番外編3:市場価値ゼロの荒野、そして河川敷の孤高なる防衛線2
男は膝を抱えたまま、濁った水面を見つめ、ぽつりと弱音を漏らした。「……もう、限界だよ」
その声には、一切の建前も、見栄もなかった。「いつ死ぬか分からない……。毎晩、誰かの悲鳴が聞こえて、昼は空から知らない人の醜い本音が降ってくる。こんな生活、いつまでも続けられるわけがない。僕は、ただ普通に生きて、普通に誰かと……いや、もう何でもいい。こんな世界で生き残るなんて、僕には無理だ……」
男の口から溢れ出たのは、この一週間、美紀がずっと胸の奥に閉じ込めていた絶望そのものだった。
世界が普通だった頃、美紀は「理想の檻」に閉じこもり、男は「トラウマの檻」に引きこもっていた。お互いに自分の人生を素直に生きられず、情報社会のイカれた荒波に揉まれて、勝手に身動きが取れなくなっていたのだ。
地べたに這いつくばり、涙を流す男を見下ろしながら、美紀の心にすとんと、一枚のパズルがはまるような感覚があった。(ああ、そうか……。夢ばかり見せてくる情報社会の方が、よっぽどイカれてたんだわ)
かつてアプリの画面に並んでいた【あなたにイイね!した人達(164)】という記号。
条件を満たさない男を「面接するのも気持ち悪い」と切り捨てていた自分の傲慢さ。
そんなハリボテのプライドは、この市場価値ゼロの荒野では、一滴の水ほどの価値もない。
美紀は男の前に歩み寄り、泥のついたスニーカーの前に、静かにしゃがみ込んだ。
「ねえ」 美紀は、短く切った髪から滴る水滴を拭いもせず、男の目を真っ直ぐに見据えた。顔に泥を塗り、男物の作業着を着た今の彼女は、少女漫画のヒロインでもなければ、高スペックな処女の受付嬢でもない。
「私、地方の農村育ちなの。どこに野草が生えてて、どこに罠を仕掛ければいいか、都会のハイスペ男よりは詳しいわよ」
男が、驚いたように顔を上げた。「……え?」「あんた、名前は?」「……タカシ、です」「そう。私は美紀。タカシ、あんたに生きる気があるなら、私の防衛線に入りなさいよ。市場価値なんてクソ喰らえのこの更地で、生身の私たちがどこまでやれるか、試してやろうじゃない」
美紀は、生まれて初めて、建前も嘘の方程式もない、本当の自分の人生の選択肢を、その手で掴み取ろうとしていた。




