46 私の弟なのだから当然じゃない
「お邪魔します」
「そこはただいまでも大丈夫よ」
もう何度目かになる結梨の家に足を踏み入れた。けれど、この時間帯でこの家にお邪魔するのは初めてのことだ。
時刻は夕方から夜へと変わる頃だ。普段ならとっくに家に帰っている時間である。
それなのに、自分の家ではなく、結梨の家にいるのは理由がある。
事故によって俺の乗る電車が止まってしまった。話し合いの結果、今夜はこの家に泊まることになった。
「本当に悪いな。こんなことになるなんてな」
「そう気を遣わなくてもいいわ。和哉君は私の弟なのだから当然じゃない」
申し訳なさを感じている俺とは対照的に結梨は浮かれているようだ。前を歩く姉の足取りが軽いことからそれが伝わってくる。
楽しそうな結梨の後ろをついていくと、不意に彼女がこちらを振り向いた。
「和哉君も部屋着に着替えた方がいいわね。制服のままだと大変でしょう?」
「お構いなく。というか、俺の着る服なんてあるのか?」
結梨は1人っ子で、兄弟もいないと聞いている。流石に同い年である姉の服は物理的にも心情的にも着ることはできないだろう。
「安心してちょうだい。こんな時のために和哉君が着る服も用意してあるから」
「初耳なんだが」
「備えあれば憂いなしというやつね」
「その諺の使い方で合っているのか?」
俺のツッコミに結梨は楽しそうに笑う。俺の家に泊まりに来た時と同様のテンションである。
果たして、俺は今夜無事に寝ることはできるだろうか。
「ご両親には連絡したかしら?」
「ああ、さっき連絡しておいたよ」
両親も事故により電車が止まってしまい、中々帰れない状況らしい。俺のことを心配する連絡が来ていた。
「なんて連絡したの? お姉ちゃんの家に泊まるから安心してという感じかしら?」
「そんなこと言うか! 友達の家に泊まることになったと言っておいたぞ」
未だ俺と結梨の関係を知らない両親に真実を告げたら、俺の両親は腰を抜かすほど驚くだろう。
だから、適当なことを連絡しておいた。まあ、あとで学と口裏を合わせれば、大丈夫だろう。
「私が和哉君のご両親に挨拶したかったのに」
結梨は不満そうに口を尖らせる。どうやらまだ俺の両親に挨拶することを諦めていなかったらしい。
「それは悪かったと思っているよ。こうして家に泊めてくれたからな」
実際結梨がいなかったら、今頃俺は途方に暮れていたところだろう。そう考えると、クラスメイトである姉に対して罪悪感を覚える。
「その代わりといってはなんだが、両親が家にいる時、我が家に来ていいぞ」
「本当かしら?」
俺の言葉に結梨は顔を輝かせて、距離を詰めてきた。それまるでおもちゃを買ってもいいと言われた子供のようだった。
「あ、ああ。ウチの親は忙しいから、いつになるか分からないけどな」
至近距離で見る結梨の整った顔立ちにドキドキしながら、そう答える。
「それでも大丈夫よ。ふふっ、何を持って行こうかしら?」
そう言って、結梨は再び前を向いて、歩き出した。なんだがスキップしそうなほどの足取りである。
「待て、俺の家に来る時何を持っていくつもりだ?」
「大切な和哉君のご両親との初対面よ。お姉ちゃんとして恥ずかしいないように、高級な和菓子でも持っていくわ」
「そんな仰々しいことをしなくていいわ! 普通で大丈夫だぞ」
「なるほどね。普通にお姉ちゃんとして挨拶をすればいいと」
結梨は顎に手を当てて考え込むような顔をしていた。『お姉ちゃんとして挨拶』という言葉の意味は分からない。けれど、それを指摘すると、面倒くさいことになるのは予測できるため、何も言わないでおいた。
俺と結梨は階段を登り、2階に上がった。そういえば、結梨の家の2階に行くのは初めてのことだ。
2階に上がった後、廊下を歩いた先にはドアがあった。
結梨はそのドアを開く。
「今夜はここでゆっくりしてちょうだい。あんまり使わない部屋だけど、ちゃんと掃除はしてあるわ」
「十分だよ。本当にありがとうな」
案内された部屋は必要最低限のものが置いてあるシンプルな部屋だった。
「どうしてもというのだったら、私の部屋でもいいわ」
「いや、それは勘弁してくれ」
同級生である姉と同じ部屋で寝る。どう考えても緊張で寝れないパターンである。
「私と同じ部屋で寝ればお姉ちゃんの撫で撫でがついてくるわ」
「そんなお得セットみたいな言い方をするなよ。1人で寝るから大丈夫だ」
「それだったら、和哉君が寝るまで手を繋いであげるわ」
「だから、俺はそんな年ではないんだが!?」
先程から姉の猛攻が止まることを知らない。文字通りホームだから、いつもより姉パワーとやらが上昇しているのかもしれない。
「和哉君が着る部屋君を持ってくるわ」
「そこまでしてもらって悪いな」
一旦部屋から出て行った姉の背中を見送る。見送りながら、俺の心は嫌な予感に包まれていた。
これから持ってくるのはあの同級生である姉が用意したものだ。間違いなく普通のものではない。
そんなことを考えていると、姉が戻ってきた。彼女は何やら服を手に持っている。
「はい、和哉君。これをどうぞ」
「ありがとう、結梨姉さん」
俺は恐る恐る受け取ると、服を目の前で広げた。結梨が持ってきたのは紺色の部屋着だった。
どこから見ても、裏返してみても、変なところは何もない。『お姉ちゃん大好き!』だなんてものは一言も書かれていない。
「良かった。普通の服だ」
「何か言ったかしら?」
「なんでもないぞ。それにしてもよく男物の部屋着なんて買ったな」
女子が1人で男物の服を買いに行くのは中々勇気がいるだろう。動機はどうであれそのお陰で俺はこうして制服から部屋着に着替えることができる。
「心配要らないわ。だって、女性物とセットで売っていたもの」
「は?」
結梨の言葉に俺の頭の中はハテナマークで一杯になった。
「色は違うけど、私も同じ服を持っているわ。たまたま男女セットのものがあったから、買ってみたの」
「結梨姉さん、それは……」
もしかして、この姉が買った部屋着セットは恋人同士で使うものではないだろうか。思わずそんな疑念を抱いてしまう。
「そんな不思議そうな顔をして、どうしたの?」
結梨は全く俺と同じ考えに至っていないようだ。姉弟お揃いの服を着ることしか考えてないようだ。
「別になんでもないぞ。ありがとう、これにするよ」
それなら、俺もわざわざ指摘することはないだろう。言ったところで、結梨が部屋着を取り上げることはしないだろうし、俺が着る服もないからだ。
「ええ、そうしてちょうだい。私は夜ご飯を作ってくるわ」
そう言って、結梨は部屋から出て行った。俺は渡された部屋着を改めて見る。
「着替えるか」
腹を括った俺は制服を脱ぎ始めた。
***
夜ご飯を食べた後、風呂に入った。結梨の家のお風呂は我が家のそれよりも広い。けれど、人様の家のお風呂は緊張する。
「風呂、上がったぞ」
風呂から出て、リビングに入ると、ソファに座っていた結梨がこちらを振り向いた。
「おかえり、和哉君。もう少しゆっくり入ってくれても良かったのよ」
「これぐらいで十分だよ。というか、俺が1番風呂でいいのか?」
「別に構わないわ。次は私が入るわね」
「ああ、いってらっしゃい」
俺の言葉に結梨は優しく微笑んだ。そして、彼女はリビングから出て行った。
「何が『いってらっしゃい』だ」
俺はリビングのソファに腰掛ける。先程の言葉はほとんど無意識に口にしていた。そんな自分に驚きを隠せないでいた。
「スマホでもいじっているか」
俺はスマホを手に取ると、電子書籍のアプリで手芸関係の雑誌を読み始めた。結梨の家にいるというのに、妙にリラックスしている自分がいた。
「あら? 和哉君?」
「あっ、結梨姉さんか。おかえり」
不意に声が聞こえて、俺は慌ててアプリを閉じた。そして、後ろを振り向いた。
「ただいま。てっきり部屋に入っているものだと思っていたわ」
「まあ、挨拶もなしに寝るのは良くないと思ってな。って……」
「どうしたのかしら?」
「いや、本当にお揃いなんだなと」
結梨は既に部屋着から着替えていた。彼女が言っていた通り、今クラスメイトである姉が着ているのは俺と色違いのものだ。俺のとは対照的な暗めの赤色だった。
「ふふっ、そうでしょう? こうやって、横に並ぶと、姉弟感が増すわ」
結梨は俺の隣に腰掛ける。確かに姉の言う通り、紛れもなくペアルックである。
「まあ、そうだろうな……」
俺たちの関係性を知らない人が見れば恋人だと勘違いされるだろう。学や西村が見ても同じように考えるに違いない。
「こうやって、姉弟仲良くお揃いの部屋着を着るのが夢だったの。お姉ちゃんは嬉しいわ」
当の本人は相変わらずのようだった。
「こうやって待ってくれたのだから、やっぱりお姉ちゃんと一緒に寝たいのかしら?」
「話を蒸し返すな。だから、『おやすみ』ぐらいは言おうと思っただけだよ」
俺の言葉に結梨はクスクスと笑う。その顔は微笑ましいものを見ているかのようだ。
「何だよ?」
「いえ、こうやって、同じ屋根の下でいて、おやすみの挨拶をするなんて本当に家族みたいね」
そう言った結梨は嬉しそうに笑っている。それでいてなんだが見ているこちらが切ない気持ちになってしまう。
「当たり前だろ。俺たちは姉弟なんだから」
「え?」
結梨は呆気に取られた顔をしていた。中々珍しい表示だなと思ったその瞬間だった。俺は自分が何を言ったのか自覚した。
「あっ、いや、今のはまあ言葉の綾みたいなもので」
「そうよね、和哉君の言う通りだわ。ごめんなさいね、お姉ちゃんったら、うっかりしていたわ」
「おい、やめろ! 楽しそうに笑うな! お願いだから、忘れてくれ!」
「いくら弟でもそのお願いは聞けないわ」
俺は恥ずかしさのあまり、手で顔を覆ってしまう。耳に届く結梨の声はとても弾んでいるように聞こえた。




