番外編5:千日回峰の泥濘(でいねい)と、闇夜にうごめく異形の息遣い1
【読者の皆様へ(免責事項)】この物語は完全なフィクションであり、実在の人物、地名、団体、特定の宗教、および書籍・アプリ等とは一切関係ありません。作中の修行描写や怪異表現はエンターテインメントとしての創作であり、特定の信仰や組織を誹謗中傷する意図はございません。
テレビの液晶画面に映るその行者は、涼やかな顔で「聖なるマラソン」を走り終えたかのように、お仕着せの綺麗事でパッケージされて報道されていた。
だが、そんなものは令和の情報社会が、大衆の脳細胞を安心させるためにデリバリーした薄っぺらい建前の幻影に過ぎない。
比叡山・千日回峰行。その本質は、美化されたスポーツなどでは断じてない。人間の尊厳と肉体の最後の1滴までを容赦なくすり潰し、システムのエラーを一切許さない、地獄の生体監獄である。午前2時。丑三つ時の濃密な暗黒が支配する比叡山の峰々を、一真(いっしん・31歳)はただ一人、ジャブ、ジャブ、と湿った泥を踏み締めながら進軍していた。
その身に纏うのは、汚れなき純白の死装束。腰にはギラリと冷たい光を放つ一本の短刀を帯び、懐には首を括るための一条の紐を忍ばせている。
これは、「一度行を始めたら、途中でリタイアすることは絶対に許されない。病気や怪我で動けなくなった瞬間に、その場で自らの腹を掻き切るか、首を吊って即座に生命を【 完全破壊 ( ロスカット ) 】しなければならない」という、底冷えする死の契約の証明であった。
7年間で地球一周分、延べ1000日間。歩けなくなれば即、自害。そんな狂気の方程式の上に立ち、さらに5年目には、9日間の断食・断水・不眠・不臥という、生きたまま肉体をミイラ化させる自死のシミュレーション『堂入り』が牙を剥く。
不動堂から出てくる行者の衣服からは、内臓が腐りかけた本物の「死臭」が漂うという。「……ハァ、ハァ……、オン……バサラ……ダラマ……キリク……」深夜の山道は、現代人が機材を持って入る「心霊スポット」などの非日常のエンタメとは次元が違っていた。
24時間の電気が消え、明治以前の本当の暗黒へと巻き戻った夜の峰々では、幽霊や異形の存在が、脳のバグではなくただの『物理的な現実』として、生活の境界線のすぐ隣にうごめいている。
修行を始めた当初、過酷な疲労によって脳圧が限界突破した一真の目の前には、泥水に塗れて四肢を不自然に曲げた亡霊たちが、木の根の影から次々と這い出てきた。
だが、本当の恐怖は「見えないけれど、そこに質量がある」瞬間だった。




