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第1話 国境の町

1話

名もなき者たちの神話

―終わりなき神話の果てに―


プロローグ


遠い昔。


世界は争いに満ちていた。


人型種族。


獣系種族。


水棲種族。


魔族。


四大種族は互いを憎み合い、


幾度となく争いを繰り返していた。


大地は荒れ果て、


空は黒く染まり、


海は血に濁ったという。


誰もが信じていた。


この世界に未来はないのだと。


だが、その時。


天より六柱の神が降臨した。


光祖神。


闇祖神。


炎神。


水神。


風神。


地神。


神々は争う種族達を導き、


長き戦乱に終止符を打った。


そして世界を滅ぼさんとした


混沌神との戦いに勝利し、


平和な時代を築き上げた。


その後、


神々は天へ帰り、


世界から姿を消したという。


神々が残した平和は、


今もなお続いている――


人型種族領と魔族領の国境付近に位置する小さな町。


アストラ村。


その日も町は平和だった。


子供達の笑い声が響き、


市場には活気が溢れ、


旅人達が行き交う。


世界は平和だった。


少なくとも、


誰もがそう信じていた。


第一章


『国境の町』


朝日が窓から差し込む。


小鳥のさえずりが聞こえる。


窓の外からは市場へ向かう人々の声。


今日もいつもと変わらない朝だった。


「おーい! いつまで寝てるんだ!」


外から聞こえた大声に、少年はゆっくりと目を開いた。


差し込む光の眩しさに何度か瞬きをして、ルシアンはようやく寝台の上で身を起こす。開いた窓の隙間から、乾いた土と焼きたてのパンの匂いが混ざり合って流れ込んでくる。アストラ村の朝は、いつもこんな匂いから始まる。


「……もう朝か」


呟いて、伸びをする。長い銀白色の三つ編みが背中から肩へと滑り落ち、ルシアンはそれを軽く手で払った。窓の外では、隣家の老人が家畜を追いながら誰かに怒鳴っている声が聞こえる。牛が言うことを聞かないのか、それとも隣の犬がまた畑に入り込んだのか。どちらにせよ、聞き慣れた喧騒だ。いつもと同じ、なんの変哲もない朝。それが何よりも安心できることを、ルシアンはよく知っていた。


しばらく寝台の上でぼんやりと外の音に耳を傾けていると、階下からマーサの声が届いた。


「ルシアン、起きてるかい? パンが冷めちまうよ」


「起きてるよ、今行く」


慌てて身支度を整え、簡素な木の階段を下りると、居間には既に朝食の匂いが漂っていた。竈の前に立っていたのは、この家の主であり、ルシアンを幼い頃から育ててくれた老婆、マーサだった。


「あら、起きたのね。おはよう」


「おはよう、マーサさん」


「今日は市場が立つ日だろう。ロゼッタさんへの届け物もあるし、早めに動いた方がいいよ」


「うん、分かってる」


マーサは笑いながら、焼きたてのパンと、薄く切ったチーズを皿に載せてルシアンの前に置いた。長年変わらないその手つきには、どこか懐かしさすら感じさせる温かさがある。パンにかじりつくと、外側はかりっとしていて、中はまだじんわりと熱を持っていた。


「マーサさんのパン、いつも美味しいね」


「毎日食べてるくせに、よく言うよ」


「毎日食べてるからこそ分かるんだよ」


そう返すと、マーサは目を細めて小さく笑った。ルシアンは物心つく前からこの家で育った。両親の顔も、生まれた場所も覚えていない。だが、そのことを寂しいと思ったことはあまりなかった。マーサがいて、村の人々がいて、この小さな町があった。それだけで、十分に満たされた毎日だったからだ。


「薬草の包み、こっちに用意してあるよ。ロゼッタさん、また膝が痛むって言ってたから」


「うん、分かった。ちゃんと届けるよ」


「本当に、あなたは昔から人のことばかり気にかけて」


マーサはそう言って、少し困ったような、それでも嬉しそうな顔をした。ルシアンにはその表情の意味がよく分からなかったが、悪い意味ではないことだけは伝わってきた。


朝食を終えると、ルシアンは薬草の包みを抱えて外へ出た。


朝のアストラ村は、既に人で賑わい始めていた。石造りの家々が立ち並ぶ通りには、市場に向かう者、井戸端で話し込む主婦たち、荷馬車を引く商人たちが行き交っている。国境の町らしく、村の空気にはどこか異国の匂いが混ざっていた。人型種族の商人が魔族領から運ばれてきた珍しい織物を並べ、獣人の行商人が干した肉や毛皮を広げている。種族の違う者たちが同じ通りを歩き、同じ市場で笑い合う。それがこの村では当たり前の光景だった。


通りを歩いていると、パン屋の店主である丸顔の男が、大きな声で呼びかけてきた。


「おお、ルシアンじゃないか! 今日も朝から精が出るな」


「おはようございます。パン、いい匂いですね」


「そうだろう、今日は新しい粉を試してみたんだ。焼き上がったら一つ持って行きな」


「ありがとうございます、後で寄ります」


軽く手を振って別れ、しばらく歩くと、市場の中心に差し掛かる。屋台の並ぶ通りには、既に多くの人々が集まっていた。


「ルシアン! おはよう!」


声をかけてきたのは、青物を売る店の娘、リゼだった。同じ年頃の少女で、幼い頃からの顔なじみだ。


「おはよう、リゼ。今日も市場は賑わってるね」


「東の隊商が着いたのよ。珍しい果物、持ってきてくれたみたい。後で見においで」


「うん、絶対行く」


軽く手を振って別れようとした時、リゼの隣で野菜を並べていた小さな男の子が、ルシアンの三つ編みを見上げて声を上げた。


「お兄ちゃん、その髪、キラキラしてる!」


「ふふ、ありがとう」


ルシアンはしゃがみ込み、男の子の頭を軽く撫でた。男の子は嬉しそうに笑い、それからすぐに「今度僕にも編み方教えて!」と無邪気に言った。


「僕の髪じゃ長さが足りないよ」


「じゃあ伸ばす!」


その返事があまりにも真剣だったので、ルシアンはつい笑ってしまった。リゼも隣でくすくすと笑っている。


「トビー、お客さんの邪魔をしちゃだめよ」


リゼが優しく男の子を窘めると、トビーは頬を膨らませながらも、大人しく野菜の籠の陰に隠れた。それでも、隠れた場所からじっとルシアンの髪を見つめている視線には気付いていた。


「あとで市場を回るとき、また声かけるよ」


「ほんと?」


「うん、約束」


トビーは小さな籠の陰からぱっと顔を出し、満面の笑みを浮かべた。


道の途中、井戸端で洗濯をしていた女たちが、ルシアンを見つけて手を止める。


「あら、ルシアンじゃないか。マーサさんの使いかい?」


「うん、ロゼッタさんに薬草を」


「本当にいい子だねぇ。あんたが薬草師になってくれたら、村中の年寄りが助かるよ」


「私は薬草師には向いてないと思うけどな。マーサさんみたいに調合できないし」


「そりゃ経験の差さ。若いんだから、これからいくらでも覚えられるよ」


からかうような笑い声が広がる。ルシアンは少し照れたように笑って頭を掻いた。褒められることに慣れていないわけではないが、自分がそう特別なことをしているとは思っていない。困っている人がいれば、当たり前に手を貸す。それだけのことだった。


女たちの一人が、洗濯物を絞りながらふと付け加えた。


「そういえば、あんたの育ての親のマーサさんも、若い頃はこの村で一番の薬草師だったんだよ。知ってたかい?」


「うん、少しだけ聞いたことある」


「今でも腕は落ちてないよ。年を取ってもあの調合の速さは大したもんさ」


ルシアンはその話を聞きながら、改めてマーサへの尊敬の気持ちを深めた。


ロゼッタの家に着くと、老女は縁側に腰かけて、日向で膝を伸ばしていた。


「おや、来てくれたのかい。悪いね、いつも」


「全然。マーサさんが調合してくれたやつだから、効くと思う」


包みを手渡すと、ロゼッタは礼を言いながら、目を細めて笑った。


「あんたと話すと、なんだか若い頃を思い出すよ。この村もずっと昔から変わらないもんさ」


「昔から変わらない、か」


「そうさ。ただ……」


ロゼッタは少し言葉を切り、遠くの空を見上げた。


「近頃、旅人達がやたら熱心に噂話をしていくんだよ。国境の向こうで、変わったことがあるとかないとか。まあ、旅人ってのは大げさに話すのが好きだからね。気にすることないよ」


そう言って、老女は明るく笑った。深刻な様子ではなかったので、ルシアンもそれ以上聞くことはせず、しばらくロゼッタの畑仕事を手伝った。雑草を抜き、水を運び、収穫間近の野菜の様子を見る。何気ない作業だったが、ロゼッタが「助かるよ」と言うたびに、ルシアンの胸には小さな満足感が広がった。


「ありがとうね、ルシアン。あんたのおかげで、今日は楽ができたよ」


「これくらい、いつでも言ってください」


「あんたみたいな子が、この村に来てくれて良かったよ」


その言葉に、ルシアンは少し驚いたように顔を上げた。マーサ以外の誰かからそう言われることは、まだ少し慣れていなかった。だが、胸の奥にじんわりと温かいものが広がっていくのを感じた。


「……ありがとうございます」


「なんだい、そんな真面目な顔をして。さあ、市場に戻りな。リゼちゃんが待ってるんじゃないのかい?」


からかうような口調に、ルシアンは苦笑しながら頷き、ロゼッタの家を出た。


昼近くになり、太陽はすっかり高く昇っていた。市場へ戻る道の途中、パン屋の店主が声をかけてきた。


「おう、ルシアン! 焼き上がったぞ、これ持って行きな」


「わあ、ありがとうございます」


温かいパンを受け取り、礎に軽く頭を下げる。パン屋の店主は満足げに笑い、また忙しそうに店の方へ戻っていった。


市場に戻ると、リゼが屋台の前で手を振っていた。


「ルシアン、こっちこっち! 果物見てみて!」


屋台に並んでいたのは、鮮やかな紫色をした、見たこともない果実だった。表面には小さな棘のようなものが並び、どこか異国の香りを漂わせている。


「これ、魔族領の南の方でしか採れないんですって。甘くて、少し酸味があるんだとか」


「へえ……食べてみたいな」


「でしょ? でしょ? 一緒に買おうよ」


リゼは弾んだ声で言い、屋台の店主に硬貨を差し出す。ルシアンも自分の分を買い、二人並んで果実を口にした。噛んだ瞬間、想像していたよりも強い甘さが広がり、思わず声が漏れる。


「うわ、すごい」


「でしょ! 美味しいでしょ!」


リゼは得意げに笑った。こうした些細な発見や喜びを分かち合える時間が、ルシアンにとっては何よりも大切なものだった。


屋台の店主である、隊商の老人が二人の様子を見て笑った。


「そんなに気に入ってくれたなら、嬉しいねぇ。坊主、旅は好きかい?」


「はい、好きです。まだ村の外にはほとんど出たことがないですけど」


「ほう。いつか出てみるといい。世界は広いよ。この果物みたいに、この村にはない色や味が、あちこちに溢れてる」


老人はそう言って、遠くを見るような目をした。ルシアンはその言葉に、何か惹かれるものを感じながら、静かに頷いた。


「僕も、いつか色んな場所を見てみたいです」


「その気持ちは大事にしとくといい。若いうちだけの特権だからな」


老人はそう言って、しわの多い顔をくしゃりと歪めて笑った。


果実を食べ終える頃、トビーが約束を覚えていたのか、母親の手を引いて駆けてきた。


「ルシアンお兄ちゃん! さっき言ってたやつ!」


「ああ、ちゃんと覚えてたんだね」


ルシアンはしゃがみ込み、トビーの小さな手を取って、簡単な三つ編みの結び方を教えてやった。不器用な手つきで真似をするトビーの姿に、リゼも隊商の老人も、周りにいた村人たちも、自然と笑みを浮かべていた。


「できた! 見て見て、お母さん!」


「あら、上手にできたじゃない」


トビーの母親も嬉しそうに笑い、ルシアンに軽く頭を下げた。


「いつもうちの子と遊んでくれて、ありがとうね」


「いえ、こちらこそ楽しいです」


そんな何気ないやり取りの積み重ねが、この村での日々を作っている。特別なことは何もない。ただ、誰かと笑い合い、誰かの役に立てる。それだけで、ルシアンの一日は十分に満たされていくのだった。


太陽が真上に近づき、市場の喧騒も一段と賑やかになっていく。屋台からは焼き魚の匂いが漂い、遠くから子供達の遊ぶ声が響いてくる。ルシアンは温かいパンを片手に、リゼやトビーと言葉を交わしながら、いつまでも続いてほしいと思うような、穏やかな昼前の時間を過ごしていた。


「そろそろお昼だね。私、家に戻らなきゃ」


「うん、僕も。マーサさんが待ってると思う」


「また午後に会えたら会おうね」


リゼは笑顔でそう言って、屋台の後片付けを手伝うために戻っていった。トビーも母親に手を引かれ、名残惜しそうにルシアンへ何度も手を振りながら去っていく。


賑わう市場を後にしながら、ルシアンは温かいパンの匂いを感じつつ、家路へと足を向けた。頭上には眩しいほどの陽光が広がり、村全体が明るい光に包まれている。


これほど穏やかな昼下がりが、この村ではごく当たり前の日常だった。


家に戻ると、マーサが台所で昼食の支度をしている最中だった。鍋からは野菜と豆を煮込んだ、いつもの優しい香りが漂っている。


「おかえり、ルシアン。ずいぶんいい匂いをさせて帰ってきたね」


「パン屋さんに新しいパンをもらったんだ。あとで一緒に食べよう」


「それは楽しみだね。手を洗ってきなさい」


昼食の席では、市場での出来事をマーサに話した。トビーに三つ編みを教えたこと、隊商の老人に世界の広さを教えてもらったこと。マーサはそれらを一つ一つ、まるで自分もその場にいたかのように相槌を打ちながら聞いていた。


「トビーちゃんも、ずいぶんあなたに懐いてるみたいだね」


「うん。あの子、まだ髪が短いのに、僕みたいに編みたいって言うんだ」


「子供の憧れなんて、そんなものさ。あなたも小さい頃、隣のおじさんの立派な髭に憧れて、随分頬っぺたに炭を塗って真似してたんだよ」


「……それ、覚えてないよ」


「そうだろうね。でも本当のことさ」


マーサはくすくすと笑いながら、パンをちぎってスープに浸した。ルシアンは自分の記憶にない幼い頃の話を聞くたび、なんとも言えない気恥ずかしさと、同時にどこか嬉しいような気持ちになる。この家で過ごした年月の分だけ、マーサの中に自分の歴史が積み重ねられているのだと感じるからだ。


昼食を終えると、ルシアンは午後の仕事として、村の共同水路の掃除を手伝うことになっていた。これは村の若者たちが交代で受け持つ仕事で、今日はルシアンの番だった。


水路に着くと、既に数人の顔なじみが集まっていた。狼族の少年、ダリオもその一人だ。


「よお、ルシアン。今日は遅いな」


「ごめん、ロゼッタさんの家に寄ってたから」


「相変わらず優しいこったな。まあいい、さっさとやるぞ」


ダリオは軽口を叩きながらも、率先して水路の泥をすくい始めた。狼族らしい俊敏な動きで、あっという間に作業を進めていく。ルシアンもそれに続き、二人並んで水路の底に溜まった泥や落ち葉を取り除いていった。


「そういえば、聞いたか? 昨日、行商人が変な話してたって」


ダリオがふと口にした話題に、ルシアンは手を止めずに答えた。


「うん、聞いたよ。国境の向こうで妙な光を見たとか」


「俺の親父が言ってたんだけどな、実は最近、狼族の集落の方でも似たような話があるらしい。夜中に森の奥で、聞いたことのない獣の声が聞こえるんだと」


「獣の声……?」


「まあ、俺も直接聞いたわけじゃないから、大げさに広まってるだけかもしれないけどな。この辺、平和すぎて、たまにこういう話が盛り上がるんだよ」


ダリオはそう言って、あまり深刻な様子もなく笑った。ルシアンもその軽い調子に合わせて頷いたが、胸の奥で、朝に見た旅人達の噂話と、今のダリオの話が、なんとなく重なり合うような感覚があった。


「まあ、俺達には関係ない話さ。せいぜい、酒場で酔っ払いが話を盛るネタになるくらいだろ」


「そうだね」


作業を続けながら、二人は他愛のない話をした。今度の収穫祭のこと、村の外れに新しくできた鍛冶屋のこと、ダリオが最近始めた弓の練習のこと。話題はどんどん移っていき、水路の掃除もいつの間にか終わりに近づいていた。


「よし、こんなもんか。今日はルシアンがいたから早く終わったな」


「ダリオが速いからだよ」


「そう言われると悪い気しねぇな」


ダリオは満足そうに笑い、濡れた手を布で拭いながら伸びをした。夕方の風が吹き始め、水路の周りに植えられた木々の葉がさらさらと音を立てる。


作業を終えて帰る道、ルシアンは村の広場を通りかかった。広場の隅には、旅の吟遊詩人が小さな竪琴を抱えて座り込み、集まった子供達に何か話をしていた。


「――それでな、遠い遠い昔、世界にはまだ神々がいらしたのさ。光の神、闇の神、炎の神……」


子供達は目を輝かせながら、その話に耳を傾けている。ルシアンも足を止め、少しの間その様子を眺めた。何度も聞いたことのある、あの神話の話だ。この村では、誰もが子供の頃にこうして神々の物語を聞かされて育つ。


「ルシアンお兄ちゃんも聞く?」


トビーが振り返ってそう声をかけてきたが、ルシアンは笑って首を振った。


「僕はもう知ってる話だから、みんなで聞いておいで」


そう言って、再び家路を歩き出す。夕暮れの光が村の家々を橙色に染め上げ、あちこちの煙突から夕食の煙が立ち上り始めていた。市場の喧騒も少しずつ落ち着き、代わりに家々の窓から漏れる灯りが、通りをぽつぽつと照らし出している。


家に着くと、マーサが夕食の下ごしらえをしていた。


「おかえり、水路の掃除、ご苦労だったね」


「ダリオが速いから、思ったより早く終わったよ」


「それは良かった。もう少しで夕飯だから、井戸の水を汲んできてくれるかい」


「うん、分かった」


水桶を手に外へ出ると、既に空はすっかり紫色に染まりつつあった。井戸端では、隣家の女性が同じように水を汲んでいて、軽く言葉を交わしながらルシアンも桶を満たしていく。


水を汲みながら、ふと空を見上げると、一番星がすでに小さく瞬いていた。今日という一日が、いつものように穏やかに終わろうとしている。市場の賑わい、ロゼッタとの会話、トビーとの約束、ダリオとの何気ないやり取り。どれも小さな出来事だったが、積み重なっていくたびに、この村への愛着が深まっていくのを感じる。


水桶を抱えて家へ戻る途中、ルシアンはもう一度だけ、国境の森が見える方角へ視線を向けた。夕闇に沈み始めた森は、いつもと変わらず静かにそこにあるだけだった。それでも、なぜか目を離すまでの一瞬、胸の奥に小さな引っかかりが残った。


「……気にしすぎかな」


そう呟いて、ルシアンは家の戸口をくぐった。竈から漏れる灯りと温かさが、外の冷え込み始めた空気を優しく迎え入れてくれる。


水桶を置き、竈の火にかざした手を温めていると、マーサが鍋をかき混ぜながら鼻歌のような小さな声を漏らしていた。長く聞いてきたその調子は、この家の夕暮れにいつも流れている音だった。


「今日のスープ、豆をたくさん入れたよ。ダリオ君と水路の掃除、お腹空いてるだろうから」


「うん、すごくいい匂い」


食卓に着き、二人で夕食を取る。パン屋でもらったパンをスープに浸すと、朝に感じた香りとは違う、じんわりとした温かさが口の中に広がった。マーサは今日一日の出来事を、また一つ一つ丁寧に聞いてくれた。ダリオとの軽口、吟遊詩人が語っていた神々の物語、井戸端で見上げた一番星のこと。話しているうちに、ルシアンは自分でも気付かないうちに、今日という日が随分と満ちた一日だったのだと感じていた。


「そういえば、村長さんのところにも寄ったんだったね」


「うん。五大連盟から、国境沿いの村は警戒を強めるように、って通達があったみたい」


マーサはスプーンを止め、少しの間、黙って考えるような顔をした。


「……そうかい」


「大したことじゃないって、村長さんは言ってたけど」


「そうだね。まあ、こういう通達は、時々あるものさ。念のため、ってやつだよ」


マーサの声はいつもと変わらぬ穏やかさを保っていたが、その一瞬だけ、目の奥に小さな影が差したような気がした。ルシアンはそれを気にしないふりをして、パンの残りを口に運んだ。


夕食を終え、後片付けを二人で済ませると、マーサは少し外の空気を吸いたいと言い、ルシアンと共に家の外に出た。空はすっかり暗くなり、無数の星々が満天に散らばっている。村のあちこちからは、夕食を終えた家々の灯りが漏れ、遠くで誰かの笑い声や、犬の鳴き声が聞こえていた。


「今日も、いい一日だったね」


マーサがそう言って、ゆっくりと夜空を見上げる。


「うん。リゼと果物食べたり、トビーに三つ編み教えたり、ダリオと水路掃除したり……本当に、いつも通りの一日だった」


「いつも通り、っていうのは、案外贅沢なことなんだよ」


マーサの言葉に、ルシアンは少し不思議そうな顔をした。


「贅沢?」


「そうさ。何も変わらない一日を、当たり前のように過ごせるってのは、実はそう簡単なことじゃないんだ。あんたはまだ知らないだろうけどね、世界にはそうじゃない場所もある」


マーサはそう言って、ふと遠くを見つめるような目をした。それはロゼッタが見せた表情や、村長が見せた緊張と、どこか似ているようで、少し違う色合いを持っていた。深い経験の中から生まれる、静かな重みのようなもの。


「マーサさんも、色々な場所を見てきたの?」


「昔は、少しね。あんたを引き取る前の話さ」


「どんな場所だったの?」


マーサは小さく笑って、ルシアンの頭を軽く撫でた。


「いつか、話してあげるよ。今夜じゃなくていい」


その言葉には、拒むような響きはなかった。ただ、今はまだその時ではない、というだけの、優しい保留だった。ルシアンもそれ以上聞くことはせず、素直に頷いた。


しばらく二人で夜空を見上げていると、通りの向こうから、村の見回りをしている自警団の男が歩いてくるのが見えた。


「マーサさん、ルシアン。夜分に外にいるとは珍しいね」


「星がきれいだったから、少し眺めていたのさ」


「今夜は確かに冴えてるな。……ところで、聞いたか? 今日の昼、国境近くの見張り台から、変わった獣の遠吠えが聞こえたって話」


その言葉に、ルシアンの胸がわずかに強く反応した。ダリオが言っていた話と、どこか繋がっているような気がしたからだ。


「獣の遠吠え、ですか?」


「うん。いつも聞くような狼や獣人の声とは違う、なんとも言えない不気味な声だったらしい。見張りの者も、初めて聞く声だと言っていたよ」


自警団の男はそう言いながらも、深刻な様子は見せず、軽く肩をすくめた。


「まあ、この時期はよく分からない獣が森を移動することもあるからな。あまり気にしすぎることもないさ。だが、念のため、夜は森の近くには行かないようにな」


「はい、分かりました」


自警団の男は軽く手を上げて、また見回りへと去っていった。その後ろ姿が夜闇に紛れて見えなくなるまで、ルシアンは何となくその方向を見つめ続けていた。


「……何か、あるのかな」


呟くように口にすると、マーサは少しだけ考えるような顔をして、それから静かに答えた。


「分からないさ。だけど、心配しすぎることはないよ。この村は、ずっと長い間、平和を守り続けてきた場所だ。何があっても、私達はきっと大丈夫。それに――」


マーサはそう言って、ルシアンの方を見た。


「あんたには、村の人達がいる。リゼちゃんも、トビー君も、ダリオ君も、ロゼッタさんも、村長さんも。皆、あんたのことを大切に思ってる。何かあったとしても、一人きりで抱え込む必要はないんだよ」


その言葉が、静かに胸の奥に染み込んでいく。ルシアンは小さく頷き、それ以上は何も言わなかった。


家に戻り、寝る支度を整えると、ルシアンは寝台に横になり、窓から見える星空をもう一度眺めた。


今日という一日を思い返す。朝の光、市場の賑わい、リゼとの果物、トビーとの約束、ロゼッタとの畑仕事、ダリオとの水路掃除、吟遊詩人の神話の物語、井戸端の一番星、そしてマーサとの夜の会話。どれも小さな、けれど確かに大切な瞬間の積み重ねだった。


その一つ一つの温かさの奥に、ほんの小さな違和感が、確かに幾つか混じっていたことも、ルシアンは感じていた。旅人達の噂話。国境で見えたという奇妙な光。狼族の集落で聞かれた獣の声。見張り台から聞こえた不気味な遠吠え。村長の緊張。マーサが一瞬だけ見せた、遠くを見るような目。


一つ一つは、まだ取るに足らないことのように思える。それでも、それらが少しずつ、確かに何かへと繋がっていくような予感が、静かに胸の底へ積もっていくのを、ルシアンは止めることができなかった。


「……明日も、いつもと同じ日が来るといいな」


そう呟いて、目を閉じる。


窓の外では、風が静かに木々を揺らし、遠くから夜鳥の声が聞こえていた。いつもと変わらない、アストラ村の夜だった。


だが、その静かな夜の向こう側、国境の森の奥深くでは、誰もまだ気付いていない何かが、確かに、ゆっくりと動き始めていた。


ルシアンがまだ知らない、大きな運命への小さな一歩が、既に刻まれ始めていることを、彼はまだ知らない。


その夜、ルシアンはいつものように、静かな眠りへと落ちていった。

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