20 名前で呼んでちょうだい
「そういえばさあ」
それは野上の家からの帰り道のことだった。昼ご飯を食べた後、俺が持ってきたゲームで遊び倒した。そして、日が暮れてきたため、お開きになったのだった。
「沙優、何かあったのか?」
「前から思っていたんだけどね」
西村は一旦言葉を区切ると、俺の方を向いた。見つめられた俺は戸惑いを覚えた。
「俺がどうかしたのか?」
てっきり学に話しかけているものだと思っていたので、西村が俺に視線を投げかけたのは意外に思えた。
「菅田って、どうして、結梨のことを苗字で呼んでいるの?」
その瞬間、まるで雷に打たれたかのような衝撃に襲われた。
「なんでって、それは」
「ほら、結梨は下の名前で呼んでいるじゃん? 菅田もそうすればいいのにって思ってね」
そう言って、西村は不思議そうな顔をしていた。その様子からいつものような揶揄いではなく、純粋に疑問を抱いているのが分かる。
「名前で呼び合ったら、学校の奴らに変な噂されるだろ?」
俺は必死に絞り出した言い訳を並び立てる。他の人に野上との関係を知られたくないことはこの2人も知っているはずだ。
「周りの目が気になるなら、2人きりの時だけ呼べばよくない?」
俺の反論は西村によって虚しく封じられた。確かに彼女の言う通りだ。だから、俺はどう返せばいいのか分からなくなった。
「まあまあ、沙優。これは和哉と野上さんのことだから。周りがあれこれ言うものじゃないよ」
俺が返事に戸惑っていると、学が助け舟を出してくれた。
「それもそうだね。菅田、なんか口を出してごめんね。ただ私が勝手に気になっただけだから」
彼氏からの言葉を聞いた西村は俺に向かって申し訳なさそうな顔を向けた。彼女の隣にいる学も心配そうに俺を見ている。
「いや、別に気にしてないぞ」
俺がそう返事すると、友達2人はホッとしたような顔に変わった。その後の帰り道は取り止めのない話題に終始した。
けれど、西村が口にしたことが頭の片隅にこびりついていた。何よりも気になったことがある。
(俺が苗字で呼んでいることを野上はどう思っているのだろうか)
そんな疑問が俺の中に浮かんだままだった。
***
「はい、和哉君のお弁当よ」
「いつもありがとうな」
俺は野上から弁当を受け取った。今日は水曜日の昼休み、以前約束した野上と昼ご飯を食べる日だった。前と同じように視聴覚室で集まり、野上と隣同士で座っている。
「ふふっ、こうして一緒に食べるなんて久しぶりね」
野上は遠足当日の子供のような笑顔を浮かべていた。彼女にとって待ちに待った日なのだろう。
「確かにそうだ。久しぶりだな」
たまにSNSアプリでのやり取りはしているが、学校で顔を突き合わせて話をするのは中々機会がない。
俺は弁当箱を開けた。中には美味しそうなおかずが並べられている。
「今日は和哉君の好きなハンバーグを入れて置いたからね」
「お、おう。ありがとう、嬉しいよ」
そうお礼を言いつつも、俺は顔を逸らしていた。先日野上の家へ遊びに行った時から、彼女の中で俺はハンバーグ好きになっていた。
確かにハンバーグが好物なので間違ってはないが、クラスメイトにそれを把握されているのはなんだか気恥ずかしかった。
「今日は1人で食べられるからな。割り箸も持ってきたし」
「え? そうなの?」
俺の言葉に野上は絶望したような顔になった。俺が箸を持ってきただけでこの顔である。
「そんな和哉君に食べさせる私の夢が……」
「そこまで落ち込まれると食べにくいんだが」
一体どれだけ俺(弟)に食べさせたいのだろうか。野上の中での姉という存在は計り知れない。
「お願い、一口だけ、一口だけでいいかしら?」
「それは普通食べる側が言うセリフじゃないか?」
「ダメかしら?」
野上はまるで縋るような目で俺を見ていた。顔立ちが整った彼女にそう言われて断れる男子がいるだろうか。
「まあ、一口だけなら」
「ありがとう! それならどのおかずにしようかしら」
俺の許可が下りた野上は嬉しそうな顔で弁当の中身を物色していた。
「和哉君はやっぱりハンバーグかしら?」
野上からそう言われて、俺は先日西村から言われたことを思い出す。野上は俺のことを名前で呼ぶ一方で、俺は彼女ことを苗字で呼んでいる。確かに側から見たらおかしいと思っても不思議ではない。
けれど、野上がそのことをどう思っているかは分からない。
「聞いてるの?」
声が聞こえて、顔を上げると、野上の顔が目の前にあった。俺の体は飛び上がらんばかりに動いた。
「あ、ああ、聞こえているぞ。ハンバーグだよな?」
つい考え事をしてしまい、野上に返事をしなかったようだ。心を落ち着かせて、彼女にそう伝えた。
「そうよ。いいかしら?」
「いいぞ」
「良かったわ」
野上は箸でハンバーグを切り分け、俺の口へと運んだ。今更抵抗しても無駄なので、俺は素直に口を開けた。そして、野上が作ってくれたハンバーグを味わう。
「相変わらず美味しい」
「ふふっ、ありがとう。もう1口もいるかしら?」
そう言って、野上は再びハンバーグに箸を伸ばした。
「ああ。って、おい、食べさせるのは1口だけの約束だろ?」
「そんなことを言ったかしら?」
「顔を逸らすな! こっちを見ろ!」
俺の方を向いた野上は不満そうに口を尖らせていた。
「和哉君はケチね」
「どうして、そこで俺が責められるのか分からないんだが」
野上から名前で呼ばれる度にドキッとする。本当に彼女は当たり前のように俺の名前を口にする。まるで本当の家族のように。
「なあ、野上」
「どうしたの?」
野上は不思議そうな顔で俺を見つめていた。見つめられた俺は言葉に詰まる。いや、野上のせいにするのはお門違いだ。
「えーと、だな」
俺は続きを言い出せなかった。大体名前で呼ばれることが気になるかどうかなんてどうやって女子に聞いたらいいのか。そもそも聞いてもいいのだろうか。
どう切り出せばいいか悩んでいると、ふと誰かが俺の手を握りしめた。今そんなことができるのは目の前の彼女しかいない。
「野上?」
「ゆっくりでいいわ。お姉ちゃんは待っているから」
俺の手を握りしめた野上は優しい笑みを浮かべていた。彼女の瞳が真っ直ぐに俺を捉えていた。
その顔を見た瞬間、俺の中の迷いは小さくなっていく。俺は野上の手を握り返した。
「あのさ」
俺は体の向きを変えて、野上の方へと体を少し近づけた。今まで彼女から近づくことはあったが、俺からはなかった。
「ええ」
そんな初めての事態でも野上は動じなかった。俺が何か言うのを待っているのか首を少し傾げているが、その顔に不快さや嫌悪感は感じられなかった。
「野上のことを名前で呼んでもいいか?」
そう口にした瞬間、俺は自分が犯した過ちに気づいた。そもそも野上だけが名前で呼んでいるこの状況をどう思っているのかを聞きたかったのだ。
それが何故か知らないが、いきなり何の前置きもなく、ストレートに突っ込んでしまった。
こんなことを言ってしまったら、まるで俺が野上のことを下の名前で呼びたくて仕方がないみたいだ。頭を抱えたくなったが、野上の手を握っているため、それもできそうにない。
「えっと」
俺は何か言おうと野上の顔を見る。彼女は今まで見たことがないほど呆気に取られていた。その顔を見れば、驚いているのは分かる。けれど、どういう意味が込められているのか分からない。
「ほら、あれだ。野上は俺のことを名前で呼んでいるけど、俺はお前のことを苗字で呼んでいるだろ。だから、俺も野上に合わせた方がいいのかと思ってさ」
今更遅い言い訳を捲し立てる。もう少し遠回しに伝えればよかったのだが、俺はそのままぶっ込んでしまった。野上にとっては訳が分からないだろう。
「それもそうね」
けれど、俺の不安を他所に野上は納得したような顔をしていた。未だ俺と彼女の手は繋がれたままだ。
「『お姉ちゃん』って呼ばれたいとしか考えていなかったから、そこまで考えが及んでなかったわ」
「えっと、嫌じゃないのか?」
「和哉君ならそう呼ばれても気にしないわ。名前で呼んでちょうだい」
そう言って、野上は俺に向かって笑顔を向けた。彼女から笑いかけられて、俺の中のモヤモヤはどこかへ消え去った。
「あっ、でも、できれば『結梨お姉ちゃん』がいいわ」
「『お姉ちゃん』は勘弁してくれ。子供みたいだろ」
「それじゃあ、お願いするわ」
そう言って、野上は姿勢を正していた。これはあれだろうか、今すぐ呼んでということだろうか。そして、手はいつまで握ったままなのだろうか。
野上は今か今かと待ち構えていた。それは楽しみにしていたプレゼントを待つ子供のようだ。俺は同い年の姉を真っ直ぐに見つめた。
「結梨姉さん」
そう口にした瞬間、俺の体は恥ずかしさで一杯になった。
「その呼び方もとても良いわ」
野上はそれはそれは満足気な表情を浮かべていた。その顔を見た瞬間、俺の中でやり切った感が溢れでた。
「でも」
「でも?」
「男の子から名前で呼ばれるなんて初めてね」
そう言った野上、いや、結梨は少し頬を染めていた。同い年である姉が見せたその表情が何故か心に残った。




