65 貴方がそばにいるから大丈夫よ
日曜日の今日、俺はある場所へと向かっていた。向かっている最中、俺の心臓はかつてないほど激しく鼓動していた。
別に俺自身がメインとなって、何かをすることはない。だというのに、心身ともに、緊張で固まってしまいそうだ。
「いや、俺がこんな状態でどうするんだよ。しっかりしろ」
自分の胸を軽く叩いて、自身を鼓舞する。今日、俺の役目は結梨を手助けすることだ。そんな俺が緊張で固まっていたら、どうしようもない。
改めて決意を固めていると、目的地が見えた。俺の家よりも立派で広い一軒家が見える。
心なしかその家がいつもよりも大きく見えた。
深呼吸をして、玄関のチャイムを鳴らす。少しすると、ドアが開いた。
「おかえり、和哉君」
「ただいま、結梨姉さん」
結梨は普段通りの笑顔を浮かべていた。俺よりも遥かに緊張しているはずなのに、それを感じさせないぐらいものだった。
結梨に案内されて、リビングへと入った。家の中は結梨1人だ。
「改めて言うけど、両親は昼頃に帰ってくるわ」
「ああ、分かった」
今朝SNSアプリを通じて、連絡があった。流石に俺が来て早々、結梨の両親と対面するのは避けたかった。
だから、結梨の両親が帰ってくるよりも先に俺が彼女の家にたどり着いたわけだ。
「それにしても、昨日の今日でもう言うことになるなんてな」
「だって、こういうのは早い方がいいでしょう」
俺の言葉に結梨は悪戯っぽく笑う。
昨日、俺の家でやり取りを交わした後、結梨はすぐさま両親に自分の夢を伝えることを決意した。
その決断の速さに驚きつつも、彼女の元気が戻ってきたことが何よりも嬉しかった。
「結梨姉さん、大丈夫か?」
気の利いた一言すら言えず、俺は直球に問いかけてしまった。こんなことを聞いても結梨が緊張するだけだろう。
「ええ、問題ないわ」
けれど、返ってきたのは力強さを感じる肯定だった。結梨の顔を見ると、緊張で強張っているのは見受けられず、むしろリラックスしているようだ。
どうやら結梨は俺の助けを必要とせず、自力で気持ちを落ち着かせているようだ。
「流石結梨姉さんだな」
素直な気持ちを吐き出した。思い出してみれば、昨日の時点で、結梨は立ち上がっていた。今日の時点で俺は必要ないかもしれない。
「和哉君」
そんな俺に向かって、結梨は腕を伸ばす。そして、俺の手をそっと握った。柔らかい感触が伝わると同時にあることに気づく。
「震えているのか?」
「ええ、そうよ。まだお父さん達が帰って来ていないのに震えているわ。今だって、内心どうなるか不安でいっぱいよ」
結梨の笑顔は相変わらずだ。けれど、その奥底には未だ両親への畏怖が感じられる。
「それなら、どうして、『問題ない』って、言ったんだ?」
俺の問いかけに結梨はふふっと嬉しそうに、そして、面白がるように笑う。俺としてはどうしてそんな風に笑っているのか不思議でならない。
「だって、和哉君がいるから」
そう言った結梨の顔から目を離せない。自分の中で嬉しさと勇気が湧いてくるのが分かった。
「貴方がそばにいるから大丈夫よ」
その言葉を聞いて、俺もようやく覚悟が決まった。
***
結梨の両親が帰ってきた。まずは、知里さんが、少し時間をおいて、慎也さんが帰宅した。
2人とも家に俺がいることに対して、特に驚いた反応はしなかった。俺と結梨の関係はただのクラスメイトになっているはずだが、何も思わないのだろうか。
「お父さん、お母さん、大事な話があります」
俺と結梨の両親が一通り挨拶を済ませた後、ついに結梨が口火を切った。もう後戻りはできない。ここから先は進むしかない。
「話というのはなんだ?」
「それを今からいいます。座ってください」
「その、菅田君はいいのかしら?」
知里さんは俺に向けて、訝しむような視線を送る。娘が言う『大切な話』に部外者である俺がいていいわけがない。彼女の疑問はもっともだと思う。
「ええ、大丈夫です。彼にいて欲しいので」
「……そう、分かったわ」
「結梨が決めたのなら、私も構わないよ」
「ありがとうございます。失礼します」
結梨の両親の許可が下りて、俺も席に着く。結梨の隣に俺が座り、テーブルを挟んで、知里さんと慎也さんが座っている。
「それで一体どういう話だろうか?」
慎也さんの吟味するよう視線が結梨に突き刺さる。隣にいる知里さんも同じような目を向けていた。
俺に向けられているわけでもないのに、こちらまでプレッシャーを感じる。当の結梨にとっては尚更だろう。
「えっと……」
結梨の口からは言葉にならない声が漏れた。いつもはっきりと言葉にする彼女にしては珍しいことだ。
先程、結梨が言っていたことは嘘ではなかったようだ。きっと俺には想像できないほどの圧を感じているのだろう。
それなら、俺の出番だ。俺は手を伸ばして、結梨の手を優しく握りしめる。
その瞬間、結梨は顔を上げる。そして、目の前にいる両親を見つめる。
「私の将来のことです」
その言葉が届いた途端、俺の手を握り返す感触があった。
「……確かに結梨ももう高校2年生だ。そろそろそういう話も考えていかないといけないだろう」
慎也さんは相変わらず感情が分からない表情を浮かべていた。
「私の時も今の結梨ぐらいの年齢だったわね」
知里さんは頬にそっと手を添えて、そう言った。結梨ならもう将来の夢が決まっているのも当然だ。そんなことを言われた気がした。
「それで具体的に聞いてもいいかしら? 貴女がこの先のことをどう考えているかについて」
「親として聞いておかないといけないな」
2人は声を張り上げているわけではない。それでも、リビングには緊迫した雰囲気が漂っていた。
下手な答えは許さない。そう言っているようにも聞こえる。
「私は……」
結梨の声は震えていた。今握っている手からもその震えが伝わる。俺が手を握る力を強くしても震えは収まらない。
「結梨」
彼女を呼ぶ声がリビングに響き渡った。その声は慎也さんでも知里さんでもなかった。
「和哉君」
俺の呼びかけに結梨はこちらを振り向いた。彼女と目が合った。そして、俺は頷いた。
結梨の両親の前でできる精一杯のことがこれだった。俺の気持ちが十分に伝わったかどうか分からない。
そんなことを考えていると、結梨は優しく微笑んだ。
「ありがとう」
その言葉を言われた瞬間、こういう状況なのに、俺は嬉しさを感じてしまう。
結梨は顔を再び彼女の両親へと向けた。その顔は真剣そのものだった。握っている手から震えはもう伝わらない。
「私は将来保育士になりたいです」
結梨の口から確かに飛び出した。間違いなく結梨の両親に届いたはずだ。
結梨も俺も慎也さん達の言葉を待った。伝えることができた。あとは慎也さんと知里さんが何を言うのか。
永遠と思われた沈黙は突然破られた。
「そうか」
慎也さんは一言そう言った。その言葉に込められている意味は正直よく分からなかった。了承したのかただ相槌を打っただけなのか判断に迷う。
表情から読み取ろうとしたが、相変わらず感情が読めない。隣にいる知里さんも同様だ。
「一応確認しておくが」
困惑していると、慎也さんから言葉が発せられた。俺と結梨も何を言われるのか身構える。
「それは結梨が決めたことなのか? まさか菅田君から言われたことではないだろうか?」
「ええ、私もそこは気になるわ」
「え?」
2人から言われた意味が飲み込めなかった。やっとのことで意味を理解した瞬間、俺の心は愕然とした。
慎也さん達は怪しんでいるのだ。結梨が今言ったのは、俺が唆したことだと疑っているのだ。そう考えたから、あんなことを聞いたのだ。
それを自覚した途端、頭の中が熱くなった。一体結梨の決意を何だと思っているのか。結梨がどれだけの葛藤と迷いの末、今の結論を出したのか。
頭だけでなく、体まで熱くなってきた。思わず口を開こうとした瞬間である。
「それは違います。確かに和哉君が私の背中を押してくれましたが、私が決めたことです」
結梨は悠然とした態度で両親からの質問に答えていた。初めて慎也さん達と会った時の彼女の姿はどこにもなかった。
結梨の声を聞いていると、体中が落ち着いてくるのを感じる。
「結梨さんの言う通りです。俺は手助けをしただけです」
「私は彼に会う前から、保育士になりたいと考えていたわ」
結梨の畏まった口調が崩れていく。それはいつも俺と接しているのと同じ態度だった。
「お父さん達の期待とは違うかもしれないけど、それが私の夢なの」
結梨はそう言い切った。自分自身の言葉で、そう両親に伝えたのだ。
「分かった」
慎也さんの口からそう聞こえた途端、驚きが俺の体を巡った。
「いいのかしら?」
「結梨が決めたことなのだろう? それならば、私が反対する理由は何もない」
「お母さんもそう思っているの?」
結梨は知里さんに水を向けた。知里さんは優しく微笑んだ。その笑顔は結梨とよく似ていた。
「ええ、お父さんの言う通りよ。結梨がそう決めたのなら、私からも何も言うことはないわ」
俺の心に安堵感が広がるのを感じる。結梨の夢が両親から認められた。体中から喜びが溢れでそうだ。
「菅田君、先程は、君に失礼な疑いを向けてしまい、申し訳ない」
「ええ、いくら結梨が心配でもやり過ぎたわ」
「いえ、元はと言えば、俺がここにいるのが原因ですし」
慎也さん達に謝罪されて、かえって俺の方が罪悪感を覚える。冷静になった頭で考えてみると、夢を話す娘の隣に部外者である俺がいるのだ。
邪推してしまうのも不思議ではない。
「私のことが"心配"って、言ったかしら?」
結梨の声が聞こえてくる。隣に目を向けると、驚愕な顔をしていた。
「それはそうだろう。子供のことを心配しない親がどこにいる?」
慎也さんは当然のごとくそう言った。その顔は嘘を言っているように見えなかった。
けれど、言われた当人とはそう思わなかったようだ。
「けど、昔からお父さんとお母さんは褒めたことがなかったじゃない! それなのに、どうして……」
結梨はかつてないほど声を張り上げる。自分の両親に対して明らかに不信な目を向けていた。
娘からの視線に慎也さんと知里さんは目を見開いた。そして、2人とも互いの顔を見合わせる。
「そうだったか……」
慎也さんは一瞬だけ目を閉じた。再び目を開いた時、結梨を見つめていた。知里さんは目を伏せている。
「結梨がそう思ってしまったのは、私達が原因だ。済まない」
そう言って、結梨に向かって、頭を下げた。




