おまけ第3話:『水槽(グッピー)のぞき込む夜 〜完璧なお人形のロスカットと、不完全な全肯定〜』3
【読者の皆様へ(免責事項)】この物語は完全なフィクションであり、実在の寺社、教会、特定の宗教団体、結婚相談所、およびマッチングアプリ等とは一切関係ありません。作中の宗教婚活事情や心理描写はエンターテインメントとしての創作・風刺であり、特定の信仰や職業を誹謗中傷する意図は一切ございません。
「お前が30年間、泥にまみれて実直に生きてきたその生身の魂のまま打席に立て。そして、いつかお前の前に、同じようにシステムに切り刻まれて傷ついた男が現れた時……相手の不完全さを笑わず、その孤独の質量に、お前の生身の言葉でシンクロ(共鳴)してやるんや。お互いの『傷』と『傷』がガチッと噛み合った時、そこにはアプリのアルゴリズムも、相談所のスペック主義も、1ミリも介入できん絶対的な結界(愛)が生まれる。それが、あいつらのクソシステムに対する、人間としての最大のハッキングや」
「お互いの、傷と傷を、噛み合わせる……」
百合は、ひややっこの言葉を胸の奥深くに刻み込んだ。スペックで切り捨てる側の冷酷さではなく、傷ついた者同士が痛みの質量で共鳴し合うことこそが、この地獄のような恋愛市場を内側から破壊する唯一のコード。
百合はゆっくりと立ち上がり、涙を拭った。
その横顔には、もう夜明け前の暗闇に怯える影はなかった。「ひややっこさん、ありがとうございました。私、もう完璧なお人形を探すのはやめます。私のこの傷ついた生身のままで、誰かの傷に寄り添いに行きます」
「おう、行ってこい。お前ならもう、あいつらの水槽に溺れることはないわ」
百合は深く、深く一礼した。
その横顔には、もう夜明け前の暗闇に怯える影はなかった。
「ひややっこさん、ありがとうございました。私、もう完璧なお人形を探すのはやめます。私のこの傷ついた生身のままで、誰かの傷に寄り添いに行きます」
そう言って、百合は旧道へ向かって一歩、歩みを進めた。カツ、と乾いた靴音が響く。
だが、彼女はそこでぴたりと足を止めた。
まだ何かを迷うように、大岩山の冷たい風の中で立ち尽くし、何度も振り返っては、ひややっこの姿を見つめている。
その胸の奥には、長年社会に擦り切られ、誰にも打ち明けられなかった「女性ならではの言語化できない悲哀」が、まだ淀みとなって渦巻いていた。
もう一度歩き出そうとしても、靴底が泥に吸い付くように重い。
ひややっこは、そんな百合の、まだ何かを話し足りなそうな、すべてを吐き出し切れていない不器用な背中を静かに見つめていた。
「百合」
ひややっこの低い声が、静寂の山頂に響く。
「……何でもええぞ。まだ言いたいことがあるなら、全部吐き出していけ」
百合が驚いたように振り返る。
ひややっこはアローズのジャケットのポケットに両手を突っ込んだまま、どこかぶっきらぼうで、しかし限りなく優しい眼差しを彼女に向けていた。
「この機会を逃したらな、こんな話を大真面目にできる場所なんて、世間のどこにもないぞ。ええか、世間っちゅうのはな、お前らに仕事のやり方やルールの守り方は叩き込んでも、『本当の恋愛』なんてものは誰一人、何一つ教えちゃくれんのや。あいつらは綺麗事の安全圏から『自然な出会いが一番』だの『自分を磨けば王子様が現れる』だの、無責任な呪い(バグ)を振り撒くだけや。
そんな世間に付き合う必要なんか1ミリもない」
ひややっこは一歩、鳥居の影から踏み出し、大岩山の漆黒の闇を指し示した。
「まだ胸の奥に燻っとる淀みがあるなら、まだ叫びたい理不尽があるなら、この真夜中の大岩山に全部捨てていけ。この山はな、お前みたいな誠実な人間が割を食わされた絶望を、全部受け止めるためにここにあるんや。
お前の生身の言葉を、俺が全部ハックして、この闇に溶かしたるわ」
その言葉に、百合の瞳から再び、今度は温かい涙が溢れ出した。
世間に隠してきた46歳の孤独、実直に生きるほどバカを見てきた悲哀。
そのすべてを今度こそ完全に「完全損切り(ロスカット)」するために、百合は再びひややっこの前へと歩み寄り、唇を開いた――。
おまけ2:水槽のぞき込む夜 ・完




