59 お姉ちゃんとお出かけしましょう
テスト終了を告げるチャイムが教室に響き渡る。俺はペンを置いて、大きく伸びをした。
最後のテストが終わり、心身ともに軽くなった気がする。今回のテストは特に力を入れていたから尚更だ。
「じゃあ、俺は部活に行ってくるから」
「ああ、いってらっしゃい」
部活に行く学を見送った後、俺は帰る支度をする。日はまだ高く、正午すら訪れていない。なんだか不思議な気分だ。
さて、どうするかと考えていると、スマホから通知音が鳴った。スマホを起動すると、SNSアプリから新しいメッセージが届いたことを告げる通知だった。
画面には差出人とメッセージの内容が表示されていた。
『結梨:今からお姉ちゃんとお出かけしましょう』
それを見た途端、とても心と体が軽くなった。先程まで感じていたテストの疲れはどこへ飛んでいってしまった。
***
学校からの帰り道、結梨といつもの公園で合流した。いつも通り駅までの道のりを一緒に歩く。
「それで、どこに行くんだ?」
「ふふっ、それは内緒よ」
結梨は楽しそうに笑っている。その様子からすると、よほど楽しみに違いない。俺も内心ワクワクしながら、駅へと向かう。
駅に着くと、登下校の時よりは人がまばらだった。その光景を眺めていると、今が非日常なことだと思わされる。
結局、結梨から教えられないまま、駅に着いてしまった。一体どこに出かけるというのか。
そんなことを考えていると、袖を引っ張られる感覚がある。隣に顔を向けると、結梨が俺の袖を掴んでいた。
「和哉君、こっちよ」
結梨は俺の裾を掴んでいない方の手でどこかを指差していた。俺は彼女の指先を追う。
「えっ? 本当にそっちなのか?」
「ええ、もちろんよ」
結梨は俺の裾をクイクイ引っ張る。引っ張られる度に俺の心もますます惹かれてゆく。
「早く海に行きましょう」
そう言って、結梨は子供のように無邪気に笑った。
***
目の前には夏らしい光景が広がっていた。透き通るような青い空、眩しいほどの白い砂浜、そして、雄大に広がる紺碧の海。それだけでまるで絵画のようか風景だが、それだけではなかった。
「和哉君、こっちよ」
その絵画の中に、明るいベージュ色の髪をした結梨がいた。学校での大人びた雰囲気とは違い、満面の笑みを浮かべている。その笑顔は空に浮かぶ太陽に負けないほど輝いている。
結梨は今海の浅瀬にいた。濡れないようにスカートを普段よりも少し上げているため、真っ白に光り輝く足が見えていた。さらに、靴や靴下も脱いでいる。
「お姉ちゃんのところに来ないの?」
そう問いかけた結梨は頭に麦わら帽子風のサマーハットを被っていた。以前俺が送ったものだ。
「誰かが荷物を見てないといけないだろ」
一方の俺は少し離れた砂浜にいた。俺の足元には俺と結梨の鞄が置いてある。
「今、砂浜には私達以外誰もいないから大丈夫よ」
結梨の言う通り、俺と彼女以外誰もいない。恐らく平日の昼間で、さらに、海開きにはまだ早いからだろう。
そのお陰もあって、まるで結梨と2人で無人島にでも流されてしまった気分である。
「まあ、いいか」
改めて周囲を見回して、人がいないことを確認する。そして、結梨に倣い、靴と靴下を脱いだ。
裸足で砂浜を歩く。足を取られそうになるのをなんとか堪えて、海へ、すなわち、結梨の元へと駆け寄る。
海の中に入ると、海水の冷たさがダイレクトに伝わってくる。それでも心地よさを感じる冷たさだった。
「ようこそ、いらっしゃい」
結梨は海の女神のような笑顔を浮かべていた。至近距離でその笑顔を浴びてしまい、心臓が跳ね上がる。
「ご褒美って、海のことだったのか?」
「ええ、そうよ。来て良かったでしょう」
「久しぶりに来たけど、楽しかったな」
ここに来たのは昔家族で来たのが最後だ。それ以来のため、とても新鮮な気分だ。
「結梨姉さんも楽しそうだな」
「もちろんよ。だって、海なのよ。それも和哉君と2人占めの海だからね」
結梨はとても心臓に悪いことを言い放つ。潮風が俺たち2人の間を通り抜ける。
「本当だったら、海で泳いでみたいのだけれど」
「それは流石に寒くないか? 第一制服のままはまずいだろ」
「確かにそうね。それだったら、海開きの後、またお姉ちゃんと行きましょう」
「ま、まあ、姉さんがそう言うなら」
サラッと好きな子と海に行く約束をしてしまった。まさかの幸運な出来事である。
「私が泳ぎ方を手取り足取り教えてあげるわ」
結梨としてはただの姉心からくるものだろう。けれど、そんなことを言われては思わず想像せざるを得ない。結梨と2人で海へ遊びに来ている光景を頭に思い浮かべる。
濡れてもいいように、俺と彼女は水着を着て……。
「その時はお手柔らかに頼む」
顔を逸らしながら、結梨に返事を返した。何やら変な想像をしてしまったせいで結梨の顔を直視するのが気恥ずかしい。
「ええ、楽しみにしているわ」
結梨は輝くような笑顔を浮かべていた。
***
俺と結梨は海から上がり、砂浜へと戻ってきた。鞄を回収すると、今度は砂浜を歩き、海岸から脱出する。
その後は洗い場で足についた砂を落とす。
「はい、和哉君。タオルよ」
そう言って、結梨から渡されたのは、パスカルカラーのタオルだった。
「ありがとう、結梨姉さん」
礼を言って、俺はタオルを受け取った。濡れた足をタオルで拭き取る。
「えらく準備がいいな」
同じくタオルで足を拭いている結梨にそう声をかけた。どうやらタオルは俺と結梨の2枚あったらしい。
「こういう事態に備えて、持ってきたのよ。無事に使うことになって良かったわ」
結梨はしれっとそう俺に告げる。恐らく彼女は家を出る前から海に行こうと計画していたに違いない。我が姉ながら中々の策士である。
「ちょっと休憩しましょうか」
そう言って、結梨が指差したのは洗い場のほど近いところにあるベンチだった。
「まあ、そう急いで帰る必要もないしな」
本当のところ、結梨ともう少しいたいと考えていたので、彼女からの提案は僥倖だった。
俺達はベンチまで歩いていき、腰掛ける。ベンチは2人が座るにはちょうどいいサイズだった。
いや、むしろちょうど良すぎるかもしれない。何故なら、少しでも距離を離すと、ベンチから落ちそうになる。すなわち、必然的に結梨との距離を縮めることになる。好きな子と密着してしまう。
「和哉君、テストの手応えはどうだったかしら?」
「自分で言うのもあれだけど、結構良かったと思うぞ。過去最高の成績かもしれない」
結梨のマンツーマンの指導や彼女がご褒美をちらつかせたお陰でかつてないほどモチベーションが上がっていた。
そんなことを正直に言えないが。
「それは良かったわね。お姉ちゃんも誇らしいわ」
結梨は胸を張っていた。相変わらずの姉らしさである。
「それにしても暑いな。結梨姉さんは大丈夫か?」
恥ずかしさを誤魔化すように、俺はパタパタと手で扇いだ。
「和哉君が作ってくれた帽子のお陰で暑くないわ」
そう言って、結梨は帽子の庇をくいっと持ち上げて、得意そうに笑う。その笑顔は今日の太陽よりもずっと眩しい。
「そう言ってくれたなら、作って良かったよ」
両親以外から手芸を褒められるのは子供の時以来だ。それがどうしようもなく嬉しく感じる自分がいる。
「和哉君は将来手芸に関する仕事に就くのかしら?」
「え? それはどういうことだ?」
思わず姉からの問いを聞き返してしまった。隣にいる結梨に目を向けると、雑談というには、やけに真剣な顔を浮かべている。
「と、とりあえず手芸は趣味だから、仕事にするかどうかは考えていないな」
自分が作る作品がどの程度かなんて分からないし、それで生活できるかどうか考えたこともなかった。俺はただ自分が作りたいと思ったものを作っているだけだからだ。
「そうなのね」
そう返事をした結梨は、目を伏せていた。その反応を見ると、何か言わずにはいられない自分がいた。
「まあ、俺はこう言っているけど、好きなことを仕事にしてもいいんじゃないか? そうした方が仕事も頑張れるかもしれないし」
俺は思いつくままのことを喋った。俺の言葉を聞いた結梨は顔を上げる。
「そうよね」
そう言った彼女は優しく微笑んでいた。そして、また、俯いてしまった。
俺と結梨の間に、沈黙が漂う。海の方から波の音が聞こえてくるぐらいの静けさだ。
今日はもうこのまま解散だろうか。日はまだ高いが、目的は果たしたし、いつまでもここにいるわけにはいかない。
そう頭でわかっていたとしても、心では結梨といたい気持ちが残っている。
「ねえ、和哉君」
その声は普段と声色が違った。普段が太陽のように明るいものだとしたら、それは夜みたいに暗く影っている感じだ。
「なんだよ?」
「貴方に話したいことがあるの」
そう言った結梨の瞳が揺れたのを俺は見逃さなかった。




