方で、狼族の若い冒険者が見回りに出たとか」
「それ、ガルディオのことだと思います」
「ああ、あの大柄な子かい。頼りになるだろうね、あの子は」
「うん、そう思います」
ロゼッタの言葉に、ルシアンは少しだけ気持ちが軽くなるのを感じた。誰もがガルディオを信頼している。それは、彼がこれまで積み重ねてきた実績と、村人たちとの絆があるからこそだ。だからこそ、心配しつつも、今はただ待つしかない。
「あんたも、いつかガルディオみたいな冒険者になるのかい?」
ロゼッタの問いに、ルシアンは少し考えるように手を止めた。
「分からないです。まだ、自分に何ができるのかも、よく分かってなくて」
「そう気張らなくてもいいさ。あんたは、あんたのままでいい。困った人がいたら手を貸す、それだけでも立派なことだよ」
その言葉が、静かに胸の奥へ染み込んでいく。ルシアンは何も言わず、ただ小さく頷いた。
作業を終える頃には、日はすでに西へ傾き始めていた。豆の籠を空にし、ロゼッタに礎に頭を下げて別れを告げる。
「今日はありがとうね、二人とも。また来てくれると嬉しいよ」
「はい、また来ます」
「私も、また野菜持ってきますね」
二人でロゼッタの家を出ると、通りにはオレンジ色の光が伸びていた。村の家々の輪郭が長い影を落とし、どこからか夕飯の匂いが漂ってくる。
「今日も、なんだかんだ忙しかったね」
リゼがそう言って、伸びをするように腕を上げた。
「うん。でも、悪くない忙しさだった」
「ルシアンって、いつもそう言うよね。人の手伝いしてる時、ちょっと楽しそうにしてる」
「そう見える?」
「うん。困ってる人を放っておけない性格なんだろうね」
リゼの言葉に、ルシアンは少しだけ照れたように笑った。特別なことをしているつもりはない。ただ、誰かの役に立てることが、単純に嬉しいだけだった。
市場の近くまで戻ると、リゼは店に戻る必要があると言って、軽く手を振って別れた。
「また明日ね、ルシアン」
「うん、また明日」
一人になった通りを歩きながら、ルシアンは自然と、国境の森がある方角へ目を向けていた。夕暮れに染まる空の下、遠くの木々の輪郭が、静かにそこに佇んでいる。
ガルディオは、まだ戻ってきていない。
「……そろそろ、帰ってくるといいけど」
呟いた声は、夕暮れの風に混じって、静かに消えていった。
家に戻ると、マーサはすでに夕食の支度を整え、竈の火を落ち着かせているところだった。台所には温かなスープの匂いが満ちていたが、いつもよりも静かな空気が漂っているような気がした。
「おかえり、ルシアン。ロゼッタさんのところはどうだった?」
「豆の筋取りを手伝ってきたよ。リゼも一緒に」
「そりゃ助かったね」
答えながらも、マーサの視線はふと窓の外、夕闇に沈み始めた通りへ向けられた。ルシアンもその視線を追うように外を見た。
「ガルディオ、まだ帰ってきてないみたいだね」
「うん……」
夕食の席に着いても、いつもより言葉が少なくなっているのを、ルシアン自身も感じていた。スープを一口飲み、パンをちぎる。味はいつもと変わらないはずなのに、なぜか今日は少しだけ、いつもより時間が長く感じられた。
「森の見回りって、いつも半日くらいで戻ってくるものなの?」
「そうだね。だいたい、日が暮れる前には戻ってくることが多いよ。でも……」
マーサはそこで一度言葉を切り、スプーンを置いた。
「森は広いからね。奥まで確認しに行くこともある。今日はそういう日なのかもしれないよ」
「そうだよね……」
言葉ではそう返しながらも、胸の奥にはやはり小さな不安が居座っていた。朝、村を出ていくガルディオの大きな背中。無茶するなよ、と言われたその声。あれからもう、随分と時間が経っている。
食事を終え、後片付けを済ませると、二人は自然と外に出た。空はすっかり夜の色に染まり、無数の星々が瞬いている。昨日と同じ、いつもと変わらない星空のはずなのに、今夜はどこか静けさが際立って感じられた。
「マーサさんは、こういう時、いつも心配になったりしないの?」
「なるさ。何十年生きても、慣れることはないよ」
マーサは静かにそう言って、夜空を見上げた。
「昔もね、あんたを引き取る前……知り合いが遠くまで行って、なかなか帰ってこないことがあった。あの時も、こうして星を見上げながら、随分長い時間を過ごしたもんさ」
「その人は……」
「無事に帰ってきたよ。ちょっと怪我をしていたけどね。でも、笑いながら『心配しすぎだ』って言われたよ」
そう言って、マーサは小さく笑った。だが、その笑顔には、どこか懐かしさと、少しの寂しさが混じっているように見えた。
「ガルディオも、きっとそう言うと思う。心配しすぎだって」
「うん……そうだね」
「だから、あんたも今は、心配しながらでも、いつも通りに過ごしていればいいさ。心配することと、自分を追い込むことは、違うものだからね」
その言葉に、ルシアンはゆっくりと頷いた。マーサの言葉には、いつも不思議な安心感がある。何が起きても、彼女はきっと動じずに、静かにこの村を、この家を守り続けてきたのだろう。
しばらく二人で夜空を見上げていると、通りの向こうから、見覚えのある足音が近づいてくるのが聞こえた。
「――おう、遅くなった」
聞き慣れた声に、ルシアンは思わず息を止めた。振り返ると、夜闇の中から、大きな影がゆっくりと近づいてくる。
「ガルディオ!」
思わず声を上げると、狼族の青年は、いつもと変わらない様子で軽く手を上げた。だが、その服には少し土埃がついており、片方の袖が僅かに擦れているのが見えた。
「ただいま。心配させたか?」
「うん……すごく」
「はは、悪い悪い。ちょっと森の奥まで確認しに行ったら、思ったより時間がかかっちまってな」
ガルディオはそう言って、疲れたように肩を回した。マーサがその様子を見て、静かに問いかける。
「何か、見つかったのかい?」
「……ああ、少しな」
ガルディオの声が、一瞬だけ低くなった。
「木が何かに引っ掻かれたみたいな跡があった。獣にしちゃ、爪の間隔がでかすぎる。ただ、当の獣自体は見つからなかった。今日のところは、それだけの報告になったな」
「大丈夫だったの?」
「俺は平気さ。ちょっと森の奥に入りすぎて、帰り道が分かりにくくなったくらいだ」
軽い口調でそう言うガルディオだったが、その言葉の裏にある事実に、ルシアンは静かに息を呑んだ。爪の跡。見つからなかった獣。それは、ダリオが言っていた噂や、自警団の男が口にしていた遠吠えの話と、確かに繋がっているように思えた。
「今日はもう、村長に報告して、休むよ。二人とも、心配かけて悪かったな」
ガルディオはそう言って、いつものように軽くルシアンの頭に手を置いた。
「明日は普通に村にいるから、また顔出せよ」
「うん……お疲れ様、ガルディオ」
「おう。マーサさんも、ゆっくり休んでくれ」
「あんたもね。無理しちゃいけないよ」
ガルディオは軽く笑って手を振り、そのまま自分の家へと向かっていった。その大きな背中が、家の戸口の向こうに消えるまで、ルシアンはずっと見つめていた。
「……帰ってきてくれて、良かった」
思わず漏れた呟きに、マーサが小さく頷いた。
「そうだね。今日は、それで十分だよ」
二人は静かに家へ戻り、戸を閉めた。竈の火はすでに落とされていたが、部屋の中にはまだ、微かな温かさが残っていた。
寝台に横になっても、ルシアンはしばらく眠れなかった。ガルディオの言葉が、何度も頭の中で繰り返される。爪の跡。見つからなかった獣。獣にしちゃ、爪の間隔がでかすぎる。
もしそれが、ただの獣ではなく、もっと別の何かだったとしたら――。
その考えに至った瞬間、胸の奥に、これまでとは少し違う種類の緊張が走った。旅人の噂話や、村長の警戒、狼族の集落での話。これまで積み重なっていた小さな違和感の欠片が、今日のガルディオの報告によって、少しだけ、輪郭を持ち始めたような気がした。
それでも、この村はいつもと変わらず、静かに夜を迎えている。窓の外からは、虫の鳴き声と、時折吹く風の音が聞こえるだけだ。何も特別なことは起きていない。ガルディオは無事に帰ってきた。それだけで、今夜は十分だ。
「……大丈夫、きっと大丈夫だ」
自分に言い聞かせるように呟き、ルシアンはゆっくりと目を閉じた。
窓の外、遠くに広がる国境の森は、夜の闇に静かに包まれている。その奥深くで、何かが確かに動き始めていることを、まだこの村の誰も知らない。
ただ一つ確かなことは、いつものように穏やかだったこの一日の終わりに、これまでとは違う、小さな緊張の種が、ひとつだけ蒔かれたということだった。
その夜、ルシアンは長い間まどろみの中を漂いながら、ようやく眠りへと落ちていった。
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