60 そう言ってくれて嬉しいわ
「貴方に話したいことがあるの」
結梨からそう告げられた途端、心臓がドクリと跳ね上がる。俺と彼女の間には緊張感が漂っていた。これは大事な話をする前に感じる空気だった。
「何の話だ?」
できるだけ声を震わせないようにした。俺まで緊張していては、結梨が話しにくいと思ったからだ。
きっとこれから彼女は重要な話をするのだろう。その確信があった。何故なら。
「そんなに身構えなくて大丈夫よ」
結梨は俺を安心させるように笑顔を浮かべていた。けれど、その身に纏う雰囲気はあることを思い起こさせる。
「別に大した話じゃないわ」
何故なら、俺が結梨に秘密を告白した時と全く同じ雰囲気だったからだ。
「分かった。ちゃんと聞くよ」
俺は結梨と向き合い、話を聞く体勢を作る。この決断をするために、彼女の中でどれだけの葛藤があったのだろう。どれだけ良い想像も悪い想像もしたのだろう。
それでも、こうして結梨は俺に話そうと決めた。秘密を明かす相手として俺を選んでくれた。それが何よりも嬉しかった。
「私には将来の夢があるの」
結梨は真剣な表情で話し始めた。幸い俺たちの周りには誰もいない。誰かに聞き耳を立てられる恐れもない。
「夢か……」
「和哉君は考えたことがあるかしら?」
「いや、ないな。さっきも言ったけど、手芸はあくまで趣味として楽しんでいるだけだし」
「ふふっ、貴方らしいわ」
そう言って、結梨は柔らかく笑う。けれど、すぐさま表情は一変する。またしても真剣な顔に戻る。
「私、将来なりたい職業があるの」
「それは一体どんな職業なんだ?」
「それは……」
結梨は不意に口を噤んだ。彼女の瞳に迷いが見られる。結梨の考えていることが伝わってくるようだ。
これを言っても大丈夫だろうか。幻滅されてしまうのではないだろうか。裏切られてしまうのだろうか。
そんな後ろ向きな考えが痛いほど伝わってくる。だって、俺も秘密を打ち明ける時、同じように悩んでいたからだ。
「大丈夫だ、結梨」
俺は目の前にいる姉の、大切な人の手を取った。俺に手を握られた結梨と目が合った。
「俺はちゃんと聞いている。結梨の好きに話せばいいさ」
言葉に力と祈りを込めて、結梨に伝える。かつて俺が言って欲しかった言葉が彼女に勇気を与えてくれますように。無事に踏み出せますように。
俺は結梨の手をそっと握りしめた。俺のこの想いを伝わるように握りしめた。
結梨は目を見開いたまま、俺を見つめていた。やがて、明るい笑顔に変わった。
「ありがとう、和哉君」
俺の手の上にさらに結梨の手が重なる。そして、今度は彼女の手が俺の手を包み込んだ。
俺と結梨はお互いを見つめ合っていた。そうしていると、心が温かくなっていくのを感じる。
「私はね、保育士になりたいのよ」
そして、結梨はついに俺へ告げたのだった。恐らく今まで誰にも喋ったことがないであろう秘密を。
***
「昔から頼りになる大人に憧れていた」
結梨は遠くを見つめていた。恐らく彼女の頭の中では過去の出来事を思い返しているに違いない。
「優しく導いてくれて、相談に乗ってくれて、そして、いつも温かく見守っていてくれる。そんな大人になりたかった」
「良い人達に恵まれたんだな」
「ええ、そうよ。静香姉さんや保育園の先生、学校の先生達に出会えて良かったわ」
結梨は幸せそうに微笑んでいた。それは宝物を語る子供のように見えた。
「私のイメージと違うでしょう?」
そう言った結梨は笑顔のままだった。けれど、先程よりも翳っていることは分かる。そして、その言葉を聞いて、結梨がこれまで誰にも話したことがない意味を理解した。
「確かに意外だったよ。結梨姉さんはもう少し、こう、お堅い仕事に就くのかと思っていたから」
「まあ、そうよね……」
結梨は目を伏せた。その顔を見て、俺の心に痛みが走る。
俺は深呼吸をして、目の前の彼女に向き合う。
「けれど、保育士も姉さんに合っていると思う」
「え?」
結梨は顔を上げた。その目には光が戻っていた。じっと俺を見つめていた。
「だって、面倒見が良いし、教えるのも上手い。あとはまあ、上手くできたら、褒めてくれたりもするしな」
球技大会の後のことを思い出して、俺は指で頬を掻いた。一方の結梨は呆気に取られた顔をしている。
「本当にそうかしら?」
「学や西村、クラスの女子と接している姿を見れば、分かるよ。俺が保証をする」
精一杯言葉にして伝える。自分の秘密を話してくれた彼女に対して報いるために。
「結梨姉さんはきっと良い保育士になるよ」
結梨が子供達に囲まれた姿を頭の中で想像する。きっと子供1人1人に対して親身になって接してくれるに違いない。
弟となった俺に対してそうしてくれたように。そう考えると全く違和感はなかった。
俺の言葉に結梨は再び顔を伏せた。それを見た途端、俺の心はざわついた。
「悪い。何か変なことを言ったか?」
「違うわ」
結梨はゆっくりと顔を上げる。そして、俺は目の前の光景に目を奪われていた。
結梨は顔を赤くしていた。今はまだ日中だ。つまり、夕日に照らされて、赤くなっているわけではない。
「その、和哉君の言ったことが嫌だったわけではないの。むしろ、そう言ってくれて嬉しいわ。だからこそ」
結梨は腕を顔の前に持ってきた。そうすることで、彼女の顔が俺から遮られた。
「想像以上に嬉しすぎて、顔が緩んでしまうわ。だから、落ち着くまで、ちょっと待ってちょうだい」
そう言った後、結梨は静かになった。そして、俺達の間に沈黙が走る。
結梨の顔は未だ見えない。耳が赤くなっているのは分かるが、どんな表情を浮かべているのか分からない。
けれど、この状況は好都合だった。何故なら、俺もまた顔が真っ赤になっているに違いないのだから。
姉の、好きな子の新たな魅力を真正面に浴びて、俺の心はかつてないほど高鳴っていた。頬は緩みっぱなしだ。
「分かった。待つよ」
そう返事をするだけで精一杯だった。
***
「今日は楽しかったわ」
「俺もだよ。誘ってくれてありがとう」
海からの駅までの帰り道を一緒に歩く。お互い先程までとは違い、普段通りに戻っていた。
自分の顔は確認していないが、心臓の鼓動は平常運転だから、大丈夫だろう。
「和哉君、さっき言ったことは」
「わかっている。誰にも言わないよ」
俺がそう返事をすると、結梨はホッと息を吐いた。秘密を明かしてくれた結梨に誓って他人に喋ることはしない。
そこまで考えて、どうして、結梨が俺との関係を他の人に黙っていてくれてたのか今更ながら理解した。
「けれど、1つ聞いていいか?」
「何かしら?」
「さっきのことって、誰かに話したのは初めてなのか?」
「……ええ、そうよ」
結梨の顔が強張ったのも見て、俺は自分の失敗を自覚した。
結梨は人に話すこと自体初めてだと言った。つまり、俺以外に話したことはない。ここから考えるに。
「悪い。変なことを聞いた。忘れてくれ」
「私は平気よ。和哉君の想像通り、両親に話したことはないわ」
「そうなのか……」
結梨の言葉に俺が言葉を失った。彼女と両親との間に何かしらの溝があるとは気づいていた。けれど、そこまでとは思わなかった。
「安心してちょうだい。別に虐待とかはされてないわ」
空気が重くならないように、結梨は明るく笑った。けれど、その笑顔はどこかぎこちなく感じる。
「流石にそこまでは思ってないが」
「けれどね、両親は私に"期待"していると思うの」
「期待?」
俺の問いかけに結梨は髪を耳の上にかきあげる。
「ええ、そうよ。2人ともお堅い仕事に就いていてね。弁護士と公務員なのよ。だから、私も将来同じような職業に就いて欲しいと思っているに違いないわ」
そう言って、結梨は寂しそうに笑う。
結梨と親の関係はよく知らないし、そもそも口出ししてはいけないと分かっている。
けれど。
「それでも、俺は結梨姉さんが保育士になれるって応援しているよ」
「ありがとう、和哉君」
そう言って、結梨は優しく微笑んだ。
***
駅まで着いた俺と結梨は乗る電車を探した。見つけた電車は発車するまで時間がかかりそうだった。
結梨に断って、トイレに行くことにした。
「まさか、結梨が親との関係があるなんてな」
トイレから待ち合わせ場所に戻る最中のことだ。
「一体どうすれば、ん?」
待ち合わせ場所にある光景が広がっていた。結梨の他に男2人が彼女を取り囲むようにしていた。その光景にどこか既視感を覚える。
……まずい。俺は結梨の元へ急ぐ。近くまで来たせいか3人の会話が耳に届くようになった。
「ですから、私は連れがいるので」
「そう固いこと言わずにさ、俺たちと一緒に遊ぼうよ」
またしても結梨が見知らぬ男達にナンパされていた。




