33 弟をこうやって起こすのが夢だったの
「起きて、和哉君」
微睡の中、誰かの声が聞こえる。優しくてどこか聞き覚えのある声だ。
俺の体が揺れているのを感じる。どうやら声の主が揺らしているようだ。その力加減がちょうど良く俺は思わず瞼を開けてしまう。
部屋には既に朝日が差し込んで、寝ぼけ眼の俺に降り注ぐ。目の前には明るいベージュ色の髪をした姉がいた。
「結梨……? 一体どうしてここに?」
「もう、和哉君。まだ寝ぼけているようね」
俺の言葉に結梨はふふっと笑う。その笑顔を眺めている内に昨日の記憶が蘇る。
「悪い、ようやく頭が目覚めたみたいだ。おはよう、結梨姉さん。起こしてくれてありがとう」
「おはよう、和哉君。礼には及ばないわ。弟をこうやって起こすのが夢だったの」
そう言った結梨は朝の太陽よりも輝いて見えた。
***
「今日はどうする?」
結梨が作ってくれた朝ご飯を食べながら俺は尋ねた。朝ご飯は卵のサンドイッチとサラダだ。朝から美味しいものを食べられて贅沢な気分である。
「今日は買い物に行こうかしら?」
「買い物? 何を買うんだ?」
「昨日と、それに今日も和哉君の家の冷蔵庫を使うでしょう? 色々食材を買い足そうと思ってね」
「別にそこまで気を遣わなくてもいいんだぞ」
両親からちゃんと許可は取ってあるし、そもそも俺ののために料理を作ってくれているのだ。買い物まで結梨にお願いしなくてもいいだろう。
「気にしなくて大丈夫よ。私が和哉君と買い物に行きたいだけだから」
俺と買い物に行きたいと言われて、一瞬胸がドキっとする。けれど、目の前にいる姉が考えているのはおそらくいつも通りなのだろう。
「……姉弟らしいってことか?」
「その通りよ。流石和哉君ね」
俺の言葉に結梨は出来が良い生徒を褒める先生のようなことを言った。
「沙優も時々弟と一緒に買い物へ行っているそうよ。私もやってみたかったの」
「まあ、俺の家のためだし、別にいいぞ」
俺が了承すると、結梨は目を輝かせた。せっかくの連休だし、家にいてばかりなのも勿体無いだろう。
「ありがとう、和哉君。お礼にお姉ちゃんが貴方の好きなお菓子を買ってあげる」
「いや、そこまで子供じゃないんだが!?」
俺がそう言うと、結梨は真剣な顔をして、人差し指を立てた。
「けれど、お菓子は1個だけよ。お菓子の食べ過ぎは体に良くないわ」
「だから、買って欲しいなんて一言も言ってないが!」
昨夜同じ屋根の下で過ごした姉に俺はツッコミを入れた。そのお陰?もあってか、完全に頭が覚醒した気がする。
***
「それで何を買うんだ?」
「とりあえず色々見て回りましょうか」
俺と結梨は近所にあるスーパーに来ていた。ここは我が家御用達と言っても過言ではないほどの行きつけだ。結梨にそう伝えると、彼女は行ってみたいと熱望した。
「そういえば」
「どうした?」
カゴを手に持っていたら、隣を歩く結梨が問いかけてくる。カゴには同級生である姉が選んだ食材が入っている。
「和哉君のご両親は今日の何時ごろ帰ってくるの?」
「確か夜遅くだと言っていたぞ。夜ご飯も外で済ませてくるみたいだ」
「そうなのね」
俺の言葉に結梨は考え込むような顔をしていた。
「つまり、今夜も和哉君は家で1人きりということね」
「そうだな。って、おい、まさか、もう1泊するつもりじゃないだろうな?」
両親には友達が1泊することしか伝えていないため、結梨と遭遇することになったら、とても面倒くさい事態になる。それだけは避けたかった。
「そうね。そうしたいのは山々なのだけれど」
「だから、おい」
「けれど、ご両親に挨拶するのはもう少しきちんとした時の方がいいわ。だから、今日は帰るつもりよ」
「後半はまだしも、前半の内容が全く安心できないんだが」
未だ俺の親に挨拶することを諦めていなかった結梨だった。一体両親に会った時、この姉は何を言うつもりだろうか。
「和哉君、そこの醤油を取ってくれる? 確か冷蔵庫にあるのがもうすぐなくなりそうだったから」
「これだな。分かった」
俺は商品棚から見覚えのあるメーカーの醤油を手に取り、カゴに入れる。と同時にあることに気づいた。
「もしかして、これは俺の家の分か?」
「何を言っているの? 当たり前じゃない」
俺の言葉に結梨は呆れた表情を浮かべていた。
「いや、てっきり姉さんの家の分だとばかり」
俺がそう言うと、結梨はクスッと笑う。
「出かける前にも言ったけれど、今は和哉君の家の買い物なのよ」
「それだと結梨姉さんが我が家の調味料を把握していることにならないか?」
「当然のことよ。私は和哉君の姉なのだから」
結梨は胸に手を当てて誇らしそうにしていた。いつも通りのよく見かける仕草だ。
「なんか家族みたいだな」
無意識のうちにそう口を出していた。一体どうして、そんなことを思ったのか分からない。けれど、俺の言葉に結梨は信じられないものを見るような顔をした。
「"家族みたい"じゃなくて、私たちは家族なのよ」
そう言った結梨は少し頬を膨らませていた。以前同じようなことを言われたことを思い出した。
「あー、そうだったな。悪かった」
「そこまで怒ってはいないわ」
そう言いつつも前を歩く結梨は口を尖らせていた。つい無神経なことを口走ってしまった。
姉に謝罪をしようとしたが、不意に思いつくものがあった。
「結梨姉さん」
俺が呼びかけると、クラスメイトである姉は足を止めて、こちらを振り返った。
「どうしたの?」
「姉さんに買って欲しいお菓子があるんだけど」
その瞬間、結梨の顔がパァと明るくなった。その輝きは今日の太陽よりも強烈であった。
「私はお姉ちゃんだからね! 何でも買ってあげるわ!」
「ちょっ、声が大きいぞ」
周りの人の目を気にしながら、俺は機嫌を取り戻した姉にそう言った。
「それだったら、早速お菓子売り場に行きましょう」
結梨は俺の腕を掴んでいた。これだとまるで結梨がお菓子を買って欲しいみたいだ。
「わ、分かったから、引っ張らないでくれ」
申し訳なさのあまり、姉が喜ぶようなおねだりをしてしまったが、思った以上に効果があったようだ。
「今ならお姉ちゃんのサービスで10個までお菓子を買っていいわ」
「そんなにたくさん要らないぞ」
いや、効果がありすぎたかもしれない。
***
「和哉君はどのお菓子にする?」
俺と結梨はお菓子売り場にいた。たくさんのお菓子を前にした俺はふと立ち止まる。その様子を見ていた結梨は「ああ」と声を上げた。
「和哉君は甘いものがあまり好きじゃなかったわね。それならこっちの方がいいのかしら?」
結梨が目を向けたのはせんべいや米菓子類のお菓子が陳列されている棚だ。
「まあ、確かにそうだけど。というか、覚えていてくれたんだな」
「当然よ。弟の好みは全て把握する。これは姉の義務よ」
「そんな義務は聞いたことがないな」
口ではそう言っているが、俺の心はくすぐったいような思いに駆られていた。
「でも、俺が買いたいお菓子はそれじゃないぞ」
「え?」
結梨の驚きに満ちた声を聞きながら、俺は甘い系のお菓子が並べられている棚へ足を運ぶ。
そして、その中からミルクチョコレートのお菓子を手に取った。
「これを買ってくれないか?」
「もちろんいいけれど、和哉君はそれでいいの?」
結梨はおずおずといった様子で俺を見ていた。確かに俺の好みじゃない。けれど、俺の言葉に嘘はなかった。
「これは個包装されているから、結梨姉さんと一緒に食べられるだろ?」
「えっ? 貴方、もしかして……」
「姉さんはこういう甘いお菓子が好きだと思ったんだ。だから、一緒に食べようぜ」
俺は自分の顔が熱くなるのを感じながら、目の前にいる姉に想いを伝えた。
「本当にいいの?」
「ああ、美味しい料理を作ってくれたからな。それになんだかんだ言って、一緒にいて楽しかったよ」
元々今日と明日は一日中手芸をやって過ごすつもりだった。結梨が家に来たので、その予定はなくなってしまった。
本来なら趣味の時間が減って、不満を覚えたのかもしれない。けれど、今そんな気持ちは微塵も考えていない。それどころかどこか充実した思いを抱えていた。
まあ、こんなことを真っ直ぐに結梨へ伝えることはできないけど。
「本当に和哉君はお姉ちゃん思いで嬉しいわ。お姉ちゃんは感動で胸が一杯よ」
結梨の目が潤んで見えるのは俺の錯覚だろうか。そんな姉の様子を俺は微笑ましいやら照れ臭い気持ちになった。
「それは大袈裟だよ」
「あんなに小さかった和哉君がこんなに立派に育ったのよ。こんな気持ちになるのは初めて貴方から『お姉ちゃん』と呼ばれた時以来よ」
「それは作られた記憶だから、気のせいだ」
クラスメイトである姉は知らない内に記憶を捏造していた。昨日、俺の家のアルバムを見たせいだろうか。
「冗談よ。いえ、本当に冗談なのかしら?」
「怖いことを言うな。頼むから気をしっかり持ってくれ」
俺の言葉に結梨は楽しそうな笑顔を浮かべた。
「けれど、嬉しいのは本当よ」
「それはまあ疑っていないよ」
それぐらい目の前にいる姉の顔を見れば、分かる。
「それなら、私も和哉君の食べたいお菓子を買ってあげる」
結梨は張り切った表情をしていた。
「そんな気を遣わなくてもいいんだぞ」
「いえ、弟から優しさを受け取ったのよ。お姉ちゃんも負けていられないわ」
「どこで意地を張っているんだよ」
思わぬところで負けず嫌いを発動した姉を俺は微笑ましく思った。




