番外編3:市場価値ゼロの荒野、そして河川敷の孤高なる防衛線1
濁った川の水は、想像以上に冷たかった。
首まで水に浸かった原田美紀は、一週間分の垢と死臭を洗い流すように、ゴワついた髪をガシガシともみ洗いした。服を脱ぎ捨て、都会の「記号」をすべて削ぎ落としたその身体は、ただの三十一歳の生身の肉体に過ぎない。
ガレキの死角から一歩外に出た河原は、遮蔽物のない完全な無防備地帯だった。
逃げ場はない。もし今、暴徒が通りかかれば一発で終わりだ。恐怖に背筋を粟立たせながらも、彼女は冷たい水で身体を清める行為に、どこか救いを感じていた。「……あ」 その時、対岸の浅瀬に人影が揺れた。
美紀は息を止めた。心臓が痛いほど跳ねる。ガレキの陰に隠した男物の作業着までは、距離にして五メートル。今から陸に上がって服を掴む猶予など、どこにもなかった。
人影はこちらに気づき、動きを止めた。
現れたのは、美紀と同年代に見える、ひどく痩せこけた男だった。泥まみれのパーカーを羽織り、怯えたような、死んだような目でこちらを見つめている。
極限の沈黙。パニックに陥った美紀は、思わず胸元を両腕で隠し、悲痛な声を絞り出した。「見ないで……っ! お願い、見ないで……!」
男は弾かれたように視線を逸らし、両手を泳がせるようにして、たどたどしく後退りした。
「あ……ご、ごめん! すいません、そんな、つもりじゃ……っ」
その慌てふためく様子と、線の細い声に、美紀の脳裏にある記憶がフラッシュバックした。
彼のようなタイプを、かつての美紀は「地味なモブ男」と呼び、マッチングアプリの許容条件から無慈悲にロスカットしていた。そして男の側もまた、この滅びる前の世界では、徹底的に踏みつけられてきた側だった。
男は、かつて大学生の頃、一世一代の覚悟で「高嶺の花」と呼ばれた女子大生に告白したことがあった。 だが、告白という相手の本音が見えないギャンブルは大敗に終わった。それどころか、彼の純粋な好意は女子グループの間で格好の笑い者にされ、「身の程知らず」「キモい」というレッテルを貼られて徹底的に排除された。その深い傷が原因で、男は強烈な女性不信を患い、恋愛市場という名の傲慢な檻から自主的に退場し、自信のなさげな、怯えるような日々を送っていたのだ。
そんな二人が、すべてのスペックや格付けが無価値なゴミとなった荒野で、裸のまま対峙している。 男は川面に背を向け、ガレキの影にしゃがみ込むと、頭を抱えて小さく震え出した。襲ってくる気配は、微塵もない。美紀はゆっくりと水から上がり、濡れた身体のまま作業着を引っ掴んで、乱暴に袖を通した。
「……もう、服は着たわよ」 美紀の声に、男は肩をビクつかせ、恐る恐る振り返った。男の顔は、泥と涙で汚れていた。「あ……良かった。本当に、怪しい者じゃないんだ。ただ、水を探してて……」
「わかってるわよ。暴徒なら、今頃私を殴り倒して、服ごと奪ってるでしょうからね」
美紀は髪を絞りながら、自嘲気味に息を吐いた。 かつてなら一秒で切り捨てていたはずの「冴えない男」。しかし今、その男が目の前で生きているという事実に、奇妙な安堵を覚えている自分に気づく。




