55 お姉ちゃんの労いを受け入れなさい
6月は雨が多い。梅雨だから当然と言えば、当然のことだ。
今日も今日とて雨が降っている。昇降口にいた俺は外の風景を眺めていた。
「今日は……、ちゃんとあるな」
鞄の中から折りたたみ傘を取り出す。いつぞやのように傘を忘れるなんていう失態は繰り返さない。
傘を開き、昇降口から出ようとしたその時である。
「和哉君」
どこからか女子の声がする。と言っても、この学校で俺をそんな風に呼ぶ女子なんて1人しかいない。
声のした方を向くと、傘を差した明るいベージュ色の髪の女子がこちらへ歩いてきていた。
「結梨姉さん? もう帰ったはずじゃなかったのか?」
周りには人がいないが、念のため声を潜めて、結梨に問いかける。
授業終わり、俺よりも早く結梨は友達と一緒に教室を出ていた。だから、学校にいるはずがないと勝手に思い込んでいた。
「実は友達が急用で先に帰ってしまったのよ」
「そうなのか。それでどうして、学校に戻ってきたんだ?」
俺が問いかけると、結梨はふふっと楽しそうに笑う。その笑顔に目を奪われてしまう。
「今学校に戻れば、和哉君に会えると思っていたの。こうして会えたからよかったわ」
とても心臓に悪いことを言いながら、結梨は俺に楽しそうな顔を向ける。
「せっかくだから、お姉ちゃんと一緒に帰りましょう」
相変わらず俺に対しては弟としか見ていない。男として意識されていないのは分かる。
それでも俺はこの幸運に感謝を捧げた。しばらくの間品行方正に努めようと誓った。
***
傘を差して、結梨と並んで道を歩く。傘があるため、いつもより俺と彼女の距離は空いているが、それでも心が弾むことには変わりがない。
「そういえば、そろそろテスト週間ね」
結梨の言う通り、6月には期末テストが控えている。1学期を締めくくる大事なテストだ。
「そうだな。もうそんな時期か」
「和哉君は大丈夫?」
「まあ、ぼちぼちだ。この前のテストは結梨姉さんのお陰でいつもより成績はよかったな」
過去最高といってもいいほどの成績だったことは覚えている。両親から褒められたぐらいだ。
「それは良かったわ。それだったら、また勉強会でもする?」
「姉さんが負担じゃなければお願いするよ」
「私は貴方のお姉ちゃんよ。勉強を教えるぐらい全く負担じゃないわ」
結梨は胸に手を当てて誇らしそうにしていた。相変わらず堂々とした態度である。
「沙優や田口君も来るかしら?」
「絶対に来るだろうな」
あの2人も中間テストの時は良い成績を取れたと喜んでいた。それも間違いなく結梨主催の勉強会のお陰だろう。
そう考えれば学と西村が誘いを断る理由がない。特に学には最近相談に乗ってもらっていることが多いため、俺だって何か恩返しをしたいと考えている。
「俺から2人に言ってみるよ」
「ええ、お願いするわ。勉強会は私に任せてちょうだい」
結梨は背筋を伸ばして、胸を張った。中々頼もしい風格のある姉だ。結梨は面倒見がいいのかもしれない。
「また賑やかで楽しそうね」
「全くだ。ちゃんと見ておかないと、あいつらはすぐに脱線するから気をつけないとな」
2人の勉強を見ていた時のことを思い出す。一方の結梨は覚えがないのか首を傾げていた。
彼女の反応を見た瞬間、前回の勉強会は勉強が滞りなく進むというまさか?の事態だったことを思い出した。
「みんなでやるのもいいけど」
ふと結梨が口にする。俺は傘を持ち上げて、結梨の顔を見つめた。
「和哉君と2人で勉強するのもいいかもね」
そう言って、同い年の姉は優しく微笑む。その笑顔は雨模様だと忘れてしまうほど輝いて見えた。
「俺もそう思う。結梨姉さんに勉強を見てもらいたい」
俺の口から自然とそんな言葉が飛び出した。前回の勉強会では結梨は主に学と西村の面倒を見ていた。
今回も同じ事態に陥る恐れがある。そう考えると、結梨に教えてもらう時間は多くないかもしれない。
それは惜しいと思った。結梨ともっと一緒にいたいからだ。
「ええ、ぜひそうしましょう。和哉君が良い点を取れるようにお姉ちゃんは力一杯頑張るわ」
「お手柔らかに頼むよ」
妙にやる気を見せる結梨を俺は微笑ましく思った。
「もうすぐ駅ね」
結梨の言葉に俺は視線を前方に向ける。姉の言った通り、目の前にはいつもの駅が見えていた。
「あっという間だったわ」
「……そうだな」
俺は心の底から同意した。楽しい時間が過ぎるのは早いと言うが、それにしては早過ぎる。まるで学校から駅までの道が縮んでしまったように感じられた。
そんな想いを抱えているうち、駅の構内へと足を踏み入れる。
俺と結梨は傘を閉じて、向き合った。
「それじゃあ、和哉君。また明日ね」
優しく笑うと、結梨は俺から背を向けた。俺と彼女は別々の電車に乗るから、その行動は当たり前のことだ。けれど、俺はその遠ざかっていく背中に声をかけずにいられなかった。
「結梨姉さん」
「何かしら?」
俺の声が聞こえたのか、結梨はくるりと俺の方を振り返った。
今日の電車は通常通り運行している。あとは家へ向かう電車に乗り込むだけなのに。それなのに。
「家まで送るよ」
どうしても結梨ともう少し一緒にいたかった。建前や口実なんてかなぐり捨てて、俺は自分の気持ちを素直に伝えた。
「ええ、お願いするわ」
俺の言葉に結梨は柔らかく微笑んだ。空は雨模様だと言うのに、俺の心は晴れ渡った空のような気分になった。
***
「さあ、いらっしゃい」
「お邪魔します」
何度目かにもなる結梨の家へ足を踏み入れた。結梨を家まで送るつもりがこうして家の中まで招かれてしまった。
「家の中まで上げてもらって悪いな」
「気にしなくてもいいわ。頑張った弟を労るのはお姉ちゃんの使命よ」
「頑張ったなんて大袈裟な。家まで一緒に来ただけだぞ」
大体結梨ともう少し一緒にいたいという俺の希望から始まったことだ。褒められることは何1つないだろう。
「そんなことはないわ。和哉君といたお陰で家までの帰り道が楽しかったもの」
そう言って笑う結梨の顔は真っ直ぐなものだった。そこに世辞は見当たらない。
「まあ、楽しんでもらえたようで何よりだ」
気恥ずかしさと嬉しさを誤魔化すように俺は顔を逸らした。
リビングに案内された俺はソファで寛いだ。俺の隣を部屋着に着替えた結梨が座った。
「天気予報によると時間が経てば、雨が止むみたいよ。それまでゆっくりしてちょうだい」
「お言葉に甘えさせてもらうよ」
「何なら夜ご飯も食べていくかしら? 和哉君の部屋着もあるわよ」
「おい、待て。俺を泊めようとしているだろ」
甘い誘惑を必死に抗う。このまま姉の提案を受け入れてしまったが最後、この家のベッドに寝ることになるだろう。
「明日も学校なんだ。あまり遅くならないうちに帰るよ」
「それじゃあ、ゆっくり休めるようにお姉ちゃんが膝を貸してあげるわ」
「だから、話を聞いていたか!?」
結梨が膝をポンポンと叩く。凄まじく魅力的な誘いだが、俺の理性はなんとか持ってくれた。もう少しで決壊しそうだけれど。
「私だって家まで送ってくれた和哉君に何かしてあげたいの。お姉ちゃんの労いを受け入れなさい」
「何だ、その妙な脅しは。……じゃあ、姉さんの作ったご飯が食べたい」
「ええ、分かったわ!」
俺の言葉に結梨は素早く立ち上がる。そのあまりの早さに俺はびっくりしてしまう。
そのまま結梨はキッチンへ向かうとしたが、足を止めて、こちらを振り向いた。
「けれど、私の家で夜ご飯を食べていいのかしら? ご両親に連絡した方がいいと思うのだけれど」
「生憎、今日は親が帰るのが遅くてな。元々1人で食べる予定だったんだ」
俺は家の事情を白状した。一応弁解すると、結梨から脅迫?される前までは自分の家で食べるつもりでいた。
けれど、姉からの圧力によってそんなことはどうでも良くなった。
好きな子の手料理が食べられるという誘惑に屈せざるを得なかった。
「それなら大丈夫そうね。今から作ってくるから待っていてね」
「いや、俺も一緒に作るよ」
ソファから立ち上がり、結梨の隣に並ぶ。結梨は嬉しそうな顔で俺を見ていた。
「ええ、お願いするわ」
「ああ、任せてくれ」
俺と結梨は並んでキッチンへと向かった。
***
夜ご飯を食べ終えて、片付けも済ませた。そんな夕食後の団欒の時だ。
「そろそろ雨も止んできたかな」
スマホで天気予報アプリを開き、雨雲レーダーを確認する。それによると、この辺りの雨雲は通り過ぎたようだ。
「それじゃあ、もう帰るよ」
「ええ、分かったわ。……やっぱり、お姉ちゃんが家まで一緒に行ってもいいかしら?」
「それだと俺が家に送った意味がないだろ」
結梨が俺の家に来るという誘惑を必死に耐える。流石にそこまでお願いするわけにはいかない。
「分かったわ。ちゃんと和哉君が帰るのを見送るわ」
「そう思うなら、そんなに寂しそうな顔をするなよ」
決意が揺らいでしまいそうになってしまう。これ以上気持ちが変わらない内に帰ろうとした瞬間だった。
「ただいま。あら、お客さんでもいるのかしら?」
聞き覚えのない声が玄関から聞こえてくる。知らない女性の声だと思ったその時だ。
「結梨、お友達でも来ているの?」
そう言って、女性がリビングへと入ってきた。見知らぬ人だと思っていたが、違った。
結梨とよく似た顔立ちの女性は俺のことを不思議そうな顔で見つめていた。
静香さんよりも年上で、彼女よりもさらに結梨に似ていた。
「お母さん……」
ポツリと結梨が呟いたのを俺は聞き逃さなかった。




